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にいがたさくら@小話する人
@monkey_across
実生活に役に立たない小話を投稿しています。 地理·歴史·技術·農林水産·プリキュアあたりが守備範囲です。 Amazonアソシエイトやってます。 ほしいものリストhttps://t.co/5HkTi1Pbg8
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Nov 10
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日本人が初めて世界一周したのは江戸中期
しかも達成したのはただの庶民
石巻から船で江戸へ向かう途中で漂流し、アリューシャン諸島へ
その後ロシア人に助けられロシア内陸に送られ、ペテルブルグで皇帝に謁見
帰還を許された彼らは南米を回り太平洋を経由し、長崎へ
という行程で世界一周した
ロシア人に助けられて移送されたイルクーツクでは、仲間割れを起こした
ロシア正教の洗礼を受けた者は厚遇され、そうでないものは冷遇されたからだ
洗礼を受けた者は日本語教師として職を得るが、そうでないものは帰国の念を抱きつつ最低限生かされた状態で10年近く過ごすこととなった
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Jun 14
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異世界に転生する前に身に着けたい技術といえば、上総掘り
明治時代に千葉県で確立した井戸掘りの技術だが、人力だけで500m超の穴を掘ることが可能なチート技術
更に、水だけでなく温泉や油田・天然ガスを掘った実績もあり、実際に別府市などはこの上総掘り技術のお陰で日本有数の温泉都市になった
上総掘りは現在の千葉県君津市周辺で発展した技術
高台が多く、水を得るために井戸が必要だったが、この地方では深く掘る必要があった
彼らは幕末に大阪から伝来した掘り抜き井戸の技術を用い、井戸を掘りまくった
手近にある材料を使って道具を改良していき、掘り進めれる深さを深めまくった
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May 29
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4 min read
終戦直後、ブラジルの日本人社会はデマより分断された
「日本が勝った」
情報が限られた奥地の日本人達はデマを本気で信じた一方、知識人層は現地語の新聞から敗戦を認識した
前者を勝ち組、後者を負け組という
勝ち組の過激派の行動はテロにまで発展し、また、勝ち組を狙った詐欺事件が相次いだ
戦前のブラジル社会は日本人移民に対し、差別的だった
独裁政権下で自由は制限され、大戦が始まると邦字新聞も廃刊に追い込まれ、日本人移民の情報源は誰かが隠し持っていた短波ラジオから流れる大本営発表だけだった
出稼ぎで来ていた多くの日本人は、出国も許されず、望郷の念を募らせていた
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May 26
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3 min read
かつて、ブラジルの日本移民の中に『紅茶王』と呼ばれた男がいた
彼が名を上げる前、ブラジルには紅茶に適する種類の茶の木がなく、本場の英領セイロンの茶ノ木が欲しかった
だが種子は厳重に管理されており、バレれば投獄
そこで彼はパンの中に種子を隠して密輸し、製茶業を成功させたという
奈良県天理市出身の彼は、ブラジル移民になる前、当時から茶の名産地だった宇治で下働きをしていた
農業移民として開拓した場所では、主に米やサトウキビを作っていたが、物流的に不利なため、軽い物を作らないと利益が出ない
まずは中国系移民がブラジルに植えていた茶の木を分けて貰い緑茶を作る
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May 23
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3 min read
幕末、開港地・函館のある津軽海峡では外国船の行き来が増大していた
だが津軽海峡は当時、海上交通の難所
1864年には青森県大間町の沖合でイギリス商船が座礁する事件が発生
町民は大時化の中、乗組員たちを献身的に救助
だが保護されたイギリス人は空気を読まずこう発言した
「牛肉が食べたい」
メシマズで有名なイギリスだが、牛肉料理は豊富であり、彼らにとっては故郷の味
大間側は、藩や幕府の役人を呼び、近隣の村からカタコトの英語が喋れる人を連れてきたばかりの状況
また、当時の日本では牛肉食は禁忌
当然藩の役人は激怒した
幕府の役人はイギリス人の習慣を知っており、仲裁に入る
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May 9
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2 min read
幕末、日本が開国すると、様々な外国商人が横浜を訪れた
当時の日本は欧米から見て未知の国
外国商人は当然日本語を知らない
だが、商売をするには意思疎通が必要
そこで欧米人が聞き取れた日本語を強引に組み合わせ、双方ギリギリ意思疎通できる日本語が爆誕した
それが「横浜ピジン日本語」だ
同じく来日していた外交官や宣教師たちと異なり、外国商人達は日本語を深く理解する必要性がない
ビジネスができれば何でもいい上、商機がなくなれば日本から出ていくからだ
一方日本側も人材不足だった
外国語に関する知識や語学力を持つ者は限られ、実際に取引を行ったのは農村出身の者達だった
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May 8
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明治初期、長州藩の城下町だった萩の市街地はガラガラだった
県庁は山口市に移り、維新で活躍した武士たちは中央政府に雇われ萩に戻ってこない
また、波に乗れず萩に残った士族たちは職を失い困窮していた
逆に言えば、平地の空き地と労働力がある
それらを活用して始められたのが、夏みかん栽培だ
考案したのは小幡高政という士族
夏みかんは藩政時代に武家屋敷の軒先に植えられていたし、当時の夏みかんは高級品
更に旧武家屋敷は土塀があり、強風に弱い夏みかんを保護できる
萩の乱後の混乱の中、彼は周囲の人々に馬鹿にされながらも夏みかんを植えた
十分な量収穫するには年月が必要だった
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Apr 19
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水車といえば、のどかな田舎を想像する人が多いだろう
だが江戸・明治では、都市近郊に設置する場合が多かった
理由は、米の脱穀と小麦や蕎麦の製粉
都市人口が飛躍的に増加したため、人力での作業が追い付かず、水車を使った作業へと切り替えられた
ちなみに画像の場所は、現在の渋谷区原宿付近だ
うどんや蕎麦を作るには製粉の必要があり、都市の住人たちは白米を欲したため、精米の需要があった
かつては餅つきのように杵と臼を使って精米していたが、効率が悪いため足で踏む踏臼が開発
だが、足で踏むだけでもつらい上に時間がかかる
そこで、武蔵野台地を中心に江戸近郊に水車が建つように
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Apr 15
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1 min read
最高級の碁石は白と黒で材料が違う
黒は三重県熊野市の那智黒石
白は宮崎県日向市の蛤(ハマグリ)で、石ですらない
石である黒と比べて、蛤は碁石にできるような厚みがあるものは限られる上加工も難しく、さらに1970年代に採りすぎて資源枯渇し価格が高騰
現在、黒石は白石のオマケ扱いの場合も多い
日向市のハマグリが碁石に使われ始めるのは明治時代
富山の薬売りが日向市を訪れたことに始まる
薬売りの話を聞きつけた碁石屋が現地を訪れると、蛤の貝殻が浜一面に広がっていたという
日向の蛤は荒波から身を守るため殻が厚い
それが碁石に最適の厚さ
碁石屋は地元人を雇って拾わせることに
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Apr 12
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2 min read
明治新政府は軍装を整えるため革製の軍靴を欲した
明治2年に軍靴を受注した商人・西村勝三は、旧幕府軍がフランスから買っていた軍靴があることを知り、これを買い上げて納入
ところがこの靴、当時の日本人には全く合わなかった
「日本人に合う靴を作ろう」
日本国内での靴作りはここから始まった
日本人に合う合わない以前に、当時の日本に靴作りのノウハウはなかった
そこで香港から製靴職人を呼び寄せ、靴作りを始める
当時の日本人は草鞋なので当然需要はない
しかも明治新政府が始まったばかりのゴタゴタの軍制改革中だったため、軍からの発注もギリギリまで来ず、経営は首の皮一枚だった
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Apr 8
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19世紀後半、領土を拡大させたロシアは日本海で未知の海藻と出会う
昆布だ
当然ロシア人は食べない
仕方なく昆布を食べる国へと輸出するが、栄養豊富なので現地ロシア人に食べさせたい
研究を重ねロシア料理風にアレンジするが、不評
結局現在は、韓国料理のナムル風にしたサラダにして食べている
1860年の北京条約で獲得した沿海州、千島樺太交換条約で獲得したサハリン島では昆布がよく取れた
同じ場所で獲れる鮭やマスなどはスープに入れたり、ピロシキにしたりと伝統的ロシア料理に取り込めたが、昆布は難しい
とりあえず「海キャベツ」と命名して、昆布食の習慣がある中国へ売り込む
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Apr 3
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江戸時代、各藩は年貢だけでは財政が賄えなくなっていた
新潟県北部の村上藩でも、豊富な鮭資源を背景に、漁場から税金(運上金)を取ることで藩の経営を成り立たせていた
しかし、江戸中期になると鮭の漁獲高が激減
窮地の藩は川を改造し、鮭の産卵を保護
世界で初めて鮭の自然増殖計画を成功させた
鮭は稚魚の時に海へ出て、回遊したのちに生まれた川に戻っていく
自然増殖計画「種川の制」を発案した青砥武平治はそのことを知っていた
さらに彼は土木技術者でもあり、伊能忠敬と同じ測量の免許もある
土木技術に加え、現場の漁師たちも知る彼だからこそ、具体的なプランを立案できたのだろう
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Mar 26
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江戸時代、佐賀県鳥栖市東部は対馬藩の飛び地領だった
年貢は対馬に送るため庶民の生活は苦しかった
窮した彼らは対馬伝来の製薬技術を使い、薬売りの行商を始めた
だが既に富山の薬売りが進出しており、九州外では勝てない
そこで貼り薬に特化した
ちなみにサロンパスはこの田代売薬の流れを汲む
鳥栖市東部の『田代領』には、対馬経由の薬の製法、長崎街道と鹿児島方面が分岐する結節点という地の利、そして飛び地領のため武士が少なく比較的自由、本国対馬の商業に対するノウハウという利点があった
だが、対馬本国は農地が少ないため、田代領にその役目を押し付けるため、商業を規制していた
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Dec 6, 2023
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20世紀初頭、東京帝国大学は世界初の体系的で革新的なポンプの理論を産み出した
「この理論があれば舶来品に勝てる」
だが実用化を依頼した会社は倒産
そこで教授の教え子がポンプの実用化を引き継いだ
今風に言えば大学発ベンチャーだが、100年後の現在も世界的ポンプ会社として存続している
実用化を依頼した会社が潰れた時、彼らには理論しか残っていなかった
だが、紙と鉛筆さえあれば設計はできる
設計事務所として再出発し、先生が体系化した『ゐのくち式渦巻ポンプ』を作り続けた
確かな性能を発揮するポンプは少しずつ広まり、事務所も大きくなり、工場も持てるようになっていく
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Nov 30, 2023
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明治時代、人口が増加したため、人々は新たな耕作地を各地に求めた
千葉県でも当時未利用だった台地に活路を求めたが、水がなかった
西洋の技術で水を引こうにもコスト的に無理
そこで、日本古来の水車技術を魔改造し、数十メートルの高さへ水を汲み上げる水車が開発された
それが藤原式揚水機だ
発明したのは藤原次郎吉
現在の大阪府泉佐野市に産まれた彼は、大工の父から技術を受け継ぎ、17歳の時に籾摺機を発明、その後も木工で次々と農業機械を開発していた
明治10年に第一回内国博覧会に発明品を出品し、高い技術力を示すと、現在の千葉県いすみ市から声がかかる
「水車を作ってくれ」
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Jun 20, 2023
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北海道伊達市
仙台藩亘理領の侍が集団移住して開拓した町だ
殿様自らが集団を率いて結束したため、旧藩士による北海道開拓の中でも指折りの成功を収めた
農家として成功しても彼らは武士
武士だった時代を知らない若い世代にも武士の誇りを見せてあげたい
そして始めたのが、今も続く武者行列だ
戊辰戦争敗北後、彼らの領土は取り上げられ、他藩になっていた
「他藩の百姓になどなりとうない」
政府による屯田兵に先んじて、北の地を守る責任を負うことで武士の誇りも守られる
また、蝦夷地警備で北海道を知るものも多く、事前に下見・調査も行い、現地の和人・アイヌとも話をつけ、開拓を開始
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Jun 16, 2023
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霊場·恐山
元々はローカルな信仰の場であり、他の有名霊場と比べれば歴史は深くなく、発展するのは江戸時代から
それ故、霊場としての固定観念が薄く、様々な文化や民間信仰を柔軟に受け入れ発展した
例えば、有名なイタコは恐山の寺(曹洞宗)の教えと一切関係ないが、追い出したりせずに共存していた
「死ねばお山さ行ぐ」
下北半島では元々山岳信仰が強く、後に地蔵信仰と結合し独特の死生観が生まれた
火山である恐山山地では無数の硫黄噴出孔がある
海運が発達した江戸時代、船乗り等の参拝客達はそれを地獄と感じたのだろう
後に様々な職業に合わせた地獄が名付けられ、ツアーガイドまでいた
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Jun 12, 2023
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幕末、薩摩藩は諸藩に先んじて近代化の重要性を感じた。
近代兵器を自作せねば。
様々な技術を海外から輸入し、近代的な機械工場も作った。
戦争に備え弾薬は大量に必要だが、薩摩には火薬の起爆剤を作るために必要な工業用アルコールが少なかった。
そこで量産されるようになったのが、芋焼酎だ。
焼酎の技術自体は室町時代に、薩摩芋は江戸初期に伝来していた。
だが当時の焼酎は、ほとんどが米や麦、雑穀などを材料とした。
薩摩芋は澱粉が少なく、一旦蒸す必要があり、雑菌の繁殖などもあり、作りづらいものだった。
しかし薩摩では圧倒的にコスパがよかった。
藩主は芋焼酎の量産を指示。
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Jun 10, 2023
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おはようございます。
プリキュア待機してます 健全なおねショタ
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Jun 8, 2023
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新潟県長岡市山古志村
雪深いこの地には、全長922m日本最長の手掘りトンネルがある。
中山隧道ができるまでは、冬、雪に閉ざされていた。
集落の人々は病人が出ても医者に診せることもできない。
「峠さえなければ」
だが、資金はない。
そこで彼らは自らの手でツルハシを持ち掘り進めることにした
彼らには、横穴を掘る技術があった。
山岳地帯で棚田の水を引くために、横井戸を掘っていたからだ。
昭和8年11月に着工。
ほぼ全員が農家のため、農繁期を避けて分担して作業を行う。
だが最初の1年は不慣れなためか、36mしか掘れなかった。
このペースでは25年かかる……。
人々は絶望した。
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Jun 7, 2023
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『がいし』
電線とそれを支える物の間を絶縁しながら繋ぐ器具だ。
日本では明治3年に電信用のがいしを国産化。陶磁器の歴史を持つ日本には比較的容易だった。
しかし、特別高圧のがいしはそうはいかない。
電気工学の知識が必要だからだ。
「国産化したい」
電機メーカは陶器メーカに持ちかけた
持ちかけられた陶器メーカは困った。
「いやウチ、ディナーセット作る会社なんだけど?」
だが、がいしについての話を聞くうちにやる気になった。
「営利ではなく、国家のために」
こうして共同開発が始まった。
ちなみにこの2社は、世界最大級高級陶磁器メーカ・ノリタケと重電メーカの東芝である。