しばやん Profile picture
京都のお寺に生まれ育ち、大学卒業後は普通の会社に就職し、2019年1月に勤務先を定年退職。ブログ「歴史逍遥『しばやんの日々』」で日本の歴史や文化、GHQ焚書の紹介等について記事を書いています。 https://t.co/COUaXFOJoz 著書『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』
Mar 26 9 tweets 4 min read
GHQ焚書で読むアメリカのハワイ併合と日本の抗議

国際親善訪問から帰国したカラカウア国王は、このままではアメリカに併合されてしまうという強い危機感があった。しかしながら、王権の強化を図りハワイの伝統・文化を復活させようとしたことがアメリカを強く刺激することとなり、アメリカの圧力により憲法を押し付けられ、カラカウア王の国政に対する権限のほとんどを奪われてしまう。

『ハワイを繞る日米関係史』(GHQ焚書)には、次のように解説されている。
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1875年に締結された互恵条約は、アメリカとハワイ両国間の生産品に対しては輸入に際して相互に関税を非課税とするが、その代わりにハワイは「領土は決して租借割譲するべからず。条約によって付与されたる特権は決してこれを他国民に譲与すべからざる」という条項を吞まされており、アメリカ以外の国に領土を割譲することが禁止されていた。

ところが、さらに1887年11月に重要な修正がなされ、アメリカ政府は真珠湾に出入し、アメリカ船舶の積荷や修理等に必要な施設を建設する権利をハワイに認めさせたのである。

 さらに同年の憲法改正で、白人はハワイに帰化しなくとも国法遵守を宣言すれば参政権が与えられる一方、有色人種は参政権が認められなかった。
かくしてハワイの政治・経済はアメリカに完全に支配されるようになっていった。Image
Mar 24 7 tweets 3 min read
アメリカのメリーランド大学図書館に、第二次世界大戦後1945年から1949年までに日本で出版された印刷物のコレクションである『プランゲ文庫』がある。このコレクションは連合国軍占領下の日本で民間検閲支隊によって検閲目的で集められた出版物なのだが、マイクロフィルム化・デジタル化が進められ、事前予約により誰でも閲覧が出来るという。

明星大学の勝岡寛次氏はこのプランゲ文庫を5年間にわたり調査され、平成十七年(1995年)に『抹殺された大東亜戦争~~米軍占領下の検閲が歪めたもの』という本に纏めておられる。この本の扉には、当時の検閲官が手書きで修正したり文章の抹消を命じている原稿の画像が紹介されており、本文においても検閲によって削除された文章が網掛けで表示されているので、これを読むとGHQが戦後の日本人にどのような歴史を封印し、どのような歴史を押し付けようとしたかが見えてくる。
shibayan1954.com/history/showa/…Image 例えば次のような原稿がGHQ ( 連合国軍総司令部 ) により全文削除されている。(原文を新字・新かなに改めた)

「顧みるに大東亜戦争中、旧敵国側には国際法違反の行動が随分あったようである。無辜の一般市民に対して行える無差別爆撃、都市村邑の病院、学校、その他の文化的保護建物の無斟酌の破壊、病院船に対する砲爆撃など、数えれば例を挙げるの煩に堪えぬほど多々あった。(中略)

これらの残虐行為を含むいわゆる戦律犯に問われるべき被告に対する擬律処断は、もっぱら戦勝国が戦敗国の彼等に対して行うのみで、戦勝国のそれは不問に附せられるという現行の面白からざる偏倚的制例の下にありては、公式の裁判記録の上には専ら日本の戦律犯人のみがその名を留められることになるが、国際法学者は別に双方の戦律犯を公平に取り扱い、これを国際法史の上に伝え残すの学問的天職を有すべく、即ちわが国は惨敗を喫して完全無比の無武装国とはなったけれども、国際法の学徒にはなお尽くすべき任務が十二分に存するのである。(信夫淳平「我国に於ける国際法の前途」『国際法外交雑誌』第四十五巻三・四号、昭和二十一年三月)」『抹殺された大東亜戦争~~米軍占領下の検閲が歪めたもの』p.19」

この削除理由は「連合国批判」とのことだが、この事例から、GHQは戦勝国である連合国が犯した犯罪はすべて不問に付し、日本だけを批判の対象とする姿勢であったことの見当がつく。

その後、『プランゲ文庫』は国立国会図書館での一部公開がなされるようになり、今ではかなりの資料が国立国会図書館に行くか遠隔複写サービスを利用することにより閲覧することが可能となっている。dl.ndl.go.jp/collections/A0…
Mar 23 7 tweets 3 min read
日露戦争以降のアメリカで排日運動が広まっていったのだが、アメリカの黒人たちは日露戦争に日本が勝利したことにどのように反応したか。

レジナルド・カーニー著『20世紀の日本人 アメリカ黒人の日本観1900-1945』という本に、日露戦争をアメリカの黒人知識人たちが歓迎したことが書かれている。
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同上書の中で、『インディアナポリス・フリーマン』紙の社説に次のような文章が掲載されたことが紹介されている。

「東洋のリングで、茶色い男たちのパンチが白人を打ちのめしつづけている。事実、ロシアは繰り返し何度も、日本人にこっぴどくやられて、セコンドは今にもタオルを投げ入れようとしている。有色人種がこの試合をものにするのは、もう時間の問題だ。長く続いた白人優位の神話が、ついに今突き崩されようとしている」同上書 p.65~66

「茶色い男たち」はもちろん日本人の事である。わが国がロシアとの戦いに勝利したことについて、当時の米国黒人の知識人たちの反応のなかには次のようなものがあった。白人たちが、このような黒人たちの反応が拡がることを怖れたことは当然のことである。Image
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Mar 22 13 tweets 4 min read
GHQが焚書処分した本の中に、ハワイに関する本が全部で十一点存在する。その中で、戦後の日本人にはほとんど知られていない話が多く記されているので、いくつかを紹介させていただくこととしたい。

shibayan1954.com/%E3%83%8F%E3%8… 日本人漂着者の記録
ハワイに欧米人がはじめて上陸したのは、1778年にイギリス人の探検家ジェームス・クックだが、日本人については鎌倉時代に漁民が漂着した記録があるらしい。

GHQ焚書処分された『ハワイ』(朝日時局新輯 ; 第43)には次のように記されている。(原文の皇暦表記は西暦に変換)

「三千里の波濤を隔てる日本とハワイとの間の交渉は当然漂流民によって始まった。これを仲介したものは雄大な太平洋の黒潮であり、その主役はたくましい筋骨と海を愛する魂とを持った日本の漁師達であった。しかし一体何時ごろからこのような交渉が始まったかということは当然伝説の時代に遡らなければならない。ここでは詳しい考証じみたことを行う余裕はないが、最も古いものは文永七年(西暦1270年)で恐らく琉球人ではないかと思われる漂流者がマウイ島のカフルイに漂着したと伝えられている。これは亀山天皇の御代であり、北条時宗の時代で、アメリカ大陸発見に先立つこと三百年、クックのハワイ発見に先立つこと五百八年という昔話…である。」『ハワイ』(朝日時局新輯 ; 第43) 昭和17年刊 p.14

同書や山下草園 著『日本布哇(ハワイ)交流史 』(GHQ焚書)などに、その後もハワイに日本人が漂着した記録が紹介されているが、詳細は省略することとして、その中に土佐の中浜万次郎(ジョン・万次郎)がいる。

天保十二年に万次郎が十四歳の時に乗り込んだ漁船が悪天候のため漂流し、一行五名が運よくアメリカの捕鯨船に助けられ、途中でハワイのホノルル港に寄港した。万次郎は一人米国本土に渡り、英語と測量術、航海術、造船技術等を研究し、嘉永四年に帰国後は、幕府の軍艦訓練所教示等を務め、後述の通り万延元年(1860年)には幕府の遣米使節の通訳として活躍した。Image
Mar 18 10 tweets 4 min read
日露戦争が終わったのちポーツマス講和会議が開かれたが、この会議が始まった頃に米国の鉄道王と呼ばれたハリマンが訪日を決意し、ニューヨークを発し1905年8月31日に横浜に到着している。

彼は日露開戦当時ジェイコブ・シフとともにわが国の外債応募に尽力し、自らも五百万ドルを引受けた米国財界の有力者の一人であるのだが、彼の日本を訪れた目的について、松岡洋右『満鉄を語る』(GHQ焚書)に記されている。
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彼の夢は、自らの経営する鉄道と船で世界一周が出来るというものであったのだが、彼がこの時期に日本を訪れたのは、彼の描いた世界一周通路の中の一つである東清鉄道(旅順—長春間)がロシアから日本の手に移るにあたり、この鉄道(南満州鉄道)を日米共同で経営することを日本政府に提案するためであった。

そもそもロシアの鉄道建設はアメリカが早くから関わっており、シベリア鉄道はほぼすべてがアメリカの技術で作られ、レール用の鉄鋼も機関車も客車もアメリカの製品で、アメリカはシベリア鉄道に関わり続けるパートナーであったという。

渡辺惣樹氏は『日米衝突の根源』でこう解説しておられる。Image
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Mar 16 11 tweets 3 min read
わが国が中国やインドのようにアヘンに毒されなかったのは、わが国が1858年6月にアメリカと締結した日米修好通商条約の第4条にアヘン輸入の禁止が書かれていたことが大きい。
「阿片之輸入厳禁たり 若し亜墨利加商船三斤以上を持渡らは 其過量の品は日本役人是を取上へし」
意訳すると、「アヘンの輸入は厳禁、もし米国人が三斤(約1.8kg)以上所持していれば、それを超えるアヘンは取上げる」という内容である。
shibayan1954.com/history/edo/ka…Image 戦後の歴史書ではほとんど無視されているこの条項は、重要でないから省略されているとは思えない。この条項があることで、わが国がインドや中国のようにならなかったとも言えるものなのである。

安政五カ国条約は最初に締結した日米修好通商条約内容がベースとなったので、他の四ヵ国についてもアヘン輸入禁止条項が存在した。

そして、この条項によりアヘンの輸入を水際で防ぐことが出来た事件が明治初期に存在する。

GHQにより没収・焚書された菊池寛の『大衆明治史』の本の一節を紹介しよう。Image
Mar 13 8 tweets 4 min read
1920年に多くの日本人及び朝鮮人が間島州(現中国吉林省)で虐殺されている。この事件を琿春(こんしゅん)事件と呼んでいるが、犯人は匪賊(徒党を組んで掠奪・殺人を繰り返す盗賊集団)及び支那脱走兵等であった。

この事件の半年前には、アムール川河口にあるニコラエフスク(尼港)で、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件(尼港事件)があり多くの日本人居留民が虐殺されたが、日本人が匪賊に襲撃される事件新聞に大きく報道されたのは琿春事件が最初である。

賊の来襲は二回にわたり、メンバーの中には馬賊(ばぞく:馬に乗って悪事を働く匪賊)のほか、支那脱走兵、ソ連の赤軍パルチザン(非正規軍)将校、朝鮮人がいたという。尼港事件の時も日本人は酷い殺され方をしたのだが、琿春事件は尼港事件よりも酷かったとも言われている。
shibayan1954.com/degital-librar…
da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/01003418…Image その後も匪賊による日本人殺害事件が続き、1922年6月に、琿春に近い頭道溝の領事分館に約三百名からなる馬賊が来襲している。

この事件は頭道溝事件といい、朝鮮人独立運動家が馬賊(馬を用いて襲撃する満州の匪賊)の協力を得て間島頭道溝の日本領事館分館を破壊し放火して、仲間の独立運動家を脱走させた事件なので掠奪が目的ではなかったのだが、この事件で二人の日本人が死亡し、三人が重傷を負った。

当時の満州では馬賊による掠奪事件などが頻繁に起こっていたのだが、その当時の支那には盗賊団のような連中を取り締まる力がなかった。Image
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Mar 12 5 tweets 3 min read
斎藤榮三郎『英国の殖民政策』(GHQ焚書)を読み進むと、わが国だけでなく世界においても、イギリスの外交方針の影響を受けて大きく動いてきたことが見えて来る。 shibayan1954.com/degital-librar…Image
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「以夷制夷」とは敵国を押さえるのに自国は戦わずに別の国に戦わせて利益を得ることを言うが、この戦い方は支那ではなくイギリスが本家本元であり、日露戦争はイギリスがロシアの南下を防ぐために日本を利用したという指摘は正しいと思う。では第一次世界大戦ではイギリスはどう動いたのか。 Image
Mar 11 7 tweets 3 min read
戦後はユダヤ問題はほとんどタブー扱いにされてきたために、この問題についてテレビや新聞で知る機会は皆無に近いのだが、戦前の新聞にはユダヤ問題についてしばしば解説されていた。「フリー・メーソン」という名前が当時の新聞にしばしば登場するのだが、これは「シオンの議定書」を奉じてユダヤ人による世界征服を目指す有力な秘密結社である。

昭和八年三月十七日以降九回にわたり「世界の謎フリー・メーソンとは何!」という記事が神戸又新日報で連載されている。この記事は今日の日本人が知るべき内容がかなり含まれていると思うので、内容を紹介させていただく。
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ユダヤ人には当時において国がなかった。彼らは亡国の民として世界に分散して、様々な国に住み着いて、主要国で経済的支配力を握っているが、国がないので武力を持たず軍隊も存在しなかった。そんな彼らが世界を支配するというのはいかなる方法によって可能であるのか。その力の源泉はユダヤの「黄金の力」にあったという。

国際連盟も、ユダヤが世界を支配する目的の為に造られたもので、わが国を不利な立場に追いやった国際連盟の主要メンバーも、リットン調査団の主要メンバーもフリー・メーソンのメンバーであったのである。そういう重要な問題に触れずして近現代史を学んでも真実から遠ざかるばかりである。
da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/01002399…Image
Mar 9 6 tweets 2 min read
1633年には、日本人の海外渡航は、朱印状の外に老中奉書という別の許可状をうけた奉書船に限る事となり、1635年には、日本人の海外渡航と国外にいる日本人の帰国が全面的に禁じられてしまっていた。

そして、1639年にはポルトガル船の来航が禁じられ、その結果、朝鮮と琉球以外で日本に来る外国船はオランダ船と中国船だけになり、その来航地は長崎一港に限られることとなる。

わが国の朱印船が台湾に向かうことが無くなったことで、競合がなくなったオランダが台湾における貿易の全権を握ろうとしたことは自然の成り行きであった。また台湾の北部は当時スペインが占拠していたのだが、1642年にオランダは鶏籠(ケーラン:現在の基隆市)に艦隊を派遣しスペイン人勢力を台湾から駆逐した。

かくして台湾はオランダの植民地となり、その後、オランダによる台湾統治が十年ばかり続いたのだが、日本人を母に持つ中国人・鄭成功(ていせいこう)がオランダ勢力を排除することに成功している。shibayan1954.com/history/edo/sa… 鄭成功の父・鄭芝龍(ていしりゅう)は、台湾や東南アジアと朱印船貿易を行っていた李旦*の配下にいたとされている人物で、貿易船の積荷の監督として中国から渡って来た。鄭芝龍は平戸藩士の田川七左衛門の娘・マツと結婚し、1624年に息子の福松が生まれている。この福松がのちの鄭成功である。

鄭芝龍はのちに単身明国に渡り、1625年に李旦が死亡すると鄭芝龍が船団のリーダーを受け継いでいる。当時明国は海禁政策を取っており、鄭芝龍らの活動は非合法の密貿易であったのだが、彼らの船団は千隻もの船を保有し、政府軍や商売敵との抗争の為に武装化していて、福建省周辺では強い勢力を有していた。

明国は1628年に鄭氏龍を懐柔して都督に取り立て、そののち鄭芝龍は七歳になる福松を福建に呼びよせて、以後福松は父親の手で育てられている

当時の明国は反乱が相次ぎ、1644年には李自成軍の包囲の前に崇禎帝(すうていてい:明朝第十七代皇帝)は自殺し、同年満州族の清国が李自成を破って北京を占領してしまった。

一方、中国南部にいた明朝の皇族と遺臣たちは、「反清復明」を掲げて各地で清朝への反抗を繰り返した。鄭成功の父の鄭芝龍らは唐王朱聿鍵(しゅいっけん:隆武帝)を擁立して抵抗を続けたという。
Mar 8 10 tweets 4 min read
菊池寛の『大衆維新史読本』が電子書籍の響林社文庫から出ていて、Kindleで読むことが出来る。この本には江戸幕末から明治維新期に関する興味深い話がいろいろ書かれているのだが、今回はそのなかから、ペリーが来航した頃の旗本の生活が困窮していたことが書かれている部分を紹介させていただく。
「旗本」とは江戸幕府に直接仕えるえる家来のうち、石高が一万石(約千五百トン)未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者をいう。一石というのは、大人一人が一年で食べる米の量であり、一石は約百八十リットル、約百五十キログラムに相当する。
菊池寛はこの本の中で、この頃の旗本の貧困生活の実態についてかなり具体的に記している。shibayan1954.com/history/edo/ka…Image 伊藤博文の名前が出て来るのだが、武士の身分を得たのは博文の父親である。Wikipediaによると伊藤博文は百姓・林十蔵の長男として生まれ、「家が貧しかったため、十二歳ころから父が長州藩の蔵元付中間・水井武兵衛の養子となり、武兵衛が安政元年(1854年)に周防佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって伊藤直右衛門と改名したため、十蔵・博文父子も足軽となった」とある。

 菊池寛によると徳川家の家臣である旗本身分を得るための相場は百石あたり五十両、急ぐ場合は七十両~百両だったというが、公然と武士身分が購入されていたわけではなく、養子縁組の「持参金」として支払われることが多かったと思われる。但し有能な人物の場合は、推挙により武士となったケースが散見される。Image
Mar 7 12 tweets 4 min read
台湾に関する古い記録を探していると、柴田賢一 著『日本民族海外発展史』の記述が目に止まった。日本人たちは戦国時代から、台湾に勢力を伸ばしていたのである。
dl.ndl.go.jp/pid/1917582/1/…
shibayan1954.com/history/edo/sa… Image このようにかなり古くから日本人が台湾に勢力を張っていたのは、商人たちがこの地を貿易上の拠点としていたことによるのだが、メンバーの中には中国人商人もいたという。彼らは明国が「倭寇」と呼んでいた勢力の一つであったと考えられる。

海禁政策を採っていた明国からすれば、彼らは非合法である密貿易に従事していたのであり好ましからざる存在であったのだが、彼らは生活必需品を交易することで東南アジアの各地に根付いていたのである。

台湾については、徳川家康が支那貿易の中継地点を得ようとして、慶長十四年(1609年)に九州の有馬晴信に命じて探検させているのだが、徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第13 家康時代 下巻』に紹介されているイエズス会の年報によると、彼らは現地人から敵視されたために全く交渉にならなかったことが記されている。dl.ndl.go.jp/pid/1223818/1/…Image
Mar 6 9 tweets 3 min read
マニラとならんで日本人が多数居住していたのはシャム (暹羅:現在のタイ国)のアユタヤである。アユタヤはシャムの首都で、日本人はチャオプラヤー川(旧名はメナム川)沿いに区画を与えられていて、そこに多数の日本人が居住して日本人町を形成していたという。なぜこの国に多数の日本人が住むことになったのであろうか。

タイ国との交易が始まったのは16世紀半ばとされ、当初わが国は鉄砲や火薬の原料となる鉄や硝石を輸入していたという。江戸時代に入り朱印船貿易が始まってからはわが国との交易が盛んになり、取扱い商品も変化していったようだ。

交易が盛んになると仕入れ活動等に従事する日本人がこの地に留まるようになったのだが、商人だけではなくさまざまな人々がこの国に移り住み、アユタヤに日本人町が出来たと考えられている。
shibayan1954.com/history/sengok… 画像はケンペル著『日本史』に掲載されている1690年のアユタヤの古地図だが、右下に「Japonese」と記されているあたりが日本人町である。

GHQ焚書である柴田賢一著『南洋物語』には日本人町についてこう解説されている。(わかりやすいように元号に西暦を補記している)
dl.ndl.go.jp/pid/1276416/1/…Image
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Mar 5 10 tweets 3 min read
「持てる国と持たざる国」という言葉を、子供の頃に何度か大人から聞いた記憶があるのだが、今では使われることが少なくなってしまっている。斎藤榮三郎の『英国の殖民政策』(GHQ焚書)を読み始めるとこの言葉が冒頭から出て来た。著者は、私の世代に近い方は、テレビ番組の『時事放談』のレギュラーであったといえば、思い出す人がかなりいるのではと思われる。

 戦後の歴史叙述では、わが国が侵略戦争を行った悪い国だというニュアンスで記されることが大半なのだが、当時に於いて世界の重要資源の市場を一部の大国が支配していた事実を抜きにして、この時代の歴史は語れないと思う。

イギリスはわが国と同様に島国で、本土の面積は日本列島の三分の二にもならないのだが、この国の植民地等を含むと地球上の陸地面積の四分の一程度を領有していた。これは全ヨーロッパの四十倍に近く、アジアの面積と変わらない規模である。

イギリスはただ広大な陸地面積を領有しただけではなく、重要な資源の産地の多くを属領として押さえていたことが重要である。そのために、重要資源が一部の国に支配されていることに不満を持つ国が多かったのである。斎藤はこう解説している。
shibayan1954.com/degital-librar…Image 【表1】は同上書の表記が縦書きで読みにくいのでExcelで数表化したものだが、これを見ると、なぜ第二次世界大戦が起きたのかが見えて来る。

戦勝した「連合国」の主要国である英米仏ソの四ヶ国は『持てる国』で世界の主要資源の主な産出地を確保しており、市場を支配することが出来た。一方、『持たざる国』のわが国やドイツ、イタリアは何を生産するにも『持てる国』から原材料や燃料の過半を調達する必要があったことを知らねばならない。

もし「持てざる国」が「持てる国」の意に沿わない行動をとると、重要原料の調達が厳しくなるなどの事態に陥る可能性があり、実際にわが国はABCD包囲網による戦略物資の輸出規制を受けたのである。

戦後の教科書などでは第二次世界大戦は、「連合国」対「同盟国」の戦いであったと説明されるのがほとんどだが、「持てる国」と「持たざる国」との戦いとする方が理解しやすいと思う。Image
Mar 4 11 tweets 4 min read
初代フィリピン総督となったスペイン人のミゲル・ロペス・デ・レガスピが、フィリピンを占領する以前の一五六七年七月にスペイン国王フェリペ二世に送った報告に、日本人がルソン島で島人と毎年交易していることが記されている。岩生成一 著『南洋日本町の研究』にその報告が引用されている。

この報告はレガスピが島人から伝聞したものではあるが、スペインがフィリピンを占領する前から、日本人商人が単独か、あるいは中国人と同航してルソン島やその南のミンドロ島方面と交易していたことは注目に値する。
shibayan1954.com/history/sengok…
dl.ndl.go.jp/pid/1463383/1/…Image
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一五六七年といえば、まだまだ『明史』では「後期倭寇」による掠奪が行われていたことが記録されている時期なのだが、明は諸国との交易が拡大していた中で海禁政策に舵を切って、貿易活動を厳しく取り締まるようになった。

わが国や中国の貿易商人からすれば、すでに生活必需品が数多く取引されており利幅も大きかったので簡単にやめるわけにはいかず、「密貿易」が行われたことで明国の官憲とのトラブルが頻発したが、その一方で商人たちは、周辺諸国との貿易ルートを開拓するようになっていったのだ。

一五六七年はわが国では、稲葉山城の合戦で織田信長が美濃の斎藤竜興に勝利し、斎藤家が滅亡した年であるが、それよりも以前から、日本の商人がルソン島民の信用を得て定例的な交易が始まっていたのである。
Mar 3 9 tweets 4 min read
戦後の一般的な教科書では朱印船貿易は家康の平和外交の中で解説されており、東南アジアとの貿易は江戸時代から本格化し、日本人が住み着いたのもその頃からだと理解してしまうところだが、実際のところ日本人は、かなり古くから東南アジアの各地に住み着いていたのである。

豊臣秀吉が文禄元年(1592年)、最初に発行した朱印状にルソン(フィリピン)、マカオ(明)、安南(ベトナム)、トンキン(ベトナム)、チャンパ(ベトナム)、カンボジア、リゴル(タイ)、パタニ(マレー半島)の諸国と交易することが明記されている。
普通に考えて、このような遠方諸国といきなり交易が始まることはありえないことである。戦後発刊された通史などでは何も記されていないのだが、古い本を調べると、かなり昔から東南アジア諸国との交易が行われていたことが記されている。

フィリピンは1565年にスペインがセブ島を領有したのを皮切りに、徐々に植民地の範囲を広げて、1571年にはマニラ市を首府とし、フィリピン諸島の大部分が征服されてスペインの領土となったことが知られている。しかしながら、スペイン人より先に日本人が交易のためにルソン島に居住していたことがわかっているのだ。

たとえば、昭和十八年に文部省が高等文官試験(現在の国家公務員第Ⅰ種試験)用の教科書として発行した『国史概説 下』には日本人が住んでいたことが明記されている。(原文では皇紀が用いられているが、西暦に読み替えている)
マニラに居住していた日本人は東南アジアの各地と交易していたメンバーと繋がっており、彼らにとってスペインがフィリピンを侵略し植民地としたことは、これまで彼らが開拓してきた商圏がスペイン人に脅かされることを意味することになる。
shibayan1954.com/history/sengok…Image
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台湾に拠点を置いていた日本人の船団は、1580年、1581年、1582年にフィリピンを侵略するスペイン人と戦いを挑んでいたことが、GHQにより焚書処分された奈良静馬の著作に記されている。

特に1582年には日本人が、スペイン軍の6隻からなる艦隊に激烈な戦いを挑んでいるのだが、このような歴史は戦後の日本人には何も知らされていないのだ。ちなみにこの年は、わが国で本能寺の変が起きた年である。 (以下、引用に際し地名はカタカナで表記)
dl.ndl.go.jp/pid/1041580/1/…
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Mar 2 7 tweets 3 min read
「後期倭寇」のメンバーの大半は中国人で、彼らの活動目的は海賊行為ではなく、あくまでも貿易活動にあった。その頭目の一人として知られる王直は長崎県の平戸に本拠地を置いていて、中国南部、東南アジアの各地を拠点として活動していたのである。

しかるに16世紀の半ば以降、わが国はポルトガルとの交易を開始するようになり、王直らが開拓してきた商圏の交易に関わる利権が蚕食されることに危機感を覚えた王直らは、海禁政策を続ける明朝に叛旗を翻した。1552~1564年に大規模な「後期倭寇」が頻発したのはそのような流れで捉えるべきではないかとの視点で書かれている戦前の書物が存在する。

GHQ焚書処分された柴田賢一著『南洋物語』において、天下を掌握したのちに豊臣秀吉が外交政策をどう変えたかについて、次のように解説している。
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文禄元年(1592年)に秀吉は、長崎の商人四名(末次平蔵、荒木宗右衛門ほか)に五艘、、京都の商人三名(茶屋四郎次郎ほか)に三艘、堺の伊勢屋某に一艘の朱印状を交付したが、その後大名十名(島津忠恒、松浦鎮信、有馬晴信、細川忠興、加藤清正ほか)、武士 (今井宗薫ほか)、日本在住の外国人(ウィリアム・アダムス、ヤン・ヨーステンほか)にも朱印状が発行されていったという。

注目すべきは、日本と交易が禁じられていた明国の商人にも11人に朱印状が発行されていることだ。たとえば李旦は福建の海賊出身で、「後期倭寇」の頭目であった王直とともに活動し長らく平戸に居住していたという。王直の死後その貿易ルートを受け継ぎ、江戸幕府から朱印状を得て貿易に携わって、12隻の船を渡航させたということがWikipediaに記されている。

明の沿岸地方を荒らしまわる「倭寇」の記録が江戸時代に入ってほぼなくなったのは、それまで非合法活動をせざるをえなかった中国の商人が、わが国と南方諸国との交易に関与出来るように幕府が配慮したことと無関係ではないのだろう。「倭寇」の勢力は武力で鎮圧されて弱体化したというよりも、東南アジアと合法的に交易ができる道を与えることによって無害化したという視点が必要ではないだろうか。
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E…Image
Feb 28 8 tweets 4 min read
日明貿易の利権を巡って大内氏と細川氏との紛争が激化し、その後明が海禁政策をとって貿易が出来なくなって以降後期倭寇が急増したのだが、そのような経緯は戦後の教科書や参考書では何も書かれていない。

後期倭寇が起った背景について、戦後GHQに焚書処分された著作である柴田賢一著『南洋物語』に詳しく書かれている。
柴田氏は「倭寇」という言葉を用いずに「八幡船(ばはんせん)」と記しているが、戦前には「八幡船」という用語を用いている著作が他にも少なからず存在している。
dl.ndl.go.jp/pid/1276416/1/…
shibayan1954.com/history/muroma…Image 後期倭寇の件数が増加したのは1550年代からなのだが、『明史』日本伝ではどのように書かれているか調べてみた。

当初は中央から派遣した官吏が交易の価格を公平に決める仕組みが存在していたのだが、世宗の時代(1521~1566年)にその制度が撤廃されて中国沿海地方の悪徳商人たちが交易の利権を手中に収めてしまった。さらに外国人との密貿易の取締りが厳しくなると、悪徳商人たちは公平な価格を守らず、日本商人の利益が大幅に損なわれたことが『明史』に記されている。では、日本商人たちはどう動いたのであろうか。『明史』の訳文を引用する。Image
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Feb 27 7 tweets 3 min read
1392年に足利義満の斡旋で南北朝が統一され、義満は明からの要請により倭寇を取締り、1404年から勘合貿易が開始され、それ以降「前期倭寇」が次第に減少していったのだが、義満は、どのようなスタンスで明との交易を行ったのだろうか。

GHQの焚書処分を受けた高須芳次郎 著『海の二千六百年史』には、次のように解説されている。
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shibayan1954.com/history/muroma…Image 高須芳次郎は足利義満の外交を「媚態外交」と記しているが、最近復刊された文部省編纂の『国史概説 上』(昭和十八年刊)においても概ね同様である。 Image
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Feb 25 11 tweets 3 min read
田中健夫著『倭寇と勘合貿易』および『倭寇』に、年別の倭寇の回数が出ている。倭寇が特に多かった時期は1350~1408年と1552~1564年の2回で、前者を「前期倭寇」とよび、主に朝鮮半島沿岸地域で起こっている。また後者は「後期倭寇」とよび、ほぼすべてが中国沿岸地方で起っているという特徴がある。

画像は田中健夫著『倭寇と勘合貿易』『倭寇』所収のデータをグラフにしてまとめたものだが、青い点は朝鮮半島沿岸における倭寇回数で、黄色い点は中国沿岸地方における倭寇回数を表している。
shibayan1954.com/history/muroma…Image 「前期倭寇」が頻発していた時期の大部分は、わが国の「南北朝時代」にあたっているのだが、この前後のわが国と周辺諸国の歴史を簡単にまとめておこう。中国大陸、朝鮮半島の歴史と比較しやすいように、暦はすべて西暦を用いることととする。

最初にわが国の歴史についてだが、後醍醐天皇の建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が京都(北朝)で持明院統の光明天皇を擁立し、それに対抗して大覚寺統の後醍醐天皇が吉野行宮(南朝)に遷ったのが1337年でそれから1392年まで南北朝時代が続いている。

北朝方は南朝勢力を打ち破っていき、また後醍醐天皇が1339年に崩御されたことで圧倒的優位に立つのだが、その後足利尊氏が政務を任せていた弟の足利直義と足利家の執事である高師直との対立が表面化して、観応年間には観応の擾乱(かんのうのじょうらん:1349~1352年)とよばれる幕府の内紛が起こっている。

政争に敗れた直義は南朝に帰順したことから南朝勢力が息を吹き返し、特に九州では1359年の筑後川の戦いで南朝方が北朝方を打ち破って、それ以降10年ほど九州は南朝の支配下となっている。

後醍醐天皇の皇子で南朝の征西大将軍であった懐良(かねよし)親王は、『明史』には「日本国王」と記載され、明朝から倭寇の取り締まりを命じられたのだが、親王はその命令に従わなかったことが記されている。Image
Feb 24 6 tweets 3 min read
9世紀から11世紀にかけてわが国は、記録に残るだけでも新羅や高麗などの外国の海賊による襲撃・略奪を数十回受けており、特に酷い被害を被ったのが筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩の九州沿岸であった。

特に有名な事件が寛仁三年(1019年)の刀伊の入寇である。詳細は平安時代の藤原実資の『小右記』という日記や三善為康の『朝野群戴』という文書に記録されているそうだが、女真族を中心とする刀伊は、約三千人が賊船約50隻の船団を組んで突如として対馬を来襲し、36人を殺害し、346人を連行したのち、次いで集団は壱岐を襲い、老人・子供など148人を殺害し、女性239人を連行したという。

さらに刀伊は博多を襲ったのだが、大宰権帥藤原隆家と大蔵種材らによって撃退され、さらに集団は肥前国松浦郡を襲ったが、源知(松浦党の祖)に撃退されたため、対馬を再襲撃した後に朝鮮半島へ撤退していったという。その後刀伊は高麗沿岸を襲撃したが高麗水軍に撃退され、拉致された日本人約三百人が保護されて、日本に送還されたという記録が残っている。

元寇で鎌倉武士たちがよく敵軍と戦ったのは、外国勢力に何度も襲われて来た九州沿岸地域の悲しい歴史と無関係ではないと思われる。
shibayan1954.com/history/muroma… 元寇においても壹岐や対馬などで多くの住民が虐殺されたり拉致されたりしたのだが、被害にあった人々からすれば、元や高麗が二度と九州沿岸を襲撃することがないように懲らしめて、できることならば家族を取り戻したいと考えることは当然のことであろう。

鎌倉幕府は文永の役の後、高麗に征討軍を出す計画を立てたところ多くの志願兵が集まったようだが、元が再び大船団を伴って攻めてくるとの情報を入手したことから、国土防衛を優先して取りやめとなった経緯がある。

弘安の役の後も高麗征討軍を出す動きがあったが、それも立ち消えになってしまった。幕府が動かないならば、対馬や壱岐や松浦の人々がなんとかして朝鮮半島に渡ろうとする動きが出ても、何の不思議もないではないか。
GHQにより焚書処分にされた『海の二千六百年史』という本がある。この本では倭寇についてこう解説されている。
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