しばやん Profile picture
京都のお寺に生まれ育ち、大学卒業後は普通の会社に就職し、2019年1月に勤務先を定年退職。ブログ「歴史逍遥『しばやんの日々』」で日本の歴史や文化、GHQ焚書の紹介等について記事を書いています。 https://t.co/COUaXFOJoz 著書『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』
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鹿児島県・宮崎県の寺に、国宝・重要文化財がほとんどないのはなぜか~~鹿児島藩1
薩摩藩(現在の鹿児島県・宮崎県)について「薩藩名勝志」という本が文化三年(1806年)に出版されている。この書物は薩摩藩の名勝や神社仏閣の由来などを多数の絵図とともに和歌等を織り込みながら解説した、十九巻の本である。この本は鹿児島県立図書館が「鹿児島県史料集 第42集~第44集」としてPDF化してネット公開されており、誰でも読むことが可能になっている。

また、天保十四年(1843年)に薩摩藩が編纂した、薩摩国・大隅国・日向国の地誌や名所を記した「三国名勝図会」という60巻20冊の和装本もある。画像は「三国名勝図会」に描かれた福昌寺である。

詳しい神社仏閣等の案内書が二点もあるのなら、今も鹿児島県・宮崎県に観光名所となるような有名な寺社がいくつあってもおかしくないと誰でも思うところだが、現在のところ両県には建築物で国宝指定されているものはなく、国の重要文化財についても、神社はいくつか指定されているが、寺院については皆無である。

現在の両県に文化財が少ない理由は、廃仏毀釈の問題を抜きにしては語れない。先ほど紹介した、福昌寺は島津家の菩提寺で、かなり大規模な寺であったのだが、明治初期に破壊されている。破壊されたのは福昌寺だけではなく、鹿児島藩(現在の鹿児島県・宮崎県)のすべての寺が徹底的に破壊されてしまった。

『鹿児島県史 第三巻』には、この当時の鹿児島藩の寺社の破壊について次のように解説されている。

「神仏分離と廃仏毀釈は、明治初年の改革中に於いても特筆大書すべき大事件で、他の諸改革に比して、より深く人々の信仰に触れ、それを根底から覆すものであった。しかしあまりにも大問題であったために、神仏の分離までは全国画一的に実行されたが、廃仏毀釈に至っては、新政府もその実行を躊躇し、多くの地方は分離のみに止まったが、鹿児島藩は廃仏を断行し、数年間、藩内に一の寺院仏閣なく、一人の僧尼を見ざるに立ち至ったのである。
(鹿児島県編『鹿児島県史 第三巻』昭和十六年p.643)」
shibayan1954.com/history/meiji/…Image では、なぜすべての寺が破壊されることになったのであろうか。もともと薩摩藩では仏教と習合した神道を批判し、仏教を排除せよとする平田篤胤の復古神道が非常に盛んであった。前掲書には次のように記されている。

「…(島津)重豪・斉彬ともに蘭学に通詞、西洋文物の輸入に熱心であったから、その影響を受けることまた多く、ために薩藩に於いては平田門でも佐藤信淵の説が歓迎されたのである。

藩主が復古神道派の説を喜び、藩の教育方針が以上の如くであったから、藩の人心が排仏に傾いたことは勿論で、僧侶もそれを苦とせざる程になっていたのである。而していよいよ排仏実施の導火線となったのは実に水戸藩の寺院改正令、梵鐘の鋳潰であって、斉彬は報時鐘を除くほか、あらゆる梵鐘を徴して武器製造に充てんとしたという。しかるに斉彬の逝去によりて、そのことはならなかったが、これらの事より、廃仏は斉彬の遺志より出づとも考えられていたのである。
(同上書 p.647)」

水戸藩の徳川斉昭は天保十三年(1842年)に、鐘は大郷は一村に一つ、小郷は数村に一つだけ残し、その他はお引上げと決定し、同時に二百余寺の取潰しを実行した。そして鐘を鋳つぶして大砲を製造している。その斉昭が嘉永六年(1853年)のペリー来航の後、老中首座・阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わるようになり、強硬な攘夷論を唱えたことで知られている。安政二年(1855年)三月に老中阿部正弘が諸藩主に対し「毀鐘鋳砲(きしょうちゅうほう)の勅諚」を出しているが、この勅諚に徳川斉昭が関与していたことは間違いないだろう。

しかしながら、この勅諚に十五代近江彦根藩主の井伊直弼や輪王寺宮らが強力に反対し、また同年十月に安政江戸地震が起こったことから実行が宙に浮いてしまうこととなる。薩摩藩第十一代藩主の島津斉彬は、徳川斉昭の考えを支持していたのだが、安政五年(1858年)に逝去してしまう。薩摩藩が廃仏毀釈の方針を固めるのは、次の藩主・島津忠義の時代で、薩摩藩の若手による提案がきっかけとなっている。

『神仏分離資料 第四巻』の「鹿児島藩の寺院処分」という記録に、慶応元年(1865)の春の提案に関わったメンバーの一人である市来四郎の回顧談が出ている。

「私ども友達中、壮年輩の所論に、こういう時勢に立ち至って寺院または僧侶という者は不用である。或いは、僧侶もそれぞれ国の為尽くさせなくてはならぬ時勢になった。先年水戸家にても、寺院廃合の処分があった。真に英断である。この時にあたり、当藩でも断じて廃すべきであるということとなりました。この人々で、只今生存の者は黒田清綱、橋口兼三、千田貞暁、それから私なども相談しまして、表面に立って建言者となりました。

家老の桂右衛門という者に対して、時勢切迫の状況より、僧侶の壮年の者が、ただ口弁を以て坐食しては相すまぬことなど説き、その若い者は兵役に使い、老いたる者は教員などに用い、各々その分を尽くさしめ、寺院に与えてある禄高は軍用に充て、仏具は武器に変えることとし、寺院の財産は、藩士の貧窮なる者に分与するがよかろうという主意で、建言しました。桂もかねて同論でもあり、大いに賛成して、直ちに忠義、久光に披露したところが、即日に決断せられ、久光は拙者も積年の考えであった。わが国は皇道であるから、仏法の力を借りるに及ばぬなどと言われたそうです。即日桂久武を始め、みな寺院処分の取調べの命を受けました。誠に愉快なことでありました。
(『神仏分離資料 第四巻』[復刻]名著出版 昭和四十五年刊p.1035~1036)」

市来らのメンバーが取り調べた結果、鹿児島城下各町に百十八、薩摩国各郡に三百九十、大隅国に三百十八、日向国に二百四十の合計千六十六の寺があり、僧侶や尼僧は二千九百六十四人いたという。また、寺院の敷地や田畑、山林などは税金が免除されていて、堂宇の修繕や祭事などで藩は毎年大きな金銀や米の支出を行っていた。メンバーの調査によれば、薩摩藩全体の寺院関係支出と租税免除額は、合わせて十万余石にもなると書かれている。ちなみに幕末の薩摩藩は八十七万石と言われていたから、財政に占める寺院関連支出がかなり大きかったことは確実だ。これ等の寺を潰せばそれだけ藩の収支が改善する上に、寺の仏像仏具を溶かすことで武器製造の原料に用いることが出来るとの考えであったのだ。Image
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May 29 4 tweets 2 min read
残る安住地は極東のみ 『事変とユダヤ人問題』を読む3
昭和十三年の犬塚惟重が読売新聞に寄稿した論考の最終回の見出しは「わが傘下に投ぜよ 残る安住地、極東のみ」となっている。

一九三八年にオーストリアがナチスドイツに併合され、そのためオーストリアに居住していた多くのユダヤ人が国内で迫害されるようになった。当時ユダヤ人たちは移住が可能な国探しに苦労していたのだが、犬塚は、ユダヤ人たちの安住の地は極東にしか残されておらず、わが国が統治している地域に来てはどうかと考えていたのである。

ドイツ=オーストリア共和国でユダヤ人が排斥されていることを重視した米英がユダヤ人救済に動き出し、世界各国に呼びかけている。ところが、当時反ユダヤであったのはドイツだけでなくヨーロッパから世界に広がっており、ユダヤ民族にとっては大危機であったという。なぜここまでユダヤ人が嫌われたかというと、彼らの排他的民族思想と彼らの闘争の方法が、多くの国で問題視されていた点にある。
犬塚は次のように記している。

「アメリカ大統領発意のもとに国務長官が二十九ヶ国に呼びかけ、独墺*政治的避雖移民の救済に今春以来乗出し、エヴィアン会議の結果ロンドンに国際政治委員会を本年八月創設し、三十二ヶ国の在英外交官が委員となり、大々的ユダヤ人救済運動に乗出したことは極めて注目すべきである。
*独墺:ドイツ=オーストリア共和国

これは換言すれば、既に体勢挽回し難き国際連盟を見捨て、新たに結成された反全体主義国際連盟ともいうべき性質を持っている。わが国の新聞も通信もこれに対し何等の関心を持たなかったとはその重要性に鑑み甚だ奇異の感に打たれる。これもユダヤ人問題に未だ認識不足の一例である。

かかる国際的組織を作り出した原因は米国ユダヤ人団体が独墺合邦、即ち中欧のユダヤ人拠点オーストリアの消滅に驚愕し、爾来総動員されて自由主義擁護ファッシズム、ユダヤ同胞救済に狂奔し、米国大ユダヤ系雑誌新聞が世界のユダヤに呼びかけ怒号しているところに明かなる如く、今や反ユダヤ人運動が独り欧洲のみならず全世界に展開され、真にユダヤ民族の大危機が到来しつつあることを物語るものである。

それは世界大戦以来最初の全米ユダヤ民族投票が米国ユダヤ委員会に依って決行された事実が雄弁にこれを示している。かかる悲況に追い込まれた原因は米国の一有力反ユダヤ人首領が「ユダヤ人の遣り口が自ら破滅を招く」といえる如く、ユダヤ民族の二千年来堅持し鍛練されて来た排他民族思想即ち “ユダヤ人は神の選民、他族は畜生” という宗教的観念並びに酷烈な民族闘争の結果である。

国家なき軍備なき彼等がこの闘争に当って利用したところの思想戦、経済戦、政略戦はユダヤ民族特異のマキァベリズムが強く正道をはずれているので永久的持続性が少なく必然的に思わざる破綻を招来するからである。

たとえば中欧ユダヤ人の永久的根拠地であり楽園であったオーストリアがユダヤ人の予期に反し疾風迅雷的アンシュルス*に依りその策源を完全に覆滅された如きこの適例である。またユダヤ人の識者間には「足元の明るいうちに欧洲を去れ」と主張した書物を数年前出しているものもある位である。
*アンシュルス:1938年3月12日にナチス・ドイツがオーストリアを併合したこと
『神戸大学新聞記事文庫』人種問題3-32」

エヴィアン会議というのはナチス・ドイツの迫害から逃れるユダヤ人難民問題に対応するため、一九三八年七月にフランスのエヴィアンで開催された国際会議だが、大半の国が難民受け入れに消極的であり、ユダヤ人の惨状を救うことは出来なかった。
 国を持たず、それゆえに軍隊も持たなかったユダヤ人は、将来世界を支配するために非ユダヤ国家同士を戦わせて疲弊させ、様々な思想戦、経済戦、政略戦を仕掛けてさらなる弱体化を図ることばかりを繰り返して来たのだが、このようなやり方は世界を不幸にさせるだけであり、ユダヤ人が世界から嫌われる原因となったことは言うまでもない。
shibayan1954.com/degital-librar…Image ナチスドイツの迫害を受けて移住先を探しているユダヤ人たちを、成立したばかりの満州国に移住させようとする動きがあったようだがその案は進展せず、結局支那に移住させることが決定した。
しかしながら日支離間策動を行ったことが支那事変を招く結果となり、ユダヤ人を移住させる為に支那に巨額の投資をしたのだが支那人によって破壊されてしまったという。

「欧洲においては今や安住の地を求めることが出来ない状態にあることは、極東ユダヤ指導者の間にも夙に問題とされ、満洲帝国出現以来安住の地を極東に求めんとし、満洲に入り込まんとする運動さえ公然行われ、わが外交官に直接交渉を受けたものもあった。

しかしこの満洲投資及び欧洲ユダヤ人五十万移民案も思う如く進展しないのに焦慮した結果、彼等は五十年計画で既に一応回収を終っていた支那に再投資を決意し、その基礎工作たる幣制改革を断行するに至ったのである。

彼等はここにもまた誤判断即ち極東における日本勢力を過少に認識しこれを除外し、支那を経済的に或いは政治的に独占せんとし、日支離間的策動をやった結果が今日の日支事変を招来し、彼等支那再投資の対照が破壊され停止されるの悲運を招いたのである。しかも彼等が助けた支那人に依って大部分は破壊さるるの皮肉なる結果を見たのである。

西洋人が日本を認識するの困難なことは勿論であるが、ユダヤ人に至ってはその個人主義、求利第一的観念強きが故に一層困難である。殊に日本人の犠性的愛国心等は殆ど国を持たざる彼等には諒解出来ないと見え、ひたすら物的資料に依って日本の実力を判定せんとする傾向が大である。

この認識不足の一例は今春帝国議会が四十八億円の軍費を一人の反対者もなく即決したのに仰天したのでも分る。また今年初めサッスーンなどは日本財政は四月までしか戦争をやれぬ等の誤判断を日本人に臆面もなく話しているのでも分る。サッスーン系財閥は、最近米国の与論外交界に策動し対日牽制策に出ていると新聞にも伝えられているが、彼の米国の九ヶ国条約を楯に取る反日抗議もこれに一因あると観察している向もある。これに反し他方自ら商業的活動に当っているユダヤ財閥、例えば海運業者の中にはその事業の性質上著しく現地新政権等に近寄らんとする傾向を認められていることは事実である。
『神戸大学新聞記事文庫』人種問題3-32」

文中に「日支離間策動」と書かれているのは、具体的には「排日」であり「排日貨」運動である。この運動は支那人が自発的に始めたのではなく、英米が仕掛けた形になっているが、その背後にユダヤ系財閥がいたと書いている。

ユダヤ人による策動については他の新聞も報じており、例えば昭和七年三月十八日の「大阪時事新報」はいくつかの具体例を挙げたのち、次のように締めくくっている。

「動乱の影には必ず彼等(ユダヤ人)の策動があり、又必ず自己の勢力伸張に成功している。満蒙上海事件を因とせる今度の排日貨運動或は日支問題の粉糾による米国其他が対日経済封鎖を唱道して人心を激化せしめつつある今日、此機に乗じての今度の経済封鎖の策動が万一にも彼等の陰謀とするならば、ことは簡単どころかかなりな重大性が潜むものと警戒しなければなるまい。
『神戸大学新聞記事文庫』中国12-108」Image
May 28 5 tweets 2 min read
狙われた日本 『事変とユダヤ人問題』を読む2
海軍のユダヤ人問題研究者・犬塚惟重が昭和十三年に寄稿した論考『事変とユダヤ人問題』の連載二回目の新聞の見出しには「毒牙愈よ日本へ  在支権益滅失防止に」と書かれている。

これまでユダヤの影響をあまり受けてこなかったわが国も、支那事変に巻き込まれていよいよユダヤに狙われるのではないかという危機感を少なからずの日本人が共有していたと思われる。

文中のサッスーン一族は、アヘン戦争後の南京条約で支那市場が開放された後に上海に進出し、インド産のアヘンを清国で売ることで巨万の利益を上げてきたが、インドで国民会議党の指導権がガンジー一派の消極的反英から積極的反英のネール派等に移ったのを機に香港および上海に本店を置いて支那開発に乗り出した。一九三七年頃にサッスーン一族が上海国際租界に有する資産のみでも十二億ドルと推算され、蒋介石の戦費はこの一族から出ていたとも言われている。

「元来上海は清英戦争の立役者ゴルドンユダヤ将軍が占拠し、インドから東インド会社腕利きのユダヤ人を引張って来て経営に当らせた土地である故に、今日上海の目貫きの土地家屋利権が彼等のものである事は蓋し当然である。

その中心をなすものが即ち幣制改革以来やっと日本の新聞雑誌にも名が出る様になって来たサッスーン一族である。この財閥のもとに英、米、仏、独、白に国籍をもちその国を利用背景とする国際ユダヤ財閥が協力して支那の西南開発或いは南部支那横断鉄道――これは十二年計画で上海、南昌、香港、雲南省を通じてビルマに出るものであるが――に互に協力分担し投資しているものである。

要するに上海はサッスーン一族が君臨する極東ユダヤ王国なる故に、英米等も外交官にはユダヤ人又はユダヤ人に評判のよい者を当てるのが万事に有利である。また同様の理由により、各国のユダヤ勢力がこの王国の崩壊を救援せんとし、九国条約等の古証文を楯に、国家なく、武力なき彼ら民族の唯一の武器である筆剣舌弾や黄金の麻酔ガスを以て国際的宣伝謀略戦をするのである。

なお一時喧ましかったドイツ軍事顧問団の引揚げ問題はまた事変とユダヤ人問題の一トピックである。即ちファウルケンハウゼン将軍夫人はユダヤ人で将軍自身も反ナチ思想の持主であり且つ軍事顧問の中には数名のユダヤ人がいた。彼等は単なる軍事顧問ではなく国際ユダヤ財閥支那投資の橋渡しや武器売込みをやるブローカー的存在で、本国のナチ政府とは全く相容れないものであり、従ってヒトラー総統の召還命令にもなかなか応じなかったのは当然である。
『神戸大学新聞記事文庫』人種問題3-32」

蒋介石が中国共産党との対決姿勢を鮮明にしたために、一九二六年にソ連の軍事顧問団は国民党を去り、中国共産党軍の指導を始めることとなり、一九二八年以降十年弱の間、蒋介石の国民党軍がドイツ軍事顧問による指導を受けていた。そして一九三五年に五代目の軍事顧問団長に就任したファルケンハウゼンは、蒋介石に対日戦を進言し、彼が団長であった期間に盧溝橋事件、第二次上海事件、南京陥落、黄河決壊事件が起きている。

少し補足しておくと、後に同盟国となるドイツはナチスが政権掌握後も、中国との貿易関係を重視していたのだが、日本重視に変わったのは一九三八年二月にリッベントロップが外相に就任して以降のことである。ヒトラーが軍事顧問団の帰還を命じたのはその直後のことだが、ファルケンハウゼンは命令に従わなかった。
彼らが帰国したのは黄河決壊事件のあとのことで、軍事顧問四十名の内六名が帰国を拒否し、うち三名はユダヤ人であったという。その後一九四〇年に日独伊三国同盟が締結され、一方ファルケンハウゼンは一九四四年にヒットラーの暗殺に関与したが失敗に終わり、ゲシュタポに逮捕されて、強制収容所に送られている。
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米の排日宣伝
犬塚によると頻りに排日宣伝を行っているのはユダヤ系であったという。
彼らは新聞、ラジオ、映画などで盛んに排日を煽っていたのだが、アメリカではユダヤ人は新聞、雑誌、ラジオ放送に強く、また映画界はユダヤ人の独占状態にあった。この状況は今も基本的に変わっていないと言って良い。

「更に今最もその対日態度を注目されている米国において英国または支那の宣伝に呼応し頻りに排日宣伝を行っているのはユダヤ系であることは最近帰朝の田観光局長の話にもあった。事実米国のインテリその他大衆は直接煽動に便なる地位に置かれているユダヤ系労働団体を除けば、新聞、ラジオ、映画等の排日宣伝に拘わらず未だ大して悪感情を持っていないのが現状である。

しかしこれも長い間にはこの宣伝の効果が現れ、英国または支那の宣伝に踊らされる危険を多大に蔵している。それはこの前の上海事件の例、また遠くは米西戦争の先例が雄弁にこれを実証している。米国における新聞、ラジオ、映画の宣伝の援支排日には近衛子もいたたまらなかった程であるが、その背後にユダヤ人の民族的感情や政策が多分に働いていることは上海の項で説いた如くである。
『神戸大学新聞記事文庫』人種問題3-32」

犬塚がこの論考を書いた昭和十三年の頃はアメリカに於いて新聞ラジオが反日宣伝を行っても、一般大衆は日本に対してそれほど悪感情を懐いてはいなかったのだが、反日宣伝が繰り返し長く続けられたことにより次第に「反日」が広く浸透していって、いずれ大衆は日本製品を買わなくなっていく。そうすることによって、日本が開拓した商圏が奪われていくと同時に、日本の経済力が急速に弱められていったのである。

戦後の自虐史観に多くの日本人が洗脳されてしまって、戦前に世界の多くの国が反日を唱えるようになったのは日本が悪いことをしたためだと理解している人が少なくない現状にあるのだが、真実は反日宣伝をする側に不純な動機があり、その背後にはユダヤ財閥が絡むことが少なくなかったことを知るべきである。当時の新聞を調べれば、ユダヤ勢力が暗躍していた記事は少なからず存在する。Image
May 27 4 tweets 2 min read
神仏分離令を出した神祇事務局の役人が主導した日吉大社の廃仏毀釈
鳥羽伏見の戦いののち三件の外国人殺傷事件が相次いで起こり、最後のパークス襲撃事件が解決したすぐあとの慶応四年三月十四日(1868/4/6)に五箇条の御誓文が発布されたのだが、実はその前日である三月十三日に王政復古・祭政一致が宣言され、神祇官再興が布告されている。
そして、三月十七日には神祇事務局から全国の神社に宛ててこのような命令が出ている。

「今般王政復古、旧弊御一洗被為在候ニ付、諸国大小ノ神社ニ於テ、僧形ニテ別当(べっとう:社寺を統括する僧職)或ハ社僧抔(など)ト相唱ヘ候輩(やから)ハ、復飾被仰出候、若シ復飾ノ儀無余儀差支有之分ハ、可申出候、仍此段可相心得候事 、但別当社僧ノ輩復飾ノ上ハ、是迄ノ僧位僧官返上勿論ニ候、官位ノ儀ハ追テ御沙汰可被為在候間、当今ノ処、衣服ハ淨衣ニテ勤仕可致候事、右ノ通相心得、致復飾候面面ハ 、当局ヘ届出可申者也
(神祇事務局ヨリ諸社ヘ達 慶応四年三月十七日)」

それまでは、大半の神社において神仏習合が行われ、神と仏は同列に祀られ、神殿と仏堂とは同居し、神殿に仏像などが存置され、僧侶が神に奉仕して、神前で読経があたりまえのように行われていたのであるが、いきなり神社における僧侶の復飾(ふくしょく:俗人となること)が命じられたのである。それだけではない、三月二十八日には「神仏判然令」と呼ばれる神祇事務局達が出されている。

「一、中古以来、某権現(ごんげん)或ハ牛頭(ごず)天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事、但勅祭之神社 御宸翰勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事、

一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地抔と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事、右之通被 仰出候事
(神祇官事務局達 慶応四年三月二十八日)」

「権現」というのは仏が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号で、「牛頭天王」というのは、祇園精舎の守護神とも薬師如来の化身とも呼ばれ、祇園社(現在の八坂神社)の祭神だが、このように仏教の用語で名付けられた神号を祀る神社は、それぞれの神社の由緒の詳細を調べて書面にて提出すること。また、仏像を御神体としている神社や、御祭神が仏の姿で現れたとして仏像を社前に掛けたり、鰐口、梵鐘などの仏具を用いている神社は、それらを取り除けと命じたのである。
shibayan1954.com/history/meiji/… 新政府が登用した神祇官のメンバーは、排仏家の国学者、儒者の集まりであった

このように矢継ぎ早に発せられた神仏混交禁止、別当・社僧の還俗の通達は、神社における神官と僧侶との抗争を各地で激化させることとなったのだが、神仏分離については新政府の基本方針である五箇条の御誓文には書かれておらず、新政府が三月十五日に民衆に対して最初に出した五榜の掲示にも記されていない。しかも、旧幕府勢力との内戦はまだまだ続いていたのだが、こんな時期に神仏分離を発令した神祇官とはどのような組織であったのだろうか。

羽根田文明著『仏教遭難史論』にはこう記されている。
「幕府時代には、白川家が神祇伯、吉田家が神祇大副、藤波家が伊勢祭主の職を、各三家が世襲して、神祇に関する事務を取り扱っていた。しかるに王政維新の際、すべて世襲の官職を廃し、職員は人材登用となり、先ず最初に古制に則り神祇官の設置となった。この神祇官は古例のごとく、太政官各位の上位にある独立の官衙である。慶応四年すなわち明治元年二月、神祇官最初の総督は白川三位、大輔が亀井茲監(かめい これみ:前に排仏主義を実行せる、津和野藩主)その他、正権判事も、みな排仏家の国学者、儒者であったから、神祇官は、あたかも排仏者の集合団体の如くであった。

さて、日吉山王権現の社司、樹下(じゅげ)、生源寺二家は、伝教大師以来親近の者であったゆえに、一山より扶持を給して家来の様にしてあったから、権現について何等の勢力もなく、法親王、座主宮に面謁することさえ憚る卑官であった。その樹下石見守茂国という人、年来、社僧の下風に立ち、下役に使われるのを憤慨していたが、なにぶん当時比叡山延暦寺は寺領五千石の領主にて、三執行代という政務所あって領内人民を支配し、地頭の権威を以て山王の全権を握っているから、如何ともすること能わず涙を呑み、窃に時機の至るのを待っていた。
(羽根田文明著『仏教遭難史論』国光社出版部 大正14年刊p.114~115)」

排仏家の国学者、儒者の集まりである神祇事務局が神仏分離令を発したのだが、そのメンバーの中に日吉山王権現の社司であった樹下茂国がいた。彼は、延暦寺が日吉山王権現の全権を握り神官が軽んじられていることに憤慨していたのである。Image
May 26 5 tweets 2 min read
『平家物語』の巻一に、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話があるが、京都の鴨川には過去何度も洪水を繰り返し、橋を流してきた歴史がある。

賀茂川に架けられた四条大橋は江戸時代だけで八度も流されてそのたびごとに架け直されてきたそうだが、昔は少しの費用ですぐに架けられるように小さな橋であったという。

しかしながらこの橋は、祇園祭や神社の参詣に欠かせない重要な橋であることから、幕末の安政三年(1856年)に石の橋脚に木造の橋を架け渡し、大きな橋が建造されたのだそうだが、その橋も明治六年(1873年)の洪水で再び流されてしまった。

明治六年といえば、「文明開化で」国を挙げて洋風化に取り組んでいた時期である。

四条大橋は京都で最初の鉄橋に架け替えられることとなり翌年に完成したのだが、この新しい橋の建造の為に大量に集められたものがある。

『神仏分離資料第一巻』に「京都四条鉄橋と廃仏」という記事があり、そこにはこのように記されている。

「京都四条の鉄橋の材料は、仏具類が破壊せられて用いられたとのことである。かの鉄橋は、明治六年に起工し、翌年三月に竣工し、同十六日に開通式が行われた。総費額一万六千八百三十円で、祇園の遊郭で負担したとのことであるが、時の知事長谷信篤は、府下の諸寺院に命じ、仏具類の銅製の物を寄付せしめた。古い由緒ある名器の熔炉に投ぜられたるものが少なくなかったと云うことである。当時廃仏毀釈の余勢が、尚お盛んであったことが判る。
洛陽四条鉄橋御増架に付献上書云々とある文書が伝わってある。その一に、紀伊郡第三区深草村寶塔寺、一、古銅器大鰐口、丈八寸、縁二尺、目方十六貫八百目、銘に深草寶塔寺為覚庵妙長聖霊菩提、慶長十七年七月二十日、施主中村長次とあったことなど見える。此類の物が今の鉄橋になったのである。(明治四十五年四月八日発行仏教史学第二編第一号所載)」(昭和四十五年刊『神仏分離資料第一巻』復刻版 p.384-385)

深草の宝塔寺は昔は極楽寺と称し、源氏物語にも出てくる由緒ある寺であり、安永九年(1780年)に刊行された『都名所図会』にはこの寺の境内が描かれている。鰐口(わにぐち)とは仏堂の正面軒先に吊り下げられている音を鳴らす仏具であるが、ここで書かれているサイズは通常のサイズの倍以上の大きなものであり、もともとは本堂に吊り下げられていたものであろうか。鰐口に刻まれていた慶長十七年とは西暦1612年にあたり、江戸幕府が直轄地に対して禁教令を布告し、キリスト教教会の破壊と布教の禁止を命じた年である。

『神仏分離資料第一巻』には、溶炉に投げ込まれた事例は宝塔寺の鰐口のことしか書かれておらず、他にどれだけの鐘や仏具類が熔炉に投げ込まれたかはわからない。しかしながら、この時に架けられた橋の長さは、今の橋でも72mあるので、それに近い長さはあったであろう。溶かされた仏具類は半端な量でなかったことは確実なのである。

国際日本文化研究センターのホームページに、明治初期に出版された『京都名所撮影』がアップされており、その中に明治7年(1874年)に完成した四条大橋の写真が出ている。この橋は京都市電敷設のために大正2年(1913年)に新しい橋に架け替えられたのだが、昭和9年(1934年)の室戸台風で鴨川が氾濫したため大規模な河川改修が行われて、昭和17年(1942年)に現在の橋が造られた経緯にある。
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大量の鐘や仏具類が 四条大橋の新設工事に集められた経緯
明治7年の工事に話を戻そう。
大量の仏具類が集められた背景を考えるには、明治に改元する前の慶応四年(1868)三月に新政府が相次いで出した命令文書がある。意訳して簡単に紹介すると、

①祭政一致の制度を回復し、神祇官を復活し、全国の神社・神職を神祇官に付属させる(三月十三日太政官布告)
②神社で別当・社僧と称し、神職を兼務している僧侶は復飾のこと(三月十七日神祇事務局達)
③権現、牛頭天王など仏教的名称を神号とする神社は由緒を申し出よ。また仏像を神体とすることを禁じ、神社から仏像、鰐口、梵鐘、仏具などを取り除くこと(三月二十八日神祇事務局達)

③がいわゆる「神仏分離令」と呼ばれているものだが、明治維新までは一部の例外を除き神社は仏教僧侶の支配下にあり、神と仏は同列に祀られて神殿と仏堂が同居し神殿に仏像などが置かれ、僧侶が神前で読経を行うのが普通であった。(「神仏習合」)

北野天満宮、石清水八幡宮、祇園の八坂神社、上賀茂神社、下鴨神社など、京都の有名な神社はいずれも昔は神仏習合で、境内に多くの仏教施設があり仏像などを数多く保有していたのだが、「神仏分離令」が出たことで境内の仏教色が一掃され、仏像・仏具類を神社の境内から撤去することとなった。また、照高院のように廃寺となった寺や、安井金毘羅宮のように寺院が神社になったようなケースもあり、仏教施設や仏像・仏具などの一部は他の寺院が引き取ったものの、処分しきれなかった金属製の仏具等が、四条大橋の建築資材として持ち込まれたことが考えられる。

しかしながら、集められた金属類はそれだけではなさそうだ。
『神仏分離資料第一巻』に出てきた深草の宝塔寺については今も現存する寺であり、明治期に何かが破壊されたという記録もなく、慶長十三年(1608年)に建立された本堂と室町時代に建立された総門と多宝塔はいずれも国の重要文化財に指定されており、『都名所図会』の時代の景観が概ね維持されているようなのである。

宝塔寺の事例について記録が残っているならば読んでみたいところだが、おそらくこれは「神仏分離令」とは関係がなく、京都府より金属製の仏具等の寄付を迫られて供出したものだと思われる。このような事例は他にも相当あったのではないだろうか。Image
May 25 5 tweets 2 min read
GHQは外国人の著作も数多く焚書処分したのだが、今回は『ヨーロッパの悲劇―英国の戦争方法―』という本を紹介させていただく。
著者のドクター・フランツ・グローセという人物についてはネットで調べても良く分からないのだが、この本の訳者の序文に、この本にどのようなことが書かれているかについて次のように記されている。

「本書はドクター・フランツ・グローセ著『イギリス人は最後のフランス人に至るまで戦う』(Engländer kämpfen bis zum letzten Franzosen)の全訳である。
本書に示すところは、主として英仏関係、殊にイギリスの笛に踊らされたフランスその他の国々の悲惨な道化姿である。しかし読者はこれによって、かつての日本の同盟国イギリス、『紳士国』イギリスの真の姿を見ることが出来るであろう。
思うに日英同盟が、前大戦後いずれかの意志によって破棄されたのは、今にしてみれば幸いであった。ナポレオン一世の言葉ではないが、『イギリスと同盟せる国々は、同盟諸国相互の争闘という最も危険な地位を得た以外、何一つ頂戴しなかった』のである。馬鹿を見るのは、いつもイギリスの敵国よりも、むしろ同盟国だという事実を、実際の資料を以て、本小冊子ほど簡明に示した書物は稀である。この意味から、本書をわが国に紹介する所以も、おのづから了解されるであろう。
フランツ・グローセ 著『ヨーロッパの悲劇 ―英国の戦争方法』日独出版協会 昭和15年刊 p.1」

第二次世界大戦までは、世界の警察の役割を果たしてきたのはイギリスであったわけだが、イギリスと同盟を結んだ国々にとって「馬鹿を見るのは、いつもイギリスの敵国よりも、むしろ同盟国だという事実」であったという点は極めて重要である。イギリスは、世界各地の植民地を搾取しただけではなく、同盟国にも多くの犠牲を強いてきたというのだ。ナポレオン一世の言葉も興味深いのだが、具体的にはどのような出来事があったのだろうか。
shibayan1954.com/degital-librar…Image 最初に本書の冒頭部分を紹介しよう。当時のイギリスの軍事・外交政策は、今の某大国と似てはいないだろうか。

「『平和を好む』イギリス

イギリスの海軍は大海を支配しなければならぬ。そして如何なる敵の艦隊も、あるいは連合艦隊も、イギリスの海軍を凌駕する如きことがあってはならぬ。如何なる大陸国家もヨーロッパで、即ちイギリスが独力を以て征服するには余り大き過ぎるヨーロッパで、軍事的優越を示すが如きことがあってはならぬ……』バーナード・ショーは、その著『平和会議への警告』の中で、最近数世紀間におけるイギリスの政策の基調につき、右の言葉で、極めて適切に言い述べている。
これはヨーロッパ大陸外のためには広範な範囲の独裁を、しかしヨーロッパ大陸のためには力の均衡をつくり、これを無条件に維持することを意味するものであった。ただこの状態が保たれたばかりに、イギリスは世界の警官としての役割を続け、調停裁判官の役割を固執し、その『賢明な』忠告には地球上の全民族が耳を傾けることとなり、かくてイギリスは、偉大な平和的権力としての威信を保つことが出来たのである。

イギリスは平和と正義との恃みであり、守りである――イギリスの宣伝がこの光栄を、イギリスに与えることを知ったのは、ただに今次の戦争や、過ぐる世界大戦に始まったことではない。この宣伝はもっと古くから行われ、しかも甚だ巧妙であり、歪曲捏造の限りを尽くし、嘘八百を並べて事実を隠蔽していたので、被圧迫民族はイギリスの『正義』に心服したのだというイギリスの口上を、敵方ですら信じ込んでしまった。世界の人々はボーア戦争の恐怖も、数世紀にわたって前例のないアイルランド圧迫の事実も、とっくの昔に忘れてしまった。世界はイギリスが前世紀にも多くの戦争や討伐戦や、その他類似の事件を起こした事実を見逃している。
同上書 本文p.1~2」

イギリスが『平和を好む』というのは事実とは程遠く、この国は十九世紀に何度も戦争を繰り返していたのである。Image
May 24 4 tweets 2 min read
古代に日本に渡来したユダヤ人は日本に同化した
今回紹介したいGHQ焚書は中山忠直(なかやま ただなお)という人物の著した『我が日本学』である。
この書物は内務省が発禁処分を下し、戦後はGHQが焚書処分したために、この人物については戦後はほとんど知られていない。『我が日本学』(GHQ焚書)には次のように記されている。

「ユダヤ民族は有史以前に早く日本に渡来し、全くの日本人として同化し去り、ユダヤ人特有の信仰も人生観も忘れ果てて、同じく『神ながらの徒』として皇室に忠誠をはげみ、愛国の熱情に燃えている。かくユダヤ民族を完全に同化し去った楽園は、地上のドコにあるか。日本歴史の一面は、ユダヤ同化の歴史である。過去に於いて然りし如く、日本の地理力は今後に於いてもユダヤを同化する必然力を具えている。
中山忠直著『我が日本学』嵐山荘 昭和14年刊 p.413」

中山は日本人にユダヤ人の血が混じっていることを否定せず、彼らが一神教のユダヤ教を棄て神道や仏教を受け容れて日本に同化したことを重視している。この中山忠直の考えは日本人のルーツがユダヤ人の一氏族であるとする「日ユ同祖論」とは全く異なるのだ。

また中山自身は皇室の祖先については次のように述べている。

「天孫民族の主流、皇室の御先祖は何であるか、まだ誰にもわからない。シュメール族説、ヒッタイト説、ヘブライ説ともに根拠があるが、この三民族は同志の兄弟民族であり、どちらでも結局同じことである。日本民族は混血民族であり、この三つの兄弟民族やスサ民族がみな日本という風土に於いて完全に結合している。先祖はどちらでもよろしい。

余が先輩の書から日本民族とユダヤ民族の類似を、ことさらに引用したのは、日本でユダヤの研究が盛んになったのを幸いに、さらにユダヤ問題を徹底的に研究してほしいからであり、またユダヤ人に日本人の本質を知らせたいためである。
同上書 p.447~448」
shibayan1954.com/degital-librar…Image 日本にはユダヤ人を変える力がある
さらに中山は、日本人とユダヤ人の違いについて次のように述べている

「余は十数年前から…ユダヤ問題を研究しているが、これを研究すればするほど、上古から日本との関係の深いのに驚かざるを得ぬ。ことに風俗や習慣に至っては、地球上にこれほど類似の民族があるかと驚嘆する。

二民族の根本的差異は人生観である。即ち日本民族には昔から人種的偏見が全くなく、あらゆるものを包含し、打って一丸となし、世界の共存共栄を目的とする神的観念の民族であるに反し、ユダヤ民族は世界を敵とし、これを膝下に征服し奴隷化せずんば止まざるの強健な意志と悪魔的性格を持っている。
さりながら、これはすべて地理力の感化である。日本は悪魔をも神化すべき感化力を持つ。盗癖の朝鮮人が次第に善良化する如く、ユダヤ民族は環境の過酷なるヨーロッパに在っては、悪魔性を発揮せずんば民族の自衛と存続を得なかったが、日本の如き蓬莱国に来たっては、自ら仏性を獲得する。故に日本民族とユダヤ民族との性格の相違は、単に地理的理由に基づき、二民族の差異を論証す根拠とはならぬ。
同上書 p.417~418」

ユダヤ人問題は戦後ではタブーとされ日本人の大半が何も知らされていないのだが、戦前戦中ではユダヤ人がロシア革命を仕掛け、第一次世界大戦を仕掛け、支那事変を仕掛けて第二次世界大戦に日本を巻き込もうとしていたことは多くの言論人が警鐘を鳴らしていたことである。

中山は、いくらヨーロッパ人がユダヤ人を憎んでいるからといってわが国はその尻馬に乗るべきではなく、ナチス的ユダヤ政策は問題の解決にならないと述べている。必要なことはユダヤ人たちに、彼らが世界に対して行っていることが誤りであることを理解させることであり、彼らを改心させるべく啓蒙することは我々日本人の役割ではないかと問うているのだ。

「我等日本国民はユダヤ民族を憎まない。彼らが日本の真情を理解せず、日本を滅亡せしめんと企図する心を憎む。故に日本人の熱望する所はユダヤ民族の虐殺ではなくて、ユダヤ民族の改心である。ユダヤ民族よ、世界の富の三分の二を壟断し、しかも生命と金の保全の国なき、金持ちの国際的浮浪者よ。お前らはその金をもって、何時まで狭い地球をぶらついているのか!日本へ帰順せよ。日本は汝らを混血し融和し去るであろう。

日本は平和的手段によって、ユダヤ民族を消化し、世界反乱の癌を処分せんとする大慈悲民族である。ナチスの如き徹底的排撃政策を実行せずとも、日本にはユダヤを消化し処分する歴史的伝統力がある。
同上書 p.451」

歴史上多くの紛争を世界的に仕掛けて来たユダヤ民族が今も良からぬことを画策しているようだが、敵対する勢力を殲滅しても問題は解決せず、無辜の民を大量に殺戮したとしていずれ世界中から長らく非難を浴びることになるだけだ。いままではマスコミを使って世論誘導は可能であったが、いまはSNSで真実が世界に伝わっていく。ユダヤの支配力は今後衰えていかざるを得ない。

古代日本でユダヤ人を同化させた歴史をもつのであるから、機が熟せば、わが国が彼らを説得し世界を平和に導く役割を期待される時が来るのかもしれない。しかしながら、今のユダヤ人からすれば、古代において日本に同化したという話はおそらく受け容れがたい話であるだろうし、今のわが国の政治家や官僚にそのような説得力がある人物がいるであろうか。
May 23 6 tweets 2 min read
インド産アヘンの最大の輸出先は中国であった
イギリスがインドを世界最大のアヘンの生産地とし、インドではアヘンを幼児の頃から吸引することが推奨されていたのだが、大半のアヘンは外国に輸出され、最大の輸出先はシナ(中国)であったという。
白柳秀湖著『定版明治大正国民史. 維新改革編』につぎのような記述がある。

「今日シナを残害しているアヘンというものは、その大部分がインドで出来るのだ。
最近の調査によるインドの耕地面積は、二億二千六百一万二千二百七エーカーと報告されているが、そのうちで耕作地らしい耕作地は四十万エーカーばかりで、そのうち二十万エーカーがアヘンを造るけし畑になっているのだ。
いま、この広大なるけし畑から算出されるアヘンの高が何ほどで、それがいずれの国々にどれ程ずつ輸出されているかということは、厳重なる秘密となっていて、くわしい数字を挙げてお話しすることは出来ぬ。ただインドにおけるイギリス政庁のアヘン収入が一ヶ年三千万円以上で、そのアヘンの五分の一が内地で消費され、五分の四が外国に輸出されているというざっとしたことだけはわかっている。しかもこの外国に輸出されるアヘンの最も主なるお得意先がシナであることは言うまでもないことだ。
(白柳秀湖 著『定版明治大正国民史. 維新改革編』千倉書房 昭和十五年刊 p.189)」

この書物の初版本が出たのが昭和十一年なので、この文章は1930年頃のインド産アヘンの状況を述べていると考えて良いだろう。飢餓に悩まされていたインドの「耕作地らしい耕作地」の半分が、アヘンの原料となるけし畑とされていたということも驚きだが、アヘン戦争(1840~1842年)から九十年近く経過した時期においても大量のアヘンが中国に売られており、中国はインド産アヘンの最大の輸出先であったのだ。
shibayan1954.com/history/china/…Image アヘン戦争が起こるまでの歴史
イギリスが中国にアヘンを売るようになったのは、1773年にイギリスの東インド会社がインド産アヘンの専売権を握って以降の事だが、当初は薬品として用いられていたアヘンが中国で喫飲されるようになったのは1800年の頃だという。

その頃から中国のアヘンの輸入量が大幅に拡大するのだが、そのために黒字であった同国の貿易収支が大幅に悪化していったという。

「元来シナはアヘン喫飲(きついん)の風習の瀰漫(びまん)するまでは、概して輸出国であった。しかるにひとたびアヘン喫飲の風習がはびこって来ると、その輸入量は年一年加速度で増加し、にわかに輸入国となってしまった。しかもその支払いが、すべてシナ銀で行われたので、銀の価はにわかに騰貴し、したがって銅の価はにわかに下落した。
銅価の下落が、直ちにシナ内地における諸物価、殊に米価に影響してこれを騰貴させる関係は、わが徳川時代における銭価と米価の関係によく似ていた。シナ政府は、今や国民経済の上からも、アヘンに対して断固たる処置に出なければならぬ立場に追い詰められて来た。

今溯(さかのぼ)って清の高宗の乾隆年間(1736~1795年)に於けるアヘンの輸入高を見るに、一ヶ年僅かに二百箱*に過ぎなかったものが、…仁宗の嘉慶(1796~1820年)の初めになると、それが一ヶ年二万七千箱*の多きに上っている。しかもこの夥しきアヘンの数量が、カルカッタにおける相場の二倍でどしどしシナに売り込まれていたのであるから、イギリス商人の儲けがどんなにぼろいものであったかは、推して知ることができる。

*箱:一箱百二十斤入り。一斤は600g。二百箱=14.4トン。二万七千箱=1944トン。
」(白柳秀湖 著『定版明治大正国民史. 維新改革編』千倉書房 昭和十五年刊 p.192)Image
May 20 6 tweets 2 min read
インドに病苦と災厄をもたらしたアヘン
イギリスによる統治時代にインドは世界最大のアヘンの生産地にされていたのである。GHQ焚書処分された本に百々巳之助 著『植民専制史論』という本があり、そこには次のように解説されている。

「インドは世界中一番多くアヘンを算出する。そしてその約半分がインドで消費され、残りの半分が輸出されている。
アヘンの輸出を盛んにするために、イギリスは支那と二年間も戦争している(アヘン戦争)。インドが消費するアヘンは毎年百七十萬ポンドに及ぶ。その製造、吸引はわが日本に紹介されている様に決して秘密のアヘン窟で行われているのではない。官立のアヘン販売所が七千もあり、その製造も純然たる政府の事業となっている。そして世界の医学によって定義されている人体に有害なアヘンの吸飲を奨励している。
イギリスがインドに侵入するまでインドにおけるアヘンの吸飲はごく穏やかな程度で、今日の如く公然かつ宏大には行われてはいなかった。それは国民の宗教上の心情がこのことを固く禁じていたからである。ゆえにガンジーも
『イギリス国民が来るまでインドでは如何なる政府もその税金欲しさにアヘンの吸飲を奨励しアヘンの害毒をこの国に植え付けた政府はかつてない。アヘンの消費は今世紀に入ってから著しく増加している。英政府は恐るべき堕落と言語に絶する惨めさと、癒しがたき病苦と災厄をインド国民に齎した』
と憤慨しているほどである。
だが英政府はアヘンの課税なしにはやっていけないと宣言する。1923年に政府の緊縮委員会が発表した報告書によると「アヘンの販売高を維持することが重要な財源である。」と強調している。
(百々巳之助『植民専制史論』p.97~98)」

イギリスは毎年のように多くの餓死者が出ている中でインド人にケシを栽培させ、アヘンを製造させていたことになる。そして彼らは、インド人に対してアヘンの吸飲を禁止していたのではない。むしろ推進していたのである。その目的はインド民族を弱体化させるためであったと著者は述べている。

「なぜ町々のアヘン販売所がアヘン溺飲者の群れを誘発するか。英国のインド政策の裏にはこんな悲惨も織込まれている。即ち田畑や工場で働かねばならぬインドの女たちが子供たちに飢えて泣き叫ばれては堪えられぬ。そこで手近なアヘンを子供たちに与えるという方法が聡明なイギリス人によって教えられ、かくてインドの平均寿命がわずかに26年という結果と民族の弱体化とがもたらされたが、これがイギリスの思う壺なのである。(子供たちの90%迄は二歳になるまでにアヘンを飲まされている。)
しかもボンベイでは今日毎年一千人の子供のうち六百六人は死亡するという驚くべき統計が示されている。またそれがペスト、コレラ、来廟、結核などが猖獗を極める理由なのであり、1918年から翌年にかけて流行したインフルエンザが飢餓とアヘンと酒による害毒によって一層弱められていたインド人の一千二、三百萬人を死に至らしめた理由なのである。――大戦四年の全参加国が失った総人員より多い――。
(同上書 p.98~99)」

飢餓とアヘンと酒でインドの人々は栄養不良のため、インフルエンザの流行で多くの命が奪われ、その死者の数は第一次世界大戦の全参加国の死者よりも多かったというのはすごい話である。
shibayan1954.com/history/englan…Image 異常な平均寿命の低さ
平均寿命が26歳というだけでも驚きだが、他の本にはインド人の平均寿命はそれからさらに低下していったことが書かれている本がある。

金子健二 著『印度』もGHQによって焚書処分された本だが、この本の中で各国との平均寿命の格差が解説されている。

「インド人の平均寿命は…年々低下しているのは事実である。例えば大正十年に男子の寿命が平均二十四歳八か月で、女子は二十四歳七か月と言われていて、いわば、この点では男女の間に大きな差がなかった。然るに昭和六年になると男子は二十三歳三ヶ月、女子は二十二歳八か月となっていて、女子の寿命が短くなってしまった。そしてこの年の我が日本人の寿命は男子四十六歳五か月、女子四十六歳五ヶ月となっている。しかるに英国人の寿命ははるかに我々より長い。すなわち、昭和七年度にはイギリスの男子の寿命は五十八歳七か月、女子は男子よりは長命で六十二歳九か月となっている。またドイツでは昭和九年度によれば男子五十九歳九か月、女子は男子より寿命が長く六十二歳八か月となっている。
(金子健二 著『印度』湯川弘文社昭和12年刊p.122)」Image
May 19 4 tweets 2 min read
かつて豊かな国であったインドがいかにしてイギリスに富を奪われていったのか

昭和18年に国際日本協会が大東亜統計叢書の第一部Ⅶとして刊行した『印度統計書』がある。ほとんどのページが統計数値だけの書物なのだが、こんな本までがGHQによって焚書処分にされているのは意外であった。

目次を見ながら中身を拝見すると、第56表には歳入項目の中の基本収入に「阿片(アヘン)専売」収入が記されており、p412~415には1928年から10年間のアヘンの生産量や輸出先などの統計が出ていて興味深い。このあたりが焚書処分された原因なのであろうか。

前回の記事ではインド人のラス・ビハリ・ボースとドイツ人のラインハルト・フランクの著書を紹介したが、この『印度統計書』で、ボースらの主張の裏付けを取るデータを探してみたのだが、識字率に関係する統計が見つかった。

ボースはイギリスが統治するようになって以降、識字率が過去二世紀間に6割から9%になったと書いていたが、第46表に「識字者及び英語を読み得る者」がp.81~82に男女別に集計されている。「教育者」とは、学校教育を受けたという意味で、この表は学校教育を受けたかどうかという観点でまとめられており、学校教育は受けていないが字が読める人数は母数から外されている。この数字をもとに識字率を計算するために表を作り変えてみると以下の画像のようになる。

統計年度が原典に記されていないのは残念だが、他の教育関係の統計が1937年頃のものが多いので、この数字もその頃のものだと思われる。

全インドの識字率が8.5%という数字から、9%とするボースの主張が正しいことがわかる。
shibayan1954.com/history/englan…Image 豊かな国であったインド
かつてのインドは歴史的に見ても極めて豊かな国であった。GHQの焚書処分を受けたラインハルト・フランクの『虐げられし印度』にはこう書かれている。

「インドは地理学上の半島なれども、殆んど大陸とみられ、しかも完全に自然的国境で取り囲まれておって、特に文化の発達に公的な条件を備えている。だからここに定住したインドアリアン人は、遥かなる古代において既に農耕を行っていたのであるが、彼らは灌漑に水車を用いることを発明し、度量衡の制度を立て、また建築や、紡織の技術にも長じていた。されば世界最古の文学がこの国に開花したことは、毫も怪しむにたらぬ。そしてインドはまた、宗教と哲学の揺籃でもあったのである。
(『虐げられし印度』p.17)」

マガダ国のグプタ朝時代(320年頃~550年頃)はインド古典文化の黄金時代で、サンスクリット文学が栄え、アジャンター石窟寺院の絵画が描かれ、医学・天文学・数学なども発達したことは教科書などにも書かれている。ゼロを用いた計算法を発見したのも古代のインド人なのである。このような文化が花開く国が豊かでないはずがないのだ。

しかしその後インドはさらに裕福な国となる。再び『虐げられし印度』の引用を続けたい。

「インドの黄金時代ともいうべきは、ムガール王朝のアクバル王の治世(1556~1605)で、その時は国運が絶頂に達したのであった。英国の商人らが食肉鳥の餌食を探し求めるごとくに争うてインドへ渡航しはじめた当時は、このアクバル王はまだ存命中であった。
彼は宗教に対しても勤めて公平なる態度をとって、回教徒やヒンドゥー教徒の双方から逸材を抜擢してこれを重用し、秩序ある法治的国家を創設した。だからこの王の徳化は、辺鄙の掘立小屋にまでも及んだものであった。
今、当時の治績を訪ねて、その壮麗なる宮殿や、回教寺院や、運河等をみると、その昔のインド人の政治が如何に成功したかを知ることが出来よう。
(同上書 p.18)」

ラインハルト・フランクはアクバル王の時期が最盛期と書いているが、この帝国の最盛期はシャー・ジャハーンの治世(1628~1658)であったというのが通説である。この時代はインド・イスラム文化が花を開き、国王は妃ムムターズ・マハルの墓廟であるタージ・マハルを建築し、国王の王座にはダイヤモンドやルビーなどの宝石が惜しみなく使われていたという。

常識的に考えて、これだけ豊かな文化を育んだ国の住民の多くが文盲であることはありえない。かつてはボースの言うようにかつては6割の人が字を読むことが出来たとしても驚くことはない。識字率が極端に低下したのはイギリスの教育政策にあるのである。

ではなぜイギリスはインド人の教育に力を入れなかったのだろうか。そのヒントになる記述が同書に出ている。

アメリカの教育者ウィリアム・T・ハリスがインド人の教育に力を入れることをイギリス本国の教員らに力説したのだがうまくいかなかったという。米国クレーヴランドで開催された教育大会における講演でハリスは次のように述べたという。

「…この奨励は、奇怪にも東インド会社の首脳部の意見と衝突したために、ついに実現を見るに至らなかった。というのは、その当時東インド会社の幹部は、インド統治の方針として、民は拠らしむべし知らしめるべからずという、非教育主義を執っており、あまつさえ『われらは今やアメリカを喪失したが、それはわれらが愚かにも、アメリカに学校及び大学の設立を許可したからである。故に、われ等はインドに於いて、再びこの誤謬を繰り返してはならぬ』という、実に度し難い考えを持っていたのである。
(同上書 p.176)」

当時のインド全体の教育費は、アメリカのコロンビア大学の予算よりも少なかったとする記録もあるようだが、かくしてインドの高き精神的伝統文化と国民教育は破壊されてしまったのである。Image
May 17 5 tweets 3 min read
江戸幕府は当初は浦賀を貿易港にしようと動いたようだが、商業の中心地を江戸に移すことは出来なかった。江戸は武士中心の社会であり、大阪商人からすれば上に無用の束縛をなす武士が少ない方が商売がやりやすかったし、京都に近くまた海外貿易の拠点である長崎からも遠くない大阪を離れたくなかったようだ。

大阪が米の集散地となったとは豊臣時代からのことだが、豊臣家が滅亡し徳川幕府の直轄地となったのちにさらなる発展を遂げ、淀屋が米取引で巨額の財を成したことで知られている。

淀屋の初代・岡本三郎右衛門常安(じょうあん)は伏見城の造営や淀川の堤防改修工事で采配を振るったのち材木商を営み中之島の開拓を行った人物だが、二代目の淀屋言當(ことまさ)の時代に自身が拓いた中之島に米市を開き、中の島を渡るための淀屋橋を自費で土佐堀川に架けている。

Wikipediaには、こう解説されている。

「米市に集まる米を貯蔵するため、諸藩や米商人の米を貯蔵する蔵屋敷が中之島には百三十五棟も立ち並んでいた。また一六二〇年代、全国の米の収穫は約二千七百万石有り、自家消費や年貢で消費される分を除く約五百万石が市場で取引きされていた。その四割の約二百万石が大坂で取引きされていたと言われている。

米市の取引きは場所を取る米を直接扱わず、米の売買が成立した証拠として手形を受け渡し、手形を受け取った者は手形と米を交換するという事が行われていた。それが次第に現物取引でなく、手形の売買に発展する事になった。この淀屋の米市で行われた帳合米取引は世界の先物取引の起源とされている。淀屋の米市は二代目の言當、三代目の箇斎(かさい)、四代目の重當(しげまさ)の時代に莫大な富を淀屋にもたらした。」
shibayan1954.com/history/edo/ka…Image
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では、淀屋にどの程度の富が蓄積されていたのだろうか。淀屋四代目の重當の贅沢振りが『元正間記』という書物にこう記されているという。文中の古安(こあん)は、重當のことである。

「彼古安が代に奢り過ごして、屋敷を百間四方に構え、家作の美麗はたとえて言うべき様もなし。
大書院、小書院は、総体金張付金襖、勝田興則興信が彩色の四季の花鳥なり。庭には泉水立石、唐大和の樹木を植えさせ、夏座敷と名付けて、四間四方四面に雨椽(ぬれえん)を付けて、玻瓈(びいどろ)の障子を立て、天井も同じびいどろにて張詰め、清水を湛え、金魚銀魚を放したるてい、天下の御涼所にても、是にはいかで勝るべき。
右のほか数寄屋の構え、金銀を延べたる如く、奥座敷には欄間に四季の草花を彫らせ、雨椽高欄は朱塗りに仕立つ。大名高家の連中方もいかでか及ぶべき。表廻りの手代座敷、料理の間、台所は広大なること、言語に絶え、夫々の役人を定めて、家内は常に市をなしけり。

これにより西三十三か国の大名衆の御用を承り、西国九州の諸大名、淀屋の金借用なきは一人もなしといえり。金銀には諸大名よりの付届(つけとどけ)、家老用人の歴々にも手をつかせ、高位大禄の輩とも膝を組んで威を振るう。…
『近世日本国民史  元禄時代 下巻 世相篇』p.27-28」Image
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May 15 4 tweets 2 min read
日貨排斥を煽動したのはやはり英米の宣教師
中国の排日運動はまもなく日本製商品の排除に動き出している。教科書などではサラッと書かれているが、実態はかなり酷いものであった。当時の状況は各紙が英米の宣教師が背後で動いていたことを報じている。五四運動から約一ヶ月後の大正八年(1919年)六月六日に報じられた神戸新聞の記事を紹介したい。
日貨排斥運動で乱暴行為を働いたのは学生が多かったようだが、その背後に英米の宣教師がいたという戦勝国にとって都合の悪い真実は、戦後の歴史叙述からはスッポリと抜け落ちている。

「支那に於ける排日運動の激烈なる事は屡(しばしば)報道せる如くなるが、今や形勢漸(ようや)く険悪の度を加え、在留邦人は何も生命財産に対し不安の念に恟々たる有様にして、殊に邦人商店の受くる打撃は最も甚だしく、各商店は何れも営業停止の状態に在り。

邦人商店にて傭用せる支那人店員等に対しては、仇敵日本人に使用せられ居るは売国的行為なれば、三日以内に解雇されて日本商店を出づるよう脅迫し、又排日貨の手段としては之に止らず、支那人の日貨販売者に対して甚だしき圧迫危害を加えつつあり。

例えば学生等隊を組て店内に入り、陳列せる商品中日本貨物あれば直に取下ろさしめ、今後日本商品を取引すれば売国的行為と認め、如何なる手段を以て報ずるやも知れずと脅迫して日貨の取引を禁じ、更に甚だしきに至りては、支那人にして日本製帽子洋傘を使用する者あれば、之を奪いて破棄する等の乱暴を行い、或いは日本製物品に排日的文字及日本を侮辱せる漫画を画き、人目多き場所に掲げ又は日本製品を路上に堆積して焼棄する等狂態を演じつつあり。

而して南京商務総会は爾今日貨の輸入と現在の日本貨物を上海及各地仕入先へ返還するの決議を為したれば、日本貨物を取引しつつある商店は之が実行を余儀なくせられ居れり。而も此の状態は決して一時的現象と認め難く、其背後には英米宣教師の活躍大いに力めつつあるを以て、此の情況の今後何日に至りて終熄すべきや殆ど計り知られず。邦人商店の危機将(まさ)に迫れるを以て彼等は此の際世論の憤起を求め、一時も早く此の危機を除去せん事を切望しつつありと最近支那より帰来せる某氏は語れり。
大正8年6月6日 神戸新聞 神戸大学新聞記事文庫 外交23-101」
shibayan1954.com/degital-librar…Image 日貨排斥が日中貿易に与えた影響
「日貨排斥」とは、ただ日本商品を排斥するというだけではなかった。中国に進出した日本企業には多くの中国人が雇用されていたのだが、彼らは仕事をサボったり、日本商品を取扱うことを拒否したりしたという。同年六月十一日の大阪朝日新聞は次のように報じている。

「支那の日貨排斥熱は一時下火に向える如く伝えられたるも、事実は刻刻に険悪を加え居るが如く、最近の入電は単純なる日貨排斥より暴動的同盟罷業に変じ、其間過激主義の色彩さえ加わり、各地に蔓延して対支貿易上の打撃漸く甚大ならんとするの傾向を示すに至れり。内最も猛烈を極め居れるは上海地方にして、九日発当市某会社入電によれば排日気勢は益々他の範囲を拡め、埠頭艀船人夫及び倉庫の苦力にまで波及し、日本人貨物の取扱を拒み又は不当の賃金を要求するに至り、支那人との取引並に受渡しに支障を来す事少からずとあり。

更に別報は支那商人は日本商人との雑穀取引を停止したる為め、目下薬種の出廻り期にあり且つ欧洲向食糧輸出の為め出廻り期を竢ち大々的に買付を開始せんと待ち構え居たる日本商人の計画に一大頓挫を来し、打撃少からず。 其他種油、油粕、落花生、棉実油、小麦粉の取引も全然不能となれる旨報じ居れり。
以上は一般商品に対する排貨なるが、綿糸関係方面の入電は徒らに日常品たる日本貨物不買及び対日輸出を停止する如きは結局自家頭上にかかる損失なりとし、徹底的に日人に打撃を与うる目的の下に日本人経営の日華紡績、内外棉工場の職工を煽動したる結果、連日来操業を中止せる旨を報じ更に本社入電は内外棉工場の某と襲撃を伝うる等形勢は愈険悪を呈し来れるが如し。

長江沿岸排日熱は独り上海のみに止まらず長江沿岸一帯に亙りて益々猖獗を極め、同地方を最大の得意とする日本燐寸の如きも各地より積出し中止の電報頻々と入り込み、之れ亦全然取引杜絶の状態にあり。
南京にては同地商務商会中心となり輸入日貨の排斥を決議したるのみならず、現在の日貨をも上海其の他の仕入先へ対し返還を交渉したる如き事例さえあり、斯くて長江一帯の支那人は日本汽船に対し荷物を搭載せざるのみか、日本船の船客たらざる事をも申合せ居る為め、日清汽船の如きは貨客共に皆無の状態にて非常の苦境に陥れるが如し…
大正8年6月11日 大阪朝日新聞 神戸大学新聞記事文庫 外交23-128」

当時の中国の最大の貿易相手国は日本であったのだが、こんな活動が続けられていたら、これまで中国市場で取り扱われていた日本商品の売れ行きがどんどん悪くなって当然である。同年六月十七日の報知新聞に八木商事の課長のこんな談話が出ている。

「実際排貨運動の影響如何は今後の貿易統計に依って観るを至当とす。現に今日我国の輸出業者にして積出を控え居るもの少からざれば、今月より来月にかけて対支貿易上に必ず多少の影響あるべしと思わる。又支那より我国に輸出する商品は影響なきが如きも、排日の影響は日支金融取引の上にも及び居るを以て是れ亦今後多少の影響は免れざるべし。

而して現在支那市場に於ける買品の六割は日本品にして殊に綿糸布に至りては日本輸出額の七八割を占む。然れば日貨排斥が徹底せば我国の被る打撃は頗る大なるべし。

然れど支那が果して今後永久に日貨排斥を継続し得べきや否やは疑問なり。支那市場に於ける日本商品は彼等の日常欠くべからざるものなれば、幀て彼等の排日感情の和らぐと同時に排貨運動も緩和さるべきが、兎に角余等の立場としては我政府が支那人の感情を毀損するが如き対支政策は成るべく避けられん事を希望するもの也。
大正8年6月17日 報知新聞 神戸大学新聞記事文庫 外交23-168」

中国の輸入品の六割は日本で、そのうち綿布については七~八割は日本からであったのだが、生活必需品が多かったので日貨排斥は長くは続かないと予想し、政府が中国人を刺激するような対支政策をとらないことを希望しているのだが、このような認識は甘すぎたと言わざるを得ない。Image
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May 14 4 tweets 3 min read
長野朗『民族戦』(GHQ焚書)を読む6

抗日統一戦線と遊撃隊
長野は昭和十年(1935年)の年末に北京の大学生により抗日の火が燃え上がり、それが忽ち上海の学生に飛び火し、全国に蔓延して共産系の指導の下に全国的な抗日宣伝が行われたことを書いている。

当時の新聞記事を探していると、1936年2月17日の国民新聞に詳しく書かれている。この記事には「北平学生軍」が1935年12月9日に反日デモの火ぶたを切り、その後天津、上海、漢口、済南、広東など全国の大学の男女学生が一斉に、「打倒日本帝国主義」「自治反対」「防共反対」等のスローガンを掲げて蜂起に波及したことが報じられているが、「北平」というのは北京のことである。

1935年に学生による反日デモが各地に広がったのち、共産党は八・一宣言を発し国共内戦の停止と抗日民族統一戦線を呼びかけたのだが、反共の蒋介石はこれを無視していた。ところが、1936年12月に抗日的な張学良が蒋介石を監禁し(西安事件)、蒋介石は張学良が提示した共産党の討伐禁止、政治犯の釈放などを承諾して解放されたのだが、その後も共産党討伐を優先する姿勢を続けていたようだ。

その後1937年7月に盧溝橋事件が起こり、8月から始まった第二次上海事変で日本軍の強さを知った蒋介石は第二次国共合作に応じて、抗日民族統一戦線が成立した流れである。

日本軍と戦うには、正規軍の力だけでは難しく民衆の戦争参加が不可欠だと考えて、支那事変を支那民族全体の戦いにするために、国民党の正規軍と共産党率いる民衆からなる別動隊(遊撃隊)とが連携するようになった。長野は次のように解説している。

「彼等は正規軍の力だけでは、 日本軍に抗し得ないことを知っている。そこで民衆動員を企て、日本軍の背後にも一つの戦線を造ろうとした。これが遊撃隊である。

かくて従来の戦争に見られない現象が起った。 即ち戦線が前方と後方には民衆軍である。正規軍が二百万、これと同じ位の数の遊撃隊がいる。この遊撃隊の組織に当ったのは主として共産軍である。

この民衆軍の組織に当っては、その核心となるものがなくては、 民衆だけでは成立たない。 そこで共產軍はその全力を挙げて遊撃区に入り、中央軍、雑軍もまた加わった。この正規軍を核心として、 その周囲に遊擊隊が編成されていった。 多いのは一万くらいの師団の周囲に、 十万位の遊擊隊がこれを繞って存在した。 次には遊擊隊の基幹となる者を養成するための訓練機関がこの核心となる正規軍に付属され、 こうして養成された幹部は各々自分の郷土で遊撃隊を造った。共産軍の主なる仕事は、民衆を組織することと、民衆を訓練することであった。

この後方戦線の仕事は、また従来の不正規戦やゲリラ戦とも異っている。従来の遊撃戦が主として相手方の後方撹乱であったのと異って、後方撹乱は寧ろ従であり、 その主任務は政治・経済・思想工作であった。

政治工作として彼等は日本軍の被占領区域に入り込んで、自分達の係長を任命し、地方政府を造り、課税し、学校を設け、紙幣を發行し、 新聞を発行し、 郵便局までも設けた。 経済方面では日本側が必要とする物を一切供給せず、皆日本から持って来させるようにし、日本の国力減耗を計り、また日本品を購買しないようにした。彼等は農村に拠り、日本軍の占拠する都市と対立した。 経済絶交のために農村は自給自足の狀態に帰り原料生産から食糧生産に転じ、ために綿花の生産等は大に減じた。また農村に手工業を興して、 工業品の自給を企てた。

思想戦に於ては二つの目標を設けた。 民衆を日支いずれが獲得するかは重大な問題である。民衆の獲得には民心を獲得すべきであり、民心を得るには民衆生活を安全にせねばならぬ。 そのため民衆の生活問題について種々とやった。 一つは抗日思想の涵養である。 日本側の和平運動に対し、 長期抗戦のためには、 民衆の間に抗日思想をうんと注ぎ込む必要があるので、 民衆組織を通じて抗日宣伝に努めた。 かくて抗日思想はこの機会に更に大衆の間に深刻に這入って行った。
長野朗『民族戦』柴山教育出版社 昭和16年刊 p.270-272」
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支那の民族戦はまだまだ続く
長野は、今後支那の「民族戦」がどうなるかについて述べている。長野の言う通りであれば、「民族戦」は支那事変が終わって終了するわけではなく、今も続いているということになる。

「今回の事変がどう終結するか分らないが、 この事変の処置を考える場合、単に皮相の観察を下すことなく、 能く事変の本質を明かにし、 これに対する処置を誤ってはならぬ。事変の根底に流れるものは民族意識である。数千年来の伝統たる漢民族の発展の一過程である。 彼等の民族的侵略の本能は、 他民族との共存を考えず、 隴(ろう)を得て蜀(しょく)を望むやり口から見て、 日本の譲歩によって解決するものでなく、 彼等は何処までも伸びようとする。

排日団体のある宣言文の中に示してある「吾人と日本とは両立すべからざるものであり、吾人は満州を奪還し、朝鮮を收め、台湾・琉球を取り、日本を吾人の楽園とするまで止めないであろう」といふ一句は、決して宜い加減な言葉でなく、彼等漢民族の心の奧深く蔵されている民族本能の現われである。 殊に国民党のやり口は、 支那歴代の漢民族政府のやり方に比して更に深刻である。 彼等が一つの民族と事を構えるや、長きは数百年を要している。

今度の事変もその起りは日清戦争からである。 しかも日露戦争後には支那人の大々的満州移住を企てることによって既に日露に対する民族戦を開始している。 ただ日本人が気付かなかっただけである。 かくて日清戦争から見ても既に四十五年を経ているし、この事変を表面的に一時解決しても、深く民族問題に触れない限り民族戦は種々の形に於て依然として続けられるであらう。
同上書 p.272-273」

「隴を得て蜀を望む」は後漢の光武帝が隴の地(甘粛省)を平定した後、さらに蜀の地(四川省)をも欲した故事に基づく故事成語で、人の欲望には際限がないことを意味している。漢人は、満州人の故地満州に大量の漢人を移住させて取り込んだだけでは終わらず、その後チベット、ウィグルを飲み込み、さらに台湾を狙い、最後にわが国をも狙っているのではないだろうか。

「吾人は満州を奪還し、朝鮮を收め、台湾・琉球を取り、日本を吾人の楽園とするまで止めないであろう」は支那事変時だけの言葉ではなく、今の中国共産党も恐らく同じ考えを持っているのではないだろうか。なぜなら政治家、官僚、財界、司法、マスコミにはすでにかなり中国の工作がかかっており、また中国内の学校教育では強烈な反日思想が吹き込まれており、日本に大量移民を送り込むことが日本弱体化の強力な武器になることは確実な状況にある。

ところがわが国は、国や思想や宗教も問うこともなく外国人移民を歓迎する姿勢が強いのだが、移民を侵略の手段として考えている国に対してどのように国を守るつもりなのか。たとえば、もし中国で内乱が起きたり経済破綻などで「避難民」と称して大量の移民が流入する場合に、受け入れ人数を絞り込む対策は考慮されているのか。満州族の故地である満州に漢人が大量に移住したのは支那の内乱期であったことは忘れるべきではない。

参考記事
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May 13 4 tweets 2 min read
朝鮮では米国宣教師により独立運動が仕掛けられた

戦後の歴史叙述では、1919年3月1日にソウルで起きた「三・一独立運動」について、「日本統治時代の朝鮮で発生した大日本帝国からの独立運動」とされ、3月1日以降朝鮮全土に拡大していったことや、北朝鮮も韓国も3月1日を記念日としていることは明記されているのだが、この運動もアメリカの宣教師の煽動により行われたことが、どういうわけか欠落しているのである。

当時の新聞記事を紹介したい。当初は「某国」と国名を伏せられていたが、後に「米国」であることが各紙で報じられている。

「月初以来故李大王の葬儀を機会に朝鮮全道に亘て由々しき騒擾を発生したるは的確の事実なり。暴民は叫びて曰く、朝鮮独立すべしと。彼等は朝鮮の独立を実現せしむることが果して自国民族に大利益ありと思惟せるか。若し真に斯く思惟せば、彼等の愚劣実に済度すべからざるや勿論明白なり。彼等は白昼を好まず、故に其国を挙げて闇黒化せしめんとせり。何ぞ思わざることの斯くも甚だしきや。

然るに彼等暴動の裏面を窺うに外国宣教師の管理する基督(キリスト)教会が暴民の為めに後援たる役目を尽せる形情あるは、実に基督教の名誉の為めに最も之れを悲しまざるを得ず。…中略…

今日の朝鮮は言う迄もなく純然たる日本の国土なり。若し此の鮮人に向って布教せんと欲せば宜しく先ず日本帝国の忠良なる臣民たらんことを心に宣誓せしむべし。然るに何事ぞ無智の人民を煽揚して暴動を起こさしめ無辜の人を殺戮し他人の所有品を掠奪せしむるの悪事を教唆するに至らんとは。

茲に至って吾人は、今日の野心満々たる外人の布教が朝鮮を利益するものなるか否かにつき、勿論絶大の疑惑を生ぜざるを得ざるに至りたり。是れ固より基督教其ものの罪に在らざるや明かなるも、其宣教師の行動斯くの如く教民の行動亦斯くの如く叛乱的傾向を示すに至っては、責任も亦自ら基督(キリスト)教宣教師及び其教会の上に帰せざる可からず。…中略…

吾人は斯く断言す、朝鮮に於ける外人宣教師をして今日の如き布教常態を支持せしむるは、実に朝鮮民族に取り一大禍根を培養するものなる事を。是れ卓上の空論に非ずして疑いもなく現前の明白なる事実的傾向なり。鮮人の信教の自由を尊重するは国家の一大美徳たるも、国家の大不利と大危険とを犠牲として迄も信教を自由ならしむる必要なし。

今回の騒擾の原因は天道教と基督教の連絡運動にありと曰うが、天道教の如きは根柢必ずしも深からざるが故に左程憂うるを要せざるも、基督教に至りとは其背後に外人の飛躍するありて事決して軽少ならざるのみならず、場合に依りては国際関係の事件を発生する恐れあり。故に我当局者今より鮮民悪化に対する根本的救治策を立てて之れを施すに非ずんば、他日夫れ或は噬臍(ぜいせい)の大悔を生ずるあらん。根本問題とは即ち外人布教問題の謂なり。当局希わくば之れを閑却する勿れ。
大正8年3月11日 大阪新報 神戸大学新聞記事文庫 倫理及び宗教(2-39)」

1910年8月29日に公布施行された「日韓併合条約」により、韓国はわが国の領土となったのだが、アメリカの宣教師は朝鮮半島の大衆に対して日本から独立することを教唆していたのである。
文中の「天道教」というのは、「東学」を継承した朝鮮の一宗教をいうが、アメリカ人宣教師はこの信者をも利用したことになる。
shibayan1954.com/degital-librar…Image アメリカが日韓を分断しようとした理由

いくら日本人が善政を行ったとしても、もし朝鮮人が「独立」して善政を行うことが出来る力があるならば、「独立」が良いと考えるのが当たり前だ。要するにアメリカ人宣教師は、「独立」という魔法の言葉を用いて、日韓の分断をはかろうとしたのだ。

恐らくこの動きは、同年2月13日にわが国がパリ講和会議国際連盟委員会において人種差別撤廃提案を提出したことと無関係であるとは思えない。
同年3月14日の大阪朝日新聞は次のように伝えている。

「重なる近因は、例の滞米中の排日鮮人団と天道教の信者操縦の方便と某方面の宣教師等の為めにせんとする陰謀が、偶々巴里(パリ)平和会議の開期に際して巧みに仕組み上げられ両教徒を使嗾して遂に今回の大事を惹起せしめたのである。

某米人宣教師の如きは、某当局に向って国民自由の叫びは何れの文明国に於ても見る所で朝鮮人だからとて禁ずる理由を見ない、彼等が波壊的行動に出でざる限り之れを認容すべしなどと飛んでもない事を公言して居ったというが、彼等米人中の宣教師は一日の騒擾勃発するや各方面に狂奔して群衆と行動を共にしたるものもあるし、あらゆる騒擾の写真を撮影したものもある。中には檄文散布に自動車を提供した一外人もある。

5日徳寿宮前の騒擾には幾千の群衆は一外人(米人か)を囲繞してフレーフレーを連呼し、更に独立万歳を叫び、其外人は屹然として突っ立ち四辺を睥睨して居ったなどは当時衆人の目撃して居る所である。又セブランス病院看護婦が、5日の騒擾前に印刷物を病院より携帯し細帯迄も用意して居ったが、その後から二三の外人が自動車を駆って群衆の後に追随して居ったのも見受けた。
地方に於いても同様騒擾の元兇は多く天道教及び基教学生か、左なくば其(その)信者である。そしてそれには必ず宣教師等が蔭の形に添う如く出没指揮して居るのを見受けたとは何れも報告の一致して居る所であって、更に驚くべきは此騒擾前満洲及北京方面より十数名の宣教師が入鮮した形跡があることである。
斯くの如く今回の騒擾の裏面には某国宣教師等の潜在し居たのは何人も否定し能わざる所であるが、我官憲は須らく此大本に着眼して速かに何等かの方途に出でんことを一般に懇望されて居るのである。
大正8年3月14日 大阪朝日新聞 神戸大学新聞記事文庫 政治12-21」

この事件がおきたことにより、早い段階でわが国の朝鮮統治方法の問題点が浮き彫りにされ、わが国も早期に対策を建てることが望まれていた。この後で中国で大規模化した排日運動も同様である。Image
May 11 4 tweets 2 min read
中国に権益を得た欧米列強はいかにして中国民衆を味方につけたか~~大正4年の新聞記事を読む

中国に於ける排日運動が活発化したのは、第一次大戦後の1919年(大正八年)に開催されたパリ講和会議においてわが国が提案した人種差別撤廃案が否決された以降のことである。
この時に中国人に排日運動を仕掛けたのは英米人の宣教師であったのだが、中国に何らかの権益を得た列強諸国は、さらなる権益拡大のための活動を早くから積極的に行っていた記事が1915年の大阪毎日新聞に出ていて、欧米列国は権益を手にするや宣教師を送り込み、病院や学校を建設して地元民との交流をはかりながらそれなりの効果が出ていたのだが、わが国には目ぼしい成果が出ていなかったと書かれている。

「基督(キリスト)教の支那に宣伝せらるるや既に久しく、而して欧米各国が宣教師を利用してその勢力の扶植に成功しつつあることもまた顕著なる事実なり。支那の二十二行省中、宣教師の足跡を印せざる処、殆んど之なしというも敢て過言にあらず。各省の大都には必ず一二宣教師のあるありて、或は病院を起し、或は牧畜を営み、或は学校を起し、其地方民に少からざる尊敬を受けつつあり。

満洲の如き、日本の勢圏に入りてより将に十年に垂んとするに拘らず、支那人に対する慈善事業、教育事業等は、今において猶見るに足るものなく、之を満洲各地における基督教会の事業に比し、寧ろ遜色あるにあらずや。明治四十年初めて吉林に我が領事館の設置せらるるや、新任領事故嶋川毅三郎氏を驚かしたるものは支那人の排日熱にあらずして、寧ろ吉林郊外に二十六年間在留して専心布教に努めつつありし一宣教師の信望の大なるにありき。奉天における天主教の病院の信用は、我赤十字病院に数倍し、其附属小学校の如き、多数支那孤児を収容して完全なる教育を施しつつあり。

邦人の経営する対支那人慈善事業にして、果して之と匹敵するに足るものありや。鉄嶺においては、一昨々年頃、支那向きの教育機関設置せられ、一ヶ年の期間を劃して速成的の日本語を授け、更に研究科を設けて日本留学希望者に相当の便宜を与うる方針の下に、事業を進めたる筈なるも、其(その)成績については其後杳として聞く処なく、旅順、奉天等にも亦(また)同様の計画ありしも、未だ其功程の言うに足るものなきなり。満洲に於て既に此の如し、其他は推して知るべきのみ。
大正4年1月4~6日 大阪毎日新聞 「日支不親和の一因」神戸大学附属図書館所蔵 新聞記事文庫」
shibayan1954.com/degital-librar…Image では欧米列強はどの程度の宣教師を送り込んだのであろうか。この記事には、続いてこう記されている。

「試みに満洲以外の地を撿せんか、先ず之を湖南に見よ。辛亥革命前、湖南に在留したる英、米、独、仏の宣教師は二百二十三名なりしが、革命乱後に至りて三百十六名に激増し其信徒の数は五千三百六十余名に達し、而して各附属学堂において養成しつつある男女学生は三千六百八十名の多数を有せり。
彼等は学校、病院等の設備の外に、時々電気、光学、機械等の講師を聘して各地を巡廻せしめ、青年の教導に努めつつあるを以て、多少文字ある青年等は競って彼等の門下に馳するの観を呈し、一般青年は外語学を知るを以て誇りとなし、其結果各学校の支那人教師が好んで英語を以て教授するを悦ぶの風を助長するに至り、且無智識の土民は、宣教師といえば、如何なるものをも知らざるなきが如くに思惟して之を尊敬するがため、宣教師は其勢力を利用して自国会社商店の事業にも多大の援助を与え、中には之が手先を勤むるものすらなきにあらず。
斯く各国宣教師が夫々自国の為に利権伸張の先導をなしつつあるに反して、湖南省民の最も嫌悪するものは日本人なりというにあらずや。取らずんば則ち奪わる、彼の勢力扶植は軈て我の退嬰萎縮を意味するものにあらざらんや。

湖南省における基督教病院の数は、現在十七箇を算し、之が施療を受くるもの年々増加し、殊に米国エール大学派の伝道事業に属するエール病院の如き、最も支那上下の信用を博しつつあり。此種の慈善的事業は支那各省これなきはなく、湖南一省を以て支那全土を類推するを得べく、湖南には利害関係最も薄き米国の宗教家が、最も活動しつつあるが如きも看過すべからざる現象にあらずや。

支那における基督教は、天主教最も信望を有し、蒙古、新疆、西蔵方面にも勢力を扶植しつつあるが、近来新教も亦次第に地盤を開拓しつつあるが如し。
彼等が斯くの如く未開の内地に踏み込みて祖国の為に利権伸張の先導をなすは、一には其資力の豊富なるによるべしと雖も、又一には其信仰力と執着力との強くして百折不撓の気象に富むの結果なりと言わざるべからず。

日本の宗教家、慈善家等は、之に対して慙色なきを得るや否や。国交親善の要諦は、実に其双互人心の結合にあり。此点において宗教的慈善的事業の施設は外交上重大なる一要件たらずんばあらず。
然るに今日本宗教団の支那に対する活動如何を見るに、日本基督教徒の活動は殆ど言うに足らずして、唯僅に東西両本願寺及び同仁会、赤十字社等が幾何かの努力をなしつつあるを知るのみ。しかも其規模の小にして施設の貧弱なる、之を欧米諸国に比すれば霄壌(しょうじょう)も啻(ただ)ならざる*なり。
*霄壌も啻ならざる:天と地ほどの違いがある
大正4年1月4~6日 大阪毎日新聞 「日支不親和の一因」神戸大学附属図書館所蔵 新聞記事文庫」

過去欧米列強が海外に植民地を拡大していく際に、宣教師をその先兵として送り込み、現地住民に布教を進めてきた歴史があるのだが、キリスト教の布教拡大のほかに、自国製品の商圏を拡大して本国に利益をもたらし、ライバル国の参入を排除することなど多くの目的があったと理解すべきだと思う。

わが国もそれなりに努力し、同仁会が北京などに病院を建設したのだが、欧米の教会附属病院の実績には大きく及ばない。またわが国の宗教界も中国に布教拠点を設置したのだが、東西両本願寺が努力をしていたものの、さしたる成果は出ていなかった。
May 10 4 tweets 2 min read
支那事変に到る道 長野朗『民族戦』(GHQ焚書)を読む5

漢民族が満州に大量移住し多数を占めるようになると、漢人たちは満洲から蒙古人を追い出し、満洲人を圧迫して同化させ、次いで朝鮮人を圧迫し、最後に日本人に様々な圧力をかけるようになった。

日本勢を圧迫し弱体化させる動きは満州だけでなく支那各地に拡がっていったのだが、満州事変も支那事変も漢人がわが国に仕掛けた「民族戦」の流れの中で理解すべきであろう。

長野は、日支の民族戦を三段階に分類して、それぞれの段階でわが国に対する圧力のかけ方が変化していったことを述べている。

「今回の支那事変は、本質的には明らかに日支の民族戦であり、それは今日に始まったものでなく、日本の満州進出と共に始まり、明瞭になって来たのは欧州戦後、 大正八、九年頃からである。 その経過から見れば明かに次の三階段を経ている。

一  ボイコット
二  一面抵抗一面交渉
三  抗日

支那民族は現実的な民族である。 したがっその計画は現実的かつ気が長い。彼等は既に日支民族の必然的衝突を予期し、 これに対する手段を考え、二十年計画でかかって来たのである。

彼等が第一期に採用した対日民族戦の方式はボイコットであった。彼等は曰く、今支那は武力では日本に敵わない。しかるに日本は経済的には自給が出來ない。 支那から物資を取り、支那を市場とせねばならぬ。卽ち支那に依存せねばならぬから、まずボイコットにより日本を経済的に弱め、 支那の実力充実をまって武力を以て日本に抗せんとするものである。 その間にボイコットの地域は支那全国から南洋一体に拡がり、支那民族のボイコットとなった。また期間も数ヶ月から数年となり、その方法も次第に深刻となりその日本に与えた貿易上の打撃も決して少くないが、更に重大なことは、この十数年の間に、 支那民衆の間に植付けた排日意識であつて、 女から五、六歳の童子にまで深く排日感情を植え付け、日支民族戦の思想戦の根拠を造り上げたことだ×××××<27字伏字>×××××××××

次は昭和六年の満州事変から昭和十年末の北支問題が起こるまでの期間で、この期間に於ては、 一面抵抗、 一面交渉と称し、未だ武力を以て抵抗出来ないので、ここに時間の余裕を得る必要があり、そのために案出されたのが一面抵抗、 一面支涉である。 この期間に於ては、 一方では依然として徹底したボイコットをやりながら、一方では抗戦の準備をなした。彼等は満州を撤退して日本軍の占領地域を大にし、成るべく期間を長くし、地域と時間による持久戦を講ずると共に、 一方では戦備を整え、 蒋介石は共産軍討伐を口実に中央軍を整備し、 武器弾薬を準備した。 またこの間に腹心の患である共産軍を討伐し、内部の結束を堅むべく、共産軍の大討伐を敢行し、昭和九年秋その本拠江西を陥れて西北の一隅に押し込めた。また国際的に日本を孤立せしめるため、ソ連と通じ、英米と結びて、日本の国際的包囲を企てた。

第三期は昭和十年末の北支自治運動に始まり、全国的抗日運動となり、愈々武力を以てする日本との抗戦を準備した時代で、十二年七月の支那事変勃発に至る期間である。この時代にはボイコツトは既に影を潜め、抗戦準備に向って全力が集中された時である。
この三期は外形は異っているが、すべて一貫した目標に向い、一定の方針に従って着々歩を進めて来たことが分る。
長野朗『民族戦』柴山教育出版社 昭和16年刊 p.234-237」

第一期は第一次世界大戦終戦後の1919年から満州事変が起きた1931年までで、この時期からボイコットが始まった。「ボイコット」というのは「日貨排斥」ともいい、日本製品に対する、不買、不売、不使用運動である。またこの時期から反日教育が開始され、小学生に至るまで「反日」感情が刷り込まれ、反日プロパガンダが支那全土に拡大されていった。

第二期は満州事変の1931年から1935年までで、長野が「一面抵抗・一面支持」と書いたように武力では日本に抵抗できないので、ボイコットを続けながら裏で戦争の準備を行なうという両面作戦で臨んだ時期である。

第三期は1935年から盧溝橋事件のあった1937年までだが、1935年からは反日気運が急速に高まり、1937年には盧溝橋事件ののち何度も停戦協定を破り、通州事件を起こしたほか何度も挑発行為を繰り返し、わが国を戦争に巻き込んでいる。shibayan1954.com/degital-librar… 「ボイコット」を最初に仕掛けた理由
支那はいずれ日本との衝突は避けられないと考えていて、最初に彼らが日本を弱体化させる手段として考えたのが「ボイコット」である。
支那がわが国に対して最初にボイコットを仕掛けた背景について長野は次のように解説している。

「ボイコットは民族武力戦の前提としての経済的打撃を日本に与えるとともに支那国民の間に民族的排日感情を瀰漫せしめ、 民族長期戦に對する思想的準備を整えたのである。

そこで大正8年から起って慢性的に断続して来た排日運動について見るに、 その原因は種々あり、 また各時機に応じ当局者あるいは反対派その他により種々利用されはしたが、これを民族戦の立場から見れば、日本民族の大陸進出に虞れをなし、 支那従来の歴史から見て東方からの勢力に絶えず脅かされているために、 日本の進出を同様に考え、 支那を侵略するものとしてこれに対する民族戦を始めたのである。

日清戦争前までは、 支那は大国として日本を蔑視し、日本は支那に敬意を表していたが、日清戦争の結果、その位置は顚倒した。 次で北清事変、 日露戦争を経て日本の地位がますます向上するに従い、 支那はその積弱を暴露して来た。 かくて日本が朝鮮を合邦し、 関東州を得、 満鉄に拠って満州に進出し、 更に日独戦により山東にまで迫るに及び支那の恐怖は漸く増大した。 …中略…

…支那人は以上の如き民族的反感に加えるに、民族的嫉妬心を抱いていた。支那人には白人崇拝心はあるが、同じ人民である日本人に対して崇拝心なく、日本人が白人と同じように支那人に威張るのを小づら憎く思った。それに日本が小国でありながら、一躍世界列国の列に入り、列強の一として支那に臨んでいることに対しては、少からざる嫉妬心さえもっているのである。

彼等がボイコットを採用したのは、 実に日本の経済的弱点に乗じたのである。日本は土地狹くして資源少く、それに人口が多く、商工中心政策を採っては来たが、原料と販路を他に求めねばならぬ。
然るに隣邦支那には幾多の原料を蔵し、かつ四億の民衆があるから、日本は勢い原料と販路を支那に求める。この関係を知っている支那人は、日本は支那が無くては生きて行けないと思うから、日本を虐めるには日貨排斥を行うことが第一策だということになる。…中略… 
武力で日本に及ばないことを知っている支那は、ボイコットにより日本のこの弱点を衝くことが、 最も有利な戦法であると考えているから何か一寸した事があってもすぐにボイコットをやって日本の進出を牽制し防止せんと試みたのである。

ボイコットの一因は支那民族資本の勃興であった。 支那が外国の市場的位置から脱却せんとし、上海を中心に民族資本が起るや、まず日本の産業と衝突した。日本の産業は支那よりは進んでいるが、欧米に較べては遅れている。そこで支那の産業が進歩するに従って、日本の産業とは競争的地位に立つことになり、日本工業品の輸入により圧迫される支那の工業家は、自己の販路を展開するため、ここに日貨排斥の挙に出で、日貨に代わり国貨を以てせんとしたから、日貨排斥には必ず国貨提唱が付き纏い、国貨の製造販売業者が日貨運動の中心の一つとなった。同じ外貨でも欧米品は多く高級品であるか、あるいは支那品と競争しない特種品であるため、欧米品を排斥しても得る所なく排斥の必要を感じなかったことが、ボイコットの対象が日本品に限られた一因でもある。

排日の目的は日本に対する経済戦であると共に将来の抗日戦に於ける国民の思想的準備でもあった。そのために盛んに排日教育が行われたが、これがまた排日運動の大きな原因であった。 日本は支那のボイコットによって経済的打撃を受けたことも少くないが、 これは大局から見れば大したことでなく、 また一時的のものであるが、支那民衆に深く植え付けられた排日の威情は、 子孫の代までも残り、 将来にわたり日支民族戦の種子を播く重大なものである。
同上書 p.238-240」Image
May 9 4 tweets 2 min read
満州における漢人と日本人 長野朗『民族戦』(GHQ焚書)を読む4

もともと満州は満州民族の故地でありかつては漢民族はわずかしかいなかったのだが、清朝末期ごろから漢民族の移住が始まっていた。
日露戦争後の講和条約でわが国は満州の権益を取得し、17億円もの資金をつぎ込んで道路や上下水道だけでなく、鉄道の敷設、ならびに病院や大学や学校や図書館などを相次いで建設し、さらに民間の投資が加わったのだから、満州に人が集まり経済が発展したのは当然のことである。すると、景気が良く治安も良好な満州に年々大量の漢民族がなだれ込むようになっていった。

漢民族が満州で多数を占めるようになると、まず蒙古人を追い払い、満州人を同化させ、朝鮮人に圧迫を加えた。そして最後に日本人に対する圧迫を開始したという。

長野朗の『民族戦』(GHQ焚書)に、満州における日本人と漢人の人口推移が書かれている。

「漢民族の満州発展は、まず蒙古人を満州から逐い、満州人に圧迫を加え、朝鮮人に圧迫を加え、最後に日本民族に対し攻勢を採って来た。
満州にある日本人は日露戦役以後の発展にして、戦争の終った明治38年末には僅かに5,025人に過ぎなかったが、欧州大戦後(第一次世界大戦)の大正7年末には124,355人、 昭和元年末に185,284人、 昭和5年4月に212,978人、満州事変後の昭和11年には536,487人と増加している。 日本が事変前25ヶ年間に、 20万人增加した間に、支那人は1千数百万人増加し、事変後30万人増加している間に、6、7百万の増加を来している。

日本の20万の住民は、主として交通及商工業関係であり、その約半数は20歳以上50歳までの働き盛りで、しかも大部分は満鉄沿線の細い帯のような地帯の中にあり、 その大部は直接間接満鉄により衣食していた。
長野朗『民族戦』柴山教育出版社 昭和16年刊 p.227-228」

満州は満州民族の故地とはいえ、満州民族は牧畜民族でありかつ満州朝廷は支那統治のため相当数が支那本土に移住しており、満州に住む満州族は数百万程度であったと言われている。したがって漢人にとって、移民により満州人口の大多数を占めることは容易なことであった。

満州事変は昭和6年(1931年)のことだが、この時点では満州における人口の九割以上が漢人になっていた。満州事変後もわが国は移民を送り込んでいたのだが、満州事変後の五年間の日本人の人口増加は三十万人に過ぎず、一方漢人はその間に六、七百万人も人口を増加させていたのである。
shibayan1954.com/degital-librar…Image 満州における日本の権益がいかにして奪われて行ったか

わが国から満州に移住した多くの日本人は、漢人からさまざまな圧迫や妨害を受けていた。わが国は南満州の満鉄とその付帯事業については維持ができていたのだが、この事業もその後漢人から様々な妨害行為を受けることとなる。

「日本人はまず経済戦に敗れた。
第一労働者としては生活程度の低い体力の旺盛な支那人に伍することが出来ず、邦人の優れた点は知識技術能率だが、満州の工業は高級のものでなく、かうした種類の者は少数しか採用しないし、 かつ賃銀に非常な差があるので能率の若干の差はどうにもならない。

次は商業であるが、 小売商人として支那人は独特の才能を有し、 生活程度が低く品物も日本商人より数割安く売れる。日本人は生活費が高く雇人でも高い賃銀を払わねばならぬ。支那人は相当儲けても日本人のようにすぐ生活程度を高むることをせず、 同じ暮らしを続ける。それに支那人は先天的に経済心が発達していて物事に無駄がない。廃物利用に巧みで、一厘一毛も苟もしない。かうして日本品が支那人の手で支那人に売られるだけでなく、 日本人にさえ売られるのである。 小売ばかりでなく日本からの輸入さえ支那人の手で直接行われるのが多くなった。ために日本人の商売は日本人相手のものが主となり、 いわゆる 「共喰い」の状態を極く狹い範囲で続けていた。

労働および商人として不利の立場にある日本人は、 その特長たる企業により満州に発展せんとしたが、 これまた満鉄の付属事業か、 日本勢力の確立された南満を除いてその発展を阻止されたのは、 支那側の政治的圧迫による。 また農業方面では大連の他に鉄道沿線に所々果樹園を見るくらいだし、商租権問題が解決しないため邦人農業と称すべきものは殆んどなかった。

こうした状態の所に支那側の攻勢が始まった。まず政治的には張作霖父子が支那本部に野心を起し、ために軍費誅求のため不当課税をなし、不換紙幣を乱発し、経済界を撹乱したが、これに利権回收熱が伴い、軍閥は少し有利な事業はすべて独占せんとするから、邦人の唯一の活路たる企業貿易は妨害された。
彼等は銀行業から満州大豆の売買、油房、倉庫、紡績、製糖その他すべてに手を伸ばして来た。 更に邦人の森林業に圧迫を加え、 北満の工業に対して巧妙なる妨害をなし、鉱山に対しても邦人の権利を無視して事毎に妨害を企て奉天票を乱発して大豆の買占めをやり、 農業では商租権を未解決のままとして手も足も出ないようにした。

かうして日本人は農工商共に圧縮され、最後に残ったのは満鉄及びその付帯事業と二百万の朝鮮人とであった。そこで支那人は日本最後の拠点たる満鉄に迫り、 一方朝鮮人を圧迫して満州から追出し、 満州を完全に漢人の手に独占せんとした。
同上書 p.228-230」
May 8 6 tweets 3 min read
昭和10年頃に支那共産党が匪賊を取り込んで北支(現在の河北省、山西省、山東省、河南省)に移動させたことで北支の共産化が進み、一方ソ連も満州の匪賊を取り込んでいて、満洲に居住する日本人が共匪に襲われて犠牲になったことが新聞で報じられていることを前回のポストで書いたが、その後満州はどのようになったのか。満州に関する新聞記事を中心に見ていくことにする。

画像は昭和11年3月6日の満州日日新聞だが「3月4日現在関東局調査による匪賊状況は、活動匪首33名、その匪数1174名、同集団数25名」とあり、随分匪賊が少なくなっているように読める。

しかしながら匪賊というものは、捕まえられそうになれば逃げて姿をくらまし、さらに平民の姿に変身してしまえばまず捕まることはないし、安全が確認できればまた匪賊の姿に戻ることもできる。
そもそも匪賊の統計があるわけでもなし、匪賊のボスの名前くらいはわかっていても、部下がどれだけいたかはかなりアバウトな数字しかわかっていないようだ。この記事に第四軍管区管下国軍の二月の討匪の実績が書かれている。

「戦闘回数55回、討匪数6591人、斃せる匪数270、捕虜120、人質奪還83、歯獲品小銃57、弾丸1399、拳銃14、馬匹41
我軍の損害 戦死下士兵6、戦傷将校7、同下士13
昭和11年3月6日 満州日日新聞」
shibayan1954.com/degital-librar…Image 毎月こんなペースで匪賊を討伐していたら、あと一ヶ月もすれば満州から匪賊がいなくなるように錯覚してしまうところだが、満州における匪賊の害は実際にはその後も続き、翌月に日本軍は満州の兵力増強を決定している。

昭和11年4月29日の神戸又新日報の記事には次のように記されている。

「新京29日発電通— 在満戦力及び兵力の充実問題は板垣参謀長、阪西大佐の東上によって陸軍中央部との間に意見の交換が行われ、政府当局との折衝により予算問題と関連しいよいよ具体化するものと期待されている、即ち

今日の極東の情勢を以てしては在満戦力及び兵力の増加により国防力の充実が絶対的のものとされ、関東軍当局の中央部に披瀝せんとする要望の根拠は左の如くである

一、満洲国の治安情況についてみるに国内匪賊の数はたゆまざる討伐により逐年激減しているが、残存匪は殆んど共匪と称すべきもので、反満抗日の思想に燃え治安の擾乱を目的としている。現在これらの討伐に日本将兵は毎日四名ずつの尊い犠牲者を出している。これが撲滅には人的物的にもあらゆる整備を必要とする。

二、満蘇国境並に満蒙国境内に頻発する越境紛争事件の根本禍因は、蘇連(ソ連)の尨大なる軍備の脅威によるもので極東赤衛軍二十万に対応するため我が兵力を充実するに共に、道路器材その他戦力の整備をなし国防力の均衡策を実行しなければならぬ

三、支那の共産軍は第三インターの使嗾により現に綏遠チチハルに迫り内蒙を脅威し北支を侵犯せんとしている、これら辺境の擾乱は常に満洲国自体の生存権を脅かすもので日満共同防衛の重責を担う関東軍としては黙視し得ざる話である

要するに満洲国内の治安を百年の安きに置き対ソ関係の均衡をはかり辺境内蒙北支の脅威を排撃せんがため、在満戦闘力及び兵力の増加により実力的措置を講ずる以外極東平和の鍵はないという信念に基けるものである
昭和11年4月29日 神戸又新日報」

残存している匪賊は「共匪」、すなわち中国共産党の指導のもとに反政府的に活動していた匪賊であり、彼らのゲリラ行為により日本将兵から平均で毎日4名程度の犠牲者が出ていたというのである。Image
May 7 6 tweets 3 min read
前回のポストで昭和8年(1933年)3月19日から連載された満州日報の武装苦力の話の一部を紹介させていただいたが、支那で匪賊の討伐軍を起こし匪賊の根拠地に向かわせたところ、討伐軍が「匪賊平定」を声明したので確認すると、匪賊の頭目はその日から官軍の将官になっており、部下の頭目たちはそれぞれ将校に任ぜられ、手下の匪賊どもはすべて官軍に編入されていたという話には多くの読者が驚かれたと思う。
彼らは実際には戦わず、勝ったことを演技で伝えて報奨金を受取ろうとするのだ。

ではこんな支那兵たちの戦争の仕方については同記事に次のように記されている。

「彼等は戦争の前に、チャンと勝利計画というものを造って置く。支那の戦争は選挙のようなもので最大多数の兵数を集めたものが勝と決っている。戦争が始まると、先ず型通り相手の軍備の欠点を数え上げ、こっちがこの位優勢だということを示して「今後なお依然として其位置に留るならば、如何なる事変に遭遇するやも知れず」というような通電を発する。これが予備戦である、俺の方が優勢だから降参して了え、という通電であるから滑稽である。この通報戦が、相手に利き目がないと、第二線を張ってやっと二、三千の兵を繰出して見る。その頃はもうちゃんと「敵の戦死何千、捕虜一万五千、負傷何万」という大げさな公表が飛んで、外国電報にまでなる。これが勝利の予定計画である。

これを真向から信じたらとんだ話で、僕が天津に居て、北支駐屯軍の某中尉に聞いた話であるが、上海事変当時、銃砲戦最も激烈なり、と発表した十九路軍の公表が実は農夫二人の死亡、水牛一頭の斃死、雛鶏数羽の掠奪があっただけのそれであったという事である。支那軍は、大妄想の逆宣伝がうまい。僕は北平で、上海事変を主にした排日宣伝の映画を見たが、その映画の中では日本の将校がぞくぞくと後手に縛されて捕虜になっていた。だから、土匪軍に出た軍隊なども、生命からがらになって逃げ出す迄は、陸軍総長に、勝って勝って勝ちまくっているような電報を矢次ぎ早に打つそうである。

軍閥の諸将連がインチキである。だから支那の武装苦力(クーリー)は苦力や家畜のように敵味方の間に売買される。大体彼等武装苦力は自分が誰と戦争をしているかさえ知らないものが多いのである。只傭われたから鉄砲を打っているだけの事で、今日は紅色の襟章、次は緑、次ぎは黒と、次ぎ次ぎに変って行く。しかもその襟章も、ふらふら敵の陣地にまぎれ込まないマークであって、それが附属軍閥の精神を表徴する足しにはならないのである。
「満州日報」1933年3月19日」

「苦力」とは出稼ぎの下層労働者とよく解説されているが、奴隷に近い扱いを受けていて、戦争になると敵味方の間で売買されていたという。要するに彼らは国や国民を守るために戦うという意識はなく、混乱に乗じて掠奪することに熱心であった。
shibayan1954.com/degital-librar…Image 張作霖は教科書などでは「満州の実力者」などと書かれているが、「馬賊の頭領」であったことをなぜ戦後の日本人に隠すのであろうか。

「張作霖、馬占山が馬賊の頭梁だったという事は、これは世間周知の事実である、その故か学良の手下には馬賊、匪賊の変わった軍隊でなかったものがないようである。

満洲事変当時、満蒙には十余万の土賊があったといわれている、その満蒙十余万の土賊の系統は、五人の馬賊大頭目に属しているといわれている

錦州広寧にある巫閻山に、その五大頭目の誓文が掲げられ、その縄張りが決められているという事であるが、それに依ると五大頭目第一位が老北風、第二位が天下芳、三位が天楽、四位が満蒙公、五位が常勝という事になっている 。彼等は先祖代々からの馬賊である、各手兵が一万、少くとも五千円以上の財産を持っているだろうといわれる。
「満州日報」1933年3月21日」

張作霖の長男・張学良についても彼の出自を明確に書いている本はほとんどないのではなかろうか。馬賊頭目第一位の老北風、及び第二位の天下芳は、張学良の配下で動き、また満洲の各地を襲った紅槍会匪、大刀会匪なども、学良の指導が背後にあったと言われている。

画像は昭和7年(1932年)9月6日の東京朝日 新聞だが、彼らの最大の関心事は金を儲ける事であり、そのための手段は問わなかった。

「奉天特派員五日発】東北失地回復の名の下に義勇軍や兵匪の操縦に大金をバラまいて居る学良は軍費不足に名を借りて窮余の一策として北平博物館の宝物を米国骨とう商に二束三文でたたき売ってしまったが、それで味を占めた彼は到頭東洋の宝庫といわれ世界の骨とう愛玩家の垂ぜん万丈の清朝の遺宝北平宮殿内の文華殿と武英殿にある天下の珍宝全部を盗み出し、既に二十個の大箱に荷造りして上海に発送準備中である。買主は有名な米国の骨とう商で時価一億元以上のものをたった二千万元で手にいれ既に代金は外国銀行を通じて学良に支払い済みとある。
「東京朝日新聞」昭和7年9月6日」

張作霖や張学良は富豪の財産を掠奪したり国宝などの文化財を売却して相当な財を成したことは言うまでもないだろう。
遼寧省瀋陽(旧奉天)市に、張作霖・張学良の私邸が残されていて、「張氏帥府」として一般公開されているようだ。張作霖は中国共産党の初期の幹部である李大釗を処刑した経歴があり、張学良も終戦後五十年以上軟禁されている。にもかかわらず彼の邸宅が残されて観光地として公開されているということは、張学良やその兄弟が中国共産党に多大な貢献をしたというような裏の 歴史がおそらく存在するのであろう。Image
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May 6 7 tweets 4 min read
支那や満州における匪賊(土匪ともいう)によって多くの日本人が殺害されたことが最初に新聞に報じられたのは、大正九年(1920年)の琿春(こんしゅん)事件であろう。この事件は間島(かんとう)事件と呼ばれることもある。

この事件の半年ほど前に、アムール川河口にあるニコラエフスク(尼港(にこう)、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件(尼港事件)があり多くの日本人居留民が虐殺されたばかりだが、琿春事件でも多くの日本人及び朝鮮人の犠牲者が出ている。

画像は大正9年10月12日付けの大阪毎日新聞だが、琿春事件における賊の来襲は二回にわたり、メンバーの中には馬賊(ばぞく:馬に乗って悪事を働く匪賊)のほか、支那脱走兵、ソ連の赤軍パルチザン(非正規軍)将校、朝鮮人がいたという。尼港事件の時も日本人は酷い殺され方をしたのだが、琿春事件は尼港事件よりも酷かったとも言われている。

この事件については某国では日本軍の自作自演という説が唱えられていてその説を支持する日本人学者も結構いるようだが、支那は日本の要求に対して倍額の損害賠償をしたことが大正十一年八月七日の大阪時事新報で報道されていることから、普通に考えて馬賊や支那脱走兵らの仕業であろう。
da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/01003418…
da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/01003207…
shibayan1954.com/degital-librar…Image
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頭道溝(とうどうこう)事件
画像は大正11年6月29日付けの大阪毎日新聞だが、琿春に近い頭道溝の領事分館に約三百名からなる馬賊が来襲した記事である。記事にはこう書かれている。

「頭道溝の所在、即ち朝鮮側からいって茂山間島と称する豆満江の北、支那側からいって吉林省の和竜県一体は、この地方から東へ琿春地方にかけて満洲でも著名な馬賊の巣窟で官憲も時々討伐は行っているが、殆ど根本的掃滅は期し得られないものとして諦めているほど。
此の地方で山林事業を営む支那、日本の商人も事業の無事進行を冀うところから已むを得ず馬賊に対して一種の保険金を納めている始末である。彼等から被る損害は例の琿春領事館焼打を始めとして昨今にいたるまで大小の被害絶えたことがない。
大正11年6月29日付 「大阪毎日新聞」」

この事件は頭道溝事件といい、朝鮮人独立運動家が馬賊の協力を得て間島頭道溝の日本領事館分館を破壊し放火して、仲間の独立運動家を脱走させた事件なので掠奪が目的ではなかったのだが、この事件で二人の日本人が死亡し、三人が重傷を負っている。
日本人の居留民の被害が出たので新聞の記事となったが、満州では馬賊による掠奪事件などが頻繁に起こっていたのである。こんな盗賊団のような存在をなぜ捕まえないのかと、日本人なら誰しも疑問に思うのだが、その当時の支那には取り締まる力がなかったのである。Image
May 5 6 tweets 2 min read
満州における漢人の朝鮮人圧迫
もともと漢人が殆んど住んでいなかった満州と東蒙古に大量の漢人を移住させて満州人を追い払い、漢人の支配地としたことについて書いたが、満州には清朝末期以降に鴨緑江、豆満江を渡って南満洲に移り住んだ朝鮮人もかなりいた。
漢人は、満州人、東蒙古を取り込んだのち、次は満州に住む朝鮮人を圧迫することとなる。

当時は朝鮮との国境に近い間島(かんとう)州に満州にいる朝鮮人の約八割が居住していて、なかでも琿春(こんしゅん)県は特に人口が多く朝鮮人も多かった地域である。

長野の『民族戦』には、漢人が満州の朝鮮人を圧迫していたことが具体的に書かれている。文中の「支那官憲」は奉天軍閥(主に張作霖)の役人で、満州の朝鮮人は支那官憲から圧力をかけただけでなく、地主などからも搾り取られたうえ、匪賊にも襲われたという。

「満蒙人を屠った漢人は、次で朝鮮人に対する圧迫を加えて来た。満州には朝鮮人が百万乃至二百万いた。清朝の時満州は一時荒廃し、朝鮮境には一帯の中間地帯が設けられたが、清末に至り鮮漢双方の民族が潜かに侵入し、支那ではここに県を設けた。かくて両民族の接触が始まった。

朝鮮人の最も多く居住するのは間島および琿春地方で、その他各地に散在し、大部分は地方にあって主として農業に従事し、都市にあるものは少い。その大部が東部朝鮮境に近い方面にあることは勿論である。

朝鮮人の移住者は朝鮮内に於ける生活難から来たもの、日本の統治に不満を抱いて逃げ出したものである。彼等は支那人所有の未墾地を開墾して小作をなし、開墾期間の食糧又は耕牛のないものは秋の收穫を引当てに支那人地主から借金するが、六ヶ月で数倍という高利である。 それに間島の外は土地所有権が得られず、 加うるに支那官憲の誅求、土匪の被害、不逞鮮人農民の強徴等でかなり窮狀にあった。 朝鮮人農民のうち七割は畑作に従事し、他の三割は水田耕作に従事し、水田は朝鮮人の独壇場見たようなものであった。

鮮漢民族の接触はここに支那人の朝鮮人圧迫となり、 昭和二、三年頃殊に甚だしかったが、 その余燼は満州事変まで続いた。朝鮮人圧迫の原因は数年あるいは十数年来潜在する朝鮮人排斥の気勢が、戦禍を避ける支那移民の激増、我が満蒙積極政策に対する誤解、 支那の利権回收熱の勃興等により激成され、支那官憲により計画的に行われるに至った。
長野朗『民族戦』柴山教育出版社 昭和16年刊 p.220~222」
shibayan1954.com/degital-librar…Image
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漢人が満州の朝鮮人を圧迫した原因
ではなぜ漢人は満州にいる朝鮮人を圧迫したのであろうか。日韓併合は明治四十三年(1910年)のことであるが、満州支配を狙って大量に移民を送り込んでいた漢人たちは、満州に住む朝鮮人は日本の手先であり駆逐すべき存在であると考えたと長野は述べている。

長野は同上書に、漢人が朝鮮人を圧迫した原因について、 政治的原因と経済的原因があったとまとめている。

「当時に於ける朝鮮人圧迫の原因と見られるものは、 第一には政治的原因である。 彼等は日本を恐れる結果は日本国民としての朝鮮人の侵入に対して警戒を始めるに至った。更に張作霖が日本の満蒙積極政策の牽制策として利用し、 支那全国に盛んになった利権回收熱が加わって來た。支那は日本が満州に有する二つの大なる勢力である満鉄と在満二百万の朝鮮人の駆逐を考へた。彼等は在満朝鮮人を日本の手先と見たのである。
また支那の官憲では、管内に朝鮮人が居住すれば、種々の外交問題を惹起し、甚だ迷惑であるため、その煩瑣を嫌ってこれを追ひ出そうとする。
また張作霖は吉会線*の敷設により朝鮮人の移住の増大をおそれ、それ以前に防止の方法を講ぜんとし、また軍費に窮した結果、帰化料として巨額の手数料を搾取せんとした。
*吉会線:吉林と会寧を結ぶ線路

次に経済的原因としては、 第一には漢人の澎湃たる満州移住、 殊に満州東部への進出は、ここに朝鮮人の進出と衝突し、支那官憲は支那人に職を与えるため朝鮮人を圧迫した。
第二には朝鮮人は水田経営上特殊の技能を有し、各地に水田を拓いたが、水田の收入は畑地に比し二、三倍も多いので、支那人もやがて其有利なるを知り、その技術と経営の方法を習得するや、これを回收せんと企てた。
同上書 p.222-223」

満州では日本人も匪賊に襲われるようなことがあったのだが、日韓併合以降同胞となった朝鮮人が漢人に随分ひどい扱いを受けていることが問題となり、満州にいた日本人と朝鮮人を守るために支那の暴政を断ち切ろうとするわが国の動きが、満州を奪い取ろうとしていた漢人の利害と衝突した。その流れの中で昭和六年に満州事変が起き、満州人が起ちあがって満州国の設立されたという認識が戦前の多くの日本人に共有されていたと思うのだが、戦後はこのような視点から満州を論じることがタブーにされてしまっている。