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Jul 12, 2023 8 tweets 1 min read Read on X
『廃兵はいやだ─祖国に叫ぶ傷痍軍人』
元祭兵団陸軍少尉 坂東公次 著
「敗戦の中での身体障害兵士、これほどみじめなものはなかった。これらの引揚者は帰国後も苦闘の生活を強いられた。戦時中の白衣の兵士という栄光からも落ち、市井の片隅にひっそりと生きる傷痍軍人達の手記」 Image
「脚を失っても手はあるぞ!この手で日本工業技術のお役に立てるぞ」と更生の意気に燃え時計検査に励む傷痍軍人

「友よ我々は必ず祖国の復興に立上がるぞ」と誓い、毎月三回靖国神社の戦友に祈る傷痍軍人

更生基金で白衣の身を巷に曝す世間の目は冷い…だが尊い寄謝によってすでに三千人の廃兵が更生の喜びに生きているImage
戦友の霊に詣でてしばしその昔をしのぶ三人の傷痍軍人

満身二十六個所の傷痍も癒え今は立派な技工として更生した喜びの傷痍軍人

「さあ、坊や、お父さんはこれからやるぞ! お父さんはこんなに力があるんだよ」と明日への希望をふくらませる喜びの一家 Image
著者は、就職したくても仕事がない、商売するにも金がない、そんなとき二人の傷痍軍人が善意で募金に誘ってくれた。彼らは募金を始めた動機をこう話した。「病院から退院して実社会に出て見たものの、就職すると云っても、手がない足がないと云うことのために誰一人として相手にしてくれない。子供達は子供達で『おい、ビッコが通るぞ』と指さしながら、その真似をしてついてくる…何度人生の無情に泣いたか知れなかった。然し、妻や子供の事を考えると死ぬわけにゆかず、さりとて喰うための仕事もなく困った。そのあげく、泥棒するよりはましだと云うのでこの募金を始めたのです」
著者を誘った傷痍軍人の二人は、米軍の占領政策のことも話している。「そりゃね、白衣の募金と云えば社会から随分と非難がありますよ。然しね、今のこの社会で我々が生きる途と云ったらそれだけしかないじゃないありませんか……誰だって好んでやりたい事じゃないですよ。しかし、時期を得るまでは仕方がないのです」「アメリカは占領命令を出して、傷痍軍人の面倒を見てはならないと云っておきながら、自分の国の傷痍軍人に対しては至れり尽くせりの保護を与えているのですからね…私に言わしむればですね、アメリカという国は口を開けばすぐに人道主義だとか人種の差別的待遇撤廃とか宣伝していますが、一体そんなことを今迄に実行したことがありますか、と云いたいんです。勝った国の傷痍軍人と、負けた国の傷痍軍人に、これほど露骨に差別待遇をするのですからね。理由はとにかく、祖国の戦いで傷ついたことは同じじゃないですか…我々はこういうアメリカの下では絶対に生きられないわけですよ」
著者は最初の募金体験をこう書いている。「白衣の持合せもない私に二人は汚れた白衣を貸してくれた。場所は東京の盛り場である池袋だった。さて、愈々となると『更生資金募集』と書いた箱の前に立つ事だけでも、相当の勇気が要ることだった。私はその前に立つには立ったものの、通行人の顔を眺められないほど恥ずかしかった。況んや『ご通行中の皆さん!』などと呼びかけられるわけがない。二人の仲間はその私を幾度も励まし、盛んに声を張り上げて通行人に、あれこれと呼びかける。実に堂々たる名セリフ?である。こうなると募金も一人前だと思った。私はこの仲間の傍らで、幾度励まされ注意されても首をうなだれるだけで、どうしても顔が上げられなかった。それでも、金を投げてくれる度に微かな声で『有難う御座います』と、やっと礼を言えるようになったのは五時間も経ってからの事だった」
著者は列車の中での募金にも誘われる。列車内での募金活動は禁止であるが、割がよい。そして著者は見張り役となる。著者はあまりの緊張感と違法行為に対する精神的負担からこの仕事を辞める。次に始めたのがバタ屋だった。「来る日も来る日も大きな破れ籠を背負って住宅街のゴミ箱をあさっていたのである。今の私にとって職もなく、資本金もない……その上誰の世話にもならないで自立の途を拓き歩もうとすれば、どうしてもこの道を進むより他に方法がなかった。私の過去を知る人は笑うかも知れなかった。然し、例えどのように笑われてもいい。私自身がその人生のどん底の中から雄々しく立上ろうとする意欲に燃え、一つの正しい職業を遂行したいという固い決心だった」

「私の過去」と書いているが、著者の坂東少尉はインパール作戦で負傷後送されたが、ビルマ戦線危うしと知り治療途中で進んで前線に戻り再度重傷を負った勇士であった。
「廃兵」と書きましたが、書名は正しくは『癈兵はいやだ』でした。「癈」の意味は「不治の病。治らない病気。病気や怪我による重い障害。また、そのせいで自由に動けないこと」

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Dec 21, 2024
出撃の日、昭和20年5月18日、地元知覧の人達に見送られ、トラック上で答礼する第五十三振武隊隊員たち。 Image
第五十三振武隊 天誅隊、出撃30分前、朝日新聞富重安雄氏撮影。隊長近間満男少尉、小笠五夫少尉、三島芳郎少尉、梅野芳郎伍長、土器手茂生伍長、星忠治伍長、丸山好男伍長、山崎忠伍長。このとき富重氏は、隊員(左から2人目)から「御両親様 昭和二十年五月十八日十九時二十分頃 沖縄島周辺にて戦死す。十四時三十分出発前書す」と紙切れに走り書きされた「遺書」を託されたという。Image
第五十三振武隊隊員、出撃20分前、最後の食事。 Image
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Dec 21, 2024
巣鴨プリズンで処刑が行われた後の清掃作業は、収監中の日本人がやらされていた。悲憤の涙にくれながら作業したという話がたくさん残されている。『…戦後、私の小学校の同級生が戦争犯罪人として巣鴨拘置所に居たことがある。今は若者であふれているサンシャインのあたりが、金網に囲まれた巣鴨拘置所であった。銃を持ってサングラスをかけたMPの監視の下での面会ではそんな話は出来なかったが、その友人が出所後話してくれた言葉は今も忘れることが出来ない。拘置所の中でも色々な使役があって、それぞれに出来る作業が課せられるが、ある時処刑場の清掃にかり出されたときのことだ。その前夜処刑された人の死体こそないが、血糊のべったり着いた目隠し用の袋等が散乱していたりして、「昨日まで一緒だったあの人がと思うと、胸が張り裂けるような気持になって涙がボロボロと出て止まらなかった。自分達の獄舎に帰る時は、みんな下を向いて蟻を踏まないように歩くんだよ。蟻一匹でも命あるものを殺すことが出来ないんだよ」と話してくれたことを想い出す…』

西大由「いのち」『インセクタリゥム』1997年9月号

#世紀の遺書Image
『占領軍は、数多くの日本人を巣鴨拘置所の内で、ロープにかけて絞首刑にしていた。刑場は拘置所の一隅の赤煉瓦の囲いの内にあった。斎藤は未決当時から、通訳として所内の掃除などに引っ張りだされていたので、刑場の内にも四、五回入った。最初、見たときの恐怖は、いまも忘れられない。…処刑の様子を想像するだけで、心臓がドキドキし、目につくすべてが呪わしく、また腹立たしく、掃除もそこそこに引き揚げた。
…それから二年ほどして、また刑場の掃除に引っ張りだされたが、内部はすっかり変わっていた。…米兵がスイッチを入れると、真新しい舞台のような刑場が、強いライトの下に照らしだされた。幅四、五メートルの木造の十三階段が、すぐ目の前にあった。それを昇ると、板張りの広い床があった。床の突き当たりのコンクリート壁のところに、腕木が四本ほど並んで突き出ていた。首に巻いたロープで腕木に吊られる仕掛とわかった。
それぞれの腕木には、それに吊られて殺されたA級七人の姓が、ローマ字で荒々しく書きつけてあった。ボールペンや万年筆で書かれた文字からは、血に飢えた悪党どもの嘲笑が聞こえるようだった。
幸い周囲に血痕は認められず、惨劇の名残りを見ないですんだが、絞首の情況や、ロープに吊られた肉体の動きが目に見えるようで、息づまる思いだった。
あの処刑の二十三年十二月二十三日の夜半には、ドラム缶をハンマーで叩きつけたような激しい音が拘置所内に響き渡り、第二棟の一室に寝ていた斎藤も目をさまし、さては処刑かと気づいて、冷たい布団の中で切ない思いを耐えていなければならなかった。
あのときの激しい音は、ここの踏み板がバネで一挙に引き落とされ、コンクリートの壁を打った衝撃音とわかった。』

中山喜代平『茨の冠』Image
『…絞首台の掃除人員に指摘されるとまったくいやな思いをしなければならなかった。「使役五名を出せ」と言ってくる。労務係は表を見て五名を選び出す。ジェイラーの「レッツゴー」の号令で通訳も同行するのだ。…十三号の扉が見えてくる。…各自の顔から笑いが消えて、血の気が引いていく。
「とまれ」
ことここにいたったらもう仕方がない。しかしみんなの顔に一抹の不安の色と同時に、好奇の色が浮かんでくるのも事実である。
…絞首台のハネ板をふきながらその構造をのみこむ。あのハンドルを引くとこのハネ板を留めているバネがはずれる。するとハネ板はバターンとチョウツガイのはめてある部分で垂直にさがるのだ。すると、今迄その上に立っていた人間は、宙ブラリンと吊り下げられる。そんなことを考えて清掃している。ハネ板の下の空間が底なしの深淵のように見えてくる。
…ある男がこんなことを言った。
「チェッ、おれが絞首刑になるかもしれないことを知っていながら、絞首台掃除につれだすなんて、ひどいやつだッ」
そして彼は、彼がかつてふき清めた絞首台のハネ板の上に平然と立って、それから消え去った。第三者には平然とした態度に見えても、本人の胸中にはあらゆる感慨が怒濤の渦を巻き起こしていたにちがいない…』

吉浦亀雄『黄色い部屋 : スガモ・プリズンの通訳医者』

#世紀の遺書Image
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Dec 19, 2024
東池袋中央公園の戦争裁判の碑がある一角を作図してGoogleマップの航空写真と重ね合わせた。 Image
処刑台があった位置を特定するために、以前goo地図と昭和22年の航空写真と切り換えられるサービス(現在終了)を利用した。しかし、その地図の碑のある四角い部分は、今回の作図と比べると、かなり位置が違っている(ヤフーマップもグー地図とほぼ同じ形状)。以前は米軍設置の処刑台の位置を、碑のすぐ後ろと推定したが、今回の作図に基づけば、もっと後ろの林の部分になりそうだ。Image
作図した現在「戦争裁判の碑」がある一角に、さらに過去の処刑場の図を重ねた。右の一つの■があるのが、昔からある処刑台で、左の五つあるのが米軍が新設し、A級“戦犯”を処刑した処刑台。この図では、米軍設置の処刑台は、石碑の後方6~7mのラインで、林の中にある。 Image
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Nov 30, 2024
小野田寛郎少尉が故郷に帰ったときの映像。和歌山市内の国道も小野田さんを迎える人たちでいっぱいだった。その時の小野田さんの笑顔を覚えている。

元動画
あのじゅうよ~ 第35回
小野田さんは帰郷時のことを次のように書いている。「新大阪駅から和歌山市までがこれまた大変であった。和歌山県がさしまわした大型バスに乗せられて大阪市内を通り抜けて行ったのであるが、沿道はずっと歓迎の人で埋まっていて、手を振ってくれる。左側の席から私は立ちっ放しで挨拶した。座席からでは右側の人びとに応えることができないからである。歓迎の人の群れは大阪―和歌山間の国道へ出ても絶えない。ついに私は運転席の横に立つはめになり、沿道の右と左の人びとに頭を下げつづけた。
行けども行けども人の群れだった。その人びとの中に膝を地について拝んで下さる老婆もいく人も見た。老婆はかつてわが子を戦場へ送り出した方だろう。あるいは息子さんが亡くなられたのかもしれない。私はあらん限りの力で手を振って応えたが、不覚にも涙が流れ出てとまらなかった」

小野田寛郎『わがブラジル人生』よりImage
小野田さんは、帰郷までの過密なスケジュール、その間のマスコミの加熱取材、1時間半もバスの中で立ちっぱなしで歓迎に応えたこと、和歌山県庁での盛大な歓迎式など、朝からの強行軍で帰郷前にすでに疲れ果てていたという。私は見たのは県庁から海南の間で、多くの人が沿道に出て小野田さんを迎えていた。この時はバスの左前に、小野田さんは座って満面の笑みで歓迎に応えてくれていた。小野田さんの姿は下の方までよく見えた。その隣にバスガイドのような女性が立って同じく笑顔で歓迎に応えていた。
小野田さん、そんなに疲弊した状態で、満面の笑顔で応えてくれていたのか。Image
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Nov 14, 2024
板垣征四郎大将の夫人喜久子さんが『秘録板垣征四郎』の中で亡き夫を追憶しているが、一個所おもしろい記述があった。「(夫は)大の風呂好きでしたが、帰りの時間が一定しませんために家中の者が入り損ねる事が度々でしたので、いつか朝湯の習慣ができ毎朝かかしませんでした。体中の石鹸の泡に埋めて実に念入りに洗い清め、頭にはローションを振りかけ、これまた誠に念入りにブラシで摩擦致しますので、余り過ぎると却って禿ると止めますと、刺戟によって毛が生えるのだといつも意見が合いませんでしたが、どうやらこの勝負は私の勝になりましたようでございます」Image
元駐独大使大島浩は板垣征四郎大将について次のように述べている。『板垣将軍とは明治の末期、士官学校区隊長として隣接の中隊に勤務し、区隊長室も近かったため、二年にわたり常にお会いしており、人格高潔、態度端正の青年将校であった将軍壮時の印象は今なお私にのこっています。……
巣鴨刑務所に於て、米軍は我々を政治犯として取り扱わず刑事犯罪人と見做したため、その処遇は非礼をきわめて、板垣将軍が黙々として廊下の掃除などしておられた姿を思い出します。米国は極東軍事裁判の目的を正義、人道の維持にありと高唱しましたが、事実は全く異り、今ここで論ずる積リはありませんが、次の一事で明白になると思います。
「昭和二十三年晩秋、私に付けられたる米弁護士カニングハム氏は米国で開かれたる弁米弁護士大会に出席し、東京裁判は復讐と宣伝なりと演説し、米軍の怒りに触れ、極東裁判より追放せられた」
戦勝国のみによって行なったこの裁判は真実を裁くとは思いもよらず、牽強の断罪に終始しました。米国は初め満洲事変を入れる考がなかったのに、支那の要請により加えたとのことです。しかも同国の判検事は支那関係戦犯を死刑にするため他国判事に働きかけ、七名の処刑者中満洲事変に関し、板垣、土肥原、南京事件に関し、松井、広田の計四氏を出しました。
三年にわたる陰惨なる獄中生活に於て板垣将軍は日夜仏経典に親しみ、悟道に努められ、高僧の如き風格が窺われました。処刑は昭和二十三年十二月二十三日、北風すさび微雨降る夜半に行われましたが、板垣将軍が従容としてこの暴戻無辜の断罪を甘受せられたることは敬服に堪えません』Image
企画院総裁鈴木貞一が語る板垣大将『私は板垣大将より六期後輩であるが、大正十一年頃、参謀本部で板垣少佐(当時兵要地誌班長兼陸大教官であった)と同じ部内で勤務して知り合ってから、大正十三年以降北京の駐在武官の補佐官として勤務せる板垣の下に列し、その後満洲事変前後以来しばしば接触の機会が多かった。続いて昭和十一年、私が東満洲国境東寧の歩兵第十四連隊長時代に板垣が関東軍参謀長であり、又板垣が南京の支那派遣軍総参謀長時代に私は興亜院政務部長としてしばしば出向いて接触した。……
昭和二十一年春から東京裁判が開始され、私もA級戦犯の一員として巣鴨にとらわれの身となっていた。
そのある日、突然私の房に板垣がつれられて来て、同房の身となった。
奇しき因縁に二人は苦笑しながら、
「死ぬまで一緒だね」
と云って、二人で昔話に花を咲かせたものであった。
東京裁判は、つまりは復讐の裁判であるから、我々二人は勿論死刑である。しかし何日も生きられるか分らぬが、生きている限り日本の正しかったことは大いに強調しようと語り合ったものである。
板垣も私と同じ日蓮宗に帰依していたが、多くの戦犯の中でも板垣は、死をみること帰するが如き潔い心境で際立って達観している様に見られた。散歩している姿も屈託なく、悠然としており、暑い時には紙で作った帽子をかぶり飄然として、知った人に会うと例の調子で「オーオー」と云って無頓着、恬淡な風貌は最後迄変わらなかった。
最後の判決を受けた時の毅然たる態度、そしてその直後面会書で夫々家族と金網越しに面会の折互いに眼と眼を見交わして目礼したが、これが板垣との最後の別れであった。その刑場での態度も定めし立派であったろうと私は確信している。
現代には、あのような人がいないことを私はいつも残念に思っている。
板垣は一言で云うと至誠の人であった。至誠を以て断行する人であった。彼は決して知謀の人ではない。知者から見ると愚物だと思われるであろう、「大知は拙なるが如し」の言葉通り彼は傑出しており、人間味あふれる、肚の人であり、私は大西郷を親しく知らないが想像するに、板垣は正に西郷南洲のような人ではないかと思っている。
彼は知者をつけるとすばらしい働きをする。その知者たる部下がいつでも生命を捧げて、彼のために尽瘁する徳を備えていたと云うべきである。
反面彼は、その知者たる部下のため過まられることもあり得る。部下を絶対に信頼して、その責任を自らとるためその行動が矛盾して受け取られることがある。……
話は変るが、板垣の家庭は実に立派であった。私は北京で、双方共家族携行で燐家の親しい交際をしたが、彼は家族を大切にして子煩悩な温い人柄であったし、喜久子夫人はしとやかで、然も歌人としての才能があり、内に子弟を守って外に夫を存分に働かせる型の賢夫人であり、情誼に厚い羨しい限りの家庭であった。
「死ぬまで一緒だね」と云い合った彼と私であったが、私は死一等を減ぜられて今なお天命を保ちつづけているが、今にして思えば、軍人には珍しい包容力と度量とを有せる板垣氏をして、現代の如き混沌たる世相にその生を完うせしめたらと追憶すること切である』

『秘録板垣征四郎』
#世紀の遺書Image
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Nov 11, 2024
1948年11月12日、東京裁判判決の日。
重光葵の『巣鴨日記』より

午後一時半から約一時間個人に関する一般判決があった。一九二八年から一九四五年まで完全に共同謀議があったと断定して次ぎ次ぎに有罪を宣告せられた。
……東條に対しては最も激しかった。
刑の云い渡しは各個人を一人々々呼び出して判事席に向き合った被告席の中央に起立せしめて、裁判長より云い渡しを終り、その被告は退席し、次の被告がA・B・C順に呼び出されるのである。
荒木大将が呼び出されたが、間もなく控室に帰って来て、控席の隅の席を与えられて監視兵が一人付いた。荒木さんは緊張した顔ではあるが別に変った様子も見せぬ。次で土肥原大将が呼び出されて法廷に向った。暫くして帰って来て、室の入口の外套掛けから護衛兵が外套をとって着せかけたが、そのまま吾々の居る控室を通過して隣の室へと連れて行かれた。次に橋本欣五郎氏は吾々の控室に帰って来た。畑大将も平沼老も帰って来て吾々の仲間へ入った。唯監視兵に付かれているのは同様である。広田氏は衛兵に外套を着せられた。一番入口に近い席にいた私とは強いて眼を合わさぬ様にして隣室に引いて行かれた。板垣、松井、武藤、木村、東條計七名は隣室へ引かれた。吾々はその意味を皆直感した。
……被告全部に対して能う限りの極刑を加えたのである。これでソ連を含む全戦勝国が凱歌を挙げた訳である。然しこれは果して公正であろうか、ただ歴史のみが判断し得る。米国の正義感は果してこれを如何と見又如何処理せんとするであろうか。
東京裁判判決の日のことを橋本欣五郎は次のように述べている。「御承知の通りに裁判所は、陸軍省の真中の大きな部屋にあった。その隣に控室があった。ドアを一つへだてて、そこで判決の時刻を待っておった。
判決の時刻は23年の11月12日の午後3時、その判決直前の2、30分前の控室の状態……これは一つも平時と違わない。佐藤賢了と武藤章、これが碁を打っている。東條さんといえば腰掛けにもたれてタバコをプカプカふかしている。あるいは鉛筆を走らせておるもの、新聞を読んでいるもの、少しも変わらない。
いよいよ午後3時、判決の時刻となり、控室から呼び出されて隣の裁判所に一人ずつ行った。そうなってくると第一に行くのが荒木大将です。
荒木さんが隣に行って一分もたたずに帰ってきた。そこで荒木さんに『何ですか』とある人が訊ねた時に『糸へんだ』と答えた。そこで僕らはもう絞首刑になるものと決めておったから、荒木さんもかわいそうなことをしたなと思った。
次に土肥原が隣の裁判所に行って帰ってくる。ところが、その帰ってくる時の状態がまったく違っていた。アメリカ兵が二人で外套を幕のように引いちゃって、その背後を、あれは抱えてもって行ったのか、あるいは引きずって行ったのか知らんが、5、6人のMPが、どこか得体も知れんところに連れて行った。
そこで荒木さんに、
『糸へんとはなんですか』
ときいたら、悠然として
『終身刑の終の字ではないか』
ときた。われわれは糸へんといえば、つくりは交ると決まっておるぐらいに思っておったのだが……。
そういうふうにして判決が午後3時から4時に終わった。結果は東條以下7名が絞首刑、有期は重光の7年、東郷の20年、あとこごとくは終身禁錮ということに決まった。その時以来、絞首刑を宣せられた東條以下7名は、絞首台の露と消えるまで、我々は顔を見たことがない。」Image
東京裁判の判決を報じる日本ニュース 昭和23年11月23日

《ウェッブ裁判長》
被告東条英機、被告が有罪の判定をうけた起訴状中の訴因に基づいて、当国際軍事裁判所は被告を絞首刑に処する。
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