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日本には戦犯はひとりもいません。 これは日本国民全員が知らなければいけないことです。 戦犯は全員赦免されました。 日本人だけで勝手に無罪にしたのではありません。 4千万人の日本国民が署名し、サンフランシスコ講和条約第十一条の条項に基づき関係各国に了解を取り、全員が無罪になったのです。 つまり処刑された戦犯は冤罪でした。

Sep 3, 2023, 18 tweets

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南京大虐殺と並んでアメリカで有名なのが「死の行軍」

日本軍がアメリカ兵捕虜を無理に歩かせ死なせたと言われ戦争犯罪とされた。

この時、火野葦平さんは戦争の記録係りとして日本軍に従軍した。

火野さんは当時のことを詳しく書き残している。←焚書
そこに衝撃的なことが記されていた。

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①アメリカ兵1万2千名、フィリピン兵6万4千人が投降し捕虜になった。

②マリベレスからサンフェルドまで112km歩かせた。その間2300人の米兵が死んだ。

③司令官のマッカーサーとフィリピン大統領は、部下を捨ててオーストラリアに逃げた。😂

④民間人(2万人以上いた)はトラックで運んだ。

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⑤いよいよ投降するという段になって、フィリピン兵に縛られて連れて来られた米兵がいた。督戦隊長だった。🔥
督戦とは兵隊の後方にいて兵隊が逃げないように見張って戦わせる役目の人だ。アメリカ軍もやったのだ。

⑥機関銃を持たされて木に縛られて戦わせられているフィリピン兵もいた。🔥

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どれだけ歩かせたのかと思えば、たったの121kmだ。
日本兵も一緒に歩いたのは言うまでもない。

米軍が降伏するまでのあいだ日本軍も何日も食べずにジャングルで戦ったが、米軍も食料が底をつきマラリアと灼熱の暑さに憔悴しきっていた。

歩かせず放っておいても結局死んだのではないか?

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要するにアメリカは自国の大敗を隠すために地獄のデスマーチを使って国民の目をそらしたのではないかと思う。

軍の作戦ミスや司令官の逃亡というスキャンダルを日本軍の残酷物語に置き換えたのだ。

この笑顔を見よ。これが日本の兵隊だ。

ちなみに現在では1万人殺したことになっていて、それを講演してアメリカ中を歩いているような人までいる。

隣国とまったく同じ。

日本は、1943年にフィリピンを独立させた。

そのあと日本が敗戦し、アメリカの領土に戻ったが、フィリピン人はもはやアメリカに従わなかった。
それで1946年にアメリカは改めてフィリピンを独立させた。

フィリピンを独立させたのはアメリカではなく日本が最初でした。👍

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バターンデスマーチについて驚愕の証拠写真があったのを知ったので、スレッドを延長します。
溝口 郁夫さんの「絵具と戦争」のなかに小さい写真ではありますが何点か収録されています。
もとの写真本は焚書にあいほとんど入手困難です。

さてまずは「降伏した米兵に紅茶を出す日本兵」
黄色-米兵

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写真:降伏した米兵と日本兵が和やかに話している場面。
従軍ライターの火野さんも捕虜が多すぎて通訳も手いっぱいで「放っておかれて当惑している捕虜もいた」と書いていたが、状況は一致する。

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写真:日本軍の野戦病院で診察を受ける順番を待つ米兵

なんと診察までしてあげていた。
バターン半島で日本軍は投降した米兵を虐待し数千人殺したと言われているが、実際にはできる限りの救済を施している。

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写真:フィリピン人の避難民に食事を渡す日本兵。

米兵と一緒にコレヒドール要塞に隠れていた人だと思う。
けっこう大きな皿で渡している。
日本兵はやせ細っているが。
親切で本当に優しい。
このあと避難民たちは日本軍に車で安全な場所まで送ってもらった。

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写真:海水浴休憩を取る米兵捕虜

100kmの距離は死ぬような距離ではない。
しかも中間地点で海水浴休憩までしている!
いつでも逃げられる状況だし、ここまでのあいだに数千人が死んだ様子はない。

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写真:収容所でポーカーする米兵

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写真:(左)従軍ライターの火野さん
実際に日本軍に従軍して記事を書いたり写真を撮ったり絵を描いて国内に発信した。

日本国民はこれを見て我が軍は捕虜にも温情を与えて立派だと考えるし、兵隊も母国に顔向けできないことはしない。それが日本の軍隊だった。

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バターン死の行進について再び追記します。

捕虜と日本軍はマリベレスからキャパスまで行進したわけですが、半分以上トラックや列車を使って移動したらしい。
歩いたのは最小で45km、最大で80km程度。

それを3日かけて歩いた。
一日15km~30kmだ。しかも各所に診療所や給水所を設けた。

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日本人のことだから自分の食料を削っても捕虜に与えたかもしれない。

そのうえで20~30km歩いて2万人近くが死んだとすればアメリカの司令官が降伏時期を誤ったせいである。

司令官とは?
部下を棄てて逃げたマッカーサーだ。
マッカーサーが自分の責任を日本軍になすりつけたのがデスマーチだ...

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マッカーサーは日本陸軍第十四軍の本間中佐を戦犯裁判に引きずり出して銃殺刑にした。

処刑の日は1946年(昭和21年)4月3日0時53分。
4年前に本間中将がコレヒドールに攻撃開始の命令を下したその瞬間と同日同時間に処刑したのだ。

死の瞬間まで後悔させてやろうという異常な執念を感じる。

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マッカーサーは東京裁判でもサイコパスのような記念日遊びをやった。

昭和天皇の誕生日に日本の指導者28人を起訴し、東京裁判の法廷に陸軍士官学校を使い、東條総理らを死刑にした日は皇太子(現上皇様)の誕生日にした。

ちなみに本間中将は新潟・佐渡の英雄。軍紀に厳しい立派な人だった。

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