和中 光次(わなか みつじ) Profile picture
『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人』を翻訳。当時の捕虜と日本人の関係がわかる貴重な史料です。 https://t.co/JEWVvjZ33y ヘッダー画像は大森捕虜収容所で開催された捕虜たちのクリスマス演劇「シンデレラ」の閉幕シーン。この演劇を紹介した動画 https://t.co/nfrk6TA1hc
Nov 14 5 tweets 2 min read
板垣征四郎大将の夫人喜久子さんが『秘録板垣征四郎』の中で亡き夫を追憶しているが、一個所おもしろい記述があった。「(夫は)大の風呂好きでしたが、帰りの時間が一定しませんために家中の者が入り損ねる事が度々でしたので、いつか朝湯の習慣ができ毎朝かかしませんでした。体中の石鹸の泡に埋めて実に念入りに洗い清め、頭にはローションを振りかけ、これまた誠に念入りにブラシで摩擦致しますので、余り過ぎると却って禿ると止めますと、刺戟によって毛が生えるのだといつも意見が合いませんでしたが、どうやらこの勝負は私の勝になりましたようでございます」Image 元駐独大使大島浩は板垣征四郎大将について次のように述べている。『板垣将軍とは明治の末期、士官学校区隊長として隣接の中隊に勤務し、区隊長室も近かったため、二年にわたり常にお会いしており、人格高潔、態度端正の青年将校であった将軍壮時の印象は今なお私にのこっています。……
巣鴨刑務所に於て、米軍は我々を政治犯として取り扱わず刑事犯罪人と見做したため、その処遇は非礼をきわめて、板垣将軍が黙々として廊下の掃除などしておられた姿を思い出します。米国は極東軍事裁判の目的を正義、人道の維持にありと高唱しましたが、事実は全く異り、今ここで論ずる積リはありませんが、次の一事で明白になると思います。
「昭和二十三年晩秋、私に付けられたる米弁護士カニングハム氏は米国で開かれたる弁米弁護士大会に出席し、東京裁判は復讐と宣伝なりと演説し、米軍の怒りに触れ、極東裁判より追放せられた」
戦勝国のみによって行なったこの裁判は真実を裁くとは思いもよらず、牽強の断罪に終始しました。米国は初め満洲事変を入れる考がなかったのに、支那の要請により加えたとのことです。しかも同国の判検事は支那関係戦犯を死刑にするため他国判事に働きかけ、七名の処刑者中満洲事変に関し、板垣、土肥原、南京事件に関し、松井、広田の計四氏を出しました。
三年にわたる陰惨なる獄中生活に於て板垣将軍は日夜仏経典に親しみ、悟道に努められ、高僧の如き風格が窺われました。処刑は昭和二十三年十二月二十三日、北風すさび微雨降る夜半に行われましたが、板垣将軍が従容としてこの暴戻無辜の断罪を甘受せられたることは敬服に堪えません』Image
Nov 11 4 tweets 1 min read
1948年11月12日、東京裁判判決の日。
重光葵の『巣鴨日記』より

午後一時半から約一時間個人に関する一般判決があった。一九二八年から一九四五年まで完全に共同謀議があったと断定して次ぎ次ぎに有罪を宣告せられた。
……東條に対しては最も激しかった。
刑の云い渡しは各個人を一人々々呼び出して判事席に向き合った被告席の中央に起立せしめて、裁判長より云い渡しを終り、その被告は退席し、次の被告がA・B・C順に呼び出されるのである。
荒木大将が呼び出されたが、間もなく控室に帰って来て、控席の隅の席を与えられて監視兵が一人付いた。荒木さんは緊張した顔ではあるが別に変った様子も見せぬ。次で土肥原大将が呼び出されて法廷に向った。暫くして帰って来て、室の入口の外套掛けから護衛兵が外套をとって着せかけたが、そのまま吾々の居る控室を通過して隣の室へと連れて行かれた。次に橋本欣五郎氏は吾々の控室に帰って来た。畑大将も平沼老も帰って来て吾々の仲間へ入った。唯監視兵に付かれているのは同様である。広田氏は衛兵に外套を着せられた。一番入口に近い席にいた私とは強いて眼を合わさぬ様にして隣室に引いて行かれた。板垣、松井、武藤、木村、東條計七名は隣室へ引かれた。吾々はその意味を皆直感した。
……被告全部に対して能う限りの極刑を加えたのである。これでソ連を含む全戦勝国が凱歌を挙げた訳である。然しこれは果して公正であろうか、ただ歴史のみが判断し得る。米国の正義感は果してこれを如何と見又如何処理せんとするであろうか。 東京裁判判決の日のことを橋本欣五郎は次のように述べている。「御承知の通りに裁判所は、陸軍省の真中の大きな部屋にあった。その隣に控室があった。ドアを一つへだてて、そこで判決の時刻を待っておった。
判決の時刻は23年の11月12日の午後3時、その判決直前の2、30分前の控室の状態……これは一つも平時と違わない。佐藤賢了と武藤章、これが碁を打っている。東條さんといえば腰掛けにもたれてタバコをプカプカふかしている。あるいは鉛筆を走らせておるもの、新聞を読んでいるもの、少しも変わらない。
いよいよ午後3時、判決の時刻となり、控室から呼び出されて隣の裁判所に一人ずつ行った。そうなってくると第一に行くのが荒木大将です。
荒木さんが隣に行って一分もたたずに帰ってきた。そこで荒木さんに『何ですか』とある人が訊ねた時に『糸へんだ』と答えた。そこで僕らはもう絞首刑になるものと決めておったから、荒木さんもかわいそうなことをしたなと思った。
次に土肥原が隣の裁判所に行って帰ってくる。ところが、その帰ってくる時の状態がまったく違っていた。アメリカ兵が二人で外套を幕のように引いちゃって、その背後を、あれは抱えてもって行ったのか、あるいは引きずって行ったのか知らんが、5、6人のMPが、どこか得体も知れんところに連れて行った。
そこで荒木さんに、
『糸へんとはなんですか』
ときいたら、悠然として
『終身刑の終の字ではないか』
ときた。われわれは糸へんといえば、つくりは交ると決まっておるぐらいに思っておったのだが……。
そういうふうにして判決が午後3時から4時に終わった。結果は東條以下7名が絞首刑、有期は重光の7年、東郷の20年、あとこごとくは終身禁錮ということに決まった。その時以来、絞首刑を宣せられた東條以下7名は、絞首台の露と消えるまで、我々は顔を見たことがない。」Image
May 3 5 tweets 2 min read
支那事変前から、中国国民党は軍事力で列強に対抗することは困難であるから、物質的力量の弱さを宣伝で補うという方針を持っていた。そのため、第一次大戦での「レイプ・オブ・ベルギー」をはじめとするプロパガンダ戦の攻防を詳細に研究し、自国が宣伝戦を展開する準備をしていた。以下はその研究成果である。

「国民に対して敵国の卑劣な行為を宣伝することは、国民を憤激させるものである。その最も適当な材料は婦人・児童・老人及び尼僧等に対する敵の暴行であって、異性に対する暴行、俘虜の手足切断、非戦闘員に対する侮辱などはいずれも敵愾心を激発させる。その他戦場において、戦勝後に敵兵が連れ立って女子を強姦したとか、あるいは輪姦して死に至らしめたとか、あるいは毒物を飲料水中に投入し、家畜を殺害し、食物を掠奪した等は、敵愾心を挑発する方法から言えば、いずれも最良の宣伝材料である。新聞はでき得る限り多くこれらの記事を掲載すべきである」

藍衣社機関誌『汗血月刊』1937年3月号(南京陥落の9ヶ月前)
『支那の対日宣伝策』より

画像は『是でも武士か』の挿絵
amzn.to/427NkM2Image 英国は大規模なベルギー大虐殺プロパガンダにより、ベルギーを救え!ドイツを討て!と国民の心理を動かすことに成功したが、中国がそのことを学んでいたことがわかる記述。

「通常は一般人は戦争を望まないものであるから、彼らの賛同・擁護・犠牲を得ようとすれば、彼らに少なくとも次の一点で心を動かさなければならない。すなわち、この戦争は我国として戦わざるを得ないものである──換言すれば我国にとっては自衛のための戦争であり、敵にとっては侵略のための戦争であるということであって、そうすれば開戦の罪は敵に着せられるのである」

「民族の激動及び激昂した民気の維持もまた、新聞が国内宣伝上において注意すべき要点であって、この目的を達するために新聞は左記三項と関係ある動静を、できる限り掲載して宣伝すべきである。

(イ)敵国に対する憎悪の念を引き起こす事項
(ロ)人民に敵国に戦勝し得る希望を持たせる事項
(ハ)人民の抗戦精神を興奮させる事項」
Apr 21 4 tweets 2 min read
#是でも武士か
ドイツ兵により大砲にくくりつけられた半裸姿のベルギー人女性。
第一次世界大戦当時の英米の新聞は、ドイツ軍の残虐行為をこのようなイラストとともに報道した。
開戦後、この種の報道が大量に流され続け、英米国民はみな事実だと信じ、ドイツ許すまじ、と義憤に駆られた。ベルギー大虐殺プロパガンダは大成功を収めた。

日本向けに書かれた『是でも武士か』にも、大砲にベルギー人を縛り付けて砲弾を発射する拷問の例がいくつか登場する。
たとえばこういう記述。
「カレニョン及びブルージュでは、砲兵が住民たちをその巨大な攻城砲に縛り付け、離れたところから電気発火で発射した。これらの不幸な住民たちはその爆音で鼓膜を破られ、大変な苦痛を受けた」
「ある司祭は、その教会の婦人たちの面前で裸で大砲に縛り付けられ、その状態で砲弾が発射された」

amzn.to/427NkM2Image #是でも武士か
ベルギー大虐殺プロパガンダでは、大衆の心理を揺さぶるために、女、子供、聖職者が残酷に殺害、陵辱にされたという情報が多用された。
引用元も引用先も元は連合国側の機関が作成した文書であることが多い。
英国戦争宣伝局のチームで文書を作成しているのは、H・G・ウェルズやコナン・ドイルなどの作家たち。
そして新聞社の社主たちもそのチームの一員であり、大手新聞がプロパガンダを流し続けた。効果はてきめんで、国民は、ベルギーを救え、ドイツを打倒せよ、と戦争に全面協力し、青年たちは続々陸軍に志願した。

『是でも武士か』にはベルギーや英国の調査委員会の報告書からの抜粋があるので、以下に引用する。これらの話が事実だと確信した人々の精神は、激烈な反応を示すだろう。

「アールスホットでは、司祭は両手を高く上げて壁の前に立たされた。疲れて手が少しでも下がると、独兵は司祭の足を銃床で強打した。司祭はこの状態で数時間立たされたが、その前を通る独兵はこの司祭の身体を便所と見なし、頻りに小便をかけた。小便まみれになった司祭は、結局独兵に射殺されてしまった」

「八月三十日、ドイツ軽騎兵の斥候隊は七十四歳の老婦人カトリーヌ・ヴァン・ケルチョーヴに発砲、すぐに死なないように、できるだけ多く射撃を加えて楽しんだ」

「八月二十六日、ドイツ予備歩兵第四十八連隊はエレヴェイトを占領した。同地の少女のほとんどは、その両親らの面前で強姦された」

「ベイゲムでは、クメル中尉が指揮する兵士たちが妙齢の一婦人を牧師館に連行した。妹と司祭の面前という最悪の状況下で、その婦人を陵辱するためであった」

「戦争が始まって間もない頃、仏軍が最初に到着した国境近くの村で、五十体の婦人の死体が発見された。死体は裸の状態で、農舎の長い壁に縛られていた。独兵はこの婦人たちを足の方から徐々に上の方を射撃し、遂に死に至らしめたのである」

amzn.to/427NkM2Image
Apr 12 4 tweets 1 min read
米軍の日本兵に対する残虐行為について、リンドバーグの証言が『正論』に掲載され、同様の体験をした方々から投書が寄せられています。

正論2000年6月号
☆編集者へ=多治見市の鈴木 勝さん(元会社役員・79歳)から。

 五月号所載「リンドバーグの衝撃証言」を読み、ビアク島の戦闘で米軍捕虜となった私の体験から、米軍の残虐非道な行為について、偽らざる真実を申し述べてみたい。

 ビアク島へ米軍が来攻したのは昭和十九年五月二十七日で、当時は海軍記念日と称していた。

 軍はビアク島の重要性に鑑み、同島守備の基幹・歩二二二連隊増援のため、在マノクワリの歩二二一連隊とヌンホル島守備の歩二一九連隊から各一ケ大隊を抽出してビアク島に派遣した。その輸送を担任したのが、私の所属した第五揚陸隊であった。

 六月二十一日、歩二一九連隊の決死隊員約一五〇余名が三隻の大発に分乗してヌンホル島を出発しビアク島へ向かったが、艇隊は上陸予定地の沖合約四キロの海上にて米軍魚雷艇の奇襲攻撃を受け全滅した。私の乗艇は後部機関室に被弾炎上し数分で沈没したが、轟沈した僚艇の搭乗員を併せ数十名の兵が海上を漂流していた。

 この無抵抗状態の日本兵に対し鬼畜のような攻撃が米軍魚雷艇から浴びせられた。それは機関銃等による一斉掃射ではなく、拳銃等による狙い撃ちである。米兵は甲板上に鈴なりになり、あたかも射的ゲームでも楽しむかのように、替わる替わるで撃ってくる。そして日本兵に命中するたびに一斉に喚声をあげる。短波放送のスピーカーからは、ボリュームを一杯に上げてジャズの音楽が流されるお祭り騒ぎであった。私はうちあげられた照明弾により明々と照らし出された地獄図を、消えかかる意識のなかで半ば放心状態で眺めていた。この信じ難い情景は私の筆力では到底表現できなく、更にこの事実を証言する者がいない。何故ならば捕虜になった私以外に生存者がいないからである。

 捕らえられフィンシュハーフェンの野戦病院へ空輸された私は、ここで手厚い看護を受けた。この余りにも大きな矛盾を日系二世の通訳に問い質したところ、彼は少し考えて「それは君がラッキーボーイだから……」と答えるのみであった。数日後、一人の将校が一枚の写真を持ってきて無言で置いていった。それは日本の将校が日本刀をふりかぶり、その前には穴が掘られ、目隠しをされ、後ろ手に縛られた米軍兵士が、今まさに斬られようとしている写真であった。米軍はこんな写真により、日本兵に対する反抗心をあおったのであろう。目には目を、残虐には残虐をもってする風潮が第一線の米兵にあったようだ。

 リンドバーグの日記には「負傷兵であろうと手を上げようと、みな射殺してしまう。それが残虐な日本兵にたいする報復だとし、自らの残虐行為を正当化した」と非難している。

 オウイ島から遠望した勇敢な日本兵と西洞窟の余りにも無残な日本兵の末路とを思い合わせ反戦主義者の彼には、第一線米兵の非人道的行為のみが目に映ったのであろう。

☆編集者から=戦争の悲惨さが情景となって目に浮かんできます。人間の残虐性にはリツゼンとせざるを得ません。 正論2000年6月号
☆編集者へ=甲府市の吉田三郎さん(81歳)から。

 五月号、藤岡信勝先生の「あのリンドバーグ日記が語る……」を読んで、既に六十数年前、戦闘中戦友から聞いた非人道極りない捕虜虐殺の話は真實だったのかと、思い新たなものがあった。

 昭和十七年の末、第十七軍通信隊補充兵の我々がラバウルに到着時には、第十七軍本隊(司令官百武晴吉中将)と軍通隊本部は、数カ月前に上陸した一木支隊や、飛行場建設部隊(軍属を含む)はソロモン、ガダルカナル島に在って瘴れい極限の地に加えて兵站不備のため戦闘能力を失い、本部は後退して、ブーゲンビル島ブイン近くのエレベンタに仮営しており、十八年三月、我々は援助に向かった。山本五十六司令長官の搭乗機が我々の頭上で撃墜された頃で「ガ」島から引き揚げてきた戦友が語った話はこうだ。

「日本軍が椰子林を伐開整地した未完成の滑走路へ友軍の捕虜数百人が引き出され、機関銃の一斉掃射でなぎ倒され、未だ半死状態の者までが、ブルドーザー数台で土石のなかへふみ潰された。自分は倒木の陰に身を隠しながら現實の地獄を見てしまった」と語ったのを聞きショックだった(この戦友は栄養失調とマラリアで半月程して戦病死した)。

 この話のことは、復員して五十数年思い出すこともなく過ぎ去ってしまった。

 今は飛行場も滑走路も近代化されていると思うが、所用や観光などで航空機を利用する時は、この下に無念の同胞が眠っていることを知っていてほしいものである。
Apr 8 5 tweets 2 min read
この写真は見たことがあったが、ほんとに担いでいるので驚愕する。

庄内の今板額
米俵の三俵や四俵背負えぬような庄内娘なら、それじゃショーナイと嫁にも行けない。
米倉をのぞくとアネサマ冠りの乙女らがならんで鼻唄気分で、枕でも投げるように米俵をリレーしている。
三俵四俵は当たり前で一俵なら駈歩で走れる。
兵藤みやえさん(二十三年)、佐藤さきさん(二十三年)の二人は五俵、つまり八十貫(300kg)までなら自信があるという。どこからそんな豪い力がでるのか聞いてみたら「コツでがんす」ときた。

朝日新聞編『東西対抗カメラ問答』Image この石、何キロぐらいあるのか。 比重2.5、一辺30cmとすると68キロ、一辺35cmだと107キロ。私には不可能なのは確か。

“石の帽子”
かの女らは面白半分に石を被っているのではない、石は飯の種だ、伊豆七島の一つ新島の旧噴火口は人間に石を提供してくれる、山は崩れ落ちそうな石の累積だ、学名を石英粗面岩、俗名を抗火石、村人はがりがり鋸を挽いて四角くやっこにしておまけに鉋にかけて絹ごしのようにして東京に売り出す。その重石を頭にのせた女の行列が天神さまのように首を硬直させてぞろぞろ険しい山をおりて来た。Image
Dec 29, 2023 6 tweets 2 min read
イラストによって敵軍の残虐さを訴えるという手法は今も行われている。元米軍捕虜フランク・フジタのイラスト。日本軍の捕虜に対する刑罰。このような物理的に想像しがたい刑罰が、オランダ領東インドや長崎でも行われ、竹ではなく銃剣が使われることがあったという。
Image 同じく元捕虜フランク・フジタのイラスト。1943年9月23日、福岡俘虜収容所第2分所(長崎)で、食料を盗んだ捕虜が罰せられている。生命を維持するのが困難なほどに痩せた捕虜が、拷問を楽しむかのような表情の日本人に銃床、棍棒で殴られ、蹴られ、口の中に熱湯を注がれている。 Image
Dec 26, 2023 4 tweets 1 min read
阿羅健一氏は南京大虐殺プロパガンダのルーツに、大成功を収めた第一次大戦の反独プロパガンダ(ベルギー大虐殺プロパガンダ)があることを書いている。「第一次大戦でまっさきに行われた宣伝は、開戦責任をドイツに負わせるもので、ついでドイツの残虐さであった。大正六年初め、イギリスの新聞はドイツが戦死体から潤滑油や肥料をつくった記事をのせる。フランス報道局は切りおとした首や引きぬいた舌をつくり、その写真をドイツのしわざと世界にまく。アメリカが中立宣言すると、英仏はアメリカを戦争に巻きこもうとドイツの残虐さをアメリカ大衆に訴える。やがてアメリカで反独の熱が高まり、開戦四年目、アメリカはドイツへ宣戦、ドイツは思想戦で敗れる。宣伝はこれまでになく重要とわかった。七年経った大正十五年、イギリスのチェンバレン外務大臣はドイツの死体工場がつくり話であったことを認める。このときアメリカの新聞は書く。『次の戦争での宣伝は、先の世界大戦がなし得た最上のやり方よりももっと微妙で巧妙なやり方になるに違いない』」
中国国民党は第一次世界大戦の各国のプロパガンダを徹底研究し、ww1の英国と同じように米国の支援を得るために、外国人を使い、米国を中心に日本軍の残虐宣伝を行った。ww1の反独残虐プロパガンダが元になっているため、その内容は非常によく似ている。

阿羅健一著『決定版 南京事件はなかった』展転社Image 第一次世界大戦時、英国が反独プロパガンダにどれだけ力を入れていたか。その宣伝機関の初期メンバーには複数の著名な作家が含まれている。「アスキス首相とロイド・ジョージ蔵相はデイリー・メール紙の元文芸編集者チャールズ・マスターマンにウェリントン・ハウス(のちの英国戦争宣伝局)を運営させた。マスターマンが結成したチームには新聞王ビーバーブルック卿、新聞記者ヘンリー・ウィッカム・スティードとR.W.セトン・ワトソン、作家のH.G.ウェルズ、アーサー・コナン・ドイル卿、ラドヤード・キップリング、ジョン・ブキャナン、ジョン・メイスフィールド、作家で外交官のギルバート・パーカーが含まれていた。……ロイド・ジョージが首相に就任すると宣伝局の方針を変えた。マスターマンを左遷し、デイリー・メール紙の大物であるノースクリフ卿を招き入れ、宣伝活動を文学よりも報道と映画に集中させた」
Ava Caroline Jacobi, Into the Abyss:The Legacy of the "Rape of Belgium" Propaganda, 2009
Dec 1, 2023 5 tweets 2 min read
第一次世界大戦時の反独プロパガンダ映像。ドイツ軍の士官が看護婦を性暴行し、泣き叫ぶ赤ん坊を殺すという残酷なもの。反独プロパガンダは第一次大戦の帰趨を決したとも言われる。その手法は支那事変、第二次大戦における反日プロパガンダに用いられ、100年以上経った今日も反日宣伝の砲弾が撃ち込まれ続けている。
同じく第一次世界大戦時の反独プロパガンダ映像。
赤ん坊を抱え命乞いをする婦人に乱暴し、赤ん坊をもぎ取って投げ捨てて笑うドイツ兵たち。
その後ドイツ兵を日本兵に置き換えて同種のプロパガンダが繰り返される。
Nov 8, 2023 4 tweets 1 min read
辞典の第二次上海事変の説明を見ると、おかしいのは学校の教科書だけではないことがわかる。

■精選版日本国語大辞典(小学館)
昭和一二年八月、日華事変の最中、日本軍が上海に進撃し全市を占領した事件。日中戦争をさらに拡大させるきっかけとなった。

■小学館日本大百科全書
日本海軍の陸戦隊中尉大山勇夫らが射殺された事件を口実に、海軍は上海の中国軍を攻撃した。日本軍はふたたび苦戦に陥ったが、同月陸軍2個師団を派遣、全面的な戦争を展開した。以後、中国国民政府も対日抗戦に傾き、8年の長期に及ぶ日中戦争に発展してゆく。

■山川 世界史小辞典 改訂新版
日本人軍人が上海虹橋飛行場で射殺された事件。日本軍は善後処置の要求を提出したが,その回答日に至らない13日,日中間に衝突が起こった。

■旺文社日本史事典 三訂版
日中戦争勃発直後の'37年8月,戦局打開のため,大山勇夫海軍大尉射殺事件を機に上海を攻撃。 出典は「コトバンク」です。おそらく他のワードも、教科書同様の惨状ではないかと想像します。
kotobank.jp/word/%E4%B8%8A…
Aug 28, 2023 19 tweets 4 min read
東條自決失敗の現場に突入した同盟通信黒木氏の記事。

この時、「ちょっと来てくれ!東条が何か言い出した!」とMPの一人が、わたしを呼びに来た。
たしかに、東条大将の口が動いていた。しかし、声は小さく聞きとれない。わたしは、膝をついて、東条大将が横たわっているソファのひじ掛けに左ひじをのせ、東条大将の口もとに、耳を近づけた。東条大将は、小声ではあるが、かなりはっきりした口調で、“言いたいこと”を言い出した。
血の臭いは、相変わらずわたしの鼻を突いた。気分が悪くなるのを、じっとこらえて、“東条発言”をメモした。当時の同盟出稿記事が見当たらないまま、思い出した要点を記述してみよう。
一、わたしは軍人らしく切腹しようと思ったが、万一し損じて、恥をさらすことのないよう、ピストルを使った。
一、大東亜戦争は、正しい戦いであった。
一、国民には、申し訳ないことをした。
一、法廷において、戦勝者の前で裁かれるのは、本意としない。
東条大将は、最後に「天皇陛下万歳」と、口走ったが、「畠山、水をくれ!」と、口ごもった。……東条大将は、飲ませてもらうと「ああ、うまい」と言った。

月刊官界1984年10月号黒木壽時「東条大将“自殺”スクープの波紋」Image 映画『大東亜戦争と国際裁判』
東條元首相、自決失敗。
Aug 7, 2023 11 tweets 3 min read
長崎原爆投下の翌日、自宅のあったところで茫然として立ちつくす、龍智江子さん女学校3年生、16歳。動員先の造船所の仕事を休み、病弱の母を残し、父と疎開先を探しに自宅を出て30分後、被爆。山に逃げ、火災がおさまった翌日浜口町の自宅に戻った。足下の遺体は母親だった。山端庸介氏撮影。 Image 8月10日、国鉄道ノ尾駅の臨時救護所で4カ月の二男義広ちゃんに授乳する田中キヲさん30歳、田圃で草取りをしていたときに被爆。大急ぎで自宅に駆け戻ると3人の子供がいた家は爆風で破壊。長男は12日に、二男は21日に亡くなった。陸軍報道部山端庸介氏撮影。
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Jul 12, 2023 8 tweets 1 min read
『廃兵はいやだ─祖国に叫ぶ傷痍軍人』
元祭兵団陸軍少尉 坂東公次 著
「敗戦の中での身体障害兵士、これほどみじめなものはなかった。これらの引揚者は帰国後も苦闘の生活を強いられた。戦時中の白衣の兵士という栄光からも落ち、市井の片隅にひっそりと生きる傷痍軍人達の手記」 Image 「脚を失っても手はあるぞ!この手で日本工業技術のお役に立てるぞ」と更生の意気に燃え時計検査に励む傷痍軍人

「友よ我々は必ず祖国の復興に立上がるぞ」と誓い、毎月三回靖国神社の戦友に祈る傷痍軍人

更生基金で白衣の身を巷に曝す世間の目は冷い…だが尊い寄謝によってすでに三千人の廃兵が更生の喜びに生きているImage
Jun 20, 2023 4 tweets 1 min read
オナガ。2羽のヒヨドリに追い回されていた。 Image オナガに飛びかかろうとするヒヨドリ。 Image
Jun 19, 2023 5 tweets 2 min read
橋本欣五郎担当の林逸郎弁護人が、東京裁判前の弁護人選定段階のことを書いているが、こういう話は知らなかった。またそこでの外務省の行動を批判している(『経済往来』昭和29年3月号)。… twitter.com/i/web/status/1… Image 高松宮殿下が米国人弁護人たちをもてなした話を三文字正平弁護人(小磯国昭担当)が述べている(『経済往来』昭和29年3月号)。写真は鴨猟を楽しんだ米国人弁護人達、高松宮殿下とブラノン弁護人。… twitter.com/i/web/status/1… ImageImage
Jun 16, 2023 4 tweets 2 min read
東京裁判で、戦勝国側には天皇を被告にできないなら証人として法廷に呼べという声があった。それが実現すると、かつての重臣たちを前に天皇が「自分は無関係」だなどと言うはずがなく「すべての責任は自分一人にある」と言い出しかねない。それは天皇の退位問題に発展する。… twitter.com/i/web/status/1… Image 東條が語った覚悟については、塩原時三郎(木村兵太郎弁護人)は次のように書いている。(ハンドブック社『東條メモ』)… twitter.com/i/web/status/1… Image
Jun 14, 2023 4 tweets 2 min read
googleブックスでライフ誌が公開されている。1948年1月26日号に掲載された荒木大将と南大将。 ImageImage これもライフ誌。栗田艦隊の砲撃を浴びる護衛空母ガンビアベイ。 Image
Jun 12, 2023 7 tweets 3 min read
「経済往来」昭和31年6月号に、橋本欣五郎と弁護人の林逸郎の対談が掲載されている。その中で橋本が収監中に亡くなった人たちのことを述べている。… twitter.com/i/web/status/1… Image 東郷茂徳の獄中死のことも橋本欣五郎は話している。… twitter.com/i/web/status/1… Image
Jun 4, 2023 4 tweets 1 min read
アルパカが寝ていた。 Image 母からエサをもらう子スズメ Image
Jun 3, 2023 4 tweets 2 min read
巣鴨プリズン収監者の手記を読むと、東條元首相のことに触れているのをよく見かける。
児玉誉士夫も東條元首相のことをよく書いている。

昭和21年2月28日
…中食のとき、はじめて東條さんと廊下で立話をした。… twitter.com/i/web/status/1… Image 昭和21年3月5日
…自分は東條さんと二人で歩きながら雑談した。東條さんもこの頃は次第に元気が出てきたようだ。死線に直面して、心の用意もできてきたためだと思う。この頃家族からお便りがありますか、ときくと、… twitter.com/i/web/status/1… Image
Jun 2, 2023 4 tweets 2 min read
市ヶ谷の極東国際軍事裁判法廷で打ち合わせ中の弁護人たち。重光葵は『巣鴨日記』の中で、これら米国人弁護人の「国境を越えたる職務上の努力は真に敬服に堪えず」と述べている。その弁護の姿勢に、東條元首相は被告席で涙を流したこともあった。… twitter.com/i/web/status/1… Image その日、東條が泣いたという昭和23年3月10日、嶋田繁太郎もローガンの弁護に感激していた。
嶋田の日記には「弁護側最終論告、ローガン氏の自衛論に感激を覚ゆ」とある。 Image