三浦崇子 Profile picture
世界中を旅する声楽家、ピアノ弾き。50カ国を一人放浪し、日本の素晴らしさに気づく。50年後、100年後の日本の為に出来ることを追求中。 靖國神社崇敬奉賛会青年部あさなぎOG。避難用サブ垢@MIURA_TAKAKO2
Mar 10, 2024 4 tweets 3 min read
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79年前の今日、昭和20(1945)年3月10日は東京大空襲のあった日。

昭和17年4月から米軍による日本本土の空襲があって以来、人々は空襲に備え火災の消化訓練を行なったり、防空壕を掘ったり、学童を疎開させたりと備えた。
19年7月、サイパンに上陸した米軍は飛行場を整備し、大型爆撃機B29での日本本土への飛来が容易になり、翌20年本土空襲は激化。

2月になると爆弾は、木造家屋を焼き尽くすのに好都合である粘着性の高いナパーム油脂を注入した焼夷弾へと変更され、レーダーによって正確に投弾、風の強い日などを狙って空爆が行われるようになった。

3月9日の夜、東京は強風が吹き荒ぶ天候で、午後10時頃からぽつぽつ飛来した敵機は翌10日の午前0時過ぎ、B29約300機の大編成へと変わり東京の下町へ襲来、超低空で次々と爆撃を開始した。

全部で18万9590個もの焼夷弾を2時間半にわたり繰り返し繰り返し投下する『じゅうたん爆撃』をし、現江東区、墨田区、台東区、中央区を完膚なきまでに焼き尽くし、26万8000戸の家が焼失、8万3000人以上が焼死した。防空壕に埋められた人、灼熱地獄から逃れようと隅田川に飛び込んで溺れた人等の数は正確には分かっておらず、死者は10万人以上とも言われ、罹災者数は100万人にも及んだ。
これは広島、長崎の原爆に匹敵するほどの壊滅的な大打撃を与えた。

非戦闘員を無差別に虐殺するアメリカ軍の行為は、当時の国際法からしても明確な戦争犯罪である。しかし戦勝国の戦争犯罪は裁かれず、敗戦国の日本だけが裁判とは名ばかりの東京裁判で不当に罪を背負わされた。これは全くフェアではない。
今更『謝れ!』と迫る必要は無いと思うが、事実を正しく認識した上で平和を希求することが、無念に亡くなった方々への弔いになると思う。

私は台東区に住んでいるが、我が家のある一体もあの日、猛火に包まれ人が逃げ惑い、炭化した遺体がそこらじゅうに転がっていたのだなと、毎日のように想像してしまう。
今の平和はそういった方々の犠牲の上に成り立っていることをゆめゆめ忘れてはならない。

今日は資料展と東京都慰霊堂、東京復興記念館、そして東京大空襲戦災犠牲者追悼碑を巡った。Image
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墨田区の両国近くにある東京都慰霊堂と東京都復興記念館。
慰霊堂には関東大震災と東京大空襲で亡くなられた方々の納骨堂があり、東京都復興記念館はそれらの資料が展示されている。
花で飾られているのは東京空襲の犠牲者を追悼し平和を祈念する碑。内部には犠牲者の名簿が30数巻保管されている。


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