”「ザ・シチュー(シチューとしか呼びようのない料理)」”

”本当においしいのでこれ以外のもの一切入れちゃだめ!”

あーこのシチュー食べたことありますわ、三十数年前の新世界で。
新世界名物あづまのシチューうどんのシチューがまさにイナダさんのシチューなんです(ただし牛肉)。

写真は玉置標本さんのレポートから。
bit.ly/2SgviaB Image
三十数年前の新世界は、観光客も女性客もいない「変なクリーチャーが蠢くスター・ウォーズの酒場」みたいなところでしたが、それだけに印象が強かったです。

そこで食べたのが、この水だけで作ったようなシチューうどんと串かつでした。
この水だけシチューうどん、ひょっとしたら明治時代のシチューの名残なのかもしれません。

明治30年代から屋台の洋食屋が夜の街に現れるようになります。そこでのシチューは、水だけでつくったものでした。

なにせ値段が三銭という極安シチューでしたので、材料費がかけられない。 Image
明治43年の『実業の栞』(安藤直方 多田錠太郎)には、
 
”シチウなどの汁物は肉少なに、スープを用いずつゆのみ多く、馬鈴薯をこてこてとして胡麻化し置くなり。”

とあります。 Image
”スープを用いずつゆのみ多く”というのは、出汁を取っていないという意味。

本来英語では出汁のことをbrothというのですが、明治時代の洋食のレシピ本においては、brothではなくソップ(スープ)という和製英語を使いました。

このソップで「シチウソウス」を作りシチューのベースとします。 Image
しかしながら、安いことが目玉だった洋食屋台のシチューには、そんな手間と金はかけられません。

明治43年の『無資本実行の最新実業成功法』には、洋食屋台のシチューレシピが載っています。

やはり出汁はとっていないようです。バターは入れていますが。 Image
洋食屋台では、この水だけシチューをご飯にかけた「シチウ飯」というのも売っていました。よく売れていたそうです。

シチューにご飯はありかなしか論争がありますが、少なくともシチューで飯を食べる習慣は明治時代からあったのです。 Image
この『無資本実行の最新実業成功法』は大阪で発行された本。

ひょっとしたらシチューうどんの祖先はシチウ飯だったのかも……
ここで宣伝です。

新刊『串かつの戦前史』においては、この洋食屋台がいかに隆盛し、そして衰退していったか、その歴史を追っていきます。
bit.ly/2ScuEuJ

なぜなら、この洋食屋台が串かつが生まれる母体となったと考えるからです。

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Oct 23, 2024
150年前のイギリスのカレーレシピを再現する際に、非常に重要でありながら、必ずといっていいほど無視される要素があります

ライスです

当時のイギリスのカレー用ライスは、南インドと同じく、長粒米を湯取り法で「茹でこぼし」ていました(続く) Image

パスタを茹でるように長粒米を茹でこぼすのです

これはイギリスのカレーのルーツである南インドのライスと同じ調理法

茹でこぼすことで「おねば」を捨て、ライスの表面がサラサラ、パラパラになり、カレーとよく馴染むようになるのです(続く)

配膳法、食べ方も重要です

昨日再現したように、150年前のイギリスのカレーの多くは「とろみ」がありません

これを当時の配膳法、食べ方で食べると、口に入れる前にパラパラのライスとよく混ざり合うこととなります(続く) Image
Read 17 tweets
Jun 6, 2023
日本ハンバーグ史の前編、公開となりました

「「ハンバーグ」にソースをかける人が知らない真実」

toyokeizai.net/articles/-/676…

先日は、昭和時代のハンバーグの調味法アンケートにご回答いただきありがとうございました
(続く)



ありがたいことに2754件ものご回答をいただきました

昭和時代にハンバーグを食べた者にとっては、ハンバーグはケチャップとソースで食べるというのは常識的なことなのですが、なぜあらためてアンケートをとったかというと
(続く)

最近の若い人は、かつてハンバーグはケチャップとソースで食べていたということを知らないんですね

こちらのnote記事がその代表例ですが、昔からずっとデミグラスソースのみで食べていたと勘違いしている
note.com/sweetsbanchou/…
(続く)
Read 5 tweets
Jan 6, 2023
『幕末単身赴任 下級武士の食日記』(『ブシメシ!』として漫画化)を読んだ方はご存知でしょうが、幕末の江戸では普通に豚肉が売られており、また、外食業で豚鍋も提供されていました

昨日言及した通り、その頃の近畿圏では牛肉食が広まっており、幕末に限っていえば
(続く)

「東の豚肉、西の牛肉」となっていたわけです
twilog.org/ksk18681912/da…

これが明治時代になると一転して「東の牛肉、西の魚」となり、牛肉食を東京がリードすることになるのですが、それはさておき

江戸では文政年間(1818~1830年)頃から、豚の飼育と豚肉食が盛んになっていたようです
(続く)

dl.ndl.go.jp/pid/799304/1/25

文政年間に書かれた佐藤信淵の『経済要録』には

“豕は近来世上に頗る多し”

とあり、豚の飼育が盛んになっていたことがわかります
(続く)
Read 14 tweets
Jan 5, 2023
朝日新聞さん、嘘言っちゃいけませんぜ

>お好み焼きは明治期に「洋食焼き」として広がったが、ソース・マヨネーズはわりと新参者だという。戦後の一時期まではだし汁でこねた生地と具だけを味わう時代が長く

大阪のお好み焼きは戦前からソースが基本です
(続く)
bit.ly/2VUadAd


こちらのお好み焼き資料集を「大阪」で検索すればわかりますけど、戦前の大阪のお好み焼きはソースを塗るのが基本、代替で醤油を使うくらい

「だし汁でこねた生地」なんで事例はないです
(続く)

“日本コナモン協会(本部・大阪市)によると”と記事にはありますけど

そこの会長の熊谷真菜さんの本『たこやき』にでてくる戦前のお好み焼きの複数事例においても、ソースを塗っていますが?(上記資料集を「熊谷真菜」で検索)

ちゃんと取材していますか?
(続く)
Read 4 tweets
Jan 5, 2023
1960年代の青春映画といえば若大将シリーズ

加山雄三演じる主人公の田沼雄一は、明治から続く老舗すき焼き屋の息子という設定です

明治時代の東京のすき焼き屋は「牛肉屋」と呼ばれており、肉の小売も行っていました
(続く)

つまり東京では肉屋の跡取りが青春映画のスターとなっていたのですが

『食肉の部落史』(のびしょうじ)によると、近畿地方では様子が違っていたようです

“戦前近畿においては全体として肉屋=被差別部落と分かちがたい実態であった”(P217)
(続く)

19世紀の江戸では、将軍家御用達の彦根藩の牛肉が、常設店で町人に売られていました。
twilog.org/ksk18681912/no…

その関係で牛肉は、将軍家御用達というポジティブな印象を持たれていたと思われます
(続く)
Read 9 tweets
Jan 4, 2023
江戸時代の牛肉食といえば、有名なのが彦根藩の牛肉

井伊家から各藩へ送られた牛肉の味噌漬けおよび干し牛肉ですが、「井伊家御用留」(井伊家文書) の記録に残っているのは1781年以降

意外と江戸時代も終わりの方の記録しか残っていないんです
(続く) Image

ただ、山本博文の「江戸の食生活史」(三田村鳶魚『娯楽の江戸 江戸の食生活』所収)によると、1740年頃の江戸では市中に薬用の干し牛肉が出回っており、病の幕臣には将軍用の干し牛肉が下賜されたとあるので、この頃には井伊家から将軍家への薬用牛肉贈答が行われていた可能性があります
(続く) ImageImage

『彦根市史』では、元禄時代には牛肉の味噌漬けが作られていたと推定しますが

“将軍徳川綱吉が貞享四(一六八七)年正月生類憐みを令した際、時の藩主井伊直興は直孝以来将軍家より許された放鷹地さえ返納したくらいであったから、屠牛も一時途絶えたであろう”
(続く)
Read 11 tweets

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