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本間雅晴中将の裁判で、妻富士子は証人としてマニラに飛んできて、次のように証言した。「私は今なお本間の妻たることを誇りにしています。私は夫、本間に感謝しています。娘も本間のような男に嫁がせたいと思っています。息子には、日本の忠臣であるお父さんのような人になれと教えます。私が、本間に関して証言することは、ただそれだけです」Image
この時のことを本間中将は書き残している。「妻がマニラに来た事は非常な手柄であった。妻に接触するものを通じて本間並本間の家庭が明らかになった。証人台に立って『今なお本間雅晴の妻たるを誇りとする、娘もまた本間の様な人に嫁せしめたい』との証言は満廷を感動せしめ何人の証言よりも強かった。キング少将の副官も、検事のリムも感動したそうだ。日本婦人と云うものを知らぬ米人並びに比人に日本婦道をはっきりと知らしめた英雄的言動であった。私はこれだけでも非常に嬉しく思う。日本婦人史に特筆すべき事蹟と思う。毎日逢えぬでも妻がマニラにおると云うことは私にどれだけの慰めとなり力となったか知れない。今夜の一時に空路帰るという。これから私は淋しくなる。もうこの世で逢えぬと思うと名残はつきぬ。どうか幸福に健康に暮してくれ」

富士子の証言を聞いた法廷の人々の中で、いちばん感動したのは本間中将自身であり、法廷で泣いていた。Image
本間雅晴中将が処刑前に子供たちに遺した手紙より

之は父が御身達に残す此の世の最後の絶筆である。父は米国の法廷に於て父の言い分を十分述べて無罪を主張した。然しこんな不公正な裁判でこちらの意見が通る訳はない。遂に死刑の宣告を受けた。
死刑の宣告は私に罪があると云うことを意味するものに非ずして、米国が痛快な復讐をしたと云う満足を意味するものである。私の良心は之が為に毫末も曇らない。日本国民は全員私を信じてくれると思う。戦友等の為に死ぬ、之より大なる愛はないと信じて安んじて死ぬ。

母ははるばるマニラまで来て実に立派に働いて呉れた。法廷に於ける母の証言は完全であったと弁護団の人達は言った。母は他の私の友人達と共に人事の限りを尽してくれた。
米国が公正な国だというのは真赤な嘘だ。然し弁護人六人は実に見事で驚嘆すべき活動をしてくれた。到底日本人の出来ぬ努力と態度を示して呉れた。是等の人々には十二分な感謝と敬意とを払わねばならぬ。
母の正義感は正しく強い。御身等は珍しく立派な母をもったことに感謝し孝養を尽さなければならぬ。

これから世の中に立って行くに就いて
常に利害を考うる前に正邪を判断する事。
素行上に注意し、汚点を残さぬようにすること。
一時の感情から一生の後悔を残さぬよう。
之を更に繰返して訓戒して置く。御身等の顔を見ずに死んで行く事は何んとしても一番大きな心残りである。然しこれも運命で致し方はない。

米国を対手として五週間華々しくも戦って全力を尽した。始めから敗け戦と知りつつ遺憾なく戦った。父の末路としては病床に老死するよりは遥かに意義あるものとして諦めてくれ。
御身達は日本国民として祖国の再建を忘れてはならぬ。又皇室の御運命を考え忠節を尽すことを瞬時も忘れぬ様。之が三千年来日本人の血の中に流れている真の心である。
いくら書いても名残はつきぬ。父は御身達が立派な人間として修養を積み人格を完成し世人の敬意を受けるような人となることを信じて且祈っている。

母を大事にして呉れ。母は父が御身達に残す最大の遺産であり御身達は又父が母に残して行く最大の遺産である。
後山の祖母も行く先が長くない身であり御身達と同じ血の流れである。父に代って大事にして晩年を安らかにしてやってくれ。
それでは左様なら。左様なら丈夫で暮せよ。

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Feb 5
『世紀の遺書』には水口安俊軍医少尉の日記と遺書が収録されている。上坂冬子編『巣鴨・戦犯絞首刑―ある戦犯の獄中手記』は、水口軍医少尉の日記が一冊の本になったものであるが、そこには『世紀の遺書』にはなかった水口少尉の妻の話がたくさん出てくる。水口夫妻は昭和20年4月に結婚、8月に朝鮮から命からがら引き揚げ、12月に少尉は戦犯として逮捕された。日記の中で妻のことが書かれた部分を以下にツイートします。

#世紀の遺書Image
昭和21年1月8日(火)三食毎に美味しいコーヒー、紅茶がつくのだが、人一倍興奮性の強い小生は夜眠られぬ事を心配して、夕食時のこの飲物を割愛せねばならないのは惜しい気がする。この香りの良い甘味の適当に利いた一杯を雪子にのませてやりたい、まことに残念である。…雪子への便りの末尾に愚策の句を書いてみた。何と解釈するだろうか。…
昭和21年1月14日(月)昨日、安全カミソリ、ナイフ、針、鏡を散歩している間に発見されて取り上げられたので、今後不自由をするかも知れない。針はあると随分重宝するのだけれど。鏡は、雪子が私に京城駅で、私が群山方面に出張する際、手渡してくれた時以来、大切に持っていた小綺麗なもので、いわば雪子の片身とでもいった品なのだが、遂に巣鴨でそれとはぐれてしまった。
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Dec 21, 2024
出撃の日、昭和20年5月18日、地元知覧の人達に見送られ、トラック上で答礼する第五十三振武隊隊員たち。 Image
第五十三振武隊 天誅隊、出撃30分前、朝日新聞富重安雄氏撮影。隊長近間満男少尉、小笠五夫少尉、三島芳郎少尉、梅野芳郎伍長、土器手茂生伍長、星忠治伍長、丸山好男伍長、山崎忠伍長。このとき富重氏は、隊員(左から2人目)から「御両親様 昭和二十年五月十八日十九時二十分頃 沖縄島周辺にて戦死す。十四時三十分出発前書す」と紙切れに走り書きされた「遺書」を託されたという。Image
第五十三振武隊隊員、出撃20分前、最後の食事。 Image
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Dec 21, 2024
巣鴨プリズンで処刑が行われた後の清掃作業は、収監中の日本人がやらされていた。悲憤の涙にくれながら作業したという話がたくさん残されている。『…戦後、私の小学校の同級生が戦争犯罪人として巣鴨拘置所に居たことがある。今は若者であふれているサンシャインのあたりが、金網に囲まれた巣鴨拘置所であった。銃を持ってサングラスをかけたMPの監視の下での面会ではそんな話は出来なかったが、その友人が出所後話してくれた言葉は今も忘れることが出来ない。拘置所の中でも色々な使役があって、それぞれに出来る作業が課せられるが、ある時処刑場の清掃にかり出されたときのことだ。その前夜処刑された人の死体こそないが、血糊のべったり着いた目隠し用の袋等が散乱していたりして、「昨日まで一緒だったあの人がと思うと、胸が張り裂けるような気持になって涙がボロボロと出て止まらなかった。自分達の獄舎に帰る時は、みんな下を向いて蟻を踏まないように歩くんだよ。蟻一匹でも命あるものを殺すことが出来ないんだよ」と話してくれたことを想い出す…』

西大由「いのち」『インセクタリゥム』1997年9月号

#世紀の遺書Image
『占領軍は、数多くの日本人を巣鴨拘置所の内で、ロープにかけて絞首刑にしていた。刑場は拘置所の一隅の赤煉瓦の囲いの内にあった。斎藤は未決当時から、通訳として所内の掃除などに引っ張りだされていたので、刑場の内にも四、五回入った。最初、見たときの恐怖は、いまも忘れられない。…処刑の様子を想像するだけで、心臓がドキドキし、目につくすべてが呪わしく、また腹立たしく、掃除もそこそこに引き揚げた。
…それから二年ほどして、また刑場の掃除に引っ張りだされたが、内部はすっかり変わっていた。…米兵がスイッチを入れると、真新しい舞台のような刑場が、強いライトの下に照らしだされた。幅四、五メートルの木造の十三階段が、すぐ目の前にあった。それを昇ると、板張りの広い床があった。床の突き当たりのコンクリート壁のところに、腕木が四本ほど並んで突き出ていた。首に巻いたロープで腕木に吊られる仕掛とわかった。
それぞれの腕木には、それに吊られて殺されたA級七人の姓が、ローマ字で荒々しく書きつけてあった。ボールペンや万年筆で書かれた文字からは、血に飢えた悪党どもの嘲笑が聞こえるようだった。
幸い周囲に血痕は認められず、惨劇の名残りを見ないですんだが、絞首の情況や、ロープに吊られた肉体の動きが目に見えるようで、息づまる思いだった。
あの処刑の二十三年十二月二十三日の夜半には、ドラム缶をハンマーで叩きつけたような激しい音が拘置所内に響き渡り、第二棟の一室に寝ていた斎藤も目をさまし、さては処刑かと気づいて、冷たい布団の中で切ない思いを耐えていなければならなかった。
あのときの激しい音は、ここの踏み板がバネで一挙に引き落とされ、コンクリートの壁を打った衝撃音とわかった。』

中山喜代平『茨の冠』Image
『…絞首台の掃除人員に指摘されるとまったくいやな思いをしなければならなかった。「使役五名を出せ」と言ってくる。労務係は表を見て五名を選び出す。ジェイラーの「レッツゴー」の号令で通訳も同行するのだ。…十三号の扉が見えてくる。…各自の顔から笑いが消えて、血の気が引いていく。
「とまれ」
ことここにいたったらもう仕方がない。しかしみんなの顔に一抹の不安の色と同時に、好奇の色が浮かんでくるのも事実である。
…絞首台のハネ板をふきながらその構造をのみこむ。あのハンドルを引くとこのハネ板を留めているバネがはずれる。するとハネ板はバターンとチョウツガイのはめてある部分で垂直にさがるのだ。すると、今迄その上に立っていた人間は、宙ブラリンと吊り下げられる。そんなことを考えて清掃している。ハネ板の下の空間が底なしの深淵のように見えてくる。
…ある男がこんなことを言った。
「チェッ、おれが絞首刑になるかもしれないことを知っていながら、絞首台掃除につれだすなんて、ひどいやつだッ」
そして彼は、彼がかつてふき清めた絞首台のハネ板の上に平然と立って、それから消え去った。第三者には平然とした態度に見えても、本人の胸中にはあらゆる感慨が怒濤の渦を巻き起こしていたにちがいない…』

吉浦亀雄『黄色い部屋 : スガモ・プリズンの通訳医者』

#世紀の遺書Image
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Dec 19, 2024
東池袋中央公園の戦争裁判の碑がある一角を作図してGoogleマップの航空写真と重ね合わせた。 Image
処刑台があった位置を特定するために、以前goo地図と昭和22年の航空写真と切り換えられるサービス(現在終了)を利用した。しかし、その地図の碑のある四角い部分は、今回の作図と比べると、かなり位置が違っている(ヤフーマップもグー地図とほぼ同じ形状)。以前は米軍設置の処刑台の位置を、碑のすぐ後ろと推定したが、今回の作図に基づけば、もっと後ろの林の部分になりそうだ。Image
作図した現在「戦争裁判の碑」がある一角に、さらに過去の処刑場の図を重ねた。右の一つの■があるのが、昔からある処刑台で、左の五つあるのが米軍が新設し、A級“戦犯”を処刑した処刑台。この図では、米軍設置の処刑台は、石碑の後方6~7mのラインで、林の中にある。 Image
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Nov 30, 2024
小野田寛郎少尉が故郷に帰ったときの映像。和歌山市内の国道も小野田さんを迎える人たちでいっぱいだった。その時の小野田さんの笑顔を覚えている。

元動画
あのじゅうよ~ 第35回
小野田さんは帰郷時のことを次のように書いている。「新大阪駅から和歌山市までがこれまた大変であった。和歌山県がさしまわした大型バスに乗せられて大阪市内を通り抜けて行ったのであるが、沿道はずっと歓迎の人で埋まっていて、手を振ってくれる。左側の席から私は立ちっ放しで挨拶した。座席からでは右側の人びとに応えることができないからである。歓迎の人の群れは大阪―和歌山間の国道へ出ても絶えない。ついに私は運転席の横に立つはめになり、沿道の右と左の人びとに頭を下げつづけた。
行けども行けども人の群れだった。その人びとの中に膝を地について拝んで下さる老婆もいく人も見た。老婆はかつてわが子を戦場へ送り出した方だろう。あるいは息子さんが亡くなられたのかもしれない。私はあらん限りの力で手を振って応えたが、不覚にも涙が流れ出てとまらなかった」

小野田寛郎『わがブラジル人生』よりImage
小野田さんは、帰郷までの過密なスケジュール、その間のマスコミの加熱取材、1時間半もバスの中で立ちっぱなしで歓迎に応えたこと、和歌山県庁での盛大な歓迎式など、朝からの強行軍で帰郷前にすでに疲れ果てていたという。私は見たのは県庁から海南の間で、多くの人が沿道に出て小野田さんを迎えていた。この時はバスの左前に、小野田さんは座って満面の笑みで歓迎に応えてくれていた。小野田さんの姿は下の方までよく見えた。その隣にバスガイドのような女性が立って同じく笑顔で歓迎に応えていた。
小野田さん、そんなに疲弊した状態で、満面の笑顔で応えてくれていたのか。Image
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Nov 14, 2024
板垣征四郎大将の夫人喜久子さんが『秘録板垣征四郎』の中で亡き夫を追憶しているが、一個所おもしろい記述があった。「(夫は)大の風呂好きでしたが、帰りの時間が一定しませんために家中の者が入り損ねる事が度々でしたので、いつか朝湯の習慣ができ毎朝かかしませんでした。体中の石鹸の泡に埋めて実に念入りに洗い清め、頭にはローションを振りかけ、これまた誠に念入りにブラシで摩擦致しますので、余り過ぎると却って禿ると止めますと、刺戟によって毛が生えるのだといつも意見が合いませんでしたが、どうやらこの勝負は私の勝になりましたようでございます」Image
元駐独大使大島浩は板垣征四郎大将について次のように述べている。『板垣将軍とは明治の末期、士官学校区隊長として隣接の中隊に勤務し、区隊長室も近かったため、二年にわたり常にお会いしており、人格高潔、態度端正の青年将校であった将軍壮時の印象は今なお私にのこっています。……
巣鴨刑務所に於て、米軍は我々を政治犯として取り扱わず刑事犯罪人と見做したため、その処遇は非礼をきわめて、板垣将軍が黙々として廊下の掃除などしておられた姿を思い出します。米国は極東軍事裁判の目的を正義、人道の維持にありと高唱しましたが、事実は全く異り、今ここで論ずる積リはありませんが、次の一事で明白になると思います。
「昭和二十三年晩秋、私に付けられたる米弁護士カニングハム氏は米国で開かれたる弁米弁護士大会に出席し、東京裁判は復讐と宣伝なりと演説し、米軍の怒りに触れ、極東裁判より追放せられた」
戦勝国のみによって行なったこの裁判は真実を裁くとは思いもよらず、牽強の断罪に終始しました。米国は初め満洲事変を入れる考がなかったのに、支那の要請により加えたとのことです。しかも同国の判検事は支那関係戦犯を死刑にするため他国判事に働きかけ、七名の処刑者中満洲事変に関し、板垣、土肥原、南京事件に関し、松井、広田の計四氏を出しました。
三年にわたる陰惨なる獄中生活に於て板垣将軍は日夜仏経典に親しみ、悟道に努められ、高僧の如き風格が窺われました。処刑は昭和二十三年十二月二十三日、北風すさび微雨降る夜半に行われましたが、板垣将軍が従容としてこの暴戻無辜の断罪を甘受せられたることは敬服に堪えません』Image
企画院総裁鈴木貞一が語る板垣大将『私は板垣大将より六期後輩であるが、大正十一年頃、参謀本部で板垣少佐(当時兵要地誌班長兼陸大教官であった)と同じ部内で勤務して知り合ってから、大正十三年以降北京の駐在武官の補佐官として勤務せる板垣の下に列し、その後満洲事変前後以来しばしば接触の機会が多かった。続いて昭和十一年、私が東満洲国境東寧の歩兵第十四連隊長時代に板垣が関東軍参謀長であり、又板垣が南京の支那派遣軍総参謀長時代に私は興亜院政務部長としてしばしば出向いて接触した。……
昭和二十一年春から東京裁判が開始され、私もA級戦犯の一員として巣鴨にとらわれの身となっていた。
そのある日、突然私の房に板垣がつれられて来て、同房の身となった。
奇しき因縁に二人は苦笑しながら、
「死ぬまで一緒だね」
と云って、二人で昔話に花を咲かせたものであった。
東京裁判は、つまりは復讐の裁判であるから、我々二人は勿論死刑である。しかし何日も生きられるか分らぬが、生きている限り日本の正しかったことは大いに強調しようと語り合ったものである。
板垣も私と同じ日蓮宗に帰依していたが、多くの戦犯の中でも板垣は、死をみること帰するが如き潔い心境で際立って達観している様に見られた。散歩している姿も屈託なく、悠然としており、暑い時には紙で作った帽子をかぶり飄然として、知った人に会うと例の調子で「オーオー」と云って無頓着、恬淡な風貌は最後迄変わらなかった。
最後の判決を受けた時の毅然たる態度、そしてその直後面会書で夫々家族と金網越しに面会の折互いに眼と眼を見交わして目礼したが、これが板垣との最後の別れであった。その刑場での態度も定めし立派であったろうと私は確信している。
現代には、あのような人がいないことを私はいつも残念に思っている。
板垣は一言で云うと至誠の人であった。至誠を以て断行する人であった。彼は決して知謀の人ではない。知者から見ると愚物だと思われるであろう、「大知は拙なるが如し」の言葉通り彼は傑出しており、人間味あふれる、肚の人であり、私は大西郷を親しく知らないが想像するに、板垣は正に西郷南洲のような人ではないかと思っている。
彼は知者をつけるとすばらしい働きをする。その知者たる部下がいつでも生命を捧げて、彼のために尽瘁する徳を備えていたと云うべきである。
反面彼は、その知者たる部下のため過まられることもあり得る。部下を絶対に信頼して、その責任を自らとるためその行動が矛盾して受け取られることがある。……
話は変るが、板垣の家庭は実に立派であった。私は北京で、双方共家族携行で燐家の親しい交際をしたが、彼は家族を大切にして子煩悩な温い人柄であったし、喜久子夫人はしとやかで、然も歌人としての才能があり、内に子弟を守って外に夫を存分に働かせる型の賢夫人であり、情誼に厚い羨しい限りの家庭であった。
「死ぬまで一緒だね」と云い合った彼と私であったが、私は死一等を減ぜられて今なお天命を保ちつづけているが、今にして思えば、軍人には珍しい包容力と度量とを有せる板垣氏をして、現代の如き混沌たる世相にその生を完うせしめたらと追憶すること切である』

『秘録板垣征四郎』
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