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Feb 26 8 tweets 1 min read Read on X
さて、コロナ禍で日本はあきらかに全体主義社会に陥った。恐ろしいのは、一部研究者も、国家による強制でなく《自発的な》「思いやり」ならば、全体主義ではなく、国民主体の望ましい民主主義社会だと考えている節があることだ。「思いやり」を強制される、「自発的服従」について考えてみよう。
「自発的服従」の反対は「反逆」である。服従するかしないかなので、服従しないものは反逆者なのだ。したがって、「反マスク」「反ワクチン」なる言葉が定着する。彼らは「全体」から排除していい異教徒であるか、もしくは彼らが改心して「思いやり」に目覚め「全体」に帰順するかのいずれかしかない。
こうなると、「マスク」や「ワクチン」のほんとうの意味での科学的検証は無視することができる。科学的に効果がありそうだ、というので十分なのである。なぜなら、「自発的服従」の有無だけが、排除と選別の条件だからである。服従しないことが、まさに反逆者として認定していい基準なのである。
原理的には、科学は「アプリオリな総合判断」(予言)ではない。結果にもとづいて検証しなければならず、結果は1年や2年で出るようなものではなく、検証はさらに後である。言い換えると、4年も5年も子供にマスクをさせ続けるような極端なことを、あたかも科学であるかのようにして行なってきた。
要するに、「自発的服従」するかしないか、しないなら「反逆者」すなわち「反ワク」や「反マスク」のレッテルを貼る、ということを、《科学信仰》の名で行ってきただけなのである。この一連の流れのなかに、ほんとうの意味での科学は無関係である。たんに《全体主義社会》だったというにすぎない。
自発的服従、利他主義や思いやりといえる行動ならば、つまり政府による強制でないなら望ましい社会である、というような論調が左派から出るのは理解しやすい。しかし、政府による強制の有無にかかわらず、全体を実現すべく選別と排除の論理が働いたことが、全体主義社会かどうかの基準である。
民衆の不安が束になって行動し始めたら、どんな政体であれ太刀打ちできない。国家的強制の有無はなにも関係がない。ひとはいまや死を恐れて行動しているのに、国家が生殺与奪の暴力をちらつかせても、なんの効果もない。むしろ国家はこの不安のつくる波に乗ろうとしてしまう。乗ることしかできない。
こういう不安の波を抑えるべく、文系の知識人がいると思っていたが、まったくそうならなかった。これでは、なにか外から刺激があるたびに萎縮していく、そういう社会になってしまう。異物を排除しながら小さな平等を実現する衰弱傾向をどうにかして変えなければならない。

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Feb 26
さて、魏志倭人伝によれば、日本人はイレズミをする民族である。イレズミには魔除けの意味がある、ということだが、痛みを伴うものをわざわざ顔に刻みつけるわけで、簡単なことではない。だが、なぜこのようなことが民族レベルで生じるのか、コロナ対策禍を経たいまでは、説明することは容易だ。
魔除けとしてのイレズミなど、もちろん科学的ではないが、当時はそう考えられていたのだろう。邪馬台政府による強制があった、などと考える必要はない。顔になされる魔除け対策は、それをしていないことが如実に周囲にわかる以上、魔を村に持ち込むと「思われる」ことを避けなければならないわけだ。
不自然で息苦しくても、「思いやり」と顔にマスクをしたように、倭人は、痛みを伴うイレズミを「思いやり」にと顔に刻んだのだろう。かくして民族レベルでイレズミをすることになる。こういうことは、魔除けの実効性とは無関係に、人間心理のメカニズムにより、島国では強制なしに発生しうるのである。
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Aug 10, 2024
さて、いまだにコロナの脅威を語る言説が出てくるのをみると、コロナ禍とは対策禍だったと言わざるをえなくなる。未知の危機に対して対策の過不足は理解するが、なくならないものをなくせると考える行き過ぎた科学主義と、人間存在につきまとう《不安》についての洞察の浅さが、これをもたらしている。
そこに加えるべきは、今日の日本人の事大主義であり、この三つはべつにコロナ禍にかかわらず機能しているから、危機のたびに対策禍が起動する。たとえばテレビで繰り返し流れているらしい大地震言説である。特急が止まり、花火がなくなり、海水浴場が閉鎖される。被害を受けるのは若者ばかりである。
「なにかあったらどうするのか」という言葉を、ひとは、行動力を奪う魔法の言葉——すなわち「なにもするな」という命令として聞く。だからほんとうになにかあったら、その人間は、日本では命令を無視した者として見捨てられる。だが、われわれはむしろ、この言葉を行動のために用いなければならない。
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Mar 16, 2023
さて、社会が善に配分してきた「社交」を悪とみなす疫病禍に、人文学者として不満を感じつつも、その対策(ひととの接触を8割減らす)に譲歩してきた。だが、オミクロン登場以後は痺れをきらし、ここでチクチク言い続けてきた。孤独なもので、言葉を発しようとする人文学者には、出会えなかった。
当たり障りのない他者道徳を、現代的なポエムに変えて語るのが哲学、ということか。その他者道徳が疫病をもたらし、疫病対策はその他者道徳を攻撃している、という転倒に、いうべき言葉を失ってしまうのか。日頃の他者道徳は、危機に際しては簡単に生命道徳に白旗をあげる。
一番たちが悪かったのは、沈黙を選ぶより、一部科学者の発言の拡声器になっていた人文学者である。現代の生命道徳は安全観念と切り離すことができない。人間の際限のない安全衝動を焚き付ける扇動めいた科学的言説に対する無警戒と、それを拡散することを道徳と信じる、耐え難い無邪気さ。
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Mar 15, 2023
さて、歴史学をやっているぼくは次のような考え方をするから、若い人は参考にしてほしい。飛沫や呼気のない「言語」は言語学者の頭のなかにしかない。飛沫や呼気とともに——つまり《生活》のなかにしか、言語は存在したことがない。どんな理由があれ、飛沫や呼気を禁じることは、言語を禁じることだ。
同じことが、マスクにもいえる。自分にとってマスクは生活のなかでしか意味をもたない。空間的にはさまざまな顔かたちのうえ、時間的にはさまざまにかたどられる表情のうえに、マスクははりついている。そのマスクを常時「正しく」着用する、ということは、顔を・表情を禁じることだ。
科学者はマスクの効果について、さまざまに実証しようとしただろうが、さまざまな顔や表情のなかに——いいかえれば《生活》のなかに存在するマスクにしか意味はなく、そのことの意味は、正しく装着する、ということは、科学者の夢想だということである。ユニヴァーサル・マスクも同じである。
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Mar 15, 2023
さて、原発事故の際と同じだが、コロナ禍でも「専門家」不信が高まる、という結果になりそうである。それで「素人」の生活者の目線を、というわけだが、その種の昔ながらの抵抗では、毎度同じことの繰り返しになる。生命にかかわるテクノロジーが高度になりすぎ、素人に手出しできないからである。
いまや「生命」は、高度かつ不可視のテクノロジーによって、極限まで防衛されている。にもかかわらず大衆規模の「不安」が発生すると、素人知識人には手出しできない。「専門家」の知見がどうしても必要になる。しかし、その「専門家」の扱うテクノロジーこそ、まさに「不安」の真の発生源なのである。
この悪循環を食い止めるためにフーコーが考えていたのが、《専門家のなかに、専門について批判的たりうる知識人を作ること》である。フーコーはこれをスペシフィックな知識人といったが、日本語では「特定領域の知識人」と翻訳されている。これはむずかしい。たんに専門領域の知識人でいい。
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Mar 15, 2023
さて、マスクがたんなる科学の対象でないのはわかりきっていた。顔、厳密には表情を隠すのだから、人間の社交性を部分的に遮断する。それでマスクをめぐって社会に分断が生じ、科学者が人格にかかわる語(思いやり……)を使用したり、あるいは人格攻撃にいたるようなことも生じている。
日頃「人間」を見ない科学者がマスクを甘く見た結果だと思うが、こんなことはやめねばならない。「新生活習慣」などという一見透明な言葉のチョイスも非常にまずかった。もっといえば、どうしようもないが、「マスク」をカタカナ語で済ませてきたこともまずかった。医療用覆面と訳すべきだった。
欧米人がマスクをやめるのは、彼らには文字通り「医療用覆面」だからではないか。日本で「マスク」といえば、意味が軽くなる。透明になる。それで生政治が驚くほど浸透する。「覆面をするのが思いやり」「無精髭だから医療用覆面で職場に行く」といえば、欧米人はギョッとするだろう。それは倒錯だと。
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