(2)家康の清須訪問と織田・徳川同盟(清須・清洲同盟)の成立についてⅠ
織田信長と徳川家康の同盟締結については、永禄4年2月に和睦、同5年1月15日に清須城で両者が会盟し同盟が成就したといわれてきました。これは『武徳編年集成』を初めとする江戸幕府の編纂した歴史書によるものです。
このうち、永禄4年2月の和睦は、新行紀一氏の研究により、明確となりました。この時両者は起請文を取り交わし、領国の境目を決めていたようです。和睦の仲介者は、水野信元でした。このあたりの出来事を、今回は清須訪問の時のこととしてドラマでは描いています。ところが、家康が清須を訪問したという
、永禄5年1月15日のことについては、今のところほぼすべての研究者は、その実在を否定しています。その理由として、『三河物語』『松平記』という戦国期に近い史料には、この重要な事実が記されておらず、江戸時代の編纂物に初めて登場すること、当時の家康に岡崎を留主にして清須を訪問する情勢にはな
いこと、などです。また、永禄5年1月に同盟が成立していたとしたら、信長の対一色(美濃斎藤)戦、家康の対今川戦、それぞれに相互が援軍を送っていてしかるべきなのに、その形跡が見られないことも重要です。また確実な史料にも、もちろん信長と家康が攻守同盟を締結したことを窺わせるものは、発見さ
れていません。あくまで和睦(停戦)に留まっていたと考えられます(ただし極めて友好的な意味での和睦)。
#時代考証の呟き #どうする家康

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Jan 31
(3)家康の清須訪問と織田・徳川同盟(清須・清洲同盟)の成立についてⅡ
信長と家康の和睦が、攻守同盟に発展するのは、永禄6年3月2日のことと考えられます。これは、信長息女五徳と家康嫡男竹千代(信康)の婚約が成立したことにあります。当時竹千代は5歳でした。このことを記録する史料は、
『朝野旧聞襃藁』『徳川諸家系譜』などによるものです。裏付けとしては不安が残るものなのですが、これは事実を伝えている可能性が高いのです。というのも、永禄6年秋に勃発した三河一向一揆に際して、水野信元が援軍として家康のもとに来ていることが指摘されているからです。対今川戦でも、水野は
もちろん織田の援軍が派遣された形跡はそれまでありませんでした。ところが、永禄6年末から同7年初頭の三河一向一揆戦では、水野勢が派遣されています。これは、信長との攻守同盟が成立していなければ理解できません。このことから、清須同盟は永禄6年3月に成立したとみられますが、家康による清須城
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Jan 31
(1)お市の生年について
お市についても、ご批判がありました。今回の設定では、元康と同じ年ということにしています。そのうえで、元康の人質時代に出会っており、劇的な印象を彼女に残したというストーリー展開にしています。ですが、私は彼女をこの段階で出すことには反対でした。元康と同じ年、
あるいは人質時代に印象を残すような状況にはないだろうというのが理由です。ただ、お市の生年については定説がなく、天文16年生まれというのが通説であるものの、確実な史料による裏づけがありません。出典である「柴田勝家公始末記」という近世の軍記物です。そのため裏付けとしては、かなり厳しい
ものです。近年明らかにされたところでは、浅井長政との結婚が永禄10年、長女茶々を産んだのが永禄12年、次女初は元亀2年、江は天正元年であることが確定しています。浅井氏滅亡後、捕縛され処刑された長政の息子万福丸は、享年10であったことが『信長公記』に明記されていますので、生年は永禄7年で
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Jan 31
遅くなりました。大河ドラマ「どうする家康」第4回「清須でどうする」はいかがでしたでしょうか。SNSをみると、様々なご意見がみられますね。ここで、はっきりと申し上げておきますと、全編にわたって、これはフィクションです。 #時代考証の呟き #どうする家康
ですので、脚本家古沢さんの物語の展開を、視聴者の皆様がどのように感じられたか、面白いと思ったか、そうでなかったか、ということで、時代考証としてはほとんどいうことがないのです。脚本をもとに、演出、美術、技術スタッフが解釈して映像を作成しています。多くのご意見に、清須城が中国の宮殿の
ようだとか、清須の町を見下ろせる丘はないのではないか、などがありました。このうち、清須城が宮殿のようだというのは、脚本にはまったく表現されておらず、演出の方々があのように映像化したものです。ただ、脚本では「1562年(永禄5年)1月清須城 城門が開いてゆく。到着している元康、左衛門尉、
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