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実父は陸軍士官学校に合格して入る年に終戦になり医学校へ入学した。終戦後問題になったのは感染症でこの勉強をしたいと思って師事する先生を探したらその先生が産婦人科医だったので産婦人科に入局した。皮肉なことに父の子どもはポリオ生ワクチンの副反応被害児になった(私の兄弟だ)
それでも父やその先輩はワクチンに対して疑義を持たなかった。それだけ生ワクチンが足りずに子ども達が命を落としたからだ。当時私たちは公団住宅に住んでいたが私でも同じ団地内で3、4人の子どもが亡くなったことを知っていた。副反応被害児になった兄弟は父が勤めていた大学病院で学生の為に供覧する
ことを頼まれて父母共に断れなかった。兄弟は1才迄元気に育ち生ポリオワクチンを投与されたのち自宅で泡を吹いて倒れ3日間意識をなくした。私からみたら真っ黒なゴム人形になったように見えた。偶々、父が出勤する直前のことで私たちだの兄弟姉妹は近所の人と親戚に急ぎ連絡して頼まれ父母共に患児に
付き添って父の勤務先まで搬送された。その時の母の手帳が残っている手帳の最初の方にはその日の買い物の予定がかかれてある。お豆腐一丁、ほうれん草1束、魚何か良さそうなもの。などという平和で長閑な日常のメモだ。しかし、何頁かをめくると突然、医療現場の温度板のように熱や処置、輸液や心拍等
の素人なりの記録がぎっしり書いてあるようになる。しかも寝ずにずっと。そしてその余白には自分を責め、呪うような文章で埋め尽くされている。ワクチンを取る前にに自分が子どもの観察を怠ったのではないか?担当医師に聞くべきことをしなかったのではないか?これは読んでいて私も本当に辛い文章だ。
だから、私はワクチンのせいで子どもに副反応が出たと思っている親御さんの気持ちを傷付けるような言葉を使うことは避けたい。でも、ワクチンの効果がワクチンを用いない状態よりどれだけ子どもを救うのかも同時に見てきたし、また、医師の端くれとして学んで来た。兄弟には3日間意識を失い、
生ポリオワクチンの副反応による病態との闘いで後遺症が残った。それは凄惨な虐めの中を生きて来た。言葉に出来ない陰湿なものだ。あの手の虐めは今も全く変わらないし、更に言えば本来こうした患児を治す側に立つ医療者の中にも同じか或いは下手に頭が良いだけに更に陰湿さを増した嫌味や嫌がらせが
虐めが一部にはあると思っている。恥ずべきことだ。兄弟はそれでも自分で生きていける迄に回復した。ある時、実父の誕生日を祝うので実父が可愛がっていたお兄さんのやっているお寿司屋さんに家族全員で出掛けた。そのお寿司屋さんのお兄さんはまだ若くして同業のお父さんを肝臓癌で亡くしているのだ。
父も5才で父親を亡くしている。その時、父はもう80に近かったので好きだったウイスキーも抑えていた。ただ、少し機嫌良くいつもより杯を重ね、息子に私たちの前でこう言ったのだ。「君には本当に済まないことをした。君の時に自分でも相当に調べたのだがポリオの蔓延は酷いものだった
君が投与されたワクチンは海外から緊急輸入されたもので実績に不安はあったが国が良しとしたものであるから良かろうと判断してしまったのだ」息子は、「仕方がないよ。昔のことだし僕は死ななかった」と言ったが。そのあとポツリと「お父さんからそう聞いて救われた」と小さな声て言った。
私たち家族は生ポリオワクチンの為にみんなが普通でない経験をした。書きあげたらキリが無い。それでもワクチン推進派だ。多くの人を子ども達を救っている。父は息子の為と考えて仕事を選んだと思う。元々は研究が好きだった人だ。しかし、おそらくそのお陰で長生きしてくれた。
息子のことがあった時、父はワーカホリックになって気を紛らわせていたと思う。その結果、身体を壊し勤務先の内科の前で医師に捕まり即入院して3年間仕事に復帰出来なかった。87才の4月、自分の葬式の話を始めた。5月、自分の葬式の写真を選んで持って来て焼き増しした。6月胸痛を起こして緊急搬送
された。年齢なりに冠動脈疾患なども持っていたが優秀な救命士さんの判断で血液内科に搬送された。恐らく父は自分の状態を分かっていたのだと思う。酷く疲れて動くのも大変だったのだ。検査が行われれば何を疑っているかも直ぐに分かる。背中前面紫になっており、最終的に悪性リンパ腫と診断された。
年齢から化学療法の適応はない、今死んでもおかしく無い状態で主治医になって下さった若い女性医師から検査データの変遷を記した紙と延命処置はしないということへのサインをする書類を受け取り、父に相談することもなくそれにみんなが同意してサインした。父の所に戻ると父は眼鏡を取り出した。
「ご覧になりますか?」兄弟が悩みながら言うと父は何も言わずに頷いた。延命治療を望まないと言う書類だけでなく経過を示すデータをも渡さざるを得なかった。どんどん悪化していることを示すデータだ。しばしそれを眺めてまた黙って眼鏡をしまった。入院した際慌てて駆けつけた私たちに、
「これで最期な訳だがもう一山越えなければならない」と父は言ったがそれは臨終の瞬間のことだろうと解釈していた。「1度家に帰れないものだろうか?」それまで、ラーメンが食べたい、カレーが食べたい、寿司が食べたい、家に帰りたい。と言っていた語調とは異なっていた。代表で1人が主治医の先生に
伺いを縦に行った。主治医の先生は一泊外泊をされても構いませんがその間にもいつ急変するか分からないことをご理解頂けますか?と仰った。外泊中に死ぬことがあると言うことだがその時は看取ろうと家族で一致した。父を連れて家に戻った。可愛がっていたお寿司屋さんのお寿司をとって少しだが食べた。
彼の唯一の楽しみは庭いじりだった。窓から庭を見て、「やはり家はいいなあ」と言った。行き付けの散髪屋さんがわざわざ来て下さって髪を切った。偶々届いていた大学同窓会の葉書に母が代筆して少々身体を壊し治療中ですと言うように書いて投函した。そして翌日、父は亡くなった。
87にもなるとお仲間にも迷惑になるので葬式は家族だけでやって欲しいと父は言っていたのだが、いつも几帳面に書く同窓会の葉書に不審を感じて連絡を頂いてしまった。まさか、亡くなっているのに療養中とも言えず亡くなりましたと答えるしかなかった。同門の先生方がいらして下さって大学同窓会から
立派なお花を沢山頂いた。父は決して名声のある人では無い。だけれど、今一般に使われているある抗菌剤は父の仕事だ。名前も載っている。若い先生方がとても頼もしく思えるようになって来た昨今、年取った医者を老害扱いする言動を聞くことも少なくない。沢山の努力や辛さを乗り越えて来た先人が
今の時代を作っていることを私は忘れまいと思う。どの世界でも、そして良しにつけ、悪しきにつけ。今自分のやっていることも将来にことを及ぼすのだと。私が医学部に行った時代は各大学に10人程しか女子学生はいなかった。しかし、今、子ども達が医学生になって女子が半数を占めるように迄なった。
AI なども進み非常に速く全てが進んでいる。既定路線はなくなりある意味自由に仕事もできる。自由はよい、そして難しい。兄弟が1才で苦しんだことで私の家族も随分考え辛くなかったとは言えない。未来がより良くなりよう祈ってやまない。起きている必要があったので取り留めもなく書いた。
多分、相当に駄文で恥ずかしいものだと思うが、もう何でもいい。医者って何だか違うものになったような気もする。私の叔父は55才で保健所に医師免許を返しに行き福島で百姓をして生涯を終えた。何となく叔父の気持ちが分かるようになって来たこのごろではある。
追)父は80を越えても週に1度診療をしていた。大先生(だいせんせい、ではなくおおせんせい、と言う)と患者さんから呼ばれ父じゃなければ安心出来ないとか、父がお産を取った患者さんのひ孫さん迄が受診されていた,その他は家で過ごしていたが良いケアマネージャーさんや訪問看護師さん、介護士さん達
に恵まれた。
自宅で葬儀を行ったのだが介護でいらしていた方がお棺を閉める間際に父が大切にしていた庭から幾つかの花を積んでお棺に納めて下さった。父は87でも自立しておりそう困ることも無かったのだが、植木や花が好きだと知って介護の方々が仕事をしながらそんな話をして下さったのが楽しかった
ようだった。入院していた短い間は若い主治医の女性医師に、危ないから早く帰った方が良いですよ。などともいい。外泊許可が出て主治医のその先生に手で礼を切って「先生のお陰でここまで持ちました。ありがとうございました」と言ったのを見た。医者になって初めて患者さんを喪って泣いた私に教授が
偶々遭遇して「医者は泣いたらいけん」と指導されてから私はどんな理不尽でも悲しくても泣かなくなった。しかし、赤ちゃんが生まれた瞬間や患者さんに不幸があった時などには鼻の奥が痛くなることは止められずに今に至っている。父が、死を前にして主治医の先生にベッドの中から拝むように手を切って
先生のお陰でここまで頑張れました。と言った時には部屋を出てしまった。
臨終の時というのは色々な状況が起こりうる。父の場合は酷い血液の不足(貧血に限らず)かあったし何処かから出血を起こしたのだと推測された。緩和ケアに移行するべきと判断した時には死亡していた。父は入院時に言っていた
これで最期な訳だが、もう一つ越えなければいけない山があると言っていた山を「熱い。触らないでくれ」と朦朧とした中で口にしてから喘ぎ呼吸と身体の震えをもって越えたのだろう。「ゼク(解剖)をとりますか?」と主治医の先生が念のため声を掛けて下さった。ありがとうございます。大丈夫です。
と、こたえた。
沢山の先人たちが小さくても積み上げた世界で私たちは生かされている。大きな業績をあげて時の人になった方でも数年も経てば忘れ去って批判して平気な人も増えたようだ。私には理解できない。その考え方こそが、正に目の前で闘っているつもりの自然派に繋がってしまう事に
気がつかないのはなぜだろう。
私は、この数年近くそこに矛盾を感じるようになっている。
若い力って良い。
真っ直ぐで清々しい目や夢は魅力的だ。
苦しくとも、またそこには戻りたい気持ちになる。

でも、それは出来ないから子ども達に託す。

真面目に一生懸命にすれば人にどう見られるかでなく
自分に幸せとしてちゃんと返ってくるから心配しないで。と。
そして、スポンジのように何でも吸収出来る若い時だからこそどんどん身につけるといい。
不思議なことにその時に吸収したことは人した時に必ず役に立つから。

更に、目がよく見え、五感が鋭く、運動神経も良い時にこそ、沢山経験するといい
その時には何に役に立つのかわからないのも普通。
でも、経験して
おいて間違いであることは恐らく一つもない。

子ども達には、自分の興味を追及することがまず何よりも大切って言ってみている。

自戒を込めて…。
これが当時、母が書いていた日常の手帳の内容です。
買い物の内容。きゅうりなどと書かれて居ます。
これが息子が意識を回復し始めた時の記録です。
体温や口にしたものを事細かに書いています。
これが母が苦しんでいた心情を書いたものです。若い母親の心が滲んでいます。

母はもう90に近くなりこうしたことも受け入れて役に立つならと同じようなことのあったお母さん方にもお貸ししています。ですのでここに出すことも問題ないと言っています。私などのの心配迄書かれていて痛むので省きました
現在はそんな事は行われていないが、兄弟の時代は症例供覧という形で珍しい疾患の患者を階段教室に座る学生の見下げる所で教授から疾患の経緯、経過、今後の想定し得る状態(予後)を生で学生に講義することがあった。父はその大学に勤務しておりまた幾らかでも今後に役に立つ事はすべきだと判断した。
兄弟は1才になったばかりで当然そこには保護者が必要であり、母がその保護者として階段教室の隅で待機していた。当然、教授の話す内容は専門的ではあるが理解出来る話で元気だった自分の息子がどう言う理由と可能性でこんなに酷い状態に陥り今後どんな未来が予想されるかをリアリティーを持って
聞かざるを得ない状態に置かれた。その時のメモには、○○(息子の名前)に後遺症が遺るなんて!神様!私を殺して下さい!と書かれてある。
これは、偶々、医者の家族に起こった事だから、そして時間も経ったからこうしてネット上に書くことも厭わなくなっているが、我が家に起こったような事が過去どれだけ沢山起こって来たのか想像するに余りある。今正に行われている医療は、医療だけに限らないが。こうした他者からは想像だに出来ないこと
の積み重ねから前進して改善されてその恩恵を受ける方も行う方も得ていることを忘れてはいけないのではないかと私は思うのだ。1才迄、元気で言葉を発するようになりお座りが出来る様になり。その1つ1つを喜んだ経験のある方なら母がどんな気持ちで学生に見られながら自分の子どもの病態を噛みしめたか
容易に理解して下さると思う。また、お子さんを持たない方も、色々な理由でお子さんのない方も、必ずご家族がおられる筈だ。1才の子どもをその大切なご自身のご家族に置き換えて考えてみてください。さっき迄が元気だった大切な人が真っ黒なゴム人形のようになって聴衆の前でその原因やその後の予想を
1人で教室の隅で自分の何が悪かったのかひたすら考えながら1時間余りを過ごす気持ちを想像してみて下さい。
そして、考えてみて下さい。

予防出来る疾患をみすみす放置することのおかしさを。
私の家族に起こったことはもはや半世紀前の話です。
医療はどんどん進んでいます。ワクチンもより良く改善されていっています。
今、私が薦めているのは #HPVワクチン です。このワクチンを薦めたい為に家族の思い出として最も辛いことを書きました。

子宮頚がんの手術は私の父の恩師の名前も冠されています。
父も子宮頚がんの手術が上手かったと聞いています。
更に父の先輩と母が結婚した為偶々私には感染症を専門とする
産婦人科医が身内に2名いる環境で育ちました。

2人とも学問が本当に好きでした。
私自身は、父が産婦人科医だと知った友だちにエッチ!などとからかわれ父が外科医だったら良かったのになぁと思った小さい頃もありました。

父はいつも患者さんの所にいました。運動会や学芸会に来たこともありません
唯一、私の学校の面接に来てくれたのが思い出です。

私は父とは異なり何故、ここを押すとここが反応するのだろう。と言うことに興味を持ちました。
それで、最初は脳外科を志望しましたが紆余曲折を経て産婦人科で内分泌を学ぼうと思いました。

父たちが産婦人科医だったから産婦人科医
になったのではありません。

しかし、偶々、父や叔父と同じ世界に入った為。
父たちがその学問に魅了されていった理由は理解できるようになりました。

滅多に会えない食事の席でも叔父と父は産婦人科の話ばかりしていました。

それからこれも偶々なのですが父方の大伯父が内科医で
父の1番上の姉(伯母)と結婚しておりとても面倒見の良い伯父だっせいなのと、父の兄弟姉妹が7人で1番上が男、間全部が女、父が末っ子の弟だったせいもあり、
大伯父が自分の周りの医師と義理の妹たちの結婚の世話をしたせいで集まるとそこそこ医師がいて、また従兄弟たちも既に医学生だったりしました。
そこでの話は、あたかも世間話をするかのように医学の話が多かったのです。

皆、本当に好きで医学を学んでいたと思います。

その中で産婦人科医であった叔父と父の話は、
何とかして悲惨な状態になる子宮頚がんを根絶出来ないかと言う話でした。

叔父や父たちの恩師の手術は骨盤内を全て取るような
もので、手術の後のいわゆるQOLが良くなかったようなのを子どもの理解で思っていました。

2人は真剣な話し方で #子宮頚がん は何らかの感染症、性病であって、感染症であるからには予防ができる筈だと常々言っていたのです。

私はそれを聴いて育ったのである日水痘ワクチンを打ったにも関わらず
おでこに水痘が出て外に出ることも他の家族と接することも止めらるて滅多に返って来ないのに父の部屋とされていた部屋で過ごした時に、
これがうつる病気なのだと理解したのでした。
それでも、もし、水痘ワクチンを打っていなかったらポチッと出るだけでは済まなかったことを治ってから説明されました
その時の私の子ども乍らの単純な思い付きは、当時は癌と言えば不治の病とされていましたから、癌がうつる?それは大変なことだ。と言う思いでした。勿論、現在は多くの患者さんのご協力と医療者の努力とで多くの癌が高血圧や糖尿病などと同じ慢性疾患として共に生きていけるようになっています。
しかし、日本語だけではなく、世界中で「予防こそ最善の治療だ」と言う言葉があります。
私が齧った基礎研究の1つに胎盤の出来ていく過程をみるようなものがありました。

胎盤の出来つつある子宮から切片を作り研究するのです。

その時に、思いました。
この切片を作っている子宮は
妊娠が成立しているのに子宮ごと取り出されたものなのだ。と。

私の分野ではありませんでしたから何故その妊娠が成立した子宮が取り出されてそこにあるのかを考えることはしませんでした。
妊娠して、おめでとうございます。赤ちゃんが出来ましたよ。と言われて後、その母体の為に子宮を摘出しなければいけない患者さんがおられたと言うことなのですよね。

#子宮頚がん の前段階は確かにきちんと検診を受けて下されば早期に発見することはできます。
しかし、
何らかの処置と長い期間の短い間隔の定期検診が必須になって来ます。

この医療の進んだ時代に #予防 出来る #子宮頚がん で命を落としたり、またそうでなくても処置の為に赤ちゃんの流早産につながる危険を可能な限り回避したくはありませんか?

男性においてもそうです。
#男性#HPVワクチン を打つ事で中咽頭癌、膀胱癌、陰茎がんなどを代表として相当多くの癌を予防出来ることが解って来ています。

私は海外のニュースだからといって信じる根拠にしていませんが。
少なくとも、英国BBCのHPVに関するニャースは最初の報道からずっとリンクをしているので
ある程度読むのには良いと思っています。

bbc.com/news/health-48…
約半世紀以上前から何とか苦しむ女性を助けられないか。
真剣に議論していた沢山の医師がいます。
また、現在も同様です。

もっと現実的に感情論はおいて
将来の子どもたちの為に
#HPVワクチン の事。
また、
それだけではない
多くの予防出来る疾患の話を出来ないものでしょうか。
私の叔父は産婦人科の感染症学会の元を立ち上げました。しかし、色々なストレスも加わり50前に心筋梗塞で亡くなりました。従兄弟たちはまだ高校生でした。
また、あるがんセンターの部長先生も北日本の癌患者さんを一手に引き受けるような忙しさの中早世されました。

医師は一生懸命やっています。
どうか、マスメディアの皆さま、患者さん、その他。もう少し静かな討論が出来るようご協力頂けないでしょうか。

今のままでは、相互の信頼関係も壊れ未来に良いことを僅かしか残せないように私は思います。
兄弟に問題が起きた時、母が困ったのはその子どもをどうしてやったら良いのかが分からなかったことだと思う。私は子どもだったので正確なことを覚えてはいないが子どもたちを連れて色々な施設に問題の起きた子どもを連れていっていたのを覚えている。どうリハビリしていけば良いのか全くわからなかった
ようだ。その患児が遊んだり何かしたりするのをこちらからは見えて向こうから見えないミラーみたいなもので境を作った部屋で眺めたりした覚えがある。複数の家から近いとは言えない施設に行った覚えがある。丁度その頃、以前に書いたように父が入院をし3年間仕事出来なくなった。家は完全に無収入に
なった。私はその頃、まだ小学校の低学年で母が夜になると子どもたちの為に食事を用意し枕元に電気を灯して父の看病に出かけるから玄関の鍵は開けないでね、と言うのを信じていた。私はその頃は兄弟姉妹の唯一の女子で皆の世話をやくのは女子の役割だと思っていた。毎日夜母がいなくなる時は緊張した。
でも、良い時代だった同じ団地の同じ階段沿いにほぼ同じ頃に子どもを産んだお母さんたちがいて「幸子ちゃん、ドアを開けなくていいわよ。こまっていることはない?」と毎日、誰かしらが複数声をかけに来てくれた。ピンと張り詰めた気持ちが和らいだ。昼間子どもが学校に行っている間、父の見舞いをして
夜は工場に働きに行っていた事を知ったのは随分後になってからだ。小学校の友だちの間で誕生日会などがあると母は困ったようだ。それでもウインナーに薄力粉を工夫してアメリカンドッグなど、寒天に着色して船を作ったりして子どもたちを楽しませてくれた。母は後になって子どもたちが小さくて良かった
と言った。母が小さい時に遊んだような事で子どもたちを喜ばせることが、誤魔化す事が出来たから。と。その当時の話として、銀行に500円残高があるのを若くて恥ずかしくてどうやって下そうと悩んだ話が印象的だった。あくまでも、母の話だが夜の仕事で母は昇進して経済的に少し楽になったのだとのこと
そして、これも前に書いたが父が7人兄弟姉妹、母は4人兄弟姉妹で皆が仲良く助けてくれた事で本当に助かったと言っていた。父側の姉妹は義理の姉妹にあたるのだが距離感を心得ていて何でもないように缶詰などを持って母が出かけている時間に訪ねて来てくれた。はい!お土産。と。私は暑い最中来てくれた
叔母たちにどう接して良いのか分からず冷たいお水も出さずに帰して母に驚かれないものだ。
政府の指針に従って問題が起きたのに、医者が複数いた家族でも何処に相談したら良いのか、どういう道があるのかが全く分からなかったという。当時はそうした制度も無かったのかも知れない。
#子宮頚がんワクチン #HPVワクチン においては副反応を診ることが出来る様に施策されている。
つまり、ことが起こった後の指針が全くなく全てその被害者一だけでその後を負うしかなかったのだ。
幸いなことにうちの場合父が職場に復帰して少なくとも経済的危機から脱出することが出来た。
子どもたちが小さくて誤魔化せたからと母は何度でも言った。石油ストーブを囲んでメリケン粉でホットケーキ紛いを作ってくれた事を思い出す。鉄板に先ず「幸子」とメリケン粉で描く。少し焦げたら丸くメリケン粉を流してひっくり返すと名前入りのホットケーキが出来る。そんなことをとても楽しめた年齢
だった。患児になった兄弟の学校探しは大変だったのを子ども乍らに知っている。母はあちらこちらに飛び回って平均的な子どもと同じようには出来ないが特別に支援して貰えるほどの程度ではない息子を迎え入れてくれる学校を探していた。夏休みなどには兄弟姉妹で学校とは違う林間学校のようなものに
参加させて貰った。兄弟姉妹にとっては地獄のような数日を過ごすことになる。とにかく酷い虐めが彼を待っているからだ。常に神経を尖らせて少しでも彼の周りに不穏な動きがみえると彼を守るために悪ガキの喧嘩を買って出なければならなかった。楽しい思い出は全くなかったが家に帰れば楽しかった。
と言ったものだ。
それでも、そんな中で味方になってくれる少数派が確実にいた。それはおかしい!やめろ!と声を上げてくれる子どもたちもちゃんといた。それが救いだった。

そんな日々が続き今に至っている。

兄弟は偶々、クジに大当たりしてしまった。
そして、1番辛かったのも兄弟だろう。
私たちも辛かった。今でも辛い。兄弟の次に辛かったのは間違いなく母だろう。もう90になろうとしているがその時のことに話が向くと目を潤ませる。

そして、
父だろう。口には出さないから分からなかったけれど。

それでも、私たちはワクチンを推進すべきだと明白に思う。
確かにあの時のワクチンは問題が多かったようだ。

それでも、尚、多くの子どもの命を救ったことは紛れもない事実だ。

1人の犠牲を前面に出して、守れる筈の遥かに多い子どもたちの未来を犠牲にするのは間違いだ。

もし、本当にワクチンによる犠牲が出るならそれには救済の制度をしっかりする。
#HPVワクチン
既に長い年月接種されて来ており、その有効性は多くの国ではっきりして来ている。

#子宮頚がん
既に長い年月女性の健康や命を侵し続け、その死亡率など迄はっきりしている。

#子宮頚がんワクチン が子どもたちに必要なことは明白ではないか。

私はそう思っている。
ワクチンを推進すると必ず聞かれることに答えておく。

私自身も夫も子どもたちも、全員 #HPVワクチン を接種している。

ワクチンに生涯付き合わされて来たが、
余計なことでもあるが、
90になる母は、最近日本でも打てるようになった帯状疱疹予防ワクチンを受けるつもりでいる。
あの狂ったような #反子宮頚がんワクチン のワイドショーや報道は間違いなく医療機関での診療に大きな弊害をもたらしている。

もちろん、それは #HPVワクチン を受けて未来のがんを防ぐ権利を持っていた可愛い女の子たちへの大きな弊害にもなっている。
あの騒ぎを繰り広げた人たちには、必ずその総括をして欲しいと心から望んでいる。

是非、キャチアップもして欲しい。

#HPVワクチン
#反子宮頚がんワクチン 運動を繰り広げた媒体や人には、

総括を望んでいる…ではない。

総括すべきだ。だろう。

#HPVワクチン
もう1つ言っておく事がある。

#HPVワクチン についてのツイートに医療ジャーナリストを名乗る #伊藤隼也 氏と関わる事になった事がある。
暫くやり取りが続いたあと、私の大学関連で他のことでお世話になった先生から連絡があった。
先生は詳細をご存知ないようで伊藤隼氏が私に虐められているから止めさせて欲しいと頼んで来たと伝えられ、まぁ今度一緒に食事にでも行きましょう。と言って話を終えた。

#伊藤隼也 氏は少なくとも私に対しては私のお世話になった先生を利用して #HPVワクチン についての議論を封じさせた。
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