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西洋にもフェンシングと称する剣術が存在するが、日本の剣道とは全く異なる。武田は、「フェンシングという名称自体が、Fence ―― 垣、防御の意味に他ならぬ。まず自己を安全にしておいて、それで敵を倒そうというのが、最も巧みに考えられた西洋武術の根本精神であると言ってよい」と書いているがその通りだと思う。

いくら日本人が善政を行ったとしても、もし朝鮮人が「独立」して善政を行うことが出来る力があるならば、「独立」が良いと考えるのが当たり前だ。要するにアメリカ人宣教師は、「独立」という魔法の言葉を用いて、日韓の分断をはかろうとしたのだ。

欧米列国は権益を手にするや宣教師を送り込み、病院や学校を建設して地元民との交流をはかりながらそれなりの効果が出ていたという。では欧米列強はどの程度の宣教師を送り込んだのであろうか。この記事には、続いてこう記されている。

そして12月9日に飛行機にて南京城内の中国軍に降伏勧告文を撒布し、翌10日正午までの回答を要求した。勧告文の全文は新聞にも報じられている。
当時中国には国定教科書がなく、商務印書館とか中華書局とかいうところで勝手に教科書が作られていた。排日が流行になると盛んに排日記事を入れた教科書が売り出されるようになり、初めて排日教科書が現れたのは大正八年(1919年)で地理の教科書が最初だったという。
16世紀に来日したイエズス会のルイス・フロイスの記録には、宣教師らが領主や信者を教唆して、寺を放火させたり仏像を破壊させたことが詳しく記されている。当時において仏像などを破壊する行為はイエズス会宣教師達にとっては正しい行いでありそのためにわが国では多くの寺院が襲われたのだが、一方当時のヨーロッパにおいては「偶像崇拝禁止」は必ずしも守られておらず、キリスト教布教拡大のために大教会に壁画が描かれたり、キリストやマリアの像が彫られるなどしていて、そのための資金作りに免罪符が売られたりしていた。
南京は周囲を高い城壁に囲まれていていくつかの城門が存在するのだが、挹江門というのは南京城の北西にあり揚子江に最も近い場所にある城門である。門を抜けると下関(シャーカン)と呼ばれる地域になるが、門の周辺に大量の中国兵の死体が折り重なって残されていた。しかしながら、十二日にはこのあたりでは日本軍との戦闘は行われていないので、多くの兵が死亡した原因は中国側にあるとしか考えられない。
GHQ焚書リストの中に南洋群島について記された、太平洋問題研究所 編『南を衝け』という本がある。南洋群島について学ぶ機会は戦後においてはほとんどなきに等しいのだが、そのことは戦前に於いてもそれほど変わらなかったようだ。
全インドの識字率が8.5%という数字から、9%とするボースの主張が正しいことがわかる。2百年前の識字率は6割だったという主張については統計がないので確認不能だが、かつてのインドは歴史的に見ても極めて豊かな国であった。GHQの焚書処分を受けたラインハルト・フランクの『虐げられし印度』にはこう書かれている。
1931/9/18の柳条湖事件は満州事変の発端となった事件だが、事件当時はわが国及び支那以外の国々は満鉄を爆破したのは支那兵であると認識していた。ところが1960年に刊行された雑誌の記事を根拠に満鉄爆破は支那軍ではなく関東軍の自作自演と書き換えられていった。

実はこの北林トモという女性がゾルゲ事件の発端になるのだが、宮下は伊藤の話を聞いて、これはコミンテルンのアメリカ支部、つまりはソ連のスパイだと直感した。この段階では宮下も、この女性がゾルゲや尾崎に繋がるとは考えていなかったが、宮下は上司の了解を得て伊藤を釈放した
火野葦平は昭和戦前・戦後期に活躍した小説家で、1937年に支那事変に応召し、翌年彼が戦地で書いた徐州会戦の従軍記『麦と兵隊』(GHQ焚書)がベストセラーとなったほか多くの作品を残している。1938年に彼が廣東で撮影した写真と文章。 
長野朗はさらに、支那民族=漢民族が数千年にわたり周辺の民族を侵略し得たのは、「支那が農業の民であるのに、周辺の民は多くは牧畜又は遊牧をやっていたからで、牧畜は農業に敵わないのである。…鍬を大地に打ち込んだものは永久に土と結着して動かない。」と書いている。
太田は大本営嘱託画家として満州や北支に従軍し「漫画伝単戦」に携わった。「伝単」というのは、戦時において敵国の民間人や兵士の戦意喪失などを目的として撒かれる印刷物で、彼の漫画入りの伝単は中国の一般民衆によく読まれ効果があったことから、彼は勲章を二回拝受したという
たとえば、西郷隆盛と大久保利通とのやりとり。