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三浦崇子
@miura_takako
世界中を旅する声楽家、ピアノ弾き。50カ国を一人放浪し、日本の素晴らしさに気づき、50年後100年後の日本の為に出来ることを追求中。 伊勢神宮崇敬会員。靖󠄁國神社崇敬奉賛会員。避難用サブ垢@MIURA_TAKAKO2
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Aug 2
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【竹田恒泰氏の戦後80年談話文字起こし】①/④
終戦80年を迎えるにあたり先の大戦への道のり、大戦に敗北した理由、戦後の歩みについて、私たちは歴史の教訓の中から学び、未来の日本を想像しなければなりません。
ヨーロッパ諸国は15世紀から世界へと海洋進出を開始し、主にスペインとポルトガルが競って世界の地域を次々と植民地にしていきました。17世紀になると今度はオランダ、イギリス、フランスなどがいち早く近代化を成し遂げ産業革命を進めていきました。
日本を始めとするアジア諸国は未だ近世社会の中にあり、その産業は家内制手工業の領域に留まるものでした。
欧米諸国は次々とアジアの国々を植民地にしていき、遂に19世紀には日本とタイを除くアジアのすべての国を支配下に置きました。フィリピンはアメリカ、インドネシアはオランダ、ビルマとインドとマレーシアとシンガポールとブルネイと香港はイギリス、ベトナムとカンボジアとラオスはフランス、マカオはポルトガルといった具合です。
日本は19世紀後半に明治維新によりアジアで最初に憲法を持ち、アジアで最初に政治と産業を近代化させたことで、欧米列強の植民地になることを阻止することができました。
明治時代には日清戦争と日露戦争に勝利を収め、独立を保つことができました。特に日露戦争は有色人種が白人に勝った初めての戦争だったため、欧米列強の植民地支配に苦しむアジア、アラブ、アフリカ、中南米の人々に勇気と希望を与えました。
第一次世界大戦でわが国は、日英同盟を根拠に参戦し戦勝国となり、戦後の国際秩序を保つために設立された国際連盟の常任理事国となりました。
国際連盟の設立にあたり、我が国は人種差別撤廃を規約に盛り込むように提案しました。これは国際会議における人種差別撤廃に関する世界初の提案でした。しかしアメリカがこれに反対したため規約に記載される事はありませんでした。
日本はソ連から国を守るために満州地域にソ連の傀儡ではない独立国の存在を必要としました。そのため日本軍は満州を支配していた軍閥の張学良を倒して満州帝国を建国しました。
満州建国に際して、ゲリラ事件や民衆の抵抗はありませんでした。満州は張学良の暴政により3000万人を超える満州の民衆が強い不満を募らせていました。
このような日本の行いに対しては欧米列強から強い批判がありましたが、大きなお世話です。これまで欧米列強が各地を軍事占領して独立国に導いたことなどはありませんでした。
日本の支援なくして満州国の建国はなかったとも非難されました。しかしアメリカはフランスの支援なくして独立戦争には勝てなかったでしょう。またパナマ運河を生命線と見たアメリカが支援してこそ、パナマはコロンビアから独立できました。
満州国は日本の傀儡であるとも批判されましたが、それはお門違いです。当時中国は統一国家建設途上で、日本人が満州を支配していた軍閥を打倒して、満州国を建国したのが満州事変でした。辛亥革命で滅亡した清の皇帝は満州族でしたから末代の溥儀が満州国の皇帝となったのは自然なことでした。(続く) ②/④
結局日本は国際社会からの厳しい批判を受けて、国際連盟から脱退することになりました。問題はそこから先です。
盧溝橋事件をきっかけに、日本が中国大陸で国民党軍との全面戦争に突入しました。日本の終局的な敵は日本侵略を目論むソ連でしたから、国民党軍との戦争は、日本にとって意味のない無益な戦争でした。
当初は軍の暴走で事態は拡大しましたが、続けて政府が暴走し、和平の機会を自ら失っていきました。しかも極めて愚かなことに、日本はあの鬼畜のヒトラーを信用して同盟を組み、あの人でなしのスターリンを信用して、日ソ中立条約を結ぶという過ちを重ねました。
アメリカは日本を敵国とみなし鉄の輸出を停止しました。そんな中、日本は愚かにも資源を確保するために、南部仏印(ベトナム南部)に軍を進駐させるとそれに対してアメリカは対日経済制裁を発動させました。日本は重要資源をアメリカからの輸入に頼っていたため、日本は経済を維持することができなくなりました。
昭和天皇はドイツのような国と同盟を組むことに強い懸念を示していらっしゃいました。また昭和天皇は、南部仏印に進駐したらアメリカが日本に経済制裁をしてくるのではないかと、ご懸念をお示しになりましたが政府と統帥部の幹部はそれはありえないと一蹴したのです。国際情勢を正しく読み解いていたのは昭和天皇だけだったといえます。
日本は必死にアメリカとの和平を求めましたが、アメリカは一切交渉に応じませんでした。アメリカは日本海軍と日本外務省の暗号を解読していたので、日本の行動はすべて事前に察知していました。
アメリカ大統領は、陸軍長官に『我々があまり大きな危険にさらされることなしに、いかにして日本側に最初の一弾を打たせるような立場に彼らを追い込むか』と述べていました。
アメリカ大統領は日本からの攻撃を受ければ、アメリカがヨーロッパ戦線に参戦する口実になるため日本に攻めてもらいたいと思っていましたが、日本は愚かにも大統領のその思いには考えも及びませんでした。
日本が絶対に受諾できない内容が書かれたハルノートが示されたことで、日本は対米戦争の開戦を決意することになります。
真珠湾攻撃で対米戦争が始まりました。しかし間もなく連合国の反抗を受け、日本軍は徐々に追い詰められていきました。アメリカ軍はヨーロッパ戦線に駆けつけるため主力部隊は大西洋にいましたので、日本との戦いに投入できる戦力は限定的でした。そのため、日本軍の戦力は米軍の戦力を上回っていました。しかし日本軍は精神性ばかりに重きを置いて作戦を軽視してしまいました。それが主な敗因でした。
マリアナ諸島を失い、硫黄島を失うと、アメリカ軍は長距離爆撃機を使って日本中の都市を焼き尽くし、ついには広島と長崎に原爆が投下されました。約100万人の罪のない民間人が殺されました。(続く)
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Mar 10, 2024
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【写真閲覧注意】
79年前の今日、昭和20(1945)年3月10日は東京大空襲のあった日。
昭和17年4月から米軍による日本本土の空襲があって以来、人々は空襲に備え火災の消化訓練を行なったり、防空壕を掘ったり、学童を疎開させたりと備えた。
19年7月、サイパンに上陸した米軍は飛行場を整備し、大型爆撃機B29での日本本土への飛来が容易になり、翌20年本土空襲は激化。
2月になると爆弾は、木造家屋を焼き尽くすのに好都合である粘着性の高いナパーム油脂を注入した焼夷弾へと変更され、レーダーによって正確に投弾、風の強い日などを狙って空爆が行われるようになった。
3月9日の夜、東京は強風が吹き荒ぶ天候で、午後10時頃からぽつぽつ飛来した敵機は翌10日の午前0時過ぎ、B29約300機の大編成へと変わり東京の下町へ襲来、超低空で次々と爆撃を開始した。
全部で18万9590個もの焼夷弾を2時間半にわたり繰り返し繰り返し投下する『じゅうたん爆撃』をし、現江東区、墨田区、台東区、中央区を完膚なきまでに焼き尽くし、26万8000戸の家が焼失、8万3000人以上が焼死した。防空壕に埋められた人、灼熱地獄から逃れようと隅田川に飛び込んで溺れた人等の数は正確には分かっておらず、死者は10万人以上とも言われ、罹災者数は100万人にも及んだ。
これは広島、長崎の原爆に匹敵するほどの壊滅的な大打撃を与えた。
非戦闘員を無差別に虐殺するアメリカ軍の行為は、当時の国際法からしても明確な戦争犯罪である。しかし戦勝国の戦争犯罪は裁かれず、敗戦国の日本だけが裁判とは名ばかりの東京裁判で不当に罪を背負わされた。これは全くフェアではない。
今更『謝れ!』と迫る必要は無いと思うが、事実を正しく認識した上で平和を希求することが、無念に亡くなった方々への弔いになると思う。
私は台東区に住んでいるが、我が家のある一体もあの日、猛火に包まれ人が逃げ惑い、炭化した遺体がそこらじゅうに転がっていたのだなと、毎日のように想像してしまう。
今の平和はそういった方々の犠牲の上に成り立っていることをゆめゆめ忘れてはならない。
今日は資料展と東京都慰霊堂、東京復興記念館、そして東京大空襲戦災犠牲者追悼碑を巡った。
墨田区の両国近くにある東京都慰霊堂と東京都復興記念館。
慰霊堂には関東大震災と東京大空襲で亡くなられた方々の納骨堂があり、東京都復興記念館はそれらの資料が展示されている。
花で飾られているのは東京空襲の犠牲者を追悼し平和を祈念する碑。内部には犠牲者の名簿が30数巻保管されている。