田中希生 Profile picture
大学教員。歴史学者(近現代史)。著書に『精神の歴史』2009、『存在の歴史学』2021(いずれも有志舎)。
Feb 26 6 tweets 1 min read
さて、魏志倭人伝によれば、日本人はイレズミをする民族である。イレズミには魔除けの意味がある、ということだが、痛みを伴うものをわざわざ顔に刻みつけるわけで、簡単なことではない。だが、なぜこのようなことが民族レベルで生じるのか、コロナ対策禍を経たいまでは、説明することは容易だ。 魔除けとしてのイレズミなど、もちろん科学的ではないが、当時はそう考えられていたのだろう。邪馬台政府による強制があった、などと考える必要はない。顔になされる魔除け対策は、それをしていないことが如実に周囲にわかる以上、魔を村に持ち込むと「思われる」ことを避けなければならないわけだ。
Feb 26 8 tweets 1 min read
さて、コロナ禍で日本はあきらかに全体主義社会に陥った。恐ろしいのは、一部研究者も、国家による強制でなく《自発的な》「思いやり」ならば、全体主義ではなく、国民主体の望ましい民主主義社会だと考えている節があることだ。「思いやり」を強制される、「自発的服従」について考えてみよう。 「自発的服従」の反対は「反逆」である。服従するかしないかなので、服従しないものは反逆者なのだ。したがって、「反マスク」「反ワクチン」なる言葉が定着する。彼らは「全体」から排除していい異教徒であるか、もしくは彼らが改心して「思いやり」に目覚め「全体」に帰順するかのいずれかしかない。
Aug 10, 2024 7 tweets 1 min read
さて、いまだにコロナの脅威を語る言説が出てくるのをみると、コロナ禍とは対策禍だったと言わざるをえなくなる。未知の危機に対して対策の過不足は理解するが、なくならないものをなくせると考える行き過ぎた科学主義と、人間存在につきまとう《不安》についての洞察の浅さが、これをもたらしている。 そこに加えるべきは、今日の日本人の事大主義であり、この三つはべつにコロナ禍にかかわらず機能しているから、危機のたびに対策禍が起動する。たとえばテレビで繰り返し流れているらしい大地震言説である。特急が止まり、花火がなくなり、海水浴場が閉鎖される。被害を受けるのは若者ばかりである。
Mar 16, 2023 6 tweets 1 min read
さて、社会が善に配分してきた「社交」を悪とみなす疫病禍に、人文学者として不満を感じつつも、その対策(ひととの接触を8割減らす)に譲歩してきた。だが、オミクロン登場以後は痺れをきらし、ここでチクチク言い続けてきた。孤独なもので、言葉を発しようとする人文学者には、出会えなかった。 当たり障りのない他者道徳を、現代的なポエムに変えて語るのが哲学、ということか。その他者道徳が疫病をもたらし、疫病対策はその他者道徳を攻撃している、という転倒に、いうべき言葉を失ってしまうのか。日頃の他者道徳は、危機に際しては簡単に生命道徳に白旗をあげる。
Mar 15, 2023 13 tweets 1 min read
さて、歴史学をやっているぼくは次のような考え方をするから、若い人は参考にしてほしい。飛沫や呼気のない「言語」は言語学者の頭のなかにしかない。飛沫や呼気とともに——つまり《生活》のなかにしか、言語は存在したことがない。どんな理由があれ、飛沫や呼気を禁じることは、言語を禁じることだ。 同じことが、マスクにもいえる。自分にとってマスクは生活のなかでしか意味をもたない。空間的にはさまざまな顔かたちのうえ、時間的にはさまざまにかたどられる表情のうえに、マスクははりついている。そのマスクを常時「正しく」着用する、ということは、顔を・表情を禁じることだ。
Mar 15, 2023 8 tweets 1 min read
さて、原発事故の際と同じだが、コロナ禍でも「専門家」不信が高まる、という結果になりそうである。それで「素人」の生活者の目線を、というわけだが、その種の昔ながらの抵抗では、毎度同じことの繰り返しになる。生命にかかわるテクノロジーが高度になりすぎ、素人に手出しできないからである。 いまや「生命」は、高度かつ不可視のテクノロジーによって、極限まで防衛されている。にもかかわらず大衆規模の「不安」が発生すると、素人知識人には手出しできない。「専門家」の知見がどうしても必要になる。しかし、その「専門家」の扱うテクノロジーこそ、まさに「不安」の真の発生源なのである。
Mar 15, 2023 9 tweets 1 min read
さて、マスクがたんなる科学の対象でないのはわかりきっていた。顔、厳密には表情を隠すのだから、人間の社交性を部分的に遮断する。それでマスクをめぐって社会に分断が生じ、科学者が人格にかかわる語(思いやり……)を使用したり、あるいは人格攻撃にいたるようなことも生じている。 日頃「人間」を見ない科学者がマスクを甘く見た結果だと思うが、こんなことはやめねばならない。「新生活習慣」などという一見透明な言葉のチョイスも非常にまずかった。もっといえば、どうしようもないが、「マスク」をカタカナ語で済ませてきたこともまずかった。医療用覆面と訳すべきだった。
Mar 14, 2023 6 tweets 1 min read
さて、唾液の飛沫について。料理屋の店員にマスクをしてほしい向きがある。だが、彼らも同じ人間である。客である自分の唾液のついた皿を洗うわけだ。自分は店員にマスクは求めない。唾液をわざわざ吹きかけるのでなければ、常識の範囲で、自然にしていてほしい。それより笑顔が見たい。自分はね。 料理屋に行くといえば居酒屋かバーの自分の場合、カウンターで店主と語らうことも多く、食事をする自分はマスクを外しているわけで、同じでいい。健康な店主がつけるとしても、客から自分の身を守るためであって、それ以上の理由はべつにいらない。
Mar 14, 2023 13 tweets 1 min read
さて、ユニヴァーサル・マスクについて。「全体」(全称命題)というのは、ヒューム/カントの線で厳密を期すなら、ある種の宗教的・道徳的な概念で、科学的な主題ではありえない。人間について〈いまのところ〉唯一あてはまりそうな、経験から導かれる全称命題は、「すべての人間は死ぬ」だけだね。 ところで、疫病は、「万人」に死をもたらしそうに思えるもので、これに抵抗せねばならないと、ひとは考える。だから歴史的には、これに対応する「全体」をつねに思考してきた。疫病に際して建てられた奈良の大仏(毘盧遮那仏)はそういうもの。「あまねく」光を照らす者だ。
Mar 13, 2023 12 tweets 1 min read
さて、ネット上では「ノーマスク警察」がいる、とのことだが、ユニヴァーサルマスクを前提にノーマスクを指弾できたのであって、全員がノーマスクでもない現実世界で「警察」は不可能な概念。たんに心に「マスク警察」を養ってきたひとたちが、反照的に生み出した観念にすぎない。そんなものはいない。 自分は笑顔のために道徳的マスクを自由化せよと言っているだけで、べつに科学的にすべきと思っている人はしたらいい。ただ、その「科学」とやらがユニヴァーサルに他人に強要できると考えるほどの科学主義者とは、自分は相容れない。おのが専門に対する自己批判を欠いた科学は科学ではない。
Mar 13, 2023 8 tweets 1 min read
さて、映画が映画でなく、写真が写真でなく、絵画が絵画でなくなっていく時代に、イメージの哲学をと思っている。かつては純文学さえイメージの哲学に遊んでいたのだ。砂浜を走る、赤いシャツを着た子供。目に残る残像=色彩が、虚構である、というのはまちがっている。今日はマスクをはずそう。 自分は脱構築系の哲学とイメージの哲学は厳密に区別すべきと思っている。日本でよく見かけるのは、デリダとドゥルーズの混用だが、理屈はかなりちがう。ひっくり返すための土俵を必要とする前者と、土俵なきイメージの差異を論じる後者は、ぼくからみれば、ぜんぜん違うものだ。
Mar 12, 2023 12 tweets 1 min read
さて、明日でマスクは「道徳」の上でも不要になる。マスクはもちろん強制ではないが、「道徳はのべつまくなし」(大杉栄)である。法にはふつう適用条件があるが、道徳にはそんなものはないからである。それで、他人に見られる可能性のある場所では、ずっとマスクをせねばならなかった。 3月13日という日付は、マスクすべしという「雰囲気」を一掃できる日である。もともと強制でもなく、なにが変わるわけでもない、という言い方はできる。だが、「法」よりも「道徳」の強い現代日本のような国では、雰囲気の変化のほうが真の変化なのだった。
Mar 11, 2023 11 tweets 1 min read
さて、イメージを哲学する、ということで考えたいのは、もちろん純文学のことだ。「精神」と「存在」という主題にケリがついたわけではもちろんないが、純文学を「イメージ」の哲学なしに語ろうと思わない。フランス語で「イマージュ」と言った方がいいかな、とは思う。フランス哲学の主題だね。 日本語でイメージといえば、もう「虚構」の意味になる。たとえば、広告に注意書きされた「写真はイメージです」というような無茶苦茶な使用法。ここでの「イメージ」は、真実ではないことの符牒になっていて、通用しちゃっている。実際、学問的にも、その方向での思考が非常に強固にあった。
Mar 11, 2023 11 tweets 1 min read
さて、イメージの哲学が欠けている。この世界が、音が、風が、自分の網膜に映る、鼓膜を震わせる、皮膜をさらうイメージのとおりにあることの不思議についての哲学。かつて、たしかボルヘスがこう言っていた。「鍵で扉が開くことに、わたしは驚く」と。言葉という鍵が、扉の外のイメージを開放する。 われわれは、密かに、すべての他者と粘膜を共有している。それは過去や未来とも、というかとりわけ過去や未来の他者とそうしている。いまここにある者以外の全ての他者、といいかえていい。イメージは、いまここ以外のすべての場所に満ち、いまここでだけ、認識と対象のごとき堕落したものに変わる。
Mar 11, 2023 8 tweets 1 min read
今日であの震災から12年。とりわけ原発事故は依然として終わらぬ事故だ。終わらせるという政治的な決断が必要な事故でもあり、その力を日本の政治家はもたない。政治家の決断を支えるべき知的な誠実さも、左右の政治的イデオロギーにかき消えてしまう。とりあえず、写楽は美味しくいただいている。 自分の意見は昔から変わっていないが、ウイルス同様、人間の感覚にかからない放射能はイデオロギー問題になりがちだ。知的に対立する者たちによる公開の討論の場が必要で、多分に恐怖にもとづいて選択される民主政治上の争点にいきなりするようなものではなかった。

Mar 10, 2023 14 tweets 1 min read
さて、昨日の夜はピナ・バウシュの「春の祭典」に見入っていた。最近は映画やダンスをみて、《イメージ》をどうすれば復活できるかと考えることが多い。そういう意味で、前にもいったが、カントからデリダにいたる脱構築系の哲学と、イメージの哲学ははっきり区別したほうがいいと思っている。 繰り返しになるが、①「男」や②「女」といった対立的な極限概念をあえて引き受け、それを支える土台としての③「人間=man」を批判する、というタイプの脱構築系の哲学は、その解体の先に④「X」を見出す、という道を取る。理論的にはよくわかるし、理屈として意味があるとは思う。理屈としてね。