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【どえらいもんを聞いた話】

四国護国神社巡りの二日目、高知黒潮ホテルに泊まり、隣接している日帰り温泉に入浴できるとのことだったので閉館ギリギリにひとっ風呂浴びた。
風呂から出ると、館内には蛍の光が流れており、閉館の準備が進んでいたが、一節を聴いて耳を疑った。

なんと3番の歌詞が流れていたからだ。『ええーっ!』と思いながら聴き続けると、4番までしっかり流れてまた1番からループしていた。

『蛍の光』は明治14年に小学校唱歌として発表されたが、実は4番まで歌詞がある。
3番と4番は日本の領土がどこからどこまでなのかを明確に示し、『国の為、皆で力を合わせて守りましょう』という歌詞だ。

しかし敗戦後に3番と4番は教科書から消され、現代日本人は存在すら知らない人が多い。(『われは海の子』も実は7番まであるが、今は3番までしか歌われない)

そんな背景があるので、3番4番を歌っている音源を聴くのは初めてだった。
この音源はどこのものか知りたくて知りたくてウズウズしてしまい、意を決して店員さんに聞いてみた。

『あの、すみません、つかぬことを伺いますがこの蛍の光はCDですか?』
『えっ、有線だと思いますけど』
『えっ、有線でこれが流れてるんですか?』
『えっ?』
『少し勉強をしている者なのですが、3番4番の歌つきの音源はとても珍しいので、もしCDだったらジャケットを見せていただきたいと思ったのです』
『(困惑)多分有線だと思うんですが、私はよくわからないので、わかる者がもうすぐくるので少しお待ちください』

困惑する店員さん。すまん。
聞くと、この店員さんは12年ほどお勤めだが、来た時からこの音源は流していて、この温泉は20年ほど前からやっているとのこと。
3番4番は意図的に消されたものなので、有線で流しているとは考えにくい。

しばらくすると別の店員さんがやってきて、
『ああ、これはCDですよ』と、CDを取り出して見せてくれた。生憎ジャケットは紛失してないそうだが、CDの表面を見ると23年前に発売された『式典・儀式の音楽』という実用シリーズでBGM用に作られたもののようだ。

『これは貴重ですよ!』

と興奮する私。店員さんは苦笑いだったが『また聴きに来て下さい』と優しく言ってくださった。

部屋に帰り、すぐさまCDを探してみたところ、コレかな?と思うものを中古で発見。とりあえずポチった。
今日それが届いたので早速開けてみるとビンゴ!

TSUTAYA八戸ノ里店のレンタル落ちでケースも割れていて、入荷して短期間でレンタル終了していた。まぁ、誰も借りなかったのは理解できる。
ジャケットの冊子は曲の説明など一切なく、式典儀式の種類や作法、運営方法などの指南がつらつらと書かれていた。

しかし、これを作った人の意図がどんなものであったか想像するだけで胸熱。そして4番の歌い方で、単語の途中で伸ばす音をどこにするかを悩み、多分こっちだろうと決め打ちして歌っていた部分が正解だったこともまた嬉しい私であった。
いやぁ、どこで何に出会うか分からんもんだね。
これが人生よな。

蛍の光の歌詞、解説、歌唱ビデオはツリーに貼っておきます。

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Mar 10, 2024
【写真閲覧注意】

79年前の今日、昭和20(1945)年3月10日は東京大空襲のあった日。

昭和17年4月から米軍による日本本土の空襲があって以来、人々は空襲に備え火災の消化訓練を行なったり、防空壕を掘ったり、学童を疎開させたりと備えた。
19年7月、サイパンに上陸した米軍は飛行場を整備し、大型爆撃機B29での日本本土への飛来が容易になり、翌20年本土空襲は激化。

2月になると爆弾は、木造家屋を焼き尽くすのに好都合である粘着性の高いナパーム油脂を注入した焼夷弾へと変更され、レーダーによって正確に投弾、風の強い日などを狙って空爆が行われるようになった。

3月9日の夜、東京は強風が吹き荒ぶ天候で、午後10時頃からぽつぽつ飛来した敵機は翌10日の午前0時過ぎ、B29約300機の大編成へと変わり東京の下町へ襲来、超低空で次々と爆撃を開始した。

全部で18万9590個もの焼夷弾を2時間半にわたり繰り返し繰り返し投下する『じゅうたん爆撃』をし、現江東区、墨田区、台東区、中央区を完膚なきまでに焼き尽くし、26万8000戸の家が焼失、8万3000人以上が焼死した。防空壕に埋められた人、灼熱地獄から逃れようと隅田川に飛び込んで溺れた人等の数は正確には分かっておらず、死者は10万人以上とも言われ、罹災者数は100万人にも及んだ。
これは広島、長崎の原爆に匹敵するほどの壊滅的な大打撃を与えた。

非戦闘員を無差別に虐殺するアメリカ軍の行為は、当時の国際法からしても明確な戦争犯罪である。しかし戦勝国の戦争犯罪は裁かれず、敗戦国の日本だけが裁判とは名ばかりの東京裁判で不当に罪を背負わされた。これは全くフェアではない。
今更『謝れ!』と迫る必要は無いと思うが、事実を正しく認識した上で平和を希求することが、無念に亡くなった方々への弔いになると思う。

私は台東区に住んでいるが、我が家のある一体もあの日、猛火に包まれ人が逃げ惑い、炭化した遺体がそこらじゅうに転がっていたのだなと、毎日のように想像してしまう。
今の平和はそういった方々の犠牲の上に成り立っていることをゆめゆめ忘れてはならない。

今日は資料展と東京都慰霊堂、東京復興記念館、そして東京大空襲戦災犠牲者追悼碑を巡った。Image
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墨田区の両国近くにある東京都慰霊堂と東京都復興記念館。
慰霊堂には関東大震災と東京大空襲で亡くなられた方々の納骨堂があり、東京都復興記念館はそれらの資料が展示されている。
花で飾られているのは東京空襲の犠牲者を追悼し平和を祈念する碑。内部には犠牲者の名簿が30数巻保管されている。


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言問橋にある、東京大空襲戦災犠牲者追悼碑と、当時のまま残る言問橋の親柱(おやばしら)。焼かれて黒く煤けている。


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