和中 光次(わなか みつじ) Profile picture
Jul 12, 2023 8 tweets 1 min read Read on X
『廃兵はいやだ─祖国に叫ぶ傷痍軍人』
元祭兵団陸軍少尉 坂東公次 著
「敗戦の中での身体障害兵士、これほどみじめなものはなかった。これらの引揚者は帰国後も苦闘の生活を強いられた。戦時中の白衣の兵士という栄光からも落ち、市井の片隅にひっそりと生きる傷痍軍人達の手記」 Image
「脚を失っても手はあるぞ!この手で日本工業技術のお役に立てるぞ」と更生の意気に燃え時計検査に励む傷痍軍人

「友よ我々は必ず祖国の復興に立上がるぞ」と誓い、毎月三回靖国神社の戦友に祈る傷痍軍人

更生基金で白衣の身を巷に曝す世間の目は冷い…だが尊い寄謝によってすでに三千人の廃兵が更生の喜びに生きているImage
戦友の霊に詣でてしばしその昔をしのぶ三人の傷痍軍人

満身二十六個所の傷痍も癒え今は立派な技工として更生した喜びの傷痍軍人

「さあ、坊や、お父さんはこれからやるぞ! お父さんはこんなに力があるんだよ」と明日への希望をふくらませる喜びの一家 Image
著者は、就職したくても仕事がない、商売するにも金がない、そんなとき二人の傷痍軍人が善意で募金に誘ってくれた。彼らは募金を始めた動機をこう話した。「病院から退院して実社会に出て見たものの、就職すると云っても、手がない足がないと云うことのために誰一人として相手にしてくれない。子供達は子供達で『おい、ビッコが通るぞ』と指さしながら、その真似をしてついてくる…何度人生の無情に泣いたか知れなかった。然し、妻や子供の事を考えると死ぬわけにゆかず、さりとて喰うための仕事もなく困った。そのあげく、泥棒するよりはましだと云うのでこの募金を始めたのです」
著者を誘った傷痍軍人の二人は、米軍の占領政策のことも話している。「そりゃね、白衣の募金と云えば社会から随分と非難がありますよ。然しね、今のこの社会で我々が生きる途と云ったらそれだけしかないじゃないありませんか……誰だって好んでやりたい事じゃないですよ。しかし、時期を得るまでは仕方がないのです」「アメリカは占領命令を出して、傷痍軍人の面倒を見てはならないと云っておきながら、自分の国の傷痍軍人に対しては至れり尽くせりの保護を与えているのですからね…私に言わしむればですね、アメリカという国は口を開けばすぐに人道主義だとか人種の差別的待遇撤廃とか宣伝していますが、一体そんなことを今迄に実行したことがありますか、と云いたいんです。勝った国の傷痍軍人と、負けた国の傷痍軍人に、これほど露骨に差別待遇をするのですからね。理由はとにかく、祖国の戦いで傷ついたことは同じじゃないですか…我々はこういうアメリカの下では絶対に生きられないわけですよ」
著者は最初の募金体験をこう書いている。「白衣の持合せもない私に二人は汚れた白衣を貸してくれた。場所は東京の盛り場である池袋だった。さて、愈々となると『更生資金募集』と書いた箱の前に立つ事だけでも、相当の勇気が要ることだった。私はその前に立つには立ったものの、通行人の顔を眺められないほど恥ずかしかった。況んや『ご通行中の皆さん!』などと呼びかけられるわけがない。二人の仲間はその私を幾度も励まし、盛んに声を張り上げて通行人に、あれこれと呼びかける。実に堂々たる名セリフ?である。こうなると募金も一人前だと思った。私はこの仲間の傍らで、幾度励まされ注意されても首をうなだれるだけで、どうしても顔が上げられなかった。それでも、金を投げてくれる度に微かな声で『有難う御座います』と、やっと礼を言えるようになったのは五時間も経ってからの事だった」
著者は列車の中での募金にも誘われる。列車内での募金活動は禁止であるが、割がよい。そして著者は見張り役となる。著者はあまりの緊張感と違法行為に対する精神的負担からこの仕事を辞める。次に始めたのがバタ屋だった。「来る日も来る日も大きな破れ籠を背負って住宅街のゴミ箱をあさっていたのである。今の私にとって職もなく、資本金もない……その上誰の世話にもならないで自立の途を拓き歩もうとすれば、どうしてもこの道を進むより他に方法がなかった。私の過去を知る人は笑うかも知れなかった。然し、例えどのように笑われてもいい。私自身がその人生のどん底の中から雄々しく立上ろうとする意欲に燃え、一つの正しい職業を遂行したいという固い決心だった」

「私の過去」と書いているが、著者の坂東少尉はインパール作戦で負傷後送されたが、ビルマ戦線危うしと知り治療途中で進んで前線に戻り再度重傷を負った勇士であった。
「廃兵」と書きましたが、書名は正しくは『癈兵はいやだ』でした。「癈」の意味は「不治の病。治らない病気。病気や怪我による重い障害。また、そのせいで自由に動けないこと」

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Nov 14
板垣征四郎大将の夫人喜久子さんが『秘録板垣征四郎』の中で亡き夫を追憶しているが、一個所おもしろい記述があった。「(夫は)大の風呂好きでしたが、帰りの時間が一定しませんために家中の者が入り損ねる事が度々でしたので、いつか朝湯の習慣ができ毎朝かかしませんでした。体中の石鹸の泡に埋めて実に念入りに洗い清め、頭にはローションを振りかけ、これまた誠に念入りにブラシで摩擦致しますので、余り過ぎると却って禿ると止めますと、刺戟によって毛が生えるのだといつも意見が合いませんでしたが、どうやらこの勝負は私の勝になりましたようでございます」Image
元駐独大使大島浩は板垣征四郎大将について次のように述べている。『板垣将軍とは明治の末期、士官学校区隊長として隣接の中隊に勤務し、区隊長室も近かったため、二年にわたり常にお会いしており、人格高潔、態度端正の青年将校であった将軍壮時の印象は今なお私にのこっています。……
巣鴨刑務所に於て、米軍は我々を政治犯として取り扱わず刑事犯罪人と見做したため、その処遇は非礼をきわめて、板垣将軍が黙々として廊下の掃除などしておられた姿を思い出します。米国は極東軍事裁判の目的を正義、人道の維持にありと高唱しましたが、事実は全く異り、今ここで論ずる積リはありませんが、次の一事で明白になると思います。
「昭和二十三年晩秋、私に付けられたる米弁護士カニングハム氏は米国で開かれたる弁米弁護士大会に出席し、東京裁判は復讐と宣伝なりと演説し、米軍の怒りに触れ、極東裁判より追放せられた」
戦勝国のみによって行なったこの裁判は真実を裁くとは思いもよらず、牽強の断罪に終始しました。米国は初め満洲事変を入れる考がなかったのに、支那の要請により加えたとのことです。しかも同国の判検事は支那関係戦犯を死刑にするため他国判事に働きかけ、七名の処刑者中満洲事変に関し、板垣、土肥原、南京事件に関し、松井、広田の計四氏を出しました。
三年にわたる陰惨なる獄中生活に於て板垣将軍は日夜仏経典に親しみ、悟道に努められ、高僧の如き風格が窺われました。処刑は昭和二十三年十二月二十三日、北風すさび微雨降る夜半に行われましたが、板垣将軍が従容としてこの暴戻無辜の断罪を甘受せられたることは敬服に堪えません』Image
企画院総裁鈴木貞一が語る板垣大将『私は板垣大将より六期後輩であるが、大正十一年頃、参謀本部で板垣少佐(当時兵要地誌班長兼陸大教官であった)と同じ部内で勤務して知り合ってから、大正十三年以降北京の駐在武官の補佐官として勤務せる板垣の下に列し、その後満洲事変前後以来しばしば接触の機会が多かった。続いて昭和十一年、私が東満洲国境東寧の歩兵第十四連隊長時代に板垣が関東軍参謀長であり、又板垣が南京の支那派遣軍総参謀長時代に私は興亜院政務部長としてしばしば出向いて接触した。……
昭和二十一年春から東京裁判が開始され、私もA級戦犯の一員として巣鴨にとらわれの身となっていた。
そのある日、突然私の房に板垣がつれられて来て、同房の身となった。
奇しき因縁に二人は苦笑しながら、
「死ぬまで一緒だね」
と云って、二人で昔話に花を咲かせたものであった。
東京裁判は、つまりは復讐の裁判であるから、我々二人は勿論死刑である。しかし何日も生きられるか分らぬが、生きている限り日本の正しかったことは大いに強調しようと語り合ったものである。
板垣も私と同じ日蓮宗に帰依していたが、多くの戦犯の中でも板垣は、死をみること帰するが如き潔い心境で際立って達観している様に見られた。散歩している姿も屈託なく、悠然としており、暑い時には紙で作った帽子をかぶり飄然として、知った人に会うと例の調子で「オーオー」と云って無頓着、恬淡な風貌は最後迄変わらなかった。
最後の判決を受けた時の毅然たる態度、そしてその直後面会書で夫々家族と金網越しに面会の折互いに眼と眼を見交わして目礼したが、これが板垣との最後の別れであった。その刑場での態度も定めし立派であったろうと私は確信している。
現代には、あのような人がいないことを私はいつも残念に思っている。
板垣は一言で云うと至誠の人であった。至誠を以て断行する人であった。彼は決して知謀の人ではない。知者から見ると愚物だと思われるであろう、「大知は拙なるが如し」の言葉通り彼は傑出しており、人間味あふれる、肚の人であり、私は大西郷を親しく知らないが想像するに、板垣は正に西郷南洲のような人ではないかと思っている。
彼は知者をつけるとすばらしい働きをする。その知者たる部下がいつでも生命を捧げて、彼のために尽瘁する徳を備えていたと云うべきである。
反面彼は、その知者たる部下のため過まられることもあり得る。部下を絶対に信頼して、その責任を自らとるためその行動が矛盾して受け取られることがある。……
話は変るが、板垣の家庭は実に立派であった。私は北京で、双方共家族携行で燐家の親しい交際をしたが、彼は家族を大切にして子煩悩な温い人柄であったし、喜久子夫人はしとやかで、然も歌人としての才能があり、内に子弟を守って外に夫を存分に働かせる型の賢夫人であり、情誼に厚い羨しい限りの家庭であった。
「死ぬまで一緒だね」と云い合った彼と私であったが、私は死一等を減ぜられて今なお天命を保ちつづけているが、今にして思えば、軍人には珍しい包容力と度量とを有せる板垣氏をして、現代の如き混沌たる世相にその生を完うせしめたらと追憶すること切である』

『秘録板垣征四郎』
#世紀の遺書Image
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Nov 11
1948年11月12日、東京裁判判決の日。
重光葵の『巣鴨日記』より

午後一時半から約一時間個人に関する一般判決があった。一九二八年から一九四五年まで完全に共同謀議があったと断定して次ぎ次ぎに有罪を宣告せられた。
……東條に対しては最も激しかった。
刑の云い渡しは各個人を一人々々呼び出して判事席に向き合った被告席の中央に起立せしめて、裁判長より云い渡しを終り、その被告は退席し、次の被告がA・B・C順に呼び出されるのである。
荒木大将が呼び出されたが、間もなく控室に帰って来て、控席の隅の席を与えられて監視兵が一人付いた。荒木さんは緊張した顔ではあるが別に変った様子も見せぬ。次で土肥原大将が呼び出されて法廷に向った。暫くして帰って来て、室の入口の外套掛けから護衛兵が外套をとって着せかけたが、そのまま吾々の居る控室を通過して隣の室へと連れて行かれた。次に橋本欣五郎氏は吾々の控室に帰って来た。畑大将も平沼老も帰って来て吾々の仲間へ入った。唯監視兵に付かれているのは同様である。広田氏は衛兵に外套を着せられた。一番入口に近い席にいた私とは強いて眼を合わさぬ様にして隣室に引いて行かれた。板垣、松井、武藤、木村、東條計七名は隣室へ引かれた。吾々はその意味を皆直感した。
……被告全部に対して能う限りの極刑を加えたのである。これでソ連を含む全戦勝国が凱歌を挙げた訳である。然しこれは果して公正であろうか、ただ歴史のみが判断し得る。米国の正義感は果してこれを如何と見又如何処理せんとするであろうか。
東京裁判判決の日のことを橋本欣五郎は次のように述べている。「御承知の通りに裁判所は、陸軍省の真中の大きな部屋にあった。その隣に控室があった。ドアを一つへだてて、そこで判決の時刻を待っておった。
判決の時刻は23年の11月12日の午後3時、その判決直前の2、30分前の控室の状態……これは一つも平時と違わない。佐藤賢了と武藤章、これが碁を打っている。東條さんといえば腰掛けにもたれてタバコをプカプカふかしている。あるいは鉛筆を走らせておるもの、新聞を読んでいるもの、少しも変わらない。
いよいよ午後3時、判決の時刻となり、控室から呼び出されて隣の裁判所に一人ずつ行った。そうなってくると第一に行くのが荒木大将です。
荒木さんが隣に行って一分もたたずに帰ってきた。そこで荒木さんに『何ですか』とある人が訊ねた時に『糸へんだ』と答えた。そこで僕らはもう絞首刑になるものと決めておったから、荒木さんもかわいそうなことをしたなと思った。
次に土肥原が隣の裁判所に行って帰ってくる。ところが、その帰ってくる時の状態がまったく違っていた。アメリカ兵が二人で外套を幕のように引いちゃって、その背後を、あれは抱えてもって行ったのか、あるいは引きずって行ったのか知らんが、5、6人のMPが、どこか得体も知れんところに連れて行った。
そこで荒木さんに、
『糸へんとはなんですか』
ときいたら、悠然として
『終身刑の終の字ではないか』
ときた。われわれは糸へんといえば、つくりは交ると決まっておるぐらいに思っておったのだが……。
そういうふうにして判決が午後3時から4時に終わった。結果は東條以下7名が絞首刑、有期は重光の7年、東郷の20年、あとこごとくは終身禁錮ということに決まった。その時以来、絞首刑を宣せられた東條以下7名は、絞首台の露と消えるまで、我々は顔を見たことがない。」Image
東京裁判の判決を報じる日本ニュース 昭和23年11月23日

《ウェッブ裁判長》
被告東条英機、被告が有罪の判定をうけた起訴状中の訴因に基づいて、当国際軍事裁判所は被告を絞首刑に処する。
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May 3
支那事変前から、中国国民党は軍事力で列強に対抗することは困難であるから、物質的力量の弱さを宣伝で補うという方針を持っていた。そのため、第一次大戦での「レイプ・オブ・ベルギー」をはじめとするプロパガンダ戦の攻防を詳細に研究し、自国が宣伝戦を展開する準備をしていた。以下はその研究成果である。

「国民に対して敵国の卑劣な行為を宣伝することは、国民を憤激させるものである。その最も適当な材料は婦人・児童・老人及び尼僧等に対する敵の暴行であって、異性に対する暴行、俘虜の手足切断、非戦闘員に対する侮辱などはいずれも敵愾心を激発させる。その他戦場において、戦勝後に敵兵が連れ立って女子を強姦したとか、あるいは輪姦して死に至らしめたとか、あるいは毒物を飲料水中に投入し、家畜を殺害し、食物を掠奪した等は、敵愾心を挑発する方法から言えば、いずれも最良の宣伝材料である。新聞はでき得る限り多くこれらの記事を掲載すべきである」

藍衣社機関誌『汗血月刊』1937年3月号(南京陥落の9ヶ月前)
『支那の対日宣伝策』より

画像は『是でも武士か』の挿絵
amzn.to/427NkM2Image
英国は大規模なベルギー大虐殺プロパガンダにより、ベルギーを救え!ドイツを討て!と国民の心理を動かすことに成功したが、中国がそのことを学んでいたことがわかる記述。

「通常は一般人は戦争を望まないものであるから、彼らの賛同・擁護・犠牲を得ようとすれば、彼らに少なくとも次の一点で心を動かさなければならない。すなわち、この戦争は我国として戦わざるを得ないものである──換言すれば我国にとっては自衛のための戦争であり、敵にとっては侵略のための戦争であるということであって、そうすれば開戦の罪は敵に着せられるのである」

「民族の激動及び激昂した民気の維持もまた、新聞が国内宣伝上において注意すべき要点であって、この目的を達するために新聞は左記三項と関係ある動静を、できる限り掲載して宣伝すべきである。

(イ)敵国に対する憎悪の念を引き起こす事項
(ロ)人民に敵国に戦勝し得る希望を持たせる事項
(ハ)人民の抗戦精神を興奮させる事項」
国民に敵国に対する憎悪の念を引き起こすための宣伝方法について。どの戦争でも少なからず残虐なことは起こり得るので、それらを用い、デマを含めて針小棒大に宣伝せよ、というものである(最近出版された『ジャパンズ・ホロコースト』などでは、この方法によって「日本は3000万人以上を虐殺した」というところまで膨れ上がった)。

「一般国民に敵国に対し憎悪の念を引き起こすことが、全国国民に不倶戴天の仇敵感を発揮させる基礎である。その最良の方法は敵の高慢な態度、卑劣な行為及びその非人道的思想を一々暴露することであって、そうすれば国民の敵に対する憎悪の念がわき起こるだけでなく、挙国同仇の敵愾心もまた火のように燃え立つのである」

「敵国の不法残忍な行為については極力種々の材料を収集し、でき得る限り新聞を利用して、敵は残虐横暴で人道を顧みないという印象を人民の脳裏に刻み着けるべきであり、そうすることもまた公憤を激発する有効な方法である。いつの戦争でもいわゆる残虐なことは避け得ない。十字軍の出発前にキリスト教国内の人民の敵愾心を激発させた方法は、彼らにアラビア人が如何に残酷であり、如何に恐るべきかを宣伝したことである。欧洲戦争の時の協商国の宣伝で最も甚しかったのは、ドイツは死屍を用いて石鹸を製造している、といったようなことである」

画像は『是でも武士』かの挿絵Image
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Apr 21
#是でも武士か
ドイツ兵により大砲にくくりつけられた半裸姿のベルギー人女性。
第一次世界大戦当時の英米の新聞は、ドイツ軍の残虐行為をこのようなイラストとともに報道した。
開戦後、この種の報道が大量に流され続け、英米国民はみな事実だと信じ、ドイツ許すまじ、と義憤に駆られた。ベルギー大虐殺プロパガンダは大成功を収めた。

日本向けに書かれた『是でも武士か』にも、大砲にベルギー人を縛り付けて砲弾を発射する拷問の例がいくつか登場する。
たとえばこういう記述。
「カレニョン及びブルージュでは、砲兵が住民たちをその巨大な攻城砲に縛り付け、離れたところから電気発火で発射した。これらの不幸な住民たちはその爆音で鼓膜を破られ、大変な苦痛を受けた」
「ある司祭は、その教会の婦人たちの面前で裸で大砲に縛り付けられ、その状態で砲弾が発射された」

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#是でも武士か
ベルギー大虐殺プロパガンダでは、大衆の心理を揺さぶるために、女、子供、聖職者が残酷に殺害、陵辱にされたという情報が多用された。
引用元も引用先も元は連合国側の機関が作成した文書であることが多い。
英国戦争宣伝局のチームで文書を作成しているのは、H・G・ウェルズやコナン・ドイルなどの作家たち。
そして新聞社の社主たちもそのチームの一員であり、大手新聞がプロパガンダを流し続けた。効果はてきめんで、国民は、ベルギーを救え、ドイツを打倒せよ、と戦争に全面協力し、青年たちは続々陸軍に志願した。

『是でも武士か』にはベルギーや英国の調査委員会の報告書からの抜粋があるので、以下に引用する。これらの話が事実だと確信した人々の精神は、激烈な反応を示すだろう。

「アールスホットでは、司祭は両手を高く上げて壁の前に立たされた。疲れて手が少しでも下がると、独兵は司祭の足を銃床で強打した。司祭はこの状態で数時間立たされたが、その前を通る独兵はこの司祭の身体を便所と見なし、頻りに小便をかけた。小便まみれになった司祭は、結局独兵に射殺されてしまった」

「八月三十日、ドイツ軽騎兵の斥候隊は七十四歳の老婦人カトリーヌ・ヴァン・ケルチョーヴに発砲、すぐに死なないように、できるだけ多く射撃を加えて楽しんだ」

「八月二十六日、ドイツ予備歩兵第四十八連隊はエレヴェイトを占領した。同地の少女のほとんどは、その両親らの面前で強姦された」

「ベイゲムでは、クメル中尉が指揮する兵士たちが妙齢の一婦人を牧師館に連行した。妹と司祭の面前という最悪の状況下で、その婦人を陵辱するためであった」

「戦争が始まって間もない頃、仏軍が最初に到着した国境近くの村で、五十体の婦人の死体が発見された。死体は裸の状態で、農舎の長い壁に縛られていた。独兵はこの婦人たちを足の方から徐々に上の方を射撃し、遂に死に至らしめたのである」

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『是でも武士か』は、残虐宣伝はこうすべしという見本のようなもので、そのプロパガンダの質は、その後の南京大虐殺や慰安婦強制連行のプロパガンダと比較すると格段に高い。非常に入念に作られており、第二次世界大戦中の日本の海外宣伝部が「残虐宣伝の不朽の名著」として教科書としたのもうなずける。事前にプロパガンダだと聞かされて読んでも、ドイツ人の野蛮さ、英国人の崇高さが脳に染み込んでしまう。徳川慶喜の孫、池田徳眞の「この一冊の本で、私のドイツ人観は一生歪められてしまった」という言葉は頷けるものである。
本書は、読者を信用させるためのプロパガンダの基本に基づいて構成されているが、大正天皇の英国国王宛御親電や、ベルギー国王所有の日本刀など、日本人を信用させるための仕掛けもあちこちに見られる。日本人を相当研究していることがわかる。
原書を翻訳した民俗学者柳田國男(著者と懇意)が、日本人でないと知らないような情報を提供したのではないか、とも言われている。

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Apr 12
米軍の日本兵に対する残虐行為について、リンドバーグの証言が『正論』に掲載され、同様の体験をした方々から投書が寄せられています。

正論2000年6月号
☆編集者へ=多治見市の鈴木 勝さん(元会社役員・79歳)から。

 五月号所載「リンドバーグの衝撃証言」を読み、ビアク島の戦闘で米軍捕虜となった私の体験から、米軍の残虐非道な行為について、偽らざる真実を申し述べてみたい。

 ビアク島へ米軍が来攻したのは昭和十九年五月二十七日で、当時は海軍記念日と称していた。

 軍はビアク島の重要性に鑑み、同島守備の基幹・歩二二二連隊増援のため、在マノクワリの歩二二一連隊とヌンホル島守備の歩二一九連隊から各一ケ大隊を抽出してビアク島に派遣した。その輸送を担任したのが、私の所属した第五揚陸隊であった。

 六月二十一日、歩二一九連隊の決死隊員約一五〇余名が三隻の大発に分乗してヌンホル島を出発しビアク島へ向かったが、艇隊は上陸予定地の沖合約四キロの海上にて米軍魚雷艇の奇襲攻撃を受け全滅した。私の乗艇は後部機関室に被弾炎上し数分で沈没したが、轟沈した僚艇の搭乗員を併せ数十名の兵が海上を漂流していた。

 この無抵抗状態の日本兵に対し鬼畜のような攻撃が米軍魚雷艇から浴びせられた。それは機関銃等による一斉掃射ではなく、拳銃等による狙い撃ちである。米兵は甲板上に鈴なりになり、あたかも射的ゲームでも楽しむかのように、替わる替わるで撃ってくる。そして日本兵に命中するたびに一斉に喚声をあげる。短波放送のスピーカーからは、ボリュームを一杯に上げてジャズの音楽が流されるお祭り騒ぎであった。私はうちあげられた照明弾により明々と照らし出された地獄図を、消えかかる意識のなかで半ば放心状態で眺めていた。この信じ難い情景は私の筆力では到底表現できなく、更にこの事実を証言する者がいない。何故ならば捕虜になった私以外に生存者がいないからである。

 捕らえられフィンシュハーフェンの野戦病院へ空輸された私は、ここで手厚い看護を受けた。この余りにも大きな矛盾を日系二世の通訳に問い質したところ、彼は少し考えて「それは君がラッキーボーイだから……」と答えるのみであった。数日後、一人の将校が一枚の写真を持ってきて無言で置いていった。それは日本の将校が日本刀をふりかぶり、その前には穴が掘られ、目隠しをされ、後ろ手に縛られた米軍兵士が、今まさに斬られようとしている写真であった。米軍はこんな写真により、日本兵に対する反抗心をあおったのであろう。目には目を、残虐には残虐をもってする風潮が第一線の米兵にあったようだ。

 リンドバーグの日記には「負傷兵であろうと手を上げようと、みな射殺してしまう。それが残虐な日本兵にたいする報復だとし、自らの残虐行為を正当化した」と非難している。

 オウイ島から遠望した勇敢な日本兵と西洞窟の余りにも無残な日本兵の末路とを思い合わせ反戦主義者の彼には、第一線米兵の非人道的行為のみが目に映ったのであろう。

☆編集者から=戦争の悲惨さが情景となって目に浮かんできます。人間の残虐性にはリツゼンとせざるを得ません。
正論2000年6月号
☆編集者へ=甲府市の吉田三郎さん(81歳)から。

 五月号、藤岡信勝先生の「あのリンドバーグ日記が語る……」を読んで、既に六十数年前、戦闘中戦友から聞いた非人道極りない捕虜虐殺の話は真實だったのかと、思い新たなものがあった。

 昭和十七年の末、第十七軍通信隊補充兵の我々がラバウルに到着時には、第十七軍本隊(司令官百武晴吉中将)と軍通隊本部は、数カ月前に上陸した一木支隊や、飛行場建設部隊(軍属を含む)はソロモン、ガダルカナル島に在って瘴れい極限の地に加えて兵站不備のため戦闘能力を失い、本部は後退して、ブーゲンビル島ブイン近くのエレベンタに仮営しており、十八年三月、我々は援助に向かった。山本五十六司令長官の搭乗機が我々の頭上で撃墜された頃で「ガ」島から引き揚げてきた戦友が語った話はこうだ。

「日本軍が椰子林を伐開整地した未完成の滑走路へ友軍の捕虜数百人が引き出され、機関銃の一斉掃射でなぎ倒され、未だ半死状態の者までが、ブルドーザー数台で土石のなかへふみ潰された。自分は倒木の陰に身を隠しながら現實の地獄を見てしまった」と語ったのを聞きショックだった(この戦友は栄養失調とマラリアで半月程して戦病死した)。

 この話のことは、復員して五十数年思い出すこともなく過ぎ去ってしまった。

 今は飛行場も滑走路も近代化されていると思うが、所用や観光などで航空機を利用する時は、この下に無念の同胞が眠っていることを知っていてほしいものである。
正論2000年6月号
☆編集者へ=台北市の谷川浩三さん(元商社台北支店長・68歳)から。

「昭和十九年、ペリリュー島戦の末期、米軍に追い詰められた我が兵の一人が、海に飛び込み沖に向かって泳ぎ始めた。

 たまたま付近に居た米軍小型上陸用舟艇数隻が忽ち輪形陣をつくり、その日本兵をとり囲み、各舟艇から米兵達が、まるで射的場で標的を狙うかの如くその兵に向かって各自が笑いながら銃弾を浴びせ始めたのである。

 しばらくは浮きつ沈みつしながらも泳ぎ続けていたその兵はやがて弾丸が命中したのか波間に沈み再び浮き上がっては来なかったのである。

 降伏を知らぬ我が兵がどうしてあの状況下で、両手を挙げて降伏の意思表示が出来たであろうか? よしんば挙げ得たとしても米兵達は面白がって射撃を止めなかったに違いない」

 これは小生が学生の頃一般の劇場で見た映画の前にやるアメリカのニュース映画の一場面である。

 その時は、「何と残酷な、これが正義を重んずる米軍(と当時は思わされていた)のやる事か!」と我が兵に対する同情と共に米兵に対する怒りがこみ上げて来てその夜はよく眠れなかった位であった。

 今回本誌五月号で「リンドバーグ日記」の記事を見て、最初は信じられぬ思いであったが、かのニュース映画の場面が脳裡によみがえり、すべては事実に違いないと確信するに至ったのである。

 戦後日本軍の残虐行為のみが取り上げられ無実の罪も含めて2000人に近いBC級戦犯の尊い命が奪われ今また、カリフォルニア州の事後法により捕虜虐待に対する補償の動きが活発になりつつある。

 今さら半世紀前の米軍側の残虐行為を裁くことは不可能である。しかし我が国としてはこの「リンドバーグ日記」や前記のニュース映画等あらゆる米軍側の残虐行為の資料を獲収し敗戦国側にのみ負わされている戦争犯罪の追及が如何に理不尽なものかを世界に訴へ、賛同を得る努力をしなければ悔いを後世にまで残すことを自覚せねばならぬとつくづく思った次第である。
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Apr 8
この写真は見たことがあったが、ほんとに担いでいるので驚愕する。

庄内の今板額
米俵の三俵や四俵背負えぬような庄内娘なら、それじゃショーナイと嫁にも行けない。
米倉をのぞくとアネサマ冠りの乙女らがならんで鼻唄気分で、枕でも投げるように米俵をリレーしている。
三俵四俵は当たり前で一俵なら駈歩で走れる。
兵藤みやえさん(二十三年)、佐藤さきさん(二十三年)の二人は五俵、つまり八十貫(300kg)までなら自信があるという。どこからそんな豪い力がでるのか聞いてみたら「コツでがんす」ときた。

朝日新聞編『東西対抗カメラ問答』Image
この石、何キロぐらいあるのか。 比重2.5、一辺30cmとすると68キロ、一辺35cmだと107キロ。私には不可能なのは確か。

“石の帽子”
かの女らは面白半分に石を被っているのではない、石は飯の種だ、伊豆七島の一つ新島の旧噴火口は人間に石を提供してくれる、山は崩れ落ちそうな石の累積だ、学名を石英粗面岩、俗名を抗火石、村人はがりがり鋸を挽いて四角くやっこにしておまけに鉋にかけて絹ごしのようにして東京に売り出す。その重石を頭にのせた女の行列が天神さまのように首を硬直させてぞろぞろ険しい山をおりて来た。Image
女の人が頭の上のたらいに子供を3人ぐらい乗せて運ぶ写真を見たことがあったが、トリック写真ではないかという声もあった。ほんとうに乗せている。

大帽子の珍行進(淡路島)
ごらんの通り第一陣は一貫目前後の西瓜十個(38kg)を入れたシルクハット型、第二陣は“たらいの帽子”に三人で十五、六貫(58kg前後)もある子供をのせて悠々──第三陣は選手二人で四十貫(150kg)、ピンと跳ねる巨材、第四陣の少女選手もざっと四、五貫(17kg前後)の荷を軽々と戴いてまかりでた、淡路の灘、東灘、阿萬の三カ所では小学校五年生の女児が五貫目(19kg)の荷をはこび、年ごろとなれば十五貫(56kg)から三十貫の頭運びはお茶の子で、四里の石ころ道を鼻唄まじりに往復する、灘の部落は人口千三百のうち女の数がぐっと多い女護ヶ島で、道路工事に出てもこの異常な運搬力の前に男性一同頭が上らず、賃銀は男の倍額を稼ぎおのころ島の昔から女権もの凄く台頭させている土地柄です。Image
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