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Aug 10 7 tweets 1 min read Read on X
さて、いまだにコロナの脅威を語る言説が出てくるのをみると、コロナ禍とは対策禍だったと言わざるをえなくなる。未知の危機に対して対策の過不足は理解するが、なくならないものをなくせると考える行き過ぎた科学主義と、人間存在につきまとう《不安》についての洞察の浅さが、これをもたらしている。
そこに加えるべきは、今日の日本人の事大主義であり、この三つはべつにコロナ禍にかかわらず機能しているから、危機のたびに対策禍が起動する。たとえばテレビで繰り返し流れているらしい大地震言説である。特急が止まり、花火がなくなり、海水浴場が閉鎖される。被害を受けるのは若者ばかりである。
「なにかあったらどうするのか」という言葉を、ひとは、行動力を奪う魔法の言葉——すなわち「なにもするな」という命令として聞く。だからほんとうになにかあったら、その人間は、日本では命令を無視した者として見捨てられる。だが、われわれはむしろ、この言葉を行動のために用いなければならない。
「なにかあったらどうするのか」——津波が来たら逃げる、である。風邪を引いたら休む、である。困っている人がいたら助ける、である。夏が来たら海で泳ぐ、である。しかし、今日の日本人はこの言葉を非-行動のために用いる。なにかあってからでは遅いのであり、したがってなにかあってもなにもしない。
5年経っても医療崩壊と言っている。予防には人一倍気を遣いながら、罹った人間を救う準備はついにしてこなかった。震災も同じ。これから起こるらしい南海トラフは気にかけるが、能登や宮崎は気にしない。日本人の「思いやり」は、苦しむひとに向けられているというより、社会的視線を気にすることだ。
「なにかあったらどうするのか」という言葉は、「行動のために備えよ」という命令か、「なにもするな」という命令か(オースティンの言語論では不十分だね)。現代日本人はこれをかならず後者に聞く。恐れて行動しないか、行動せずに恐れる。備えるのは国家であり、あるいは行動は国家に委ねる。
備えるときでさえ、備えるために備えているのである。こうした心理状態が、現代日本人の精神を文字通りマスクのように覆っている。「なにかあったらどうするのか」。この言葉をどのように聞くのか。そこに、これからの日本人の未来を定める分水嶺がある。

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Mar 16, 2023
さて、社会が善に配分してきた「社交」を悪とみなす疫病禍に、人文学者として不満を感じつつも、その対策(ひととの接触を8割減らす)に譲歩してきた。だが、オミクロン登場以後は痺れをきらし、ここでチクチク言い続けてきた。孤独なもので、言葉を発しようとする人文学者には、出会えなかった。
当たり障りのない他者道徳を、現代的なポエムに変えて語るのが哲学、ということか。その他者道徳が疫病をもたらし、疫病対策はその他者道徳を攻撃している、という転倒に、いうべき言葉を失ってしまうのか。日頃の他者道徳は、危機に際しては簡単に生命道徳に白旗をあげる。
一番たちが悪かったのは、沈黙を選ぶより、一部科学者の発言の拡声器になっていた人文学者である。現代の生命道徳は安全観念と切り離すことができない。人間の際限のない安全衝動を焚き付ける扇動めいた科学的言説に対する無警戒と、それを拡散することを道徳と信じる、耐え難い無邪気さ。
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Mar 15, 2023
さて、歴史学をやっているぼくは次のような考え方をするから、若い人は参考にしてほしい。飛沫や呼気のない「言語」は言語学者の頭のなかにしかない。飛沫や呼気とともに——つまり《生活》のなかにしか、言語は存在したことがない。どんな理由があれ、飛沫や呼気を禁じることは、言語を禁じることだ。
同じことが、マスクにもいえる。自分にとってマスクは生活のなかでしか意味をもたない。空間的にはさまざまな顔かたちのうえ、時間的にはさまざまにかたどられる表情のうえに、マスクははりついている。そのマスクを常時「正しく」着用する、ということは、顔を・表情を禁じることだ。
科学者はマスクの効果について、さまざまに実証しようとしただろうが、さまざまな顔や表情のなかに——いいかえれば《生活》のなかに存在するマスクにしか意味はなく、そのことの意味は、正しく装着する、ということは、科学者の夢想だということである。ユニヴァーサル・マスクも同じである。
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Mar 15, 2023
さて、原発事故の際と同じだが、コロナ禍でも「専門家」不信が高まる、という結果になりそうである。それで「素人」の生活者の目線を、というわけだが、その種の昔ながらの抵抗では、毎度同じことの繰り返しになる。生命にかかわるテクノロジーが高度になりすぎ、素人に手出しできないからである。
いまや「生命」は、高度かつ不可視のテクノロジーによって、極限まで防衛されている。にもかかわらず大衆規模の「不安」が発生すると、素人知識人には手出しできない。「専門家」の知見がどうしても必要になる。しかし、その「専門家」の扱うテクノロジーこそ、まさに「不安」の真の発生源なのである。
この悪循環を食い止めるためにフーコーが考えていたのが、《専門家のなかに、専門について批判的たりうる知識人を作ること》である。フーコーはこれをスペシフィックな知識人といったが、日本語では「特定領域の知識人」と翻訳されている。これはむずかしい。たんに専門領域の知識人でいい。
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Mar 15, 2023
さて、マスクがたんなる科学の対象でないのはわかりきっていた。顔、厳密には表情を隠すのだから、人間の社交性を部分的に遮断する。それでマスクをめぐって社会に分断が生じ、科学者が人格にかかわる語(思いやり……)を使用したり、あるいは人格攻撃にいたるようなことも生じている。
日頃「人間」を見ない科学者がマスクを甘く見た結果だと思うが、こんなことはやめねばならない。「新生活習慣」などという一見透明な言葉のチョイスも非常にまずかった。もっといえば、どうしようもないが、「マスク」をカタカナ語で済ませてきたこともまずかった。医療用覆面と訳すべきだった。
欧米人がマスクをやめるのは、彼らには文字通り「医療用覆面」だからではないか。日本で「マスク」といえば、意味が軽くなる。透明になる。それで生政治が驚くほど浸透する。「覆面をするのが思いやり」「無精髭だから医療用覆面で職場に行く」といえば、欧米人はギョッとするだろう。それは倒錯だと。
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Mar 14, 2023
さて、唾液の飛沫について。料理屋の店員にマスクをしてほしい向きがある。だが、彼らも同じ人間である。客である自分の唾液のついた皿を洗うわけだ。自分は店員にマスクは求めない。唾液をわざわざ吹きかけるのでなければ、常識の範囲で、自然にしていてほしい。それより笑顔が見たい。自分はね。
料理屋に行くといえば居酒屋かバーの自分の場合、カウンターで店主と語らうことも多く、食事をする自分はマスクを外しているわけで、同じでいい。健康な店主がつけるとしても、客から自分の身を守るためであって、それ以上の理由はべつにいらない。
他人と呼気も唾液も分け合わないようなコミュニケーションは存在しない。というか呼気も唾液もともなわない言語は言語学者の頭のなかにしか存在しない。呼気と唾液を含むのが言語哲学であって、それこそ人間が生きている空間だね。
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Mar 14, 2023
さて、ユニヴァーサル・マスクについて。「全体」(全称命題)というのは、ヒューム/カントの線で厳密を期すなら、ある種の宗教的・道徳的な概念で、科学的な主題ではありえない。人間について〈いまのところ〉唯一あてはまりそうな、経験から導かれる全称命題は、「すべての人間は死ぬ」だけだね。
ところで、疫病は、「万人」に死をもたらしそうに思えるもので、これに抵抗せねばならないと、ひとは考える。だから歴史的には、これに対応する「全体」をつねに思考してきた。疫病に際して建てられた奈良の大仏(毘盧遮那仏)はそういうもの。「あまねく」光を照らす者だ。
しかし、「全体」は神の所有物。人間に可能な「全体」は、つねに「全体主義」に終わる。ユニヴァーサル・マスクは、経験的には一度も成立したことはなく、つねに例外が存在していた。できないひとがおり、意識的/無意識的な理由でしないひとがいた。それでもひとは疫病に際して「全体」を希求する。
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