和中 光次(わなか みつじ) Profile picture
Jul 12, 2023 8 tweets 1 min read Read on X
『廃兵はいやだ─祖国に叫ぶ傷痍軍人』
元祭兵団陸軍少尉 坂東公次 著
「敗戦の中での身体障害兵士、これほどみじめなものはなかった。これらの引揚者は帰国後も苦闘の生活を強いられた。戦時中の白衣の兵士という栄光からも落ち、市井の片隅にひっそりと生きる傷痍軍人達の手記」 Image
「脚を失っても手はあるぞ!この手で日本工業技術のお役に立てるぞ」と更生の意気に燃え時計検査に励む傷痍軍人

「友よ我々は必ず祖国の復興に立上がるぞ」と誓い、毎月三回靖国神社の戦友に祈る傷痍軍人

更生基金で白衣の身を巷に曝す世間の目は冷い…だが尊い寄謝によってすでに三千人の廃兵が更生の喜びに生きているImage
戦友の霊に詣でてしばしその昔をしのぶ三人の傷痍軍人

満身二十六個所の傷痍も癒え今は立派な技工として更生した喜びの傷痍軍人

「さあ、坊や、お父さんはこれからやるぞ! お父さんはこんなに力があるんだよ」と明日への希望をふくらませる喜びの一家 Image
著者は、就職したくても仕事がない、商売するにも金がない、そんなとき二人の傷痍軍人が善意で募金に誘ってくれた。彼らは募金を始めた動機をこう話した。「病院から退院して実社会に出て見たものの、就職すると云っても、手がない足がないと云うことのために誰一人として相手にしてくれない。子供達は子供達で『おい、ビッコが通るぞ』と指さしながら、その真似をしてついてくる…何度人生の無情に泣いたか知れなかった。然し、妻や子供の事を考えると死ぬわけにゆかず、さりとて喰うための仕事もなく困った。そのあげく、泥棒するよりはましだと云うのでこの募金を始めたのです」
著者を誘った傷痍軍人の二人は、米軍の占領政策のことも話している。「そりゃね、白衣の募金と云えば社会から随分と非難がありますよ。然しね、今のこの社会で我々が生きる途と云ったらそれだけしかないじゃないありませんか……誰だって好んでやりたい事じゃないですよ。しかし、時期を得るまでは仕方がないのです」「アメリカは占領命令を出して、傷痍軍人の面倒を見てはならないと云っておきながら、自分の国の傷痍軍人に対しては至れり尽くせりの保護を与えているのですからね…私に言わしむればですね、アメリカという国は口を開けばすぐに人道主義だとか人種の差別的待遇撤廃とか宣伝していますが、一体そんなことを今迄に実行したことがありますか、と云いたいんです。勝った国の傷痍軍人と、負けた国の傷痍軍人に、これほど露骨に差別待遇をするのですからね。理由はとにかく、祖国の戦いで傷ついたことは同じじゃないですか…我々はこういうアメリカの下では絶対に生きられないわけですよ」
著者は最初の募金体験をこう書いている。「白衣の持合せもない私に二人は汚れた白衣を貸してくれた。場所は東京の盛り場である池袋だった。さて、愈々となると『更生資金募集』と書いた箱の前に立つ事だけでも、相当の勇気が要ることだった。私はその前に立つには立ったものの、通行人の顔を眺められないほど恥ずかしかった。況んや『ご通行中の皆さん!』などと呼びかけられるわけがない。二人の仲間はその私を幾度も励まし、盛んに声を張り上げて通行人に、あれこれと呼びかける。実に堂々たる名セリフ?である。こうなると募金も一人前だと思った。私はこの仲間の傍らで、幾度励まされ注意されても首をうなだれるだけで、どうしても顔が上げられなかった。それでも、金を投げてくれる度に微かな声で『有難う御座います』と、やっと礼を言えるようになったのは五時間も経ってからの事だった」
著者は列車の中での募金にも誘われる。列車内での募金活動は禁止であるが、割がよい。そして著者は見張り役となる。著者はあまりの緊張感と違法行為に対する精神的負担からこの仕事を辞める。次に始めたのがバタ屋だった。「来る日も来る日も大きな破れ籠を背負って住宅街のゴミ箱をあさっていたのである。今の私にとって職もなく、資本金もない……その上誰の世話にもならないで自立の途を拓き歩もうとすれば、どうしてもこの道を進むより他に方法がなかった。私の過去を知る人は笑うかも知れなかった。然し、例えどのように笑われてもいい。私自身がその人生のどん底の中から雄々しく立上ろうとする意欲に燃え、一つの正しい職業を遂行したいという固い決心だった」

「私の過去」と書いているが、著者の坂東少尉はインパール作戦で負傷後送されたが、ビルマ戦線危うしと知り治療途中で進んで前線に戻り再度重傷を負った勇士であった。
「廃兵」と書きましたが、書名は正しくは『癈兵はいやだ』でした。「癈」の意味は「不治の病。治らない病気。病気や怪我による重い障害。また、そのせいで自由に動けないこと」

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May 25
80年前の今日、昭和20年5月25日の空襲体験記。複数のツイートに分けます。『東京大空襲・戦災誌』第2巻より

自転車で逃げて

渋谷区原宿二丁目 国鉄職員 二四歳 金山 操

■いよいよ来た
明治神宮表参道。この参道の、現在原宿二丁目商店会入口、という看板の掛かっている横路を入り、突き当たって右に折れた所に私達の住み家があった。平家建て、四畳半二間、六畳、八畳各一間と、お勝手である。

ここに住んでいたのが、中里、寺門、中村、奥田、それに金山と五人揃って国鉄の機関士で年齢も二十四、五歳と元気いっぱいの若者達だった。この男ども五人、石油カンのカマドを使い当番で炊事をして、じつに仲が良く、毎日の空襲で、帝都は日を追って焼け野原になって行くが、そんな深刻さなど吹き飛ばすほどの朗らかさであった。

二〇年五月二五日、二二時に近かったろうか。無気味なサイレンの音によって、今夜もまた警戒警報が発令された。続いてラジオが「南方洋上の数梯団、本土に接近しつつあり」と告げる。もう燃える所が無くなったはずだから、いよいよ今夜はこの原宿かなと、いやな予感がする。敵機が到達するまでにはまだ時間がある。「さあ準備だ」蒲団を梱包していつでも運び出せるようにする。手回り品と食糧をまとめてリュックに入れる。鉄道の制服の上に外套を着て、機関士の命――袖時計をしっかりズボンに取り付ける。次に鉄カブトを背負い、ゲートルを巻いて、バケツに水を入れれば準備完了だ。いつもは五人のうち三人はいるのだが今夜は、私と中村さんの二人だ。五人が生活のこの砦を二人で守らねばならない。二個しかない防毒マスクを肩に掛け紐で縛る。この頃になって空襲警報が発令された。

いよいよ来た!! サーチライトの光芒が空に向かって回転し出した。B29はその編隊をサーチライトに照らされながら今までに無い低空で、ぐんぐん接近して来る。昼間の空襲や夜間でも一機ぐらいの時は、遥か雲の上を飛ぶので、直接自分の上に来ないうちは、恐いという実感は湧かないが、今夜はやられるな……、と身の引き締まるのを感ずる。夜目にもピーンと張った銀色の翼。焼夷弾をいっぱい抱えているであろう胴体をきらきらさせながら、美しい……とさえ見える飛行態形である。パッパッと閃光がして、高射砲がいっせいに鳴り出した。一〇機二〇機、また一〇機と続く。来る来る……、いくらでも来る。自分達からは南七〇度の方向であるが、後から後から、まるで機数を数えでもするように、サーチライトがせわしく回転している。

いよいよ爆撃開始か。パラパラッと火の弾の落下するのが見える。焼夷弾だ。どこだろう、目黒あたりか? 真赤な流れ星のように炎が走ったと見る間に、パーッと燃え上がる。投下された焼夷弾が光ったと思うと、それが途中で三〇倍、五〇倍にも広がり、線香花火のようになって落ちて行き、その下が真赤に染まる。街は見る見る火の柱に包まれていく。瞬間あの火の下にいる人達の姿を思い「頑張れよ」と祈る。爆発の音。高射砲の音。飛行機の爆音。空は轟々と鳴り出したが、私達の真上にはまだ来ない。火の手も遠い。しかしその火柱は私達を取り囲むようにして、立ち並んで行く。明らかに一機一機の爆撃目標に、違いがあるようだ。

今のうちに、この囲みから逃げ出さないと「危ないぞ」と思ったが、口には出せなかった。空襲に際しては、老人、子供を除き、男女の別なく全力をあげて消火に従事し、いやしくも逃げ出すなどは、非国民の最たるものときめつけられ、また自分たちもそう思っていたから、たとえ親友でもまさか「いまから逃げよう」などとは言い出せない。Image
■もう逃げよう
「あっ月光だ。見ろ夜間戦闘機だ」突然中村さんが大声を上げて、空の一角を指差した。見ると爆撃を終わって、私達の斜め上を帰途に着く敵機の胴体に、パッパッパッと、赤い曳光弾が吸い込まれて行く。
暗い中空から撃ち出され一発の無駄もない正確さは、色彩の美しさにによって、絵のように見える。執拗に吸い込まれていた胴体からしばらくして、ぼおーと炎が見え、しだいに大きくなっていく。
「あっあそこにもいる」「またやったあー」見上げる回りの人達も思わず歓声を上げる。いるいる――数えきれないほどいる。B29の巨体に向かって、縦横無尽に曳光弾が飛んでいる。話に聞いた日本の誇る夜間戦闘機とはこれか?  それにしても、こんなに激しく反撃する日本機を見たのも初めてだ。

突然ババーンと、爆発する音。唸る爆音。砂を掃くような無気味な音に、はっと後ろを振り返ると、真赤な火の塊が空いっぱいになって落ちて来る。「焼夷弾だ!!  危ないっ」と思わず電柱の陰に身をかくす。パーンと音がして、五、六軒先の二階が明るくなった。何百もの空罐の転がるような音。空一面に、いつどこから来たのかB29の大群が悪魔のように飛び回っている。私は、バケツを持ってその二階に駆け上がった。八畳間いっぱいに炎が広がっている。もう一個べったりゴムのように畳に粘り着いた焼夷弾が火を吹いている。バケツ一杯いくらいの水で消せるものではない。「ポンプだあ」私は大声を出しながら部屋を飛び出したが、二階にいたことを忘れたので、階段を真逆さまに転げ落ちた。どこかをしたたか打ったが痛がってはおれない。

「中村さん、ポンプだあ」軒下に飛び出すとすでに四、五人の人達が手押しポンプに取りついている。道路の端にあったホースの筒先を持って、また二階に駆け上がったが、もう火の海で、二階にはおれない。家の中は三発くらいの直撃弾によって、完全に火に埋まり、もう消火など無駄だったかも知れない。それでも私は一階から天井板や、焼夷弾に、水を注いだ。落下音がするたびに、柱の陰にへばり着き、身体が炎で熱くなると、ホースの筒先を自分に向けて、身体を濡らしては、水を撒き散らした。火は部屋いっぱいに広がり、庇(ひさし)からどっと外に溢れて行く。急に水勢が弱まった。中村さんが駆け込んで来た。

「金山君駄目だ。もうみんないなくなった。早く逃げよう」ホースを放り出し慌てて飛び出す。どの家も炎に包まれてるようだ。焼け落ちそうな家もある。今までポンプをこいでいた人達も、自分の家から蒲団を出したり、バケツで水を掛けている。空は全くの火の雨で、無気味な落下音とともに、真赤になって降っている。風も吹き出ししだいに強くなる。急げっと、自分達の家に駆け込んでみた。奇跡的にもまだ火の手が上がっていない。
「中村さん今のうちだ。早く米を埋めよう」「よしっ」と二人は中庭の隅に掘っておいた穴に、米と大豆と罐詰を大急ぎで埋めた。
「次は蒲団だ」二人分を運び出して、自転車の傍に置く。ガラガラッど百雷がひと所に集まったような音がして、親弾から子弾がはじけている。

爆発音、落下音、家々の燃える音。これに風が加わって煙で見えなくなった街々を揺り動かす。もう夢の中にいるようだ。奥の八畳からめらめらと炎が上がった。屋根を突き破った焼夷弾がいよいよ我が家をも焼き始めたのだ。バケツを持って、飛び込もうとした。突然耳もとで大地をつんざくような音がしたと思うと、真白な閃光が走り物凄い風にあおられた。「危ないっ、伏せろっ」二人同時に叫び、転がるように足もとの下水溝に身体を投げ捨てた。「わっ」と叫ぶ声が聞こえた。猛烈な集中弾が回りを取囲む。直撃弾を受けたのか、誰かが「助けてくれーっ」と叫んでいる。情けないことに、その方に首を回すことすらできない。痛くなるほど溝に顔を押しつけたきりだ。薄情なんてものではない。ざーざーと落下してくる音。目から耳から意識が遠のいていくようだ。喉がからからに乾いてくる。背中から汗がぐっしょり流れるのがわかる。

「駄目かな」ちらっと、諦めに似たものが心をよぎる。二メートルほど先の焼夷弾から炎が生ゴムのように吹き出しているのが、別世界の物のように感じられる。「くそっ、死んでたまるかっ」むらむらとロ惜しさが込みあげてきて、「死ぬんじゃないぞ」と、自分を叱りつける。夢の中の闘いのようなどうにもならない時間が過ぎて、ふっと、落下音が消えた。耳をすます。音がしない。気のせいではない。爆撃が途絶えたらしい。

「今だ急げー」自転車に二人の蒲団を積んで、私は後ろから押す。少しでも広い所へと神宮参道に向かった。急ぎながら回りを見たが誰も蒲団など持って逃げてる者はいない。狂ったように、バケツを持って走り回っている男達もいる。一瞬「逃げる」という自分達にうしろ暗さを感ずる。はたして、最初の角を曲がって急ぎ足に通り過ぎる私達に、「なんだお前ら逃げるのかっ」と罵声が飛んで、三、四人の男達がいっせいに歩み寄って来た。「走れっ」と二人は自転車を押して丸くなって走り出す。「こらっ」と後ろに足音がしたと思うと、バシャッとバケツの水が頭から二人を、ずぶ濡れにした。

「野郎っ」と怒りがこみ上げてきた。しかし振り向くわけにはいかない。「ふんあいつら、いまに焼け死ぬくせに」とさっきは、あんなに悪いと思ったのに、水を掛けられたら少しも悪いと思わなくなったから不思議だ。気分的に、さばさばしてきた。大通りまで、一五〇メートルぐらいか。煙はいちだんと濃くなり風にあおられて、板やトタンが舞っている。安全と思った参道の方が風も強く火の粉も道いっぱいに巻き上げ、並木の下に煙が渦巻いている。人の数も多い。やはり消火に見切りをつけて、集まって来ているようだ。風の音に混じって爆発の音が聞こえる。再び爆撃開始だ。通りには出たものの動きがとれない。なんとか安全な方向に逃げなければと思うが、どうしたら良いかわからない。自転車の向きを変えたがごうごうと吹き上げてくる熱風に神宮の方を見ると、坂下辺りは、炎が竜巻のように巻き昇っている。その先も火の粉が舞っているようだ。

「駄目だ。あれでは神宮まで行けない。見ろ、みんな下から逃げてくる」傍を通り過ぎる女の人に、「下は駄目か」と聞くと、「無理に行った人は、火に巻かれてしまった」と投げ捨てるように言い、すたすたと青山の方に行ってしまう。途方にくれた人達が群れを頼って集まって来た。誰かが「それでは青山墓地だ。それしか逃げ場はない」と言うと「青山墓地だ」とぞろぞろ歩き出した。自信はないが私達も群れに入って歩き出した。いったん群れに入って歩き出すと、人の心は不思議なものだ。遅れまい、遅れまいと、せかせかと歩いて行く。もう空を見上げる余裕もなく、お互いに、頼りにならないお互いを頼って、その後ろ姿を追って行く。
■猛火の中で
神宮前十字路にさしかかったとき、辺りが直射日光のようにきらめいたと感じた瞬間、焼夷弾の雨が驟雨のように地面を叩き、炎の飛沫を上げた。
「危ないっ」と電柱の陰に飛びつく。一本の電柱に四人もへばりつく。ばりーと裂けるような音、道路を埋める異臭と煙。何百本もの火柱が一時に立ったように、辺り一面真白に見える。身体の中から全部の空気が抜けて、身体がしぼんで行くようだ。
顔を叩く熱風に、はっと正気に戻って辺りを見回すと、倒れたまま起き上がらない人がいる。しかしこの人達に声を掛けることも助け起こすこともできない。自分で自分の身がどうにもならないのだ。

人びとは落下音、爆発音のたびに、地に伏したり、電柱にへばりついたり、あるいは他人の陰で我が身を守ったり……、それでもまだ幾らかの荷物を持って、またはリヤカーを引いたりして墓地へ、墓地へと急いでいる。青山墓地に逃げ込めば助かると思っているからだ。私達も自転車に積んだ蒲団を押している。身を伏せるときは放り出すが、起き上がると、また二人で押して行く。亡くなった人の行く墓地へ、生きた人間が生きるために逃げて行くなんで、こんな皮肉なことがあるだろうか。それもいつの間にやら道路いっぱいになって……。歩いている道の両側は、すっかり炎に包まれてしまったが、人びとはそれに感情を表わす様子もなく、倒れている人のわきさえ知らぬげに、通り過ぎて行く。

炎と煙と熱風を掻き分けてどのくらい歩いただろうか。せいぜい五分くらいだったと思う。突然群れの前進が止まった。そしてしばらくするとこちらに向かって戻って来る。驚いた周りの人びとはこの戻って来る人達を、なんとか塞き止めでもするようにして叫んだ。群れの誰かが怒鳴った。「青山墓地は火の海だあ」絶望の歩み。どうすればいいんだ。人の群れに押され、火に追い立てられて青山墓地から引き返して来た人びと。参道を渋谷橋の方から逃げ登って来た人達と、十字路付近で正面衝突して行き場を失い、渦を巻くようにして、地下鉄神宮前付近に集まって行く。渦は回るたびに厚く人の層を作って行く。誰もここが安全とは思ってはいない。焼夷弾は爆弾も混じっているような爆発音を上げるし、風速は三〇メートルに近く、猛り狂う火は、燃えるものは焼き尽くし、燃えないものは、天空に跳ねながら、じわじわと十字路付近を断末魔の様相に変えて行く。目に映るものすべてが音のする白い空間に見えてくる。あせるほど人の群れに巻き込まれて行く。ぐるぐる回っている人達は、もう一〇〇人は超えている。みんな必死になってもがいている。群れを頼って集まり、そしてこんどはこの群れからなんとか逃げ出そうとして……、しかし心は群れに、群れにと身体を引張って行く。

この参道は、幅三〇メートルの余裕たっぷりの近代道路である。神宮に向かって右側には、今もある同潤会アパートが当時は高級アパートとして、その大きさを誇っていた。また左側は石垣造りの上に、これまた大邸宅が並んで一般平民を睥睨(へいげい)していた。さらに、神宮前十字路から神宮の方に約一〇〇メートルほど入ると、これから渋谷川付近まで相当の下り坂になっている。そのためこの沿道の住宅街にいったん火が付けば、両側の高い建物が坂下から風を誘って、ちょうどトンネルの役目をして火勢を強め、その炎がさらに両側の炎を誘って、道いっぱいに広がり、物凄い勢いで駆け上がってくる。このため、この通りから神宮境内に逃げ込まんとした人びとの進路を、全く塞いでしまった。それでもこれをなんとか突破しようとした人達もあったが、そのほとんどは猛火の前にうずくまり、やがてその姿が見えなくなった。みんな私達の見ている前で……。
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Feb 5
『世紀の遺書』には水口安俊軍医少尉の日記と遺書が収録されている。上坂冬子編『巣鴨・戦犯絞首刑―ある戦犯の獄中手記』は、水口軍医少尉の日記が一冊の本になったものであるが、そこには『世紀の遺書』にはなかった水口少尉の妻の話がたくさん出てくる。水口夫妻は昭和20年4月に結婚、8月に朝鮮から命からがら引き揚げ、12月に少尉は戦犯として逮捕された。日記の中で妻のことが書かれた部分を以下にツイートします。

#世紀の遺書Image
昭和21年1月8日(火)三食毎に美味しいコーヒー、紅茶がつくのだが、人一倍興奮性の強い小生は夜眠られぬ事を心配して、夕食時のこの飲物を割愛せねばならないのは惜しい気がする。この香りの良い甘味の適当に利いた一杯を雪子にのませてやりたい、まことに残念である。…雪子への便りの末尾に愚策の句を書いてみた。何と解釈するだろうか。…
昭和21年1月14日(月)昨日、安全カミソリ、ナイフ、針、鏡を散歩している間に発見されて取り上げられたので、今後不自由をするかも知れない。針はあると随分重宝するのだけれど。鏡は、雪子が私に京城駅で、私が群山方面に出張する際、手渡してくれた時以来、大切に持っていた小綺麗なもので、いわば雪子の片身とでもいった品なのだが、遂に巣鴨でそれとはぐれてしまった。
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Dec 21, 2024
出撃の日、昭和20年5月18日、地元知覧の人達に見送られ、トラック上で答礼する第五十三振武隊隊員たち。 Image
第五十三振武隊 天誅隊、出撃30分前、朝日新聞富重安雄氏撮影。隊長近間満男少尉、小笠五夫少尉、三島芳郎少尉、梅野芳郎伍長、土器手茂生伍長、星忠治伍長、丸山好男伍長、山崎忠伍長。このとき富重氏は、隊員(左から2人目)から「御両親様 昭和二十年五月十八日十九時二十分頃 沖縄島周辺にて戦死す。十四時三十分出発前書す」と紙切れに走り書きされた「遺書」を託されたという。Image
第五十三振武隊隊員、出撃20分前、最後の食事。 Image
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Dec 21, 2024
巣鴨プリズンで処刑が行われた後の清掃作業は、収監中の日本人がやらされていた。悲憤の涙にくれながら作業したという話がたくさん残されている。『…戦後、私の小学校の同級生が戦争犯罪人として巣鴨拘置所に居たことがある。今は若者であふれているサンシャインのあたりが、金網に囲まれた巣鴨拘置所であった。銃を持ってサングラスをかけたMPの監視の下での面会ではそんな話は出来なかったが、その友人が出所後話してくれた言葉は今も忘れることが出来ない。拘置所の中でも色々な使役があって、それぞれに出来る作業が課せられるが、ある時処刑場の清掃にかり出されたときのことだ。その前夜処刑された人の死体こそないが、血糊のべったり着いた目隠し用の袋等が散乱していたりして、「昨日まで一緒だったあの人がと思うと、胸が張り裂けるような気持になって涙がボロボロと出て止まらなかった。自分達の獄舎に帰る時は、みんな下を向いて蟻を踏まないように歩くんだよ。蟻一匹でも命あるものを殺すことが出来ないんだよ」と話してくれたことを想い出す…』

西大由「いのち」『インセクタリゥム』1997年9月号

#世紀の遺書Image
『占領軍は、数多くの日本人を巣鴨拘置所の内で、ロープにかけて絞首刑にしていた。刑場は拘置所の一隅の赤煉瓦の囲いの内にあった。斎藤は未決当時から、通訳として所内の掃除などに引っ張りだされていたので、刑場の内にも四、五回入った。最初、見たときの恐怖は、いまも忘れられない。…処刑の様子を想像するだけで、心臓がドキドキし、目につくすべてが呪わしく、また腹立たしく、掃除もそこそこに引き揚げた。
…それから二年ほどして、また刑場の掃除に引っ張りだされたが、内部はすっかり変わっていた。…米兵がスイッチを入れると、真新しい舞台のような刑場が、強いライトの下に照らしだされた。幅四、五メートルの木造の十三階段が、すぐ目の前にあった。それを昇ると、板張りの広い床があった。床の突き当たりのコンクリート壁のところに、腕木が四本ほど並んで突き出ていた。首に巻いたロープで腕木に吊られる仕掛とわかった。
それぞれの腕木には、それに吊られて殺されたA級七人の姓が、ローマ字で荒々しく書きつけてあった。ボールペンや万年筆で書かれた文字からは、血に飢えた悪党どもの嘲笑が聞こえるようだった。
幸い周囲に血痕は認められず、惨劇の名残りを見ないですんだが、絞首の情況や、ロープに吊られた肉体の動きが目に見えるようで、息づまる思いだった。
あの処刑の二十三年十二月二十三日の夜半には、ドラム缶をハンマーで叩きつけたような激しい音が拘置所内に響き渡り、第二棟の一室に寝ていた斎藤も目をさまし、さては処刑かと気づいて、冷たい布団の中で切ない思いを耐えていなければならなかった。
あのときの激しい音は、ここの踏み板がバネで一挙に引き落とされ、コンクリートの壁を打った衝撃音とわかった。』

中山喜代平『茨の冠』Image
『…絞首台の掃除人員に指摘されるとまったくいやな思いをしなければならなかった。「使役五名を出せ」と言ってくる。労務係は表を見て五名を選び出す。ジェイラーの「レッツゴー」の号令で通訳も同行するのだ。…十三号の扉が見えてくる。…各自の顔から笑いが消えて、血の気が引いていく。
「とまれ」
ことここにいたったらもう仕方がない。しかしみんなの顔に一抹の不安の色と同時に、好奇の色が浮かんでくるのも事実である。
…絞首台のハネ板をふきながらその構造をのみこむ。あのハンドルを引くとこのハネ板を留めているバネがはずれる。するとハネ板はバターンとチョウツガイのはめてある部分で垂直にさがるのだ。すると、今迄その上に立っていた人間は、宙ブラリンと吊り下げられる。そんなことを考えて清掃している。ハネ板の下の空間が底なしの深淵のように見えてくる。
…ある男がこんなことを言った。
「チェッ、おれが絞首刑になるかもしれないことを知っていながら、絞首台掃除につれだすなんて、ひどいやつだッ」
そして彼は、彼がかつてふき清めた絞首台のハネ板の上に平然と立って、それから消え去った。第三者には平然とした態度に見えても、本人の胸中にはあらゆる感慨が怒濤の渦を巻き起こしていたにちがいない…』

吉浦亀雄『黄色い部屋 : スガモ・プリズンの通訳医者』

#世紀の遺書Image
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Dec 19, 2024
東池袋中央公園の戦争裁判の碑がある一角を作図してGoogleマップの航空写真と重ね合わせた。 Image
処刑台があった位置を特定するために、以前goo地図と昭和22年の航空写真と切り換えられるサービス(現在終了)を利用した。しかし、その地図の碑のある四角い部分は、今回の作図と比べると、かなり位置が違っている(ヤフーマップもグー地図とほぼ同じ形状)。以前は米軍設置の処刑台の位置を、碑のすぐ後ろと推定したが、今回の作図に基づけば、もっと後ろの林の部分になりそうだ。Image
作図した現在「戦争裁判の碑」がある一角に、さらに過去の処刑場の図を重ねた。右の一つの■があるのが、昔からある処刑台で、左の五つあるのが米軍が新設し、A級“戦犯”を処刑した処刑台。この図では、米軍設置の処刑台は、石碑の後方6~7mのラインで、林の中にある。 Image
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Nov 30, 2024
小野田寛郎少尉が故郷に帰ったときの映像。和歌山市内の国道も小野田さんを迎える人たちでいっぱいだった。その時の小野田さんの笑顔を覚えている。

元動画
あのじゅうよ~ 第35回
小野田さんは帰郷時のことを次のように書いている。「新大阪駅から和歌山市までがこれまた大変であった。和歌山県がさしまわした大型バスに乗せられて大阪市内を通り抜けて行ったのであるが、沿道はずっと歓迎の人で埋まっていて、手を振ってくれる。左側の席から私は立ちっ放しで挨拶した。座席からでは右側の人びとに応えることができないからである。歓迎の人の群れは大阪―和歌山間の国道へ出ても絶えない。ついに私は運転席の横に立つはめになり、沿道の右と左の人びとに頭を下げつづけた。
行けども行けども人の群れだった。その人びとの中に膝を地について拝んで下さる老婆もいく人も見た。老婆はかつてわが子を戦場へ送り出した方だろう。あるいは息子さんが亡くなられたのかもしれない。私はあらん限りの力で手を振って応えたが、不覚にも涙が流れ出てとまらなかった」

小野田寛郎『わがブラジル人生』よりImage
小野田さんは、帰郷までの過密なスケジュール、その間のマスコミの加熱取材、1時間半もバスの中で立ちっぱなしで歓迎に応えたこと、和歌山県庁での盛大な歓迎式など、朝からの強行軍で帰郷前にすでに疲れ果てていたという。私は見たのは県庁から海南の間で、多くの人が沿道に出て小野田さんを迎えていた。この時はバスの左前に、小野田さんは座って満面の笑みで歓迎に応えてくれていた。小野田さんの姿は下の方までよく見えた。その隣にバスガイドのような女性が立って同じく笑顔で歓迎に応えていた。
小野田さん、そんなに疲弊した状態で、満面の笑顔で応えてくれていたのか。Image
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