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K・HIRAYAMA
@HIRAYAMAYUUKAIN
山梨在住の歴史学者。健康科学大学特任教授。ポニーキャニオン所属。著作は、『戦国大名領国の基礎構造』(校倉書房)、『天正壬午の乱』(戎光祥出版)、『武田氏滅亡』(角川選書)、『戦国の忍び』(角川新書)など多数。
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Nov 28, 2023
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大坂の陣のきっかけで知られる「方広寺鐘銘問題」ですが、実は大きく揉めたのは、その前段階の問題が大きい。豊臣方は、大仏開眼供養と堂供養を同日に挙行しようと考えていた。ところが、天台僧と真言僧とが、供養の際に、どちらが「右座」「左座」に着席するかで揉め、問題となった。席次の順序は、上位と下位をはっきりと見せることにつながるため、以前から双方はしばしば紛争を引き起こしていた。それが再燃した。 #時代考証の呟き #どうする家康 大仏開眼供養では、開眼師は仁和寺門跡が行うことになっていたため、真言僧らは仁和寺門跡に従って「左座」に、天台僧は「右座」に着座することになっていた。だが、「堂供養」も同日に行うことになれば、席次がそのままで執行されることとなり、天台僧は「右座」のままとなる。そのため、天台宗は参加しないと主張した(これは天海が言上した)。ここから話が拗れることになる。
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Sep 25, 2023
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私は、7月13日に石田三成と徳川家康の関係について、次のようなツィートをしました。「それにしても、調べれば調べるほど、石田三成像は江戸時代以来の虚像(主に悪印象)にまみれていて、事実を反映していないなぁ。そもそも家康を目の敵にしていたり、反目し続けていたなんて事実はまったくない。ずっと協調して豊臣政権を支えようとしている。佐和山隠居後に発生した「家康暗殺計画」の時も、家康を支えようとしているし、三成の息子は秀頼に奉公し在大坂であった。しかも彼は家康と非常に懇意だったと記録にある。家康と三成の決裂の過程は、もっと慎重に検討しなければならないと強く感じています。 #時代考証の呟き」
この文章について、出鱈目だなどの反論が出ていました。別に反論するまでもないことだと思い、放置していたら、うるさく絡まれたので、9月15日に取りあえず参照すべき参考文献を掲げておきました。次のようなものです。「忙しいので放置してたら、誹謗中傷が湧いてて面倒くさいね。まず、現状の石田三成研究として、谷徹也氏編『石田三成』、太田浩司氏編『石田三成』、中野等氏著『石田三成伝』の三著作を見ると、少なくとも秀吉死後までは何ら対立はなく、死後の私婚問題からすれ違いが始まるが、政権運営では協調し続けている。また、三成暗殺未遂事件は、訴訟だという学説が強まっており、家康は三成隠居で事態の収拾を図ったとされる。その後の家康暗殺計画時も、三成は反対の立場だったのではないかと指摘され始めている。問題なのは、前田攻めの計画や、上杉攻めの問題で、大名統制の在り方に政権内部で分裂が発生したことが大きい。ただ秀吉存命であれば、大名に上洛命令を出し、拒否したり動きがおそければただではすまない。豊臣体制の求心力が失われる可能性もあった。上杉攻めは、強引という印象だが、周辺の大名からの訴えもあり(これはさらに要精査)、政権を預かる立場として無視出来なかったとも言える。それぞれの立場や、思惑が交錯して反家康連合が形成される。その核となるのが「内府違いの条々」である。石田三成文書の集成を行っている谷氏によれば、三成と家康の対立は、家康暗殺計画頃までは兆候がないとされる。やはり、その後の政局をよく分析する必要があるのだろう。いまだに軍記物や、幕府編纂物等の影響が強いのだが、豊臣時代の研究は着実に進んでいる。「真田丸」の時よりも進んでいる。なお、私には大坂の陣についての著作もあるよ(『真田信繁』)。」
すると、陰陽師Aという人物から、9月18日・20日に次のような批判を受けた。「平山氏の「三著作を見ると、少なくとも秀吉死後までは何ら対立はなく、死後の私婚問題からすれ違いが始まるが、政権運営では協調し続けている。」という発言から、三著作を読んだけど、中野等氏著『石田三成伝』381ページには秀吉が死んだ半月後の9月2日の史料の説明で「家康と五奉行の間にはすでに懸隔が生じており、」と書かれていた。太田浩司氏編『石田三成』224ページは秀吉が死んだ10日後の史料の説明で「この誓約において、四奉行と対立すると見られていた仮想敵とは徳川家康であった。」と書いていた。谷徹也氏編『石田三成』からは平山氏の発言に関係した文は見当たらなかった。三著作は「少なくとも秀吉死後までは何ら対立はなく、死後の私婚問題からすれ違いが始まる」を意図することは書いていない。これって他人の著作を妄言の根拠にした挙句その著作にはそれを意図する文はない、寧ろ逆のこと書いてねぇか??っていう重大な問題なんだよね!「一知半解の輩こそ、デマを撒き散らすトンデモの括りに他ならない。」は普通に平山氏に返ってくるよな」 そこで、この議論をしっかりと検証してみたい。私の議論の焦点をもう一度ここに示すと「(三成が)そもそも家康を目の敵にしていたり、反目し続けていた」という事実はなく、「三著作を見ると、少なくとも秀吉死後までは何ら対立はなく、死後の私婚問題からすれ違いが始まるが、政権運営では協調し続けている」という点にあることをまず押さえておきたい。
まず確認しよう。陰陽師Aが指摘した慶長3年9月2日(秀吉死去の半月後)の史料(毛利家臣内藤周竹書状写)の説明についてである。中野等氏は、この史料から「家康と五人の奉行衆との間にはすでに懸隔が生じており、臨終にあたって秀吉が厳命した「大老」と「奉行」との交誼、協力体制はすでに破綻(「もはや相違」)しているとの認識が、毛利家にあったことがわかる」(中野等『石田三成伝』381頁)と説明している。ここで注意すべきは、①家康と五奉行の関係は「懸隔」が生じたことであり、敵対的対立ではないこと、②わざわざ中野氏が「懸隔」(度外れた隔たり)という用語を使用した理由は、意見の対立があったが、それは敵対的対立でないと評価しているからであろうこと、③そもそも「懸隔」に陥った間柄は、家康と「五奉行」であって三成個人だけではないこと、④その認識は毛利家中のものであること、である。
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Jan 31, 2023
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(3)家康の清須訪問と織田・徳川同盟(清須・清洲同盟)の成立についてⅡ
信長と家康の和睦が、攻守同盟に発展するのは、永禄6年3月2日のことと考えられます。これは、信長息女五徳と家康嫡男竹千代(信康)の婚約が成立したことにあります。当時竹千代は5歳でした。このことを記録する史料は、 『朝野旧聞襃藁』『徳川諸家系譜』などによるものです。裏付けとしては不安が残るものなのですが、これは事実を伝えている可能性が高いのです。というのも、永禄6年秋に勃発した三河一向一揆に際して、水野信元が援軍として家康のもとに来ていることが指摘されているからです。対今川戦でも、水野は
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Jan 31, 2023
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(2)家康の清須訪問と織田・徳川同盟(清須・清洲同盟)の成立についてⅠ
織田信長と徳川家康の同盟締結については、永禄4年2月に和睦、同5年1月15日に清須城で両者が会盟し同盟が成就したといわれてきました。これは『武徳編年集成』を初めとする江戸幕府の編纂した歴史書によるものです。 このうち、永禄4年2月の和睦は、新行紀一氏の研究により、明確となりました。この時両者は起請文を取り交わし、領国の境目を決めていたようです。和睦の仲介者は、水野信元でした。このあたりの出来事を、今回は清須訪問の時のこととしてドラマでは描いています。ところが、家康が清須を訪問したという
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Jan 31, 2023
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(1)お市の生年について
お市についても、ご批判がありました。今回の設定では、元康と同じ年ということにしています。そのうえで、元康の人質時代に出会っており、劇的な印象を彼女に残したというストーリー展開にしています。ですが、私は彼女をこの段階で出すことには反対でした。元康と同じ年、 あるいは人質時代に印象を残すような状況にはないだろうというのが理由です。ただ、お市の生年については定説がなく、天文16年生まれというのが通説であるものの、確実な史料による裏づけがありません。出典である「柴田勝家公始末記」という近世の軍記物です。そのため裏付けとしては、かなり厳しい
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Jan 31, 2023
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遅くなりました。大河ドラマ「どうする家康」第4回「清須でどうする」はいかがでしたでしょうか。SNSをみると、様々なご意見がみられますね。ここで、はっきりと申し上げておきますと、全編にわたって、これはフィクションです。
#時代考証の呟き
#どうする家康
ですので、脚本家古沢さんの物語の展開を、視聴者の皆様がどのように感じられたか、面白いと思ったか、そうでなかったか、ということで、時代考証としてはほとんどいうことがないのです。脚本をもとに、演出、美術、技術スタッフが解釈して映像を作成しています。多くのご意見に、清須城が中国の宮殿の