#歴史知らない人が嘘だと思うけど本当の事言え
「ボクが思うにヨコヤマという男は、いちばん目立たない善良な日本の小市民なんだ。」
「この男ならきっと真珠湾攻撃に身をすくませたにちがいない。もちろん、日本人としてその戦果にはある種のよろこびを禁じえないだろうけど。敗戦の必至を(続く
徐々に認識しながらも文句をいう力もなく、彼は戦時中の日々を過ごしてきたのだ。」
「それでも実際の敗戦はあまりにも大きな不意打ちのショックで、これを現実として受けいれるまでには、胸の奥にわだかまる愛国的感情を理性的に払いのけねばならなかったのだ。」
1945年にドナルド・キーンが(続く
中華民国の青島で出会ったヨコヤマという男は、同地のさる日本の百貨店の店員であった。
たまたま日本人の経営する本屋で知り合い意気投合したこの学識豊かな日本人は、今や「親日派」が相手を非難する罵倒語と化していた青島で、たくさんの中国人や朝鮮人がヨコヤマと友人付き合いを続け、(続く
なにかあれば彼の肩を持つ。そんな男だった。
バイオリンでバッハの曲を演奏し、別れ際、二度と会えぬであろうアメリカ人になけなしの美術の蔵書を送ったヨコヤマを、ドナルド・キーンは中国で出会ったもっとも得難い友人と回顧している。
どうでもいいけど、
「大半のアメリカ兵は中国人が敗戦国民ではないことや、厳密にいえば我々が日本から解放したわけではなことを理解していないからすごい横柄な態度をとる」
とか書かれていて草w
#歴史知らない人が嘘だと思うけど本当の事言え
「我々の戦力が保有する武器は、技術的に最高で最も有効なものでなくてはならない。」
「軍備には金がかかる。そして最も重要なのは、材料が必要だと言うことだ。」
「すなわち、我々の勤労者たちが、これを負担しなければならない。」(続く
1950年代初頭、ファシズムから解放された労働者たちの自由な祖国であるはずのドイツ民主共和国は、来るべき再軍備の重い負担に暗澹たる空気が漂っていた。
東ドイツの支配者であるSED(ドイツ社会主義統一党)指導部は、独立と何よりも「西側に売られる」ことを避けるためにモスクワへの忠誠心を(続く
示し続けねばならず(少なくとも、スターリンは東西ドイツの統合と中立化を、西側との駆け引きの一つとしてしばし口にしていた。)、ただでさえ国を挙げての「スパイ狩り」により自らの国力(と人民の支持)をガリガリ削っていた東ドイツにとって、再軍備、それも西ドイツと対等に戦える重軍備は(続く
あまりにも重い経済的負担であり、それは人民に対する重税と言う手段で賄われた。
労働者の国、ドイツ民主共和国は軍備のために労働者に対し重い税負担を課し、その経済的負担に1989年まで喘ぎ続けることになる。
日本はなんやかんやで上手くやったんだなと。
期待されていたのは、あくまで守りというか、ソ連潜水艦をオホーツク海・日本海に閉じ込めるのと、韓国を支える後方兵站基地としてなので、軍備は控え目で済んだし。
#歴史知らない人が嘘だと思うけど本当の事言え
「既に我々に逃げる場所がない。望もうと望むまいと、立ち向かわざる得ないのだ。」
「ルーシの地を辱めることなく、骨となって横たわろうではないだろうか。死ねば辱めを受けないからである。」
年代記によれば、キエフ大公スヴャトスラフは(続く
971年の対ビザンツ戦争の際に、こう演説したとされる。
この内容が事実であるか否かはともかく、注目すべきは大公が「ルーシの地を辱めることなく」という、現代で言う「愛国的」な表現を用いていたことであろう。
ロシア/ルーシの歴史上「ルーシの地」と言う概念は(続く
重要な意味を持つ。
戦いの際において、「ルーシの地」を守るために戦うと宣言することは、それすなわちロシア/ルーシの諸公同士の戦争ではなく、十字軍やタタールなどを相手にした対外勢力を意味した。
そうでない場合、「公の名誉」「ノブゴロドの正義」「聖ソフィア(聖堂、街のシンボル)」(続く
などより具体的な、あるいは地域的な「象徴」を掲げそれを守護することを宣言していた。
興味深いことは、「キリストのため」という欧州では定番のフレーズが、ロシア/ルーシの地では14世紀以前はほとんど見られなかったことだろう。
上記のスヴャトスラフ大公が異教徒であったように(続く
ロシアの地はキリスト教の受容は比較的遅く、より「異教的」な土地柄であり、また14世紀ごろに「タタールのくびき」を課していたジョチ・ウルスがイスラム教を受容していったことや、同時期にタタールの支配に対する本格的な反抗が始まったことも聖戦意識の高揚に(続く
つながったのだろう。
何はともあれ、ロシアという土地は昔から「ロシア/ルーシの地を守る」ということに関しては利害や立場を越えた特別な意味を見出す土地柄なようである。
#歴史知らない人が嘘だと思うけど本当の事言え
「日本との提携は保持する。しかし、現在の日中紛争ではドイツは中立を維持しなければならない。」
「中国との提携に基づく物資輸出について、中国から外国為替ないし原料供給で支払われる場合、できるだけ対外的な隠蔽工作を施しつつ続行せよ。」(続く
1937年8月13日に勃発した日中間の全面紛争(第二次上海事変)について、ナチスドイツの指導者アドルフ・ヒトラーが示した方針は極めてあいまいで場当たり的だった。
4年前に彼がドイツ首相となった時、ヒトラーを含むナチ党幹部たちの中で極東情勢に関心を持つ者は皆無と言ってもよかった。(続く
ヒトラーの外交顧問であるリッペントロップですら、同僚がシモノセキ、すなわち日清戦争とそれに続く三国干渉の歴史について言及した際に、「そいつは誰だ?」と聞き返すありさまだった。
ナチスドイツ初期の極東外交を主導したのは、国防軍であった。ナチ党政権の樹立によりソ連との蜜月が(続く
終わった以上、彼らはソ連に代わる兵器の輸出先を必要としていた。強大なドイツ軍を再建するためには、軍需産業を稼働させねばならず、それはシャハト経済大臣の経済政策とも合致していた。
ドイツ国防軍は中華民国への軍事顧問団を拡大し、1936年に結ばれた中独条約で1億マルクの借款を行い(続く
大量のドイツ製兵器を輸出し、対価としてタングステンを始めとする貴重な戦略資源を手に入れ軍の再建を推し進めた。
他方で、リッペンドロップやカナリスら「親日派」もまた独自の極東外交を推し進めた。
彼らはソ連に対抗するため伝統的にロシア/ソ連と敵対する大日本帝国との結びつきを求め(続く
1936年末に日独防共協定を成立させる。同協定はルフトハンザと満州航空がアフガニスタンで連結し、有事には同地を拠点にソ連南部に対し日独共同で「圧倒的空中爆撃」を実施するという誇大妄・・・失礼、野心的な秘密協定すら含まれていた。(続く
片や日本との対ソ同盟に向けて動きながら、もう片方の手ではその日本と敵対する中国へ全面的な軍事支援を行うこの矛盾をはらんだ外交政策を、トラウトマン中華大使は
「我が国は対日政策と対中政策をそれぞれ別個に推進してきたが、『東アジア政策』は行われてこなかった。」
と端的に嘆いている(続く
上海での戦闘が日中の全面戦争へと発展した時、ヒトラーは欧州外交を有利に進めるためリッペントロップ一派が進める日独伊による対英・対ソ軍事同盟を意識していたが、一方で8279万RMという莫大な中国への武器輸出(1937年のドイツの対外武器輸出の約4割!!)を失うことにゲーリングたち(続く
親中派は強く反対していたし、国防軍の軍事顧問団も手塩をかけて育てた中国軍(ドイツ式)を裏切ることに強く反発した。
何より、日本人はドイツから奪った南洋諸島を返すそぶりすら見せないではないか!!
1938年2月20日、ヒトラーは国会において突如
「ドイツは満州国を承認する用意がある」(続く
「ドイツは東アジアに対し何ら領土的野心を持たない(旧ドイツ領南洋諸島の返還を要求しない)」
と対日譲歩をぶち上げた。
同年4月、対中武器輸出を仕切るゲーリングは中国への武器輸出を公式に禁止
「今年はおよそ1億ライヒマルクの現金が失われた」
と大島大使への書簡に嫌味を書いた(続く
さらに、5月にはリッペントロップは渋るドイツ人軍事顧問団に対し総統命令を持ち出して中国からの全面撤収を厳命した。
一連の対日譲歩は、ズデーテン問題など欧州におけるナチス政権の外交攻勢を踏まえ日本側に譲歩し対英仏において強調しようという意図があったのは間違いないだろう。(続く
ただし、この対日譲歩はヒトラーやリッペントロップたちは致命的な失敗を犯した。
日本側に対し、何ら協議や駆け引きを行わないまま相手に要求を丸呑みしてしまったのである。
ベルリンに駐在する大島はゲーリングの嫌味に対し「経済問題は武器輸出とは別問題である」と素知らぬ顔で返信し、(続く
その後の外交交渉では、ドイツは対中武器輸出停止に対する経済的な補填も、失った中国(蒋介石政権)市場に代わり日本が占領する華北市場への参入もままならず、日独防共協定の軍事同盟化すら失敗
ナチ党幹部のアマチュア外交は、中国市場を失い日本に一方的に利益をもたらすだけで終わった。(続く
まあ、その後ヒトラーは独ソ不可侵条約を結び、のオンハン事件の敗北とあいまって日独の相互不信はますます悪化していったのであるが。
「次はイタリア抜きでやろうぜ」だってさ(笑
「ノモンハン事件の敗北」でした。失礼
#歴史知らない人が嘘だと思うけど本当の事言え
「我々かつての戦争捕虜は良き先例をもって先頭に立ち、全体に広がっている労働の忌避や享楽欲や道徳的堕落に対して戦う使命を、他の誰にもまして帯びているのである。」
「そうすれば、我々の捕虜体験は故郷の幸へと転化するだろう。」(続く
これは、WW1終結後日本の捕虜収容所からドイツへ帰国するドイツ人捕虜たちに対し発刊された船内新聞の一文である。
第一次世界大戦、極東青島要塞などで日英軍に敗れ捕虜となったドイツ兵たちに共通する悩みは、夏の蚊と耐えがたい退屈であった。
なにせ、この時期の日本は「文明国アピール」(続く
のために、当時としてもちょっとありえないぐらい戦争捕虜を厚遇しており、各地の捕虜収容所でもドイツ人捕虜に対してお決まりの捕虜労働を全く課していなかった。
一般的な捕虜生活は
6時半、起床
7時半、整列点呼し朝食。その後、9時まで自由時間
9時から10時まで教練(レクリエーション)(続く
10時から12時まで自由時間
その後、12時から昼食を取りさらに午後は自由時間が続く。収容所の近所を散歩をしたり、場所によっては海水浴を楽しんだりしながら9時には就寝していた。
そりゃ「堕落」とか言われるわけだな(;・∀・)
捕虜たちは時間を潰すためにスポーツやカードゲームを楽しみ(続く
生活環境改善のためにベッドや暖炉を自作し(収容所となった寺院や兵舎は、筵と毛布を敷いての雑魚寝で隙間風も多く快適とは言い難かった。)、ドイツ人基準では物足りない食事を補うため出入りの行商からおやつを買い、あるいは日本語を勉強したり捕虜の中で知識人が教師役となり勉強会を開いた(続く
捕虜たちにとって最も重要な暇つぶしは、音楽コンサートやクリスマスに向けた準備だった。
日本キリスト教連合会から贈られたクリスマスツリーは捕虜たちを大いに喜ばせたという。
物質的に豊かとはいえなかった大日本帝国での捕虜生活に問題が無かったわけではないが、ドイツ人捕虜たちの(続く
多くは、異国の地での長い「休暇」を満喫した後、戦争の終結とともに帰国したようだ。
丸亀収容所でドイツ兵たちがどこからかGetした豚を解体したら、収容所になっていたお寺から怒られたという話が好き。
ドイツ兵「日本の食事は味は悪くないけど量が足りない!それはそれとしてミカン美味しい!!」
捕虜が神戸まで買い出しに行くなよ(呆れ
#歴史知らない人が嘘だと思うけど本当の事言え
1233年の秋、アラゴン王ハイメ1世はバレンシア地方の異教徒たちを平定するために130騎の平民騎兵と700人の歩兵、そして150人の勇猛なアルモガバルスを率いてボリアーナの街から出陣した。(続く
ハイメ1世の遺した自伝を読むに、王にとっては久々に気分の良い遠征だったらしい。何せ、微塵も信用も信頼もできないアラゴン貴族たちはほとんど伴わず、気心の知れた直参と直轄兵だけを伴っての遠征である。
マリョルカ征服でも今までのバレンシア遠征でも脚ばかり引っ張ってきた忠臣(笑)の(続く
顔色を窺う必要もなく、気分良くアルカセルの街を略奪したハイメ1世だが、異教徒たちが迎撃してこないことだけは不満であった。
まだ、20代も半ばの王はこれまでも(大貴族が全く信用できないので)自ら最前線で異教徒と続けてきた若くして歴戦の猛者であり、つまるところ敵と戦いたかったのだ。(続く
略奪を終えて一休みしていたアラゴン軍の陣に、サラセン人の使いがやってきて
「もし王が明日の日の出までザヤーン(使いの主であるサラセン貴族)を待つなら、ザヤーンは軍を率いて出てくるでしょう。」
と口上を述べたた。大胆不敵な宣戦布告である。
当然、ハイメ1世は大喜びで使者に(続く
「余は明日の日の出まで待つので、何か用があれば使いを送るように(キリッ」
と託手を伝え送り返した。
翌日、ハイメ1世は律儀に待ったが誰も来ない。4日間待ったが、兵隊一人現れない。
待ちくたびれた王は、適当に周囲の麦畑を荒らして200頭のラバに大麦を積み上げてボリアーナへ帰還した。(続く
たぶん、ザヤーンさんはサラセン軍が来ると聞いてハイメ1世がさっさと引き上げてくれることを期待していたのだろうなと思う(;一_一)
#歴史知らない人が嘘だと思うけど本当の事言え
「余はキュロス、世界の王にしてアンシャンの王。アンシャンの王カンビュセスの息子。偉大なる神々が全ての土地を世の手に委ね、そして余は土地を平和なままに生かす。」
四方世界を越えてアナトリアからイラン高原まで平定した最初の王であり(続く
始まりのペルシア王であるキュロス大王は、ギリシャ人やユダヤの民をはじめ数多の民族に理想の王/解放者として讃えられながらも、その生涯には謎が多い。
キュロスが、自らの業績を記した円筒印章においてなぜ、数百年前に滅びたエラム王国の都市アンシャンの王を最初に名乗っているのかも、(続く
そもそもその出自すらも複数説ありはっきりしない。
確かなことは、BC550年前後に突如として頭角を現したこの男が瞬く間にメディア王国を征服。続いてみんな大好きハルパゴス将軍を引き連れてアナトリアのリュディア王国を下し、新バビロニア王国を滅ぼし僅か十数年で世界帝国を築いたことである(続く
月神シンに傾倒し最高神マルドゥクを蔑ろにした新バビロニア王国最後の王ナボニドスを打倒したことで、キュロスはメソポタミアの覇権を確立するとともに国家守護神たるマルドゥクにより選ばれし英雄王となった。
首都バビロンに強制的に集められていた神々の像をそれぞれあるべき地へと返還し、(続く
バビロンで捕囚となっていた(実際には、虜囚と言うほど悲惨な扱いではなかったと思われるが。)ユダヤの民を解放しイスラエルの地へと帰還を許した寛容な征服者キュロスを、人々は「マルドゥクの代理人」「解放者」「油を注がれし人」と呼び讃えた。
キュロス大王本人の内心は図りようがないが(続く
彼が征服戦争の過程で自らを「解放者」としてセルフプロデュースし、それが民族や宗教を、あるいは時代すら超えて人々の心を掴んだことは間違いないであろう。
キュロス大王はその生い立ちが不明確であるのと同様に、その最期も諸説あるが。確実なことは、彼の死後も残された帝国は(続く
権力の継承に成功し、広大な征服地を200年に渡り比較的安定して統治していたということである。
そして、キュロス大王が築いた世界帝國は、偉大な大王を誰よりも敬愛する一人の若者の手によって滅びることになる。
#歴史知らない人が嘘だと思うけど本当の事言え
「日本人は労働能率において少しも西洋人に劣るものではない。それどころか、手先の器用さと動作の機敏さそれに頭の良さも加えれば、日本の国土の狭さと人口過密それに天然資源の乏しさを考えれば、農業立国よりも加工工業が向いている。」(続く
1930年代より勃興した新興財閥の雄・鮎川義介は太平洋戦争終結後、その積極的な軍国主義への協力姿勢(彼は東條英機や岸信介に近しく、満州国等へ積極的な投資を図っていた。)によりGHQにより拘束された者の、すぐに無罪放免となり戦後は日産グループを牽引し政財界の要人として活躍している。(続く
鮎川がGHQより見逃された理由は、より軍国主義的で大日本帝国の旧進性の象徴である伝統ある大財閥に比べて「無害でリベラル」であると見なされたからだった。
事実、三井や三菱など四大財閥が1945年の時点で国家資産の25%を独占していたのに対し、日産や日窒等の新興財閥の経営は悪化していた(続く
また、鮎川を筆頭とする「革新」財閥の多くは旧来の家父長的・家族主義的な大財閥と異なり一族で経営や利益を独占する血縁主義を取らず、労働者に対する賃上げや手当にも熱心であった。
GHQの目には、新興財閥は四大財閥よりは民主的で自由主義的であり、さらにいえばとるに足らぬ存在に思えた(続く
鮎川義介は「リベラル」な人物だったのだろうか?
WW1を目の当たりにした大日本帝国では、一つの新しい潮流が育っていた。
国家総力戦を勝ち抜くために、身分や主義主張を越えてあらゆる国家資本を「科学的」「技術的」に適切に管理統合すべしというテクノロジー至上主義である。(続く
テクノエリートたちにとって、地縁・血縁によりまとまり民衆から搾取して得た利益を独占する旧大財閥は明確な敵であった。
彼らは資本の独占者ではなく、管理者であった。自らの利益にために働くのではなく、資本(資源も人間も含む。)を適切に管理し社会をより高度に合理化すること目的とする(続く
テクノエリートたちの多くが若き日にはマルクスに傾倒し、自らを私心なき国家と人民への奉仕者と見做した。
彼らの手本は、ニューディール政策を成功させたアメリカと、五か年計画を成功させたソビエト、そして台頭著しいナチスドイツであった。
重化学工業へと進出し(続く
利益を得ることは目的ではなく手段であり、最終目標は国家をより強靭にし、人民を幸福にすることであった。
経済界のテクノエリートたちは政府・軍内部の同輩と密接に結びついた。統制派と称された新世代のエリート軍人たちもまた民間の大学に進学し、フォード自動車の効率性に感銘を受け(続く
地縁や血縁の重視、過度な精神主義等の旧弊を廃し、近代的で合理的な軍隊と、それを支える産業化された国家が必要であると確信していた。彼らにとっては議会や愛国主義もまた国家を効率的に運営するため「技術的」に管理されるべきシステムの一つであった。あるいは、天皇すらも。(続く
身分・思想・人種すらも超えて全てを技術的に効率よく管理すべし。
1930~40年代の大日本帝国が目指したテクノエリートが主導する高度国防国家の夢について、現在の一部の研究家からは「テクノファシズム」という新しい概念が提唱されている。
どうでもいいけど、テクノファシズムってすっごく暗黒管理社会的な響きで良いよね。
ただ、鮎川にしろ岸にしろ永田鉄山にしろ、最終的な理想・目標は日本国民の降伏であるので、そこら辺はじゃあくの権化であるアマクダリとは比較にすらならない。
・・・レーニンやスターリンだって、最終目標はロシア/ソ連を人民が幸福に暮らせる平和で豊かな国にすることだったとは思うけどね。
あうあう
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