しばやん Profile picture
京都のお寺に生まれ育ち、大学卒業後は普通の会社に就職し、2019年1月に勤務先を定年退職。ブログ「歴史逍遥『しばやんの日々』」で日本の歴史や文化、GHQ焚書の紹介等について記事を書いています。 https://t.co/COUaXFOJoz 著書『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』
Jun 21 6 tweets 2 min read
満蒙開拓青少年義勇軍について、戦後の日本人にはほとんど知る機会がなかったと思うのだが、昭和十二年十二月に作成された「満洲青年移民実施要項」に基づいて募集が開始され、若き青少年が満洲国に開拓民として送られていった。

その募集要項によると、小学校を卒業し、数え年十六歳から十九歳までの身体強健なる男子で、父母の承諾を得たものであれば誰でもよいとされたという。成人移民を補充するものでありながら、その名称が青少年移民でなく、青少年義勇軍であるのは、日中戦争遂行上必要不可欠な満洲支配の安定的維持に青少年が挺身することとして、当時軍国主義的意識の昂揚した青少年に訴えるためであったようだ。

自由応募が原則であったが、実態は当局から各都道府県への割り当て数が決められ、さらに道府県から各学校への割り当て数が決められていて、高等小学校の成績上位・中位層が中心であったようだ。
義勇軍のメンバーとして満洲に送られた青少年は累計で約八万六千人とされ、その多くが厳しい環境や、敗戦後の混乱、シベリア抑留などで二万人以上が犠牲になったと言われているが、詳しいことは分からない。
shibayan1954.com/degital-librar… 義勇軍に応募を検討する青少年のために書かれた『満蒙開拓青少年義勇軍概要』という本がGHQによって焚書処分されている。著者の清水久直については、当時「満蒙開拓青少年義勇軍市原訓練所学事課長」という肩書であったことぐらいしかわからない。

当時の日本人が世界の情勢をどのように捉え、満洲国がどのような状況にあると考えていたかを知る参考になるかと思って読み始めると、第一章「満蒙事情」の第一項がいきなり「ユダヤ人と満洲国」という表題で書かれている。このような内容の書籍を当時のわが国の青少年が読んでいたことに驚かざるを得ない。

(以下引用)
「全世界に千五百万から二千五百万の人口を有するといわれるユダヤ人は、その少人口に拘らず世界資本の六割乃至八割を独占するといわれている。彼等は独立国を成さず、その宗教を固く守って絶対に他の人種と結婚せず、他民族と混合して生活した結果、 時としては非常に虐待されたことがある。

そのユダヤ人を虐待した国民は、ドイツとロシアである。これを優待したのは英米である。
従って英米では非常に役に立っているが、その代り、独露では恐しい復讐をやっている。

まずユダヤ人の子であるマルクスという男が、ドイツで恐しい共産主義の哲学を組織した。彼はプロシヤの独裁政府に反抗するために、その共産主義の哲学を考え出したのである。ヒットラーはこれをユダヤ人の復讐哲学と呼んでいる。
ロシアでもまたレーニンやトロッキーの如きユダヤ人がマルクス哲学を利用して革命を起しブルジョア三百万を虐殺し、農民を恒久の飢饉に陷れて、これを苦しめている。

ユダヤ人は日露戦争当時に、 日本に対し十一億の軍費を貸してくれて、 そのためにロシアに勝つことが出来た。これもロシアに對する彼等の復讐であった。ところがこのたび日本と支那と戦うに当って彼等は常に支那を援けて日本を財政的に苦しめんとしている。 これは何故であらうか。
無論それは日本がドイツの友邦であるからでもあらうが、それよりも最近の原因は、彼等が満洲を取って、ユダヤ帝国を建てんという野心を持って居たのを、日本が満洲事変によってその先を越して、満洲国を独立させた腹いせのためだともいわれている。
満洲国の独立を妨げたリットンはユダヤ人であった。
今日の支那事変は、日本人が支那人と戦っているのではなく、日本人とユダヤ人が戦っているのだといわれている。

今日支那を助けている上海の大財閥サッスーンもユダヤ人であり、 今日の法幣を考へ出した英国財務願問リース・ロスもユダヤ人である。今後、彼等は如何なる形に於て吾等に復讐するであらうか。」
清水久直『満蒙開拓青少年義勇軍概要』明治図書 昭和16年刊 p.1~3
(引用終わり)

この本全体で「ユダヤ人」について書かれているのは、この冒頭の部分だけなのだが、当時の世界の混乱の背後にユダヤ人が動いていて、支那事変の背後で動いている英米の裏にはユダヤ勢力が動いているという観方は、当時多くの日本人に共有されていたのである。Image
Jun 19 5 tweets 2 min read
衆議院議員であった荒川五郎が朝鮮半島を訪れてレポートした、『最近朝鮮事情』という本が明治三十九年(1906年)五月に出版されている。この本を読めば、当時の朝鮮半島がいかなる状況であり、わが国がこの国の近代化の為にどれだけ苦労し、莫大な投資を行ってきたことが誰でも理解できると思う。

朝鮮の山と川
荒川五郎が朝鮮半島を視察したのは明治三十八年(1905年)の夏から秋にかけてで、釜山に上陸して彼は、わが国が建設して開通して間もない京釜鉄道(釜山—ソウル)に乗車し、車窓の景色が日本とは全く異なっていることに驚いている。

(以下引用)
「●朝鮮ではまだ治水という考えが無いらしい。全国一帯に川は多いが、今ある川でも大水が出ればどう変わるか分からない。少し手を入れれば水流れが定まって、この辺り立派な土地が出来る、安心して稲や麦を作ることが出来ようと思う所でも、一向平気に打っちゃってある。朝鮮に川無しと申しても止むを得んではないか。

●だから大水が出ない年は穀類なども良く出来て豊年を祝うことが出来るが、一度大水に逢うと流域一帯に河水に浸され、作物は大いに害されて仕舞う。そこで朝鮮には三豊一凶とかいう諺がある位で、三年に一度は大水で荒れるものと観念して居る。情け無い話で、天からの立派な恵みを人の手行き届かずの為に沢山失うているのである。

●どうか朝鮮百年の経営を思えば姑息の考えをせずに、先ずこの川を作り川を固めて、川流れを完全にし、運輸の便利を十分にし、そして近傍一帯作物の善く出来る土地々々を安心して作ることの出来るよう、なおこれに手を入れ物をかけて十分の財産に仕立てることが出来るようにしたいものと思う。

●であるから、朝鮮の内地を開くのは植林とこの河川修築が第一の急務ではあるまいかと思う。…中略…

●山高きが故に貴(たっと)からずで、朝鮮の山という山は殆ど禿山であるから、朝鮮に山無しと言うても差し支えなかろう。…

●伐っては使い取っては焚き、そうして如何に禿げようがどうしようが構わず、植林など更に考えるどころか我がちに互いに競うて伐り取りて顧みなかったものであるから、それで遂に今日のような哀れな有様を呈するに至る、したがって川にも影響して来た次第であろうと思われる。
荒川五郎 著『最近朝鮮事情』清水書店 明治39年刊 p.32~36」(引用終わり)

人々が煮炊きや暖房のために木を伐っていけば、計画的に植林をしない限り、いずれどの山も禿山とならざるを得ないのだが、確かに当時の朝鮮の写真で確認できる山は禿山ばかりである。樹木を失った山は保水力がなく、大雨が降れば、山肌を侵食して勢いよく川に流れ込むため、川は氾濫し、濁流が田畑を荒らすことになる。その後わが国が植林をし、治水工事を行って農地開拓を行ったことは言うまでもない。
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朝鮮の支配階級と民衆
日清戦争でわが国が勝利して清国の勢力を追い出したものの、朝鮮の支配階層には独立国として自力で国を立て直すという気概に欠けていたようだ。

(以下引用)
「●以前から朝鮮はほとんど支那の付属国と言うてもよい有様で、無論支那はその政策をとっていたので、朝鮮に於ける支那の勢力というものは実に非常なものであった。

●ところが日清戦争で全くその勢力が転倒し、迎恩門を倒して独立門を建てるという仕誼(しぎ)となり、朝鮮の内政も大改革が行われ、朝鮮の国は大韓国という豪義な国となり、国王様は大韓国皇帝陛下と御立派にならせられ、皇太子様が立てられる、大韓国大皇后様も定められるという、エライ有様になった。…中略…

●ところがこの大韓国は他の国とは違うて、その王室は決して国民とその休戚(きゅうせき:喜びと悲しみ)を共にするということは無く、ただ貴族のみは王室と利害を共にしているようであるが、それでも国王の信任を得たものはその恩沢にも預かって利益もうけるが、その他はそうで無い。であるから、誰も彼も国王に取入ろうとして、種々に魂胆をめぐらし、運動やら紛争軋轢実に醜状を極め、したがってその間に立って次女や宦官、官妓、巫女(ふじょ)などが旨いことをやるのである。

●常民に至っては気の毒なもので、税を納めたりその他なお義務というものはあるけれども、権利というては更に無い。王室の普請やその他慶び事や弔い事など、その入用を割りつけられたりなど色々虐められることはあるが、更に王室の恩沢を蒙(こうむ)るということは無い、それは実にあわれなものである。

●だから常民共が王室を見ることは旅人も同様で、王室に大事があろうが一向平気なもの、更に気にもかけない。かの二十七年の王宮の事変*の時も、又三十七年、今の王宮である慶運宮が焼けたときでも、京城の人民等はガヤガヤ王門の外に集まって来て、例の長煙管で煙草をふかしながら、互いに笑いあい語り合うて面白そうに見物しているという有様である。

●こういう風で上のものも下のものも、皆唯(ただ)自身の事ばかりを考えて、更に国家という観念は無い。朝廷ではドンドン租税も取り立てるが、それは国家の用にするのでは無い。国王も大臣も観察使も郡守も、皆自身の為のみを思い、吾が家を富まそうと勉めるのみである。

●常民もまた国の為などいう観念は毛頭も無いので、余計に儲ければそれだけ又余計に取り立てられて手元には残らないからというので、惰(なま)けられるだけは惰け、遊ばれるだけは遊び、田や畑や山や林やなど、これを仕立てたり、手をかけて、確実な財産を作ろうなどという考えは無いらしい。この点が即ち朝鮮の今日の有様を致す所以であろうか。

●…朝鮮では階級の制度が厳格で、それは王族宮家を別にして、両班、常民、奴婢の三種に分かれて居って、己(おのれ)より以下の階級の者に対しては圧政をしても別にあやしみもせず、これを当然の事と心得ている。

●両班とは朝鮮の貴族で、東班西班の両族からなって居る。東班は即ち文班で、西班は武班である。両班とも生まれながら官吏となる特権を有し、納税の義務もなく、窮すると即ち常民から衣食の料などを取り立てる権利がある。今は武班よりも文班が重んぜられている。」同上書 p.63~66
(引用終わり)
*二十七年の王宮の事変:明治二十七年(1894年)に起きた閔氏政権を倒すクーデター。大院君が日本に協力を得て政権を握るも、近代化政策を拒否し一ヶ月で摂政の座を下ろされ、東学党の農民兵を呼び込んで日本を追い払おうとしたことが日清戦争に発展した。

支配階層も民衆も自分の事ばかり考えて「国のため」という観念はなく、また王室に仕える貴族はともかくとして、民衆は王室に無関心であったという。

支配階層には納税の義務がないだけでなく、資金が不足するといつでも民衆から取り立てる権利を有していた。常民たちはいくら努力して富を蓄積しても支配階層に持って行かれてしまうので、仕事に精を出すことをしなくなってしまっていた。人々が働かないようでは、国が貧しくなることは当たり前のことである。Wikipediaによると、李氏朝鮮初期の両班は人口の3%に過ぎなかったと言われているが、その後身分制度が流動化し、身分証の売買などが横行したため、李氏朝鮮末期には「国民の相当多数(地区によっては7割以上)が戸籍上両班階級だった。現代の韓国人で、祖先が両班でないという人は珍しい」という。

この国が自力で近代化を成し遂げることができなかったのは支配階層が腐っていたからなのだが、わが国はこの身分制度に大胆にメスを入れて両班の既得権を奪っていったことで、のちに日本に対する悪感情を生むこととなる。
Jun 18 5 tweets 2 min read
イザベラ・バードは1894年から1897年にかけ4度にわたり朝鮮各地を旅行し、李朝末期の不穏な政情や開国間もない朝鮮の伝統や文化などを詳細に記した名紀行”Korea and her neighbours”を1905年に出版した。『三十年前の朝鮮』は大正十四年(1925年)に東亜経済時報社から刊行されたその抄訳である。タイトルの「三十年前」というのは、この抄訳が出された三十年前と言う意味で、1895年ごろの朝鮮半島のことを書いている。

当時の朝鮮殖産銀行頭取の有賀光豊が寄せた序文には、三十年前(1895年頃)の朝鮮と言えば「ただ荒寥たる頽廃国として西洋人は殆どその国際的存在さえ認めないくらいの未開国とせられ、事実に於いて世界の文明に後るること遠かったのである。早い話が女史の旅行した際には未だ一里の鉄道すら利用すべきものがなかった程の国状であった。」とあるが、その形容は誇張でもなんでもなく真実であった。
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彼女は当時の京城(ソウル)の市街について次のように記している。

「穢きこと臭きこと世界一の都は京城(ソウル)かな。二階建の家はこれを造ることを許されず、いわんや三階四階の家は夢にすら見られぬ有様である。故に二十五万の同胞は地上に瓦または藁を並べその下に潜り込んで生活――否不潔な道路に蠢動して居ると形容しようか。
その道路は広くとも二頭の馬を並べること能わず。狭きは一人の擔軍*(チゲグン)が往来を塞ぐ程である。路傍には悪臭紛々たる溝を控え、路面はあくまで垢付いた半裸体の子供と、獰悪な犬とによりて占領されて居る。溝の上にささやかな棚を組んで物売れる人に時々遇うことがあるが、棚の上には種々の小間物やら、毒々しく染め上げた菓子を並べて稀に来る客を待っている、買い占めたところで高々一円そこそこの代物であろう。

家屋は低く廂を突き出し、壁は泥を粗末に塗り立てて一校に美観を添えておらぬ。地上三四尺の所に紙張りの窓がある。オンドルの煙に燻ばれて、擔、柱、壁と共に頗る汚れて居る。…中略…

商店と称すべきものも在るには相違ないが、多くは店頭十円内外の品物を羅列するに過ぎぬ。もし京城の商店の特徴を求めたら、貧弱無価値の一言を以て尽くす事が出来る。いわゆる大商人は鍾路の十字街を中心として集っているが、それすら店中立って両腕を伸べたら一切の商品を掴み得る位に小さな販売所に過ぎぬ。」
*擔軍(チゲグン):背負子を背負って小荷物の運搬を若干の賃金で行うもの
(バード・ビシヨツプ 著『三十年前の朝鮮』東亜経済時報社 大正14年刊 p.17~19)Image
Jun 14 4 tweets 1 min read
GHQに封印された支那事変の真実~~武藤貞一著『日支事変と次に来るもの』を読む

武藤貞一は 戦前の昭和十一年から「大阪朝日新聞」の論説委員となり、「天声人語」欄を執筆。昭和十四年に「報知新聞」の主筆となり、戦中の昭和十七年に読売新聞社編集局顧問となっているジャーナリストで、今回紹介させて頂く書籍は『日支事変と次に来るもの』(GHQ焚書)である。タイトルの「日支事変」は、戦後の教科書などでは「日中戦争」と書かれているが、当時は「支那事変」あるいは「北支事変」とも呼ばれていた。

この本が刊行されたのは昭和十二年(1937年)九月七日で、支那事変のきっかけとなった盧溝橋事件からちょうど二か月後にあたる。私の手元にある本は同年九月十五日の日付で第四刷となっているが、当時の新潮社の書籍は印刷部数が明記されていて、初刷五万部、二刷二万部、三刷三万部、四刷三万部とあり、わずか八日で十三万部も刷られている。当時としては読者からかなり注目され、よく売れていた本であったことは確実である。
shibayan1954.com/degital-librar…Image 支那事変でわが国は支那侵略のために戦ったのではない

武藤貞一の戦前・戦中の著作は約四割がGHQに焚書にされている。戦前戦中に出版された軍事・外交・政治・ 歴史関連書籍で、これだけ多くの著作が戦後の長きにわたり封印されている著者は珍しいのだが、この武藤が支那事変が勃発した直後に書いたこの書籍の序文の一部をまず紹介させて頂きたい。

「・・・日本は支那と今度の事が起こる直前まで、本格的日支戦争をやろうなどとは夢にも考えておらなかった。しかるに一夜にして測らざる結果は到来した。いくら支那と戦いたくなくても、眉上の火の粉は払わずにはいられぬ。売られた喧嘩なら買わずばなるまい。まして支那中央政府が、十余年にわたって抗日の刃を研ぎ、ソ連邦の赤化*勢力と合作して全面的に戦争態勢を採り来るに至っては、もはや日本自らの存立上黙過するわけには行かぬ。
*赤化:左傾化、共産主義化

かつてわれら父祖が、強露の南下勢力を満州で戦い防がねばならなかったように、われらは、いま赤化勢力に征服された隣邦支那の屍を超えて、その支那大陸で、赤化勢力を戦い防がねばならぬ破目に際会しつつあるのである。

日露戦争は、どんな阿呆が詭弁を弄しても『日本がロシアを侵略するための戦い』とは言い得ないであろう。本来ならば、支那が強露と戦ってその南下勢力を阻止すべきところを、支那が無力のために日本が変わってこれと抵抗しなければならなかったのだ。もし日本に「侵略」の意志があったならば、二十万の生霊を犠牲にした満州をそのまま支那に提供するが如きことは、夢にも考えられないことだ。
しかるにその後の満州はどうか。完全に強露の勢力を駆逐した地域、いわば荒蕪地を綺麗な更地としてこれを支那に提供してやったために、かれはここに三十年間三千万の漢民族を移植し、その間、日本はわずかに二十万人の居住者を送ったのみである。その三千万の漢民族は、忘恩にも日本人(朝鮮人を含む)の排斥を企て、しまいには、その居住権をも剥奪するに至って、日本も我慢しきれず、満州事変は俄然勃発した。そして、漢民族専制政権は覆って、五属協和の新満州帝国が肇国された。平和を愛好してやまぬ日本なればこそ、これだけの平和行程を歩んできたのであって、もし日本がヨーロッパ列国中のどの国家であると仮定しても、こんなコースは辿って来ておらぬこと、明々白々の事実である。

今度の事変でも、日本が支那と闘っていると思うのは大間違いである。支那の大半を支配する国民党政府が赤化勢力に憑かれ、その前衛として抗日戦争に乗出してきた、その「抗日支那」と闘うのだ。もとより支那大衆全部が容共抗日の走狗であるわけはない。故に明日にも支那に現政権と絶縁して防共政策を掲げる新政権が出現したならば、忽ちにしてそれは日本の善友となる。日本は断じて支那領土侵略のために師を動かしているのではないのだ。」
(武藤貞一著 『日支事変と次に来るもの』 新潮社 昭和12年刊 p.1~4)

戦後の教科書では中国の背後に動いていた国が存在していたことには一言も触れることがなく、「日中戦争」を日本軍と中国軍の武力衝突であるように描いているのだが、そのような単純な戦争ではなかったのだ。
Jun 12 5 tweets 1 min read
武藤貞一という人物は今ではほとんど知られていないと思うのだが、戦前の昭和十一年から「大阪朝日新聞」の論説委員となり、「天声人語」欄を執筆。昭和十四年に「報知新聞」の主筆となり、戦中の昭和十七年に読売新聞社編集局顧問となっている。戦後は「自由新聞」を創刊し、動向社を設立して軍事外交評論に筆を奮ったのだが、彼が戦前戦中に発刊した三十二点の書籍のうち約四割にあたる十三点がGHQに焚書処分を受けている。

いったい何が書かれているのかと興味を覚えて何冊かを取り寄せてみたのだが、たとえば彼の『日本の変貌』(昭和15年刊 GHQ焚書)には、戦後ほとんどタブーにされてきたことが満載である。

「見よ、アジア十一億の人口の内、日本と満州国と、ただ二国を除いて、どこに有色人種の誇りを堅持する国家があるか。支那の実情は言うもさらなり。タイ国に至ってはイギリス勢力の浸蝕日に盛んにして、多年植え付けた親日地盤のごときも今やイギリスの奸策のために根底よりくつがえされなとしつつある現状にある。

今日東アジアに残る独立国家はただ日本と満州国とタイ国と支那と四ヵ国のみであるが、タイ国と支那と、上述のごとしとすれば、真に完全なる独立国家と称すべきもの日本を除いて一ヵ国もないといわなければならぬ。(満州国はまだ嬰児で日本の母乳を呑んで育っている) アジアは、日本を除き、全面的に白人の侵略下にある。殊に日本帝国の比周は、ほとんどすべてが白人の侵略領土ならざるを得ない。シベリアも、外蒙新疆も、西蔵(チベット)も、インドもフィリッピンもハワイ群島も、マレー半島も、仏領インドも、しかして蘭印も、悉くこれ白人の侵略領土ではないか。 …中略…

アジアは過去三世紀の間に一花一落、散り散りばらばらにされてしまった。しかして今日にただ咲き誇っている花は日本帝国ただ一花だ。この姿を眺めるとき、アジアは百花繚乱の春にあらずして、むしろ粛殺たる秋である。大半の花は散るか、萎むかしているのである。この状態をこのままにして、新東亞建設の談容易にあらざるをまず熟知すべきであろう。新東亜建設は実に百年の大計に属する。…蒋(介石)軍を討っても支那民心が英米依存より覚めざる限り、新支那は建設されない。事変の真の解決は徹頭徹尾、援蒋勢力の急所を衝くにあるを思え。」( 武藤貞一 『日本の変貌』 東亜書房 昭和15年刊 p.109~110)
shibayan1954.com/degital-librar…Image しかしながら我が国には資源が乏しく、多くを輸入に頼らざるを得ないのは今も同じだが、当時その貴重なアジアの資源が西洋列強間で奪い合いになっていて、我が国対してに特に圧力をかけてくる国が存在した。

「南洋資源が、日本の生命線であることも今更言をまたぬ。もし拱手傍観して神機を逃せば、それで日本帝国の発展的生命は終りを告げる。すなわち日本帝国の窒息であり、没落である。ここにおいて日本は、是が非でも独伊と連携して、南洋勢力圏の画定に乗出すほかない。絶体絶命、それ以外に手はないことを、まず観念すべきである。

ただ、それをなすには、対米関係の最悪化を前提とせねばならぬ。アメリカのした対日政策は重圧の一本鎗で、イギリス自身が承諾した援蒋ビルマルートの禁絶にすら、反対するほどのアメリカ政府である。故に、アメリカと一戦の用意と覚悟なくんば、南方への飛躍体制は絶対に示すを得ない。アメリカと摩擦を避けたし、南洋資源はものにしたしでは、意義をなさぬのだ。

もし日本が、この場合、アメリカを向こうに廻すことを回避せねばならぬのなら、南洋資源は思い切って、自ら三流国家に堕する以外ない。もしまたそれがいやなら、アメリカと一戦を用意して、しかる後に着手すべきである。

日独伊軍事同盟は締結された。これは、とりも直さずアメリカを太平洋に牽制することにもなり、かなり苦しい役回りになること必然だが、結局この苦しみを経過せずしては、日本帝国の真の活路は発見されないことにもなろう。また一方、ソ連の問題が横たわる。対米問題と対ソ問題は、当然に睨めあわして講究さるべきである。従来の日本が反ソ政策に膠着しつつある間隙に乗じて、イギリスは昨今死にもの狂いで米ソの対日共同戦線を策謀しつつある。
日本があまりにも目前の安全感に囚われ、アメリカを恐れて逡巡しておれば、、逆に彼がソ連を駆って、極東のパートナーとしないとは限るまい。」(同上書 p.132~133)
Jun 10 4 tweets 3 min read
明治六年に政府がキリスト教禁教の高札を撤去した経緯

幕末に長崎で捕えられた隠れキリシタンの大規模な処刑が行われるという風説が流れ、明治新政府は欧米諸国から強硬な抗議を受け、大阪本願寺にて政府代表の大隈重信と英公使パークスと談判したことを前回書いたが、この談判が終わってしばらく外国からの抗議も一旦止んだものの、政府としては国禁を犯しているキリスト教徒の処分問題の解決を急ぐ必要があった。

長崎裁判所では中心人物の斬首など厳刑に処す方針であったのだが、それを実行すれば重大な外交問題に発展することは火を見るよりも明らかであった。

政府はこの問題を何とか穏便に解決させようと、木戸孝允を長崎に出張させている。木戸は明治元年(1868年)五月十三日以降三回にわたり長崎裁判所の澤宣嘉総督、井上馨らとこの問題について協議の末、同月二十一日に信徒の中心人物を津和野藩へ二十八人、長州藩へ六十六名、福山藩へ二十人が蒸気船で移送することで決着した。

しかし浦上のキリスト教徒の一部を移送したことから、早速諸外国から抗議されている。井上馨の伝記である『世外井上公伝. 第1巻』には、こう記されている。

「然るに木戸の出発したその翌日、長崎在留の各国領事は、教徒の巨魁が移送されたことを知って、早速長崎府庁(五月四日に裁判所を府と改めた)に抗議を申し込んできた。ところが長崎府では、その実を告げ、和親修交上種々の忠告は忝(かたじ)けないが、わが政府においては無辜(むこ)の人民に対して、徒(いたずら)に不仁の処置を取るものではなく、事情已むを得ずここに至ったのだから了承されたいと返書を送った。

而して爾後政府においても、八月二十三日に肥前藩に命じて、浦上村耶蘇教徒の残徒を厳重に取締らしめ、九月五日には大村藩に領民の該教に侵染せざるよう取計らいを命じた。而して十月二十五日には耶蘇教徒の改方についてその規則が新たに制定される迄は、幕府の制度に従って処置し、不審のものはこれを取調べ、来る十一月限り届出でるよう布達して、断乎たる禁制方針で進んだ。尚五島領民中の耶蘇教徒に対しても、九月以来屡々(しばしば)取調を行い、十二月三日を以てその処分方を五島藩と長崎府とに命じた。かくて五島に於いても教徒の検挙を見たが、その糺問にあたり拷問残虐の処置があったというので、宣教師から直ちにその由を英国公使に報告した。

この報を得て英国公使は、さきに教徒に対して寛大の取り扱いをすることを言明しているにもかかわらず、尚かくの如き苛酷の処置を行うのは、その言明に悖るものであると大いに憤慨して難詰に及んだ。
故に政府も余儀なく吏員を派遣し、その真偽を調査せしめることになり、同月末に外国官判事山口範蔵が長崎に赴き、実地調査に当たった。山口は種々調査を行うて翌二年三月に帰京復命して、該島に於いては外国公使の抗議して来た如き事実はなく、これは多分昨秋同島に於いて五島家本末両家の間に惹起された紛擾が偶々教徒虐待の虚説となって誤り伝えられたものであろうと報告した。」(井上馨侯伝記編纂会 編『世外井上公伝. 第1巻』内外書籍 昭和8年刊 p.305~307)

このように山口範蔵は教徒虐待の事実を否定しようとしたのだが、外国公使等はこの報告では満足するはずがなく、その後も外国人との面倒な交渉が続いたという。shibayan1954.com/history/meiji/…Image
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明治二年の浦上のキリスト教徒の移送と諸外国の抗議
しかしながら政府のキリスト教禁教方針は揺るがず、さらに多くの教徒の捕縛を決定し実行している。

「政府に於いてもまた大いにその処置に苦心したが、二年十月に至りその残徒を一網打尽に附して、金沢以下十余藩に転移せしめ、禍根を勦絶することに決した。而して年末に至り、迅雷的にその転移の実施に着手し、十二月一日を期して輸送を開始することになった。然るに外国領事の抗議に妨げられたため、愈々出発したのは四日で、越えて七日には三千人の教徒の輸送を終わった。」(同上書 p.309)

たまたま長崎にいた英公使・パークスは長崎県に抗議したが、長崎県は中央政府の命令であるとして抗議を拒否し、その後パークスは米・独・仏・蘭の4か国公使とともに、信徒処分に関する抗議書を明治政府に提出している。そして政府は、明治二年(1869)十二月に五ヶ国公使を集めて再び談判している。

この会議における各国の発言内容が、山本秀煌 著『近世日本基督教史』に詳しく紹介されているが、要するに各国公使は浦上の信徒の流罪を中止すべきであるとし、政府はキリスト教を許可すれば神道を基礎とする政府を維持することが出来なくなると論じて、議論は平行線であった。

冒頭で英国公使パークスがこう述べている。
「キリスト教は我が国民の宗門でこれあり候。思うに何様なる儀が英国に知らるる時は面白からぬ結果を生じ、最も非友誼的の所為と見なさるべし。もし、これら人民中の幾人かが曲事をなせしならば、これを罰せられて可なり。されどその刑罰を家族と数千人の上に及ぼすは、吾人の正義より見たる見解に反する事と存ず。」(同上書 p.683~684)

キリスト教徒にとっては、キリスト教を奉じているということだけで、家族までもが流罪に処せられることは極めて不愉快なことであり、野蛮な行為にしか見えなかっただろう。

談判の席で岩倉具視は、
「われわれは貴官らに約束せしが如く、穏当なる処置をなせりと思惟す。近頃移住せしめし人民にはその家族をも同伴せしめたり。これを厳酷なる刑罰と言うべからず。また彼らはそれぞれ付与せられたる土地を所有し、生活上の便利を有すること以前と異なるなし。従来彼等如きものは磔刑に処し来りしなれど、外国公使等の請求もありたることなれば、殊に穏やかなる処置をなせし儀に候。」(同上書 p.684~685)
と反論したのち、次のように述べている。

「政府が日本において切支丹宗を禁ずるは、これに反対する故にあらず。これより大なる困難の起こるを予知すればなり。たとえば百人の中一人にても切支丹宗を信ぜば人々の心一致せずして分れ分れとなるべし。以前は切支丹宗に対する法律頗る峻厳なりしが、今は前よりも三四等も軽くなりぬ。しかしながら我らはこれを信ずることを一般に許可する能わず。…彼らが天皇陛下の宗門に従い、政府の権威に服せばこれを罰すべき理由なし。」(同上書 p.689~690)

明治政府は日本神道に天皇を中心に据えて国を治めようとしたわけだが、キリスト教徒は神社や天皇に敬意を示すことが無いので認めるわけにはいかないという。
明治政府が広めようとした神道はいわば一神教のようなもので、異質なものを極力排除するために、国是であるキリスト教の禁教を守り通すこととしたのである。Image
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Jun 8 4 tweets 2 min read
幕末に大量の隠れキリシタンが長崎で出現した経緯と幕府の対応
江戸幕府はキリスト教禁止を国策とし、五人組や宗門改制度や檀家制度を整備して、武士・町民・農民の身分を問わず信仰する宗教を調査し、さらに誰もがどこかの寺の檀家となることを義務付けられてから二百年以上の年数が経過しており、ほとんどの地域でキリスト教徒はいなくなったものと考えられていた。しかしながら一部の地域では、キリスト教の信徒組織が残されていて、何世代にもわたり密かに信仰が行われていたのだが、そのことが幕末に明るみに出て大問題となっている。

かつては幕府の直轄領であった、肥前国彼杵郡浦上村において、過去四度にわたりキリシタンが摘発されたことがあり、総称して「浦上崩れ」と呼ばれているのだが、寛政二年(1790年)の浦上一番崩れ、天保十三年の浦上二番崩れは、いずれも何人かが調べられたものの誰もがキリシタンであることを認めず、証拠不十分のまま釈放されている。しかし安政三年(1856年)の浦上三番崩れでは、元信徒による密告があったことから、大規模な取り調べが行われたという。
山本秀煌 著『近世日本基督教史』によると、次のように記されている。

「嫌疑者として捕縛せられしもの八十名の多数に達し、そのうち五十名は直ちに放免せられしも、残余の三十人は監獄に投ぜられ、ついで検挙されし数名の嫌疑者と共に、厳重なる審問を受け、拷問の呵責に堪えずして、多くは牢死したり。この検挙は背信者の密告により起こりしものなるが故に、政府も彼らを目明として切支丹の内情を探ることを得、古製の仏具・書籍・経文等の屋根裏または土中に匿蔵しありし物を発見し、数多の証拠物件を挙げたりしが、故意かはたまた無意識か、その心情は知り難きも、幕府の役人はこれをキリシタン衆とみなさず、一種の異教徒として取扱いたるが如く、時の長崎奉行はこれらの異徒の財産を没収し、追放の刑に処せんとせしも、幕府これを許さず、万延元年に至り、遂にみな自宅療養の恩典に接し放免せられたりき。
(山本秀煌 著『近世日本基督教史』洛陽堂 大正11年刊 p.569~570)」

Wikipediaには浦上三番崩れのこの取調べで吉蔵以下幹部のほとんどが獄死もしくは殺害されたとあるが、一般の信徒に対しては深くは追及されず、「長崎奉行はこの件を、「村人は先祖代々の教えを禁じられたキリシタンの教えと知らなかった」ことによって生じた「異宗事件」として処理を行い、事件を矮小化し、キリシタンの存在を公式には認めなかった」と書かれている。もし公式に認めてしまうと、今までの取締りが甘かったことを認めてしまうことになり、長崎奉行にとっては都合が悪かったのかもしれない。

しかしながら、慶応三年(1867年)に起きた浦上四番崩れでは、大量の信徒が捕縛され拷問を受けたのだが、それからまもなく江戸幕府が瓦解し、幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府の手によって村民が流罪となっている。ところが、この処分を諸外国は許さなかったのである。この浦上四番崩れがどういう経緯で起こったかについて振り返っておこう。
shibayan1954.com/history/meiji/…Image 隠れキリシタンの発見
江戸幕府は、安政五年(1858年)にアメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ロシアと修好通商条約を締結し、神奈川・長崎・神戸など五港の開港と外国人の居留を認め、居留地内における外国人の信仰の自由を認めている。

そこで、外国人宣教師が我が国に渡来するようになったのだが、なかでもフランス人宣教師はなんとかして日本で伝道の緒を得ようと、沖縄で日本語を習得したのち文久三年(1863年)に長崎に入り、天主堂の建設に取り掛かった。慶応元年(1865年)の二月に天主堂(現在の大浦天主堂、正式名は日本二十六聖殉教者聖堂)が完成し、それからほぼ一か月たった三月十七日(陰暦二月十二日)のことである。
山本秀煌 著『近世日本基督教史』に、この宣教師ベルナルド・ポチヂャンが司教ジラルにこの日の出来事を書き送った書翰の大意が記されているので引用させていただくことにする。

「…本日正午十二時頃の事なりき。聖堂見物に来りし十四五名連れの男女あり。彼らは通常の見物人と事変り何か様子ありげに見えたれば、余は直ぐに聖堂の門戸を開き彼らを奥へ伴い、高台の下に進み市に彼らは後より従い来りぬ。余は聖堂の落成以来毎日このところにおいて祈祷をなし来たりしが、今日は彼らのために特別天主の御恵みを祈り、暫時跪(ひざまず)いて後立ちあがりし折り、四十有余歳と見ゆる一婦人、余の傍らに来り。胸に手を当て我らは尊師と同じ心なりと言いしかば、余は驚き怪しみ御身らは何地のひとなるやと尋ねしに、彼らは答えて、我々は長崎の町外なる浦上村の者なるが、我らの住む村には尊師と同じ心のもの多くありて、平生サンタ・マリア様を頼み奉りぬ。サンタ・マリア様の聖像は何所にあるやと。
余はこれを聞きて再び驚きかつ喜び、さては昔時の信者の子孫なるか天主の恩み有難しと、深く心に謝し奉り、やがてマリアの聖像の飾りある高台の下へ彼らを導きぬ。この聖像は司教閣下が仏国より携え来たりしものなり。かくて彼らは聖像の下へ来るや、すぐに跪きて祈念しつつありし様子なりしが、喜びにたえずやありけん。突然声をあげていかにもサンタマリア様なり。見よ見よ手に耶蘇を抱き給うぞと、互いに叫び合いぬ。…
(山本秀煌 著『近世日本基督教史』洛陽堂 大正11年刊 p.588~589)」

この日は別の日本人見学者が来たために、宣教師は彼らから詳しく話を聞くことは出来なかったが、その後夜陰を利用して秘かに何度か彼らと会見する機会を持ち、長崎の隠れキリシタンの全貌が次第に明らかになっていく。

宣教師の報告によると、信者の数は二万とも五万とも言い、浦上村だけではなく長崎湾口の島々より外海・平戸・五島・天草の一部及び久留米付近の今村地方、生月島に信者がいるとのことである。彼らは再び自由に信仰ができる日が来ることを信じていた。というのは、寛永時代の先祖から「七代の後に至らば黒船来りて汝らを救わん。その時汝らは公然キリシタンの唄を唱え得べし」という予言があるとのことであった。

その後、浦上村だけではなく、この話を聞いた隠れキリシタンの人々が遠方から舟をこいで夜間にやって来るようになり、宣教師もまた彼らの住む島などに、人目を避けながら行くことが増えるようになっていったという。Image
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Jun 7 4 tweets 2 min read
天正十三年(1585年)、秀吉の紀州攻めで焼かれた伝承のある寺社
秀吉の紀州攻めで秀吉軍に焼かれたことが判明している寺社は以下の通りである。

神於寺(大阪府岸和田市、天台宗)…大日堂、不動堂を残して焼失
水間寺(大阪府貝塚市、天台宗)…焼失
孝恩寺(大阪府貝塚市、浄土宗)…観音堂を残して焼失
七宝瀧寺(大阪府泉佐野市、真言宗)…焼失
金熊寺(大阪府泉南市、真言宗)…焼失
波太神社(大阪府阪南市)…焼失
総持寺(和歌山県和歌山市、浄土宗)…焼失
木本八幡宮(和歌山県和歌山市)…焼失
粉河寺(和歌山県紀の川市、粉河観音宗)…焼失
根来寺(和歌山県岩出市、新義真言宗)…大塔、大伝法堂、大門、大師堂を残して焼失
施無畏寺(和歌山県有田郡湯浅町、真言宗)…焼失
広八幡神社(和歌山県有田郡広川町)…一部焼失
衣奈八幡神社(和歌山県日高郡由良町)…焼失
興国寺(和歌山県日高郡由良町、臨済宗)…大部分焼失
本願寺日高別院(和歌山県御坊市、浄土真宗)…焼失
滝法寺(和歌山県日高郡印南町、真言宗)…焼失
安養寺(和歌山県日高郡みなべ町、真言宗)…焼失

以上の寺社は山川出版社の『大阪府の歴史散歩』『和歌山県の歴史散歩』に載っている観光地の解説で紀州攻めで焼失したことが明記されているものだけを列記したものだが、この本に載っていない寺社や、解説に書かれていない寺社で焼かれたところがまだまだあることだろう。
フロイスの記録では、根来寺周辺で千五百以上、粉河・槇尾周辺で五百超の寺院が炎上したと書かれているのだが、実際には雑賀衆の本拠地であった紀伊の国北西部よりもかなり南の寺や神社まで焼かれているのに違和感を覚えるのは私ばかりではないだろう。

紀南では日高郡を中心に大きな勢力を有していた湯川直春など一部の国人衆の抵抗はあったようだが、これら焼失した寺社のすべてが秀吉軍に激しく抵抗した結果として火を点けられたのであろうか。逃走していた根来衆・雑賀衆などが立て籠もったために焼かれたことも考えられるが、戦う意思がなかったにもかかわらず秀吉軍が火を放っていったケースもかなりあるのではないだろうか。Wikipediaによると、根来衆の主要兵力は和泉の戦線に出払っており、根来寺には戦闘に耐えうる者はほとんどおらず、根来寺はほとんど無抵抗で制圧されたと記されているのだが、火を放たれているのである。
google.com/maps/d/viewer?…
shibayan1954.com/history/sengok… 信者に寺社を焼くことを教唆していたイエズス会宣教師

ルイス・フロイスの『日本史』を読むと、イエズス会の宣教師が信者に寺社を焼くことを勧める場面がいくつも出てくる。

たとえば、わが国で最初にキリシタン大名となった大村純忠は、洗礼を受けるのと引き換えに、領地にあるすべての神社仏閣を焼くことを求められていた。彼は、実兄の有馬義直が仏教徒なので、全ての神社仏閣を焼き払うことは出来ないが、今後一切寺社の支援を行わなわないことを約し、コスメ・デ・トーレス神父の洗礼を受けている。

そして、大村純忠はその後戦場に行くたびに、家臣を寺社に派遣して焼くことを命じている。フロイスはこう書いている。

「(大村純忠は)主なるデウスの御奉仕において、自ら約束した以上のことを行ない示そうとして、戦場にいて、兄を助けて戦っていた間に、数名を自領に派遣して、幾多の神仏像を破壊したり焼却させたりした。そして殿は家臣の貴人たち数名とかたるときにはいつも、汝ら、キリシタン信仰のことで疑わしいことがあれば、予に訊ねるがよい。予がそれらを解き、汝らを満足させるだろう、と言っていた。
(中公文庫『完訳フロイス日本史6』p.281-282)」

この文章からわかるようにイエズス会の宣教師は、キリスト教にとって異教である寺や神社の建物や仏像などを破壊することは、「デウスへの奉仕」と信者に教えていたのである。

宣教師たちは大名にだけそのような教唆をしたのではなく、一般の信者においても同様であった。フロイスの『日本史』を読み進むと、こんな記録がある。

「…たまたまあるキリシタンが、ガスパル・コエリョ師のところにやって来て、司祭にこう頼んだ。『今はちょうど四旬節でございます。私は自分がこれまで犯して来た罪の償いをいたしたいと存じますので、そのためには、どういう償いをすることができましょうか。どうか伴天連様おっしゃって下さい』と。

司祭は彼に答えて言った。『あなたがデウス様のご意向になかってすることができ、また、あなたの罪の償いとして考えられることの一つは、もしあなたが良い機会だと思えば、路上、通りすがりに、最初の人としてどこかの寺院を焼き始めることです』と。この言葉を、そのキリシタンは聞き捨てにしなかった。そして彼は、いとも簡単で快い償いが天から授かったものだと確信して、自分がそれによって、どんな危険に曝されるかも忘れ、さっそく帰宅の道すがら、ある大きく美しい寺院の傍らを通り過ぎた時に、彼はそれに放火して、またたく間にそれを全焼してしまった。…
(同書p.22-23)」

ガスパル・コエリョはイエズス会の初代準管区長で日本地区のトップとなった人物だが、一般の信者がこれまで犯して来た罪の償いとして何をすればよいかとのとの問いに対して、寺を焼くことを勧めていたことは極めて重要である。
コエリョの言った通りのことを戦国時代のキリシタン武将が率先して実行し、戦国時代の混乱がもっと長く続いていたとしたら、わが国の貴重な文化財の多くをこの時代に失っていたことは確実である。

当時イエズス会にいた宣教師たちがイエズス会本部と交わした文書をもとに、ジアン・クラッセという同会の宣教師がまとめ、1689年にパリで出版された本がある。『日本西教史』という書名で翻訳されて、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されているが、その書物に1587年にガスパル・コエリョが発した言葉が記されている。

「キリストの教えはただ天地創造の一真神を崇拝するにより、殿下は日本人のキリスト教に入るを許し、偶像を拝するを禁じ、而して真神に害する所あるを以てその社寺を毀つを許されしなり。
ジアン・クラッセ 『日本西教史 上巻』p.674」

文中の「殿下」は豊臣秀吉を指しているが、他の大名に置き換えても同じことである。

多神教を奉ずる日本人には理解し難い言葉だが、一神教であるキリスト教の宣教師たちは、領主がキリスト教の布教を許したということは、その領地内で、キリスト教にとって異教である仏教の寺や仏像・神社のすべてを破壊することも同時に許したことになると解釈していたのである。キリスト教徒にとっては、異教はすべて根絶すべきものであり、その施設や仏像などを破壊することは正しいことであるという理屈になるのである。Image
Jun 5 4 tweets 2 min read
秀吉の紀州攻めで多くの寺社が焼かれた理由~~紀州攻め1
天正十三年(1585年)の秀吉の紀州攻めで根来衆は壊滅し、根来寺は大師堂、大塔など数棟を残して焼け落ちている。この紀州攻めで焼き払われたのは根来寺だけではなく、岸和田市の神於寺、貝塚市の水間寺、孝恩寺、泉佐野市の七宝瀧寺、泉南市の金熊寺、阪南市の波太神社、和歌山県の粉河寺などもこの時に焼き払われたと伝えられている。

秀吉が壊滅させたかったのは寺社そのものではなく、根来寺周辺に居住し鉄砲で武装した僧兵集団であった根来衆や、同じく鉄砲で武装した地侍集団の雑賀衆(さいかしゅう)であったはずなのだが、彼らは何故秀吉に亡ぼされたのであろうか。

ルイス・フロイスの『日本史』に根来衆についてこんな記述がある。

「これらの仏僧たちは、日本の他のすべての州はとはまったく異なった注目すべき点を幾つか有している。すなわち彼らの本務は不断に軍事訓練にいそしむことであり、宗団の規則は、毎日一本の矢を作ることを命じ、多く作った者ほど功徳を積んだ者と見なされた。彼らは絹の着物を着用して世俗の兵士のように振舞い、富裕であり収入が多いので立派な金飾りの両刀を差して歩行した。肩衣を着物の上にまとっていない点を除くと、その服装は他の俗人と異なるところがなかった。…(中略)

都に隣接した諸国に住む武将や諸侯は、互いに交戦する際、ゲルマン人のようにこれらの僧侶を傭兵として金で雇って戦わせた。彼らは軍事にはきわめて熟達しており、とりわけ鉄砲と弓矢にかけては、日頃不断の訓練を重ねていた。そして戦場においては自分たちに有利な条件を齎す側に容易に屈するのであった。(中略)

彼らに奉仕する家僕を除き、仏僧だけで八千人から一万人もいたが、それらの家僕の大部分は下賤の出で、主人のもとから逃走した下僕とか、悪人、また下等な輩の寄合いであった。だが彼らはひとたび根来衆になると、たちまち尊敬を受け、血統の賤しさも、以前の生活や習慣における卑劣さももはや己が身に汚点を残さなくなると信じていた。
(『完訳フロイス 日本史4 豊臣秀吉篇Ⅰ』中公文庫p.57-58)」

もちろん彼らは仏僧であるから、戦争に参加しない時は僧侶として仏像に参拝し読経をしていたのだが、彼らの主な収入源はむしろ戦場にあったと思われる。彼らは非常に豊かであったとあるが、金で雇われて戦争に参加し、「有利な条件を齎す側に容易に屈する」とフロイスが書いている点に注目しておこう。

次に雑賀衆だが、彼らは紀伊国北西部(現在の和歌山市及び海南市の一部)の地侍たちで構成されていて、彼等も根来衆と同様に豊かであった。フロイスはこう記している。

「彼らは海陸両面の軍事訓練においては、根来衆にいささかも劣らなかったし、つねに戦場で勇敢な働きぶりを示して来たので、日本で彼らは勇猛にして好戦的であるという名声を博していた。

彼らは僧籍を有せず、すべて一向宗の信徒であり、かつて大坂の市(まち)および城の君主であった(石山本願寺)の仏僧(顕如)を最高の主君に仰ぎ、彼に従っていた。(織田)信長は六年にわたって顕如を包囲したが、しばしばこの大坂勢には悩まされ、信長勢は彼らの攻撃を受けた。当時、この僧侶をもっとも支えたのは、彼が常時手許に置いている六、七千人もの雑賀の兵であった。彼らは自ら奉ずる宗教への信心ならびに熱意から、不断に(大坂)城に馳せ参じ、自費をもって衣食をまかなうとともに、海陸の戦いでは武器弾薬を補給した。
(同上書 p.59-60)」

フロイスの文章には書かれていないが、雑賀衆も傭兵的な動き方をしていたようである。

根来衆にも雑賀衆にも強力な鉄砲隊が組織されていた。「傭兵」などといっても、大量の鉄砲を揃えるのに巨額な投資をした彼らである。余程の報酬が得られなければビジネスにはならないだろう。彼らがどちら側につくかの駆け引きで依頼主からの報酬額を釣り上げるか、敗残者から戦利品を捲き上げるようなことはやっていたのだと思う。そう考えなければ、彼らが裕福であったことや、命がけで戦争に参加したことの説明は困難だと思う。
shibayan1954.com/history/sengok…Image 岸和田城合戦
天正十二年(1584年)に羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合とが戦ったが、この小牧・長久手の戦いで根来・雑賀衆は織田・徳川方につき、和泉では秀吉の留守を狙って堺や大坂に攻め入っている。

そのありさまをルイス・フロイスは次のように記している。
「(根来・雑賀衆は)彼(秀吉)が戦争から凱旋して来た暁には来襲するであろうと見なし、彼の不在に乗じ、約一万五千名が一団となって出撃し、羽柴が大坂に築いた新しい都市をすべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。そして(大坂)城を占拠したうえは、かつて信長が五年も六年も攻囲したかの(石山本願寺の)僧(顕如)をふたたびそこにおらしめることにした。

(大坂の)城と市(まち)には少なくとも戦えるほどのものとてはほとんどいなかったのみならず、当時はなお新たに建築中であったので、城全体が開放されていた。

敵(僧兵)は徐々に前進し、途上幾つかの場所を破壊したり焼いて行ったので、四日ないし五日もかかった。

大坂にいた人々は、この有様では市は全滅してしまいまともなものは何一つ残るまいと思えたので、あとう限り家財や衣服を搬出し、火の手が迫った家屋を放棄した。市内外の街路にはすでに盗賊が充満しており、物を携えて歩行する者は、ただちに襲われて掠奪される外なかった。こうした、街頭での掠奪は、かって(本能寺の変の後)安土山が焼尽された時とほとんど同じような様相を帯びるに至った。
(同上書 p.45)」

大坂城は前年の天正十一年(1583年)から建設が始まったばかりであり、その場所には以前は石山本願寺があった。根来衆らは顕如を再びこの場所に迎えようとして建築途上の大坂城を焼き払い、大坂の町に火を点けたのである。
しかし、秀吉はこのようなことが起こることを予知して、岸和田城に守備隊を残していたのである。

「羽柴(秀吉)は和泉国の岸和田という城に六、七千名の兵を率いる一司令官を配置した。この司令官はすこぶる勇敢で著名であり、名を孫一(中村孫平次一氏)と称した。そして同城は敵がかならず通過せねばならぬ道にあったのだが、敵は羽柴がそこに守備隊を置いていることを知らず、実際に彼らが味わうことになったような強硬な抵抗のことを予想していなかったので、城は容易に奪取できるものと考えていた。だが孫一は全軍を挙げて攻撃に出、敵に非常な損害を与え、短時間に四千余名ほどの敵兵を殺戮した。
(同上書 p.46)」Image
Jun 4 11 tweets 9 min read
先週三重方面を旅行してきました。最初に訪れたのは伊勢国第一宮の椿大神社(つばきおおかみやしろ:鈴鹿市山本町1871)。
ご祭神の猿田彦は日本神話に登場する「みちひらきの大神」で、天孫降臨の際に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内したことで知られ、物事を良き方向に導く神として、交通安全や事業海運の御利益があるとされている。
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亀山城は丘陵状の地形を利用して天正十八年(1590年)に岡本良勝(よしかつ)が築造し、その後は頻繁に城主が変わり、延享元年(1744年)に備中松山から石川総慶(ふさよし)が城主になって以降は明治維新まで石川家十一代が統治した。
明治六年の廃城令により、亀山城のほとんどの建造物が取り壊され、現在は多聞櫓と石垣、土塁、兵の一部が残されているだけだ。多聞櫓は、三重県下で原位置のまま残されている唯一の城郭建築として、三重県の文化財に指定されている。
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Jun 3 6 tweets 2 min read
原口統太郎『支那人に接する心得』(GHQ焚書)を読む 2
「惜しみなく金を撒け」
前回、支那人から接待を受けたり贈答を受けても返礼すらしない日本の政治家や外交官がいて国益を損ねたことを書いた文章を紹介したが、支那ではカネをばらまかないとうまく行かないことを書いている。金銭についての考え方は日本人とは随分異なる。

「支那人は金銭のことを言うのに一向頓着しない。即ち何でも金銭で解決する風がある。であるから、召使いとか下の者に対しては、機会あるごとにできるだけ金を与えることを心掛けるがよい。

例えば、支那人を訪問した時でも、その家の召使などに、玄関で外套を着せてもらった時とか、洋服の埃ほこりを払って貰った時などでも、すべてそういうような場合は、一々五銭なり、十銭なりの金をやるようにした方が宜しい。大官等を訪ねた場合でも、その家の取次に沢山な金銭をやらなければ、取り次いで貰えぬというのが、昔から支那一般の習慣である。こんなわけで、支那人はこのような場合非常に奮発して金を出す。

然るに、日本人は、自分が金銭のことを言うのを、潔しとしないためか、金銭の使い方がケチだ。支那にいる間はもっと露骨に金銭を以て、物事を解決しようと考えてもちっともおかしくない。かえって、それが支那人の心を得る所以だ。
原口統太郎『支那人に接する心得』実業之日本社 昭和17年刊 p.247~248」

金銭がなければ大官が動かない社会がいい社会だとは思えないが、中国は今も同様に賄賂が横行し、昨年に報じられた、中国の新疆ウイグル自治区の元副書記が20年間あまりで受け取った賄賂がとんでもない数字であった。。地域や人物によって金額の差はあるのだろうが、同様な話はあの国の各地で起こっているのだろう。
sankei.com/article/202504…

shibayan1954.com/degital-librar… 「支那人に支那人と言うな」
西洋人がこの国をChinaと呼ぶのは、紀元前三世紀に誕生した中国最初の統一王朝である秦が由来であるという説があり、「支那」というのはその音訳だと言われている。わが国では戦前・戦中までは「支那」と呼ぶことが普通であったのだが、戦後になると外務省から「中華民国」を用いる旨の通達が出て、「支那」という言葉はほとんど使わなくなった。しかしながら当時から中国の人々が「支那人」と呼ばれることを好まなかったと原口は書いている。

「朝鮮人に朝鮮人と言い、支那人に支那人とわれわれが言うと、中流以上の者はよい顔をしない。そう言われると彼らは悪い気持がするらしい。これはひがみから来るので、単に支那人というその言葉の中に、軽蔑の意味が含んでいると考えるからである。だから理由は何等ないにしても、嫌う言葉は使わないで、支那の人、支那の方と呼ぶようにしたいものだ。

大連の大和ホテルのボーイ室に、支配人への注意書としてこのことが書いて掲げてあったが、用意周到な心掛けと思った。元来、支那という語源は英語のChinaより出たものであろうが、それが元、秦から来たという説だが、それを、彼らは僻んでかくの通りである。哀れむべき亡国民の僻み、寧むしろ同情してやるべきだ。
同上書 p.256~257」

そもそも支那というのは地理的な概念だが、当時の「中華民国」は支那のごく一部を支配していたに過ぎず、わが国が支那に住む人々のことを支那人と呼んだことに問題があったとは思えないし、欧米はChinaと呼ぶことに昔も今も大きな問題にはなっていない。これはどう解釈すれば良いのだろう。

この文章の中で著者は「国民の僻み」という表現をしているのだが、この意味を理解するためには当時の「中華民国」が統一国家ではなかったことを知る必要がある。
以前このブログで松岡洋右の国際連盟脱退時の演説を採り上げたが、この演説で松岡は、支那は広大な国土を持ち多くの軍隊を持ちながら自国の防衛も国民の生命財産も守れないばかりか、諸外国から派遣された外交官を守るために、各国からの軍隊派遣が不可欠な状態にあったこと考えると、Chinaは欧米人が用いる意味での「国家」ではなく、ただ広大な地域を指しているに過ぎないと述べている。
一方わが国は欧米から先進国として認められており、そのことは支那人としては不愉快なことであり、また日本人から「支那人」と呼ばれることに僻みを持ったということも理解できるのである。
shibayan1954.com/history/taisho…Image
Jun 2 5 tweets 2 min read
原口統太郎は北清事変(義和団の乱)の頃に支那へ渡り、その後四十余年もの間、北支と満州のみに生活して来た人物で、最初は支那人を教育するための学校を経営し、自ら教鞭を執り、後には実業に従事して数千人の支那人を使役し、山東、河北、満州において開拓事業をやった経験があるという。
この本は彼が「支那人を愛撫善導して、東洋平和の基本である日支親善を」実現させることを願って、「支那に居住し、支那人相手に仕事をして行こうとする人々のための各般にわたっての心得書」として書いた本である。
全部で百のテーマについて著者の考えが記されている。どこから読んでも良いが、それぞれ興味深い話が満載である。

最初に紹介したいのは、「役人と軍人は鼻つまみ」という文章で、支那民衆が役人や軍人をどういう目で見ていたのかがよくわかる。

「支那社会で鼻つまみは実に軍人と役人だ。
好人不当兵 愛銭的相做官
好い人は軍人にならず、愛銭家は役人になりたがる
という諺でもわかるであろう。
上役人と上部軍人は三年にして、必ず産を成すといわれている。苛斂とか略奪とか、これは支那の一般役人や軍人の為に造られた言葉で、彼らのすることは正にこの言葉通りである。

古来苛政は虎よりも猛しといわれた。むかし、ある支那婦人はその父、次いでその夫、更にその子までが虎に食われても、その土地を去りかねた。理由を問うたらこの土地には苛政がないからと答えたという。それは、古も今も大して変わりはない。支那全土苛政のない所はないのである。これ程支那では役人と軍人は不正を働く。

それに引き換え農民と商人なら先ず信用が出来る。支那内地に永らく住み、彼ら農商人と深く接する日本人なら、それがよく分る筈である。これら農商の善良な支那人と固く手を握り、深交を結んでいったなら、どんなにか日支親善の目的を達し、東洋平和のため益することであろう。農民や商人は正直で約束を守る。彼らに対しては余り疑わなくとも大丈夫である。ただ、古来個人主義が発達しているから、日本流儀で公私混同、情実に流れてはいけない。支那では「商売は商売、義理は義理」といった風で、商売と私交のけじめははっきりしているから、日本人流に「あれ程親しいのに」とか「あいつ恩を知らぬ」とか言うことは、支那では不釣合な考えである。
原口統太郎『支那人に接する心得』実業之日本社 昭和17年刊 p.40~42」

この国で役人や軍人が民衆から苛斂とか略奪を行って蓄財しているのは今も同様のようだ。
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次は「支那人の面子」についてである。

「面子は実利的支那人に、少なくとも自制と反省とを与えるのに役立つものであることは、見逃し得ない事実である。個人主義、利己主義の彼らが、意外に上品な行動を取ることのあるのは、この民族の上下を通じて、深くその心の奥を支配する面子根性そのものの効果であって、この習俗は、時に彼らを精神的に救済し得る場合があるのである。

支那人は色々な場合に色々な意味に、面子という熟語を盛んに、それこそ頻々と使用する。例えば、こうして貰えば自分の顔がよい(面子大)、体裁がよい、キレイだ(好体面)、私の顔に免じて(做我的面子)、どの面下げて(有甚麼面子)など、あらゆる場合がある。
だからして、拝金宗を軽視せぬと同時に、支那人と交際する場合、彼らの面子心を公私ともに利用することを忘れてはならぬ。彼らは交渉が困難に逢着するとか、事件が難局に向かった時などは、面子を振り廻すが、こんな時に「あなたの顔を立てて」とか「私の顔に免じて」などと、彼らの退路となるべき方法を与え、面子を潰さないで、善い案を持ち出す時は、容易にかつ婉曲に事件を解決し得るものである。

警察沙汰や裁判沙汰の損害を知る彼らは、自衛自利の考えから、同業者や長老の仲裁に甘んじることが多く、その顔を立てるという意味合いから、面子はしばしば法律よりも有効に利用されることがある。
その他外交談判でも、政治問題でも、その内容に如何にかかわらず、彼ら当局者の面子を尊重し、世論に対する態度と実益とに対する名目とに退路をあけて置くときは、問題を円満な解決に導き得るものである。日本人は支那人をあやつることに於いて、まだまだこの辺の深い研究が足らないように思う。
同上書 p.50~52」

日本語では「面子」という言葉は「名誉」「世間体」という意味で使われるが、中国人には自分のすごさを人に見せたいために身の程を超えた無理をするところがあり、謙虚を美徳とする日本人の「面子」とは随分異なる。中国に於いては面子を非常に大切にするので、中国人を相手にする場合は面子を潰さないことが非常に重要になる。
Jun 1 4 tweets 2 min read
すべての寺院を破壊した鹿児島藩の廃仏毀釈~~鹿児島藩2
幕末期に薩摩藩が寺の梵鐘などを溶かして、大砲だけでなく大量の贋金を造ったことを書いた記録を前回紹介したが、彼らが破壊したのは寺の梵鐘だけではなかった。

『鹿児島県史 第三巻』には、
「鹿児島藩は廃仏を断行し、数年間、藩内に一の寺院仏閣なく、一人の僧尼を見ざるに立ち至ったのである。」(p.643)とある。

鹿児島藩(現在の鹿児島県、宮崎県)には、鹿児島城下に百十八、薩摩国各郡に三百九十、大隅国各郡に三百十八、日向国諸県郡に二百四十、合計で千六十六の寺があったのだが、これらすべての寺が破壊され、二千九百六十四人いたすべての僧侶や尼僧が還俗したというのだ。
中には島津藩累代藩主の菩提寺もあり、古い歴史を持つ寺が少なくなかったのだが、すべてが破壊された経緯について、どのような記録が残されているのだろうか。

『神仏分離史料 第四巻』に小畠文鼎「薩摩の廃仏とその復興」という論文が収められている。著者は相国寺長得院に従持しつつ、禅門高等学院本科(現在の花園大学)で教鞭を執っていた方だそうだが、論文にはこう記されている。

「(斉彬公逝去の六年後)文久三年七月、英国艦隊は鹿児島湾に来たり。薩兵と戦い終に錨を遺して敗走した。こうした国家の状態は、一藩為政者の心理を痛切に刺激せずにはおかなかった。この時に当たって彼らが第一焦眉の急とする所は海防策である。彼らの悩みはそこにあった。それだけ深刻な心臓の痛手であった。幾百年一藩の精神の上にも文明の上にも偉大な感化を与え絶大な権威を保ってきた宗教と雖も、当時彼らの眼底には一片の浮雲にも価しなかった。

時に水戸の藩主景山公(徳川斉昭)は、藩中寺院の梵鐘を徴発して巨砲を鋳造し、僧侶を帰俗させてこれに武術を講習させた。諸藩これを果断の処置として讃美し、往々これに倣った。薩藩もまた大々的にこれに共鳴し、遂に藩中尊皇攘夷の志士や皇典専攻の学者など、宗教的非常識な徒輩は盛んに廃寺説を唱道した。
(『神仏分離資料 第四巻』[復刻]名著出版 昭和四十五年刊p.1050~1051)」

文久三年(1863年)の薩英戦争で薩摩藩は旧式の大砲ながら善戦し、英国軍の人的被害は薩摩藩より大きかった。そのため、英国軍は上陸もせずに錦江湾を去っていったのだが、この戦いで薩摩藩の砲台はほとんどが破壊され、市街地も焼かれて甚大な物的損害を受けている。

安政二年(1855年)三月に老中阿部正弘が諸藩主に対し「毀鐘鋳砲(きしょうちゅうほう:梵鐘を鋳潰して大砲を造る)の勅諚を出したものの有力者による反対意見が相次ぎ、安政江戸地震などがあって細則が定められないまま宙に浮いてしまったのだが、第十一代藩主の島津斉彬は、水戸藩が行った毀鐘鋳砲を薩摩藩に於いても推進するつもりで、幕府による細則決定を待たずに、寺の梵鐘を藩庁に集めることを命じていた。

ところが斉彬は安政五年(1858年)に逝去してしまい、毀鐘鋳砲は実行されないまま多くの梵鐘が藩庁に集められていた。そして薩英戦争のあと、慶応元年(1865年)の春に薩摩藩の若手が、水戸藩に倣って薩摩藩も寺院の廃合を実行し、梵鐘や仏具は武器に変え、僧侶は兵士や教員に任用することなどを藩主の忠義と国父の久光に建言している。先程の『神仏分離史料』小畠文鼎の論文には、久光が若手の提案をどう受け止め、どのような指示を出したかが記されている。

「慶応初年に及び、藩の御記録奉行を初め同志者数名に依って、廃寺案は具体的に第二十九代の藩主忠義公に提出せられ、同時に藩政顧問たる公の父久光公の意見を伺った。公は熟慮の末、左の如き沙汰を下した。

『廃寺の後、僧侶の帰着する所あれば不可なかるべし。もし僧侶が路頭に迷うが如きことあらば仁政の趣旨ではない。殊に勅願所もあり、また由緒深き寺院もある。これらの寺院及び僧侶の如何に処置するか、このへんの方策を精密に考究の上さらに伺い出でよ』

ここに於いて廃寺に関する主査若干名を藩庁内に選任し、漸次調査の歩を進めた。ところが明治元年正月三日、官軍と幕兵は端なく、伏見鳥羽等で衝突した。この挙について薩藩は勤王の標榜者として一藩の全力を注ぎ大いに活動した。ゆえに廃寺問題は一時とん挫したのであった。
(『神仏分離史料 第四巻』p.1051)」
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では鹿児島藩が本格的に寺院を破壊したのはいつの頃なのであろうか。前回の「歴史ノート」で書いたように、幕末に大量の梵鐘を鋳潰して大砲や贋金を造る動きがあったが、寺の堂宇や仏像などの破壊がなされたのは明治初期であったようだ。先ほどの論文に鳥羽伏見の戦いの後のことが記されている。

「伏見鳥羽における官軍の一撃により、王政復古、明治維新の大業は確実に成立した。薩藩の奮闘は与(あずか)って力があった、そしてその奏功に凱歌を高唱した。
ここに於いて廃仏論は、忽ち猛烈なる威力を以て再び毒燄を揚げた。彼ら為政者の主張は、
『僧侶は遊民なり、宜しく還俗して本貫に復せしむべし。梵鐘仏具等は改鋳して大砲を造り、以て海防の実用に供すべし。』
というのであった。
(同上書p.1052)」

そして明治二年となり三月に藩主忠義公の夫人が逝去し、藩は三月二十五日に、夫人の葬儀について、仏式ではなく神式で行うことを藩全体に宣布した。

ついで六月には、藩は(旧暦)七月十三日から十六日にかけて行われる仏教行事の盂蘭盆会を行うことを禁止し、二月と十一月に祖先祭を神社にて執り行うことを命じている。

さらに十一月になると重要な命令が出されている。原文のまま引用させていただく。

「御領内寺院被廃候條、御仏餉米(ぶっしょうまい:寺に献じられた米)、祠堂銀(しどうきん:寺に寄進された金銭)迄も引取被仰付、諸仏の儀、悉く被廃候旨被仰達候條、此旨神社奉行へ申渡、向々へ可申渡候
(同上書p.1053)」

要するに、寺も仏像も廃止することとなり、翌月には藩主の代々の御廟のある寺は神社とされ、廟の名前も変えられている。

「一、龍尾神社  浄光明寺 御高祖御霊社
一、竹田神社  日新寺  梅岳公御霊位
一、松尾神社  南林寺  大中公御霊社
一、太平神社  妙谷寺  龍伯公御霊社
一、徳重神社  妙圓寺  松齢公御霊社
一、長谷神社  福昌寺  慈眼公御霊社

右者此節御社被召立、社号右之通可奉称旨被仰達云々、
巳十二月            知政所(藩庁のこと)
(同上書p.1053~1054)」
May 30 4 tweets 2 min read
鹿児島県・宮崎県の寺に、国宝・重要文化財がほとんどないのはなぜか~~鹿児島藩1
薩摩藩(現在の鹿児島県・宮崎県)について「薩藩名勝志」という本が文化三年(1806年)に出版されている。この書物は薩摩藩の名勝や神社仏閣の由来などを多数の絵図とともに和歌等を織り込みながら解説した、十九巻の本である。この本は鹿児島県立図書館が「鹿児島県史料集 第42集~第44集」としてPDF化してネット公開されており、誰でも読むことが可能になっている。

また、天保十四年(1843年)に薩摩藩が編纂した、薩摩国・大隅国・日向国の地誌や名所を記した「三国名勝図会」という60巻20冊の和装本もある。画像は「三国名勝図会」に描かれた福昌寺である。

詳しい神社仏閣等の案内書が二点もあるのなら、今も鹿児島県・宮崎県に観光名所となるような有名な寺社がいくつあってもおかしくないと誰でも思うところだが、現在のところ両県には建築物で国宝指定されているものはなく、国の重要文化財についても、神社はいくつか指定されているが、寺院については皆無である。

現在の両県に文化財が少ない理由は、廃仏毀釈の問題を抜きにしては語れない。先ほど紹介した、福昌寺は島津家の菩提寺で、かなり大規模な寺であったのだが、明治初期に破壊されている。破壊されたのは福昌寺だけではなく、鹿児島藩(現在の鹿児島県・宮崎県)のすべての寺が徹底的に破壊されてしまった。

『鹿児島県史 第三巻』には、この当時の鹿児島藩の寺社の破壊について次のように解説されている。

「神仏分離と廃仏毀釈は、明治初年の改革中に於いても特筆大書すべき大事件で、他の諸改革に比して、より深く人々の信仰に触れ、それを根底から覆すものであった。しかしあまりにも大問題であったために、神仏の分離までは全国画一的に実行されたが、廃仏毀釈に至っては、新政府もその実行を躊躇し、多くの地方は分離のみに止まったが、鹿児島藩は廃仏を断行し、数年間、藩内に一の寺院仏閣なく、一人の僧尼を見ざるに立ち至ったのである。
(鹿児島県編『鹿児島県史 第三巻』昭和十六年p.643)」
shibayan1954.com/history/meiji/…Image では、なぜすべての寺が破壊されることになったのであろうか。もともと薩摩藩では仏教と習合した神道を批判し、仏教を排除せよとする平田篤胤の復古神道が非常に盛んであった。前掲書には次のように記されている。

「…(島津)重豪・斉彬ともに蘭学に通詞、西洋文物の輸入に熱心であったから、その影響を受けることまた多く、ために薩藩に於いては平田門でも佐藤信淵の説が歓迎されたのである。

藩主が復古神道派の説を喜び、藩の教育方針が以上の如くであったから、藩の人心が排仏に傾いたことは勿論で、僧侶もそれを苦とせざる程になっていたのである。而していよいよ排仏実施の導火線となったのは実に水戸藩の寺院改正令、梵鐘の鋳潰であって、斉彬は報時鐘を除くほか、あらゆる梵鐘を徴して武器製造に充てんとしたという。しかるに斉彬の逝去によりて、そのことはならなかったが、これらの事より、廃仏は斉彬の遺志より出づとも考えられていたのである。
(同上書 p.647)」

水戸藩の徳川斉昭は天保十三年(1842年)に、鐘は大郷は一村に一つ、小郷は数村に一つだけ残し、その他はお引上げと決定し、同時に二百余寺の取潰しを実行した。そして鐘を鋳つぶして大砲を製造している。その斉昭が嘉永六年(1853年)のペリー来航の後、老中首座・阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わるようになり、強硬な攘夷論を唱えたことで知られている。安政二年(1855年)三月に老中阿部正弘が諸藩主に対し「毀鐘鋳砲(きしょうちゅうほう)の勅諚」を出しているが、この勅諚に徳川斉昭が関与していたことは間違いないだろう。

しかしながら、この勅諚に十五代近江彦根藩主の井伊直弼や輪王寺宮らが強力に反対し、また同年十月に安政江戸地震が起こったことから実行が宙に浮いてしまうこととなる。薩摩藩第十一代藩主の島津斉彬は、徳川斉昭の考えを支持していたのだが、安政五年(1858年)に逝去してしまう。薩摩藩が廃仏毀釈の方針を固めるのは、次の藩主・島津忠義の時代で、薩摩藩の若手による提案がきっかけとなっている。

『神仏分離資料 第四巻』の「鹿児島藩の寺院処分」という記録に、慶応元年(1865)の春の提案に関わったメンバーの一人である市来四郎の回顧談が出ている。

「私ども友達中、壮年輩の所論に、こういう時勢に立ち至って寺院または僧侶という者は不用である。或いは、僧侶もそれぞれ国の為尽くさせなくてはならぬ時勢になった。先年水戸家にても、寺院廃合の処分があった。真に英断である。この時にあたり、当藩でも断じて廃すべきであるということとなりました。この人々で、只今生存の者は黒田清綱、橋口兼三、千田貞暁、それから私なども相談しまして、表面に立って建言者となりました。

家老の桂右衛門という者に対して、時勢切迫の状況より、僧侶の壮年の者が、ただ口弁を以て坐食しては相すまぬことなど説き、その若い者は兵役に使い、老いたる者は教員などに用い、各々その分を尽くさしめ、寺院に与えてある禄高は軍用に充て、仏具は武器に変えることとし、寺院の財産は、藩士の貧窮なる者に分与するがよかろうという主意で、建言しました。桂もかねて同論でもあり、大いに賛成して、直ちに忠義、久光に披露したところが、即日に決断せられ、久光は拙者も積年の考えであった。わが国は皇道であるから、仏法の力を借りるに及ばぬなどと言われたそうです。即日桂久武を始め、みな寺院処分の取調べの命を受けました。誠に愉快なことでありました。
(『神仏分離資料 第四巻』[復刻]名著出版 昭和四十五年刊p.1035~1036)」

市来らのメンバーが取り調べた結果、鹿児島城下各町に百十八、薩摩国各郡に三百九十、大隅国に三百十八、日向国に二百四十の合計千六十六の寺があり、僧侶や尼僧は二千九百六十四人いたという。また、寺院の敷地や田畑、山林などは税金が免除されていて、堂宇の修繕や祭事などで藩は毎年大きな金銀や米の支出を行っていた。メンバーの調査によれば、薩摩藩全体の寺院関係支出と租税免除額は、合わせて十万余石にもなると書かれている。ちなみに幕末の薩摩藩は八十七万石と言われていたから、財政に占める寺院関連支出がかなり大きかったことは確実だ。これ等の寺を潰せばそれだけ藩の収支が改善する上に、寺の仏像仏具を溶かすことで武器製造の原料に用いることが出来るとの考えであったのだ。Image
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May 29 4 tweets 2 min read
残る安住地は極東のみ 『事変とユダヤ人問題』を読む3
昭和十三年の犬塚惟重が読売新聞に寄稿した論考の最終回の見出しは「わが傘下に投ぜよ 残る安住地、極東のみ」となっている。

一九三八年にオーストリアがナチスドイツに併合され、そのためオーストリアに居住していた多くのユダヤ人が国内で迫害されるようになった。当時ユダヤ人たちは移住が可能な国探しに苦労していたのだが、犬塚は、ユダヤ人たちの安住の地は極東にしか残されておらず、わが国が統治している地域に来てはどうかと考えていたのである。

ドイツ=オーストリア共和国でユダヤ人が排斥されていることを重視した米英がユダヤ人救済に動き出し、世界各国に呼びかけている。ところが、当時反ユダヤであったのはドイツだけでなくヨーロッパから世界に広がっており、ユダヤ民族にとっては大危機であったという。なぜここまでユダヤ人が嫌われたかというと、彼らの排他的民族思想と彼らの闘争の方法が、多くの国で問題視されていた点にある。
犬塚は次のように記している。

「アメリカ大統領発意のもとに国務長官が二十九ヶ国に呼びかけ、独墺*政治的避雖移民の救済に今春以来乗出し、エヴィアン会議の結果ロンドンに国際政治委員会を本年八月創設し、三十二ヶ国の在英外交官が委員となり、大々的ユダヤ人救済運動に乗出したことは極めて注目すべきである。
*独墺:ドイツ=オーストリア共和国

これは換言すれば、既に体勢挽回し難き国際連盟を見捨て、新たに結成された反全体主義国際連盟ともいうべき性質を持っている。わが国の新聞も通信もこれに対し何等の関心を持たなかったとはその重要性に鑑み甚だ奇異の感に打たれる。これもユダヤ人問題に未だ認識不足の一例である。

かかる国際的組織を作り出した原因は米国ユダヤ人団体が独墺合邦、即ち中欧のユダヤ人拠点オーストリアの消滅に驚愕し、爾来総動員されて自由主義擁護ファッシズム、ユダヤ同胞救済に狂奔し、米国大ユダヤ系雑誌新聞が世界のユダヤに呼びかけ怒号しているところに明かなる如く、今や反ユダヤ人運動が独り欧洲のみならず全世界に展開され、真にユダヤ民族の大危機が到来しつつあることを物語るものである。

それは世界大戦以来最初の全米ユダヤ民族投票が米国ユダヤ委員会に依って決行された事実が雄弁にこれを示している。かかる悲況に追い込まれた原因は米国の一有力反ユダヤ人首領が「ユダヤ人の遣り口が自ら破滅を招く」といえる如く、ユダヤ民族の二千年来堅持し鍛練されて来た排他民族思想即ち “ユダヤ人は神の選民、他族は畜生” という宗教的観念並びに酷烈な民族闘争の結果である。

国家なき軍備なき彼等がこの闘争に当って利用したところの思想戦、経済戦、政略戦はユダヤ民族特異のマキァベリズムが強く正道をはずれているので永久的持続性が少なく必然的に思わざる破綻を招来するからである。

たとえば中欧ユダヤ人の永久的根拠地であり楽園であったオーストリアがユダヤ人の予期に反し疾風迅雷的アンシュルス*に依りその策源を完全に覆滅された如きこの適例である。またユダヤ人の識者間には「足元の明るいうちに欧洲を去れ」と主張した書物を数年前出しているものもある位である。
*アンシュルス:1938年3月12日にナチス・ドイツがオーストリアを併合したこと
『神戸大学新聞記事文庫』人種問題3-32」

エヴィアン会議というのはナチス・ドイツの迫害から逃れるユダヤ人難民問題に対応するため、一九三八年七月にフランスのエヴィアンで開催された国際会議だが、大半の国が難民受け入れに消極的であり、ユダヤ人の惨状を救うことは出来なかった。
 国を持たず、それゆえに軍隊も持たなかったユダヤ人は、将来世界を支配するために非ユダヤ国家同士を戦わせて疲弊させ、様々な思想戦、経済戦、政略戦を仕掛けてさらなる弱体化を図ることばかりを繰り返して来たのだが、このようなやり方は世界を不幸にさせるだけであり、ユダヤ人が世界から嫌われる原因となったことは言うまでもない。
shibayan1954.com/degital-librar…Image ナチスドイツの迫害を受けて移住先を探しているユダヤ人たちを、成立したばかりの満州国に移住させようとする動きがあったようだがその案は進展せず、結局支那に移住させることが決定した。
しかしながら日支離間策動を行ったことが支那事変を招く結果となり、ユダヤ人を移住させる為に支那に巨額の投資をしたのだが支那人によって破壊されてしまったという。

「欧洲においては今や安住の地を求めることが出来ない状態にあることは、極東ユダヤ指導者の間にも夙に問題とされ、満洲帝国出現以来安住の地を極東に求めんとし、満洲に入り込まんとする運動さえ公然行われ、わが外交官に直接交渉を受けたものもあった。

しかしこの満洲投資及び欧洲ユダヤ人五十万移民案も思う如く進展しないのに焦慮した結果、彼等は五十年計画で既に一応回収を終っていた支那に再投資を決意し、その基礎工作たる幣制改革を断行するに至ったのである。

彼等はここにもまた誤判断即ち極東における日本勢力を過少に認識しこれを除外し、支那を経済的に或いは政治的に独占せんとし、日支離間的策動をやった結果が今日の日支事変を招来し、彼等支那再投資の対照が破壊され停止されるの悲運を招いたのである。しかも彼等が助けた支那人に依って大部分は破壊さるるの皮肉なる結果を見たのである。

西洋人が日本を認識するの困難なことは勿論であるが、ユダヤ人に至ってはその個人主義、求利第一的観念強きが故に一層困難である。殊に日本人の犠性的愛国心等は殆ど国を持たざる彼等には諒解出来ないと見え、ひたすら物的資料に依って日本の実力を判定せんとする傾向が大である。

この認識不足の一例は今春帝国議会が四十八億円の軍費を一人の反対者もなく即決したのに仰天したのでも分る。また今年初めサッスーンなどは日本財政は四月までしか戦争をやれぬ等の誤判断を日本人に臆面もなく話しているのでも分る。サッスーン系財閥は、最近米国の与論外交界に策動し対日牽制策に出ていると新聞にも伝えられているが、彼の米国の九ヶ国条約を楯に取る反日抗議もこれに一因あると観察している向もある。これに反し他方自ら商業的活動に当っているユダヤ財閥、例えば海運業者の中にはその事業の性質上著しく現地新政権等に近寄らんとする傾向を認められていることは事実である。
『神戸大学新聞記事文庫』人種問題3-32」

文中に「日支離間策動」と書かれているのは、具体的には「排日」であり「排日貨」運動である。この運動は支那人が自発的に始めたのではなく、英米が仕掛けた形になっているが、その背後にユダヤ系財閥がいたと書いている。

ユダヤ人による策動については他の新聞も報じており、例えば昭和七年三月十八日の「大阪時事新報」はいくつかの具体例を挙げたのち、次のように締めくくっている。

「動乱の影には必ず彼等(ユダヤ人)の策動があり、又必ず自己の勢力伸張に成功している。満蒙上海事件を因とせる今度の排日貨運動或は日支問題の粉糾による米国其他が対日経済封鎖を唱道して人心を激化せしめつつある今日、此機に乗じての今度の経済封鎖の策動が万一にも彼等の陰謀とするならば、ことは簡単どころかかなりな重大性が潜むものと警戒しなければなるまい。
『神戸大学新聞記事文庫』中国12-108」Image
May 28 5 tweets 2 min read
狙われた日本 『事変とユダヤ人問題』を読む2
海軍のユダヤ人問題研究者・犬塚惟重が昭和十三年に寄稿した論考『事変とユダヤ人問題』の連載二回目の新聞の見出しには「毒牙愈よ日本へ  在支権益滅失防止に」と書かれている。

これまでユダヤの影響をあまり受けてこなかったわが国も、支那事変に巻き込まれていよいよユダヤに狙われるのではないかという危機感を少なからずの日本人が共有していたと思われる。

文中のサッスーン一族は、アヘン戦争後の南京条約で支那市場が開放された後に上海に進出し、インド産のアヘンを清国で売ることで巨万の利益を上げてきたが、インドで国民会議党の指導権がガンジー一派の消極的反英から積極的反英のネール派等に移ったのを機に香港および上海に本店を置いて支那開発に乗り出した。一九三七年頃にサッスーン一族が上海国際租界に有する資産のみでも十二億ドルと推算され、蒋介石の戦費はこの一族から出ていたとも言われている。

「元来上海は清英戦争の立役者ゴルドンユダヤ将軍が占拠し、インドから東インド会社腕利きのユダヤ人を引張って来て経営に当らせた土地である故に、今日上海の目貫きの土地家屋利権が彼等のものである事は蓋し当然である。

その中心をなすものが即ち幣制改革以来やっと日本の新聞雑誌にも名が出る様になって来たサッスーン一族である。この財閥のもとに英、米、仏、独、白に国籍をもちその国を利用背景とする国際ユダヤ財閥が協力して支那の西南開発或いは南部支那横断鉄道――これは十二年計画で上海、南昌、香港、雲南省を通じてビルマに出るものであるが――に互に協力分担し投資しているものである。

要するに上海はサッスーン一族が君臨する極東ユダヤ王国なる故に、英米等も外交官にはユダヤ人又はユダヤ人に評判のよい者を当てるのが万事に有利である。また同様の理由により、各国のユダヤ勢力がこの王国の崩壊を救援せんとし、九国条約等の古証文を楯に、国家なく、武力なき彼ら民族の唯一の武器である筆剣舌弾や黄金の麻酔ガスを以て国際的宣伝謀略戦をするのである。

なお一時喧ましかったドイツ軍事顧問団の引揚げ問題はまた事変とユダヤ人問題の一トピックである。即ちファウルケンハウゼン将軍夫人はユダヤ人で将軍自身も反ナチ思想の持主であり且つ軍事顧問の中には数名のユダヤ人がいた。彼等は単なる軍事顧問ではなく国際ユダヤ財閥支那投資の橋渡しや武器売込みをやるブローカー的存在で、本国のナチ政府とは全く相容れないものであり、従ってヒトラー総統の召還命令にもなかなか応じなかったのは当然である。
『神戸大学新聞記事文庫』人種問題3-32」

蒋介石が中国共産党との対決姿勢を鮮明にしたために、一九二六年にソ連の軍事顧問団は国民党を去り、中国共産党軍の指導を始めることとなり、一九二八年以降十年弱の間、蒋介石の国民党軍がドイツ軍事顧問による指導を受けていた。そして一九三五年に五代目の軍事顧問団長に就任したファルケンハウゼンは、蒋介石に対日戦を進言し、彼が団長であった期間に盧溝橋事件、第二次上海事件、南京陥落、黄河決壊事件が起きている。

少し補足しておくと、後に同盟国となるドイツはナチスが政権掌握後も、中国との貿易関係を重視していたのだが、日本重視に変わったのは一九三八年二月にリッベントロップが外相に就任して以降のことである。ヒトラーが軍事顧問団の帰還を命じたのはその直後のことだが、ファルケンハウゼンは命令に従わなかった。
彼らが帰国したのは黄河決壊事件のあとのことで、軍事顧問四十名の内六名が帰国を拒否し、うち三名はユダヤ人であったという。その後一九四〇年に日独伊三国同盟が締結され、一方ファルケンハウゼンは一九四四年にヒットラーの暗殺に関与したが失敗に終わり、ゲシュタポに逮捕されて、強制収容所に送られている。
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米の排日宣伝
犬塚によると頻りに排日宣伝を行っているのはユダヤ系であったという。
彼らは新聞、ラジオ、映画などで盛んに排日を煽っていたのだが、アメリカではユダヤ人は新聞、雑誌、ラジオ放送に強く、また映画界はユダヤ人の独占状態にあった。この状況は今も基本的に変わっていないと言って良い。

「更に今最もその対日態度を注目されている米国において英国または支那の宣伝に呼応し頻りに排日宣伝を行っているのはユダヤ系であることは最近帰朝の田観光局長の話にもあった。事実米国のインテリその他大衆は直接煽動に便なる地位に置かれているユダヤ系労働団体を除けば、新聞、ラジオ、映画等の排日宣伝に拘わらず未だ大して悪感情を持っていないのが現状である。

しかしこれも長い間にはこの宣伝の効果が現れ、英国または支那の宣伝に踊らされる危険を多大に蔵している。それはこの前の上海事件の例、また遠くは米西戦争の先例が雄弁にこれを実証している。米国における新聞、ラジオ、映画の宣伝の援支排日には近衛子もいたたまらなかった程であるが、その背後にユダヤ人の民族的感情や政策が多分に働いていることは上海の項で説いた如くである。
『神戸大学新聞記事文庫』人種問題3-32」

犬塚がこの論考を書いた昭和十三年の頃はアメリカに於いて新聞ラジオが反日宣伝を行っても、一般大衆は日本に対してそれほど悪感情を懐いてはいなかったのだが、反日宣伝が繰り返し長く続けられたことにより次第に「反日」が広く浸透していって、いずれ大衆は日本製品を買わなくなっていく。そうすることによって、日本が開拓した商圏が奪われていくと同時に、日本の経済力が急速に弱められていったのである。

戦後の自虐史観に多くの日本人が洗脳されてしまって、戦前に世界の多くの国が反日を唱えるようになったのは日本が悪いことをしたためだと理解している人が少なくない現状にあるのだが、真実は反日宣伝をする側に不純な動機があり、その背後にはユダヤ財閥が絡むことが少なくなかったことを知るべきである。当時の新聞を調べれば、ユダヤ勢力が暗躍していた記事は少なからず存在する。Image
May 27 4 tweets 2 min read
神仏分離令を出した神祇事務局の役人が主導した日吉大社の廃仏毀釈
鳥羽伏見の戦いののち三件の外国人殺傷事件が相次いで起こり、最後のパークス襲撃事件が解決したすぐあとの慶応四年三月十四日(1868/4/6)に五箇条の御誓文が発布されたのだが、実はその前日である三月十三日に王政復古・祭政一致が宣言され、神祇官再興が布告されている。
そして、三月十七日には神祇事務局から全国の神社に宛ててこのような命令が出ている。

「今般王政復古、旧弊御一洗被為在候ニ付、諸国大小ノ神社ニ於テ、僧形ニテ別当(べっとう:社寺を統括する僧職)或ハ社僧抔(など)ト相唱ヘ候輩(やから)ハ、復飾被仰出候、若シ復飾ノ儀無余儀差支有之分ハ、可申出候、仍此段可相心得候事 、但別当社僧ノ輩復飾ノ上ハ、是迄ノ僧位僧官返上勿論ニ候、官位ノ儀ハ追テ御沙汰可被為在候間、当今ノ処、衣服ハ淨衣ニテ勤仕可致候事、右ノ通相心得、致復飾候面面ハ 、当局ヘ届出可申者也
(神祇事務局ヨリ諸社ヘ達 慶応四年三月十七日)」

それまでは、大半の神社において神仏習合が行われ、神と仏は同列に祀られ、神殿と仏堂とは同居し、神殿に仏像などが存置され、僧侶が神に奉仕して、神前で読経があたりまえのように行われていたのであるが、いきなり神社における僧侶の復飾(ふくしょく:俗人となること)が命じられたのである。それだけではない、三月二十八日には「神仏判然令」と呼ばれる神祇事務局達が出されている。

「一、中古以来、某権現(ごんげん)或ハ牛頭(ごず)天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事、但勅祭之神社 御宸翰勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事、

一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地抔と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事、右之通被 仰出候事
(神祇官事務局達 慶応四年三月二十八日)」

「権現」というのは仏が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号で、「牛頭天王」というのは、祇園精舎の守護神とも薬師如来の化身とも呼ばれ、祇園社(現在の八坂神社)の祭神だが、このように仏教の用語で名付けられた神号を祀る神社は、それぞれの神社の由緒の詳細を調べて書面にて提出すること。また、仏像を御神体としている神社や、御祭神が仏の姿で現れたとして仏像を社前に掛けたり、鰐口、梵鐘などの仏具を用いている神社は、それらを取り除けと命じたのである。
shibayan1954.com/history/meiji/… 新政府が登用した神祇官のメンバーは、排仏家の国学者、儒者の集まりであった

このように矢継ぎ早に発せられた神仏混交禁止、別当・社僧の還俗の通達は、神社における神官と僧侶との抗争を各地で激化させることとなったのだが、神仏分離については新政府の基本方針である五箇条の御誓文には書かれておらず、新政府が三月十五日に民衆に対して最初に出した五榜の掲示にも記されていない。しかも、旧幕府勢力との内戦はまだまだ続いていたのだが、こんな時期に神仏分離を発令した神祇官とはどのような組織であったのだろうか。

羽根田文明著『仏教遭難史論』にはこう記されている。
「幕府時代には、白川家が神祇伯、吉田家が神祇大副、藤波家が伊勢祭主の職を、各三家が世襲して、神祇に関する事務を取り扱っていた。しかるに王政維新の際、すべて世襲の官職を廃し、職員は人材登用となり、先ず最初に古制に則り神祇官の設置となった。この神祇官は古例のごとく、太政官各位の上位にある独立の官衙である。慶応四年すなわち明治元年二月、神祇官最初の総督は白川三位、大輔が亀井茲監(かめい これみ:前に排仏主義を実行せる、津和野藩主)その他、正権判事も、みな排仏家の国学者、儒者であったから、神祇官は、あたかも排仏者の集合団体の如くであった。

さて、日吉山王権現の社司、樹下(じゅげ)、生源寺二家は、伝教大師以来親近の者であったゆえに、一山より扶持を給して家来の様にしてあったから、権現について何等の勢力もなく、法親王、座主宮に面謁することさえ憚る卑官であった。その樹下石見守茂国という人、年来、社僧の下風に立ち、下役に使われるのを憤慨していたが、なにぶん当時比叡山延暦寺は寺領五千石の領主にて、三執行代という政務所あって領内人民を支配し、地頭の権威を以て山王の全権を握っているから、如何ともすること能わず涙を呑み、窃に時機の至るのを待っていた。
(羽根田文明著『仏教遭難史論』国光社出版部 大正14年刊p.114~115)」

排仏家の国学者、儒者の集まりである神祇事務局が神仏分離令を発したのだが、そのメンバーの中に日吉山王権現の社司であった樹下茂国がいた。彼は、延暦寺が日吉山王権現の全権を握り神官が軽んじられていることに憤慨していたのである。Image
May 26 5 tweets 2 min read
『平家物語』の巻一に、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話があるが、京都の鴨川には過去何度も洪水を繰り返し、橋を流してきた歴史がある。

賀茂川に架けられた四条大橋は江戸時代だけで八度も流されてそのたびごとに架け直されてきたそうだが、昔は少しの費用ですぐに架けられるように小さな橋であったという。

しかしながらこの橋は、祇園祭や神社の参詣に欠かせない重要な橋であることから、幕末の安政三年(1856年)に石の橋脚に木造の橋を架け渡し、大きな橋が建造されたのだそうだが、その橋も明治六年(1873年)の洪水で再び流されてしまった。

明治六年といえば、「文明開化で」国を挙げて洋風化に取り組んでいた時期である。

四条大橋は京都で最初の鉄橋に架け替えられることとなり翌年に完成したのだが、この新しい橋の建造の為に大量に集められたものがある。

『神仏分離資料第一巻』に「京都四条鉄橋と廃仏」という記事があり、そこにはこのように記されている。

「京都四条の鉄橋の材料は、仏具類が破壊せられて用いられたとのことである。かの鉄橋は、明治六年に起工し、翌年三月に竣工し、同十六日に開通式が行われた。総費額一万六千八百三十円で、祇園の遊郭で負担したとのことであるが、時の知事長谷信篤は、府下の諸寺院に命じ、仏具類の銅製の物を寄付せしめた。古い由緒ある名器の熔炉に投ぜられたるものが少なくなかったと云うことである。当時廃仏毀釈の余勢が、尚お盛んであったことが判る。
洛陽四条鉄橋御増架に付献上書云々とある文書が伝わってある。その一に、紀伊郡第三区深草村寶塔寺、一、古銅器大鰐口、丈八寸、縁二尺、目方十六貫八百目、銘に深草寶塔寺為覚庵妙長聖霊菩提、慶長十七年七月二十日、施主中村長次とあったことなど見える。此類の物が今の鉄橋になったのである。(明治四十五年四月八日発行仏教史学第二編第一号所載)」(昭和四十五年刊『神仏分離資料第一巻』復刻版 p.384-385)

深草の宝塔寺は昔は極楽寺と称し、源氏物語にも出てくる由緒ある寺であり、安永九年(1780年)に刊行された『都名所図会』にはこの寺の境内が描かれている。鰐口(わにぐち)とは仏堂の正面軒先に吊り下げられている音を鳴らす仏具であるが、ここで書かれているサイズは通常のサイズの倍以上の大きなものであり、もともとは本堂に吊り下げられていたものであろうか。鰐口に刻まれていた慶長十七年とは西暦1612年にあたり、江戸幕府が直轄地に対して禁教令を布告し、キリスト教教会の破壊と布教の禁止を命じた年である。

『神仏分離資料第一巻』には、溶炉に投げ込まれた事例は宝塔寺の鰐口のことしか書かれておらず、他にどれだけの鐘や仏具類が熔炉に投げ込まれたかはわからない。しかしながら、この時に架けられた橋の長さは、今の橋でも72mあるので、それに近い長さはあったであろう。溶かされた仏具類は半端な量でなかったことは確実なのである。

国際日本文化研究センターのホームページに、明治初期に出版された『京都名所撮影』がアップされており、その中に明治7年(1874年)に完成した四条大橋の写真が出ている。この橋は京都市電敷設のために大正2年(1913年)に新しい橋に架け替えられたのだが、昭和9年(1934年)の室戸台風で鴨川が氾濫したため大規模な河川改修が行われて、昭和17年(1942年)に現在の橋が造られた経緯にある。
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大量の鐘や仏具類が 四条大橋の新設工事に集められた経緯
明治7年の工事に話を戻そう。
大量の仏具類が集められた背景を考えるには、明治に改元する前の慶応四年(1868)三月に新政府が相次いで出した命令文書がある。意訳して簡単に紹介すると、

①祭政一致の制度を回復し、神祇官を復活し、全国の神社・神職を神祇官に付属させる(三月十三日太政官布告)
②神社で別当・社僧と称し、神職を兼務している僧侶は復飾のこと(三月十七日神祇事務局達)
③権現、牛頭天王など仏教的名称を神号とする神社は由緒を申し出よ。また仏像を神体とすることを禁じ、神社から仏像、鰐口、梵鐘、仏具などを取り除くこと(三月二十八日神祇事務局達)

③がいわゆる「神仏分離令」と呼ばれているものだが、明治維新までは一部の例外を除き神社は仏教僧侶の支配下にあり、神と仏は同列に祀られて神殿と仏堂が同居し神殿に仏像などが置かれ、僧侶が神前で読経を行うのが普通であった。(「神仏習合」)

北野天満宮、石清水八幡宮、祇園の八坂神社、上賀茂神社、下鴨神社など、京都の有名な神社はいずれも昔は神仏習合で、境内に多くの仏教施設があり仏像などを数多く保有していたのだが、「神仏分離令」が出たことで境内の仏教色が一掃され、仏像・仏具類を神社の境内から撤去することとなった。また、照高院のように廃寺となった寺や、安井金毘羅宮のように寺院が神社になったようなケースもあり、仏教施設や仏像・仏具などの一部は他の寺院が引き取ったものの、処分しきれなかった金属製の仏具等が、四条大橋の建築資材として持ち込まれたことが考えられる。

しかしながら、集められた金属類はそれだけではなさそうだ。
『神仏分離資料第一巻』に出てきた深草の宝塔寺については今も現存する寺であり、明治期に何かが破壊されたという記録もなく、慶長十三年(1608年)に建立された本堂と室町時代に建立された総門と多宝塔はいずれも国の重要文化財に指定されており、『都名所図会』の時代の景観が概ね維持されているようなのである。

宝塔寺の事例について記録が残っているならば読んでみたいところだが、おそらくこれは「神仏分離令」とは関係がなく、京都府より金属製の仏具等の寄付を迫られて供出したものだと思われる。このような事例は他にも相当あったのではないだろうか。Image
May 25 5 tweets 2 min read
GHQは外国人の著作も数多く焚書処分したのだが、今回は『ヨーロッパの悲劇―英国の戦争方法―』という本を紹介させていただく。
著者のドクター・フランツ・グローセという人物についてはネットで調べても良く分からないのだが、この本の訳者の序文に、この本にどのようなことが書かれているかについて次のように記されている。

「本書はドクター・フランツ・グローセ著『イギリス人は最後のフランス人に至るまで戦う』(Engländer kämpfen bis zum letzten Franzosen)の全訳である。
本書に示すところは、主として英仏関係、殊にイギリスの笛に踊らされたフランスその他の国々の悲惨な道化姿である。しかし読者はこれによって、かつての日本の同盟国イギリス、『紳士国』イギリスの真の姿を見ることが出来るであろう。
思うに日英同盟が、前大戦後いずれかの意志によって破棄されたのは、今にしてみれば幸いであった。ナポレオン一世の言葉ではないが、『イギリスと同盟せる国々は、同盟諸国相互の争闘という最も危険な地位を得た以外、何一つ頂戴しなかった』のである。馬鹿を見るのは、いつもイギリスの敵国よりも、むしろ同盟国だという事実を、実際の資料を以て、本小冊子ほど簡明に示した書物は稀である。この意味から、本書をわが国に紹介する所以も、おのづから了解されるであろう。
フランツ・グローセ 著『ヨーロッパの悲劇 ―英国の戦争方法』日独出版協会 昭和15年刊 p.1」

第二次世界大戦までは、世界の警察の役割を果たしてきたのはイギリスであったわけだが、イギリスと同盟を結んだ国々にとって「馬鹿を見るのは、いつもイギリスの敵国よりも、むしろ同盟国だという事実」であったという点は極めて重要である。イギリスは、世界各地の植民地を搾取しただけではなく、同盟国にも多くの犠牲を強いてきたというのだ。ナポレオン一世の言葉も興味深いのだが、具体的にはどのような出来事があったのだろうか。
shibayan1954.com/degital-librar…Image 最初に本書の冒頭部分を紹介しよう。当時のイギリスの軍事・外交政策は、今の某大国と似てはいないだろうか。

「『平和を好む』イギリス

イギリスの海軍は大海を支配しなければならぬ。そして如何なる敵の艦隊も、あるいは連合艦隊も、イギリスの海軍を凌駕する如きことがあってはならぬ。如何なる大陸国家もヨーロッパで、即ちイギリスが独力を以て征服するには余り大き過ぎるヨーロッパで、軍事的優越を示すが如きことがあってはならぬ……』バーナード・ショーは、その著『平和会議への警告』の中で、最近数世紀間におけるイギリスの政策の基調につき、右の言葉で、極めて適切に言い述べている。
これはヨーロッパ大陸外のためには広範な範囲の独裁を、しかしヨーロッパ大陸のためには力の均衡をつくり、これを無条件に維持することを意味するものであった。ただこの状態が保たれたばかりに、イギリスは世界の警官としての役割を続け、調停裁判官の役割を固執し、その『賢明な』忠告には地球上の全民族が耳を傾けることとなり、かくてイギリスは、偉大な平和的権力としての威信を保つことが出来たのである。

イギリスは平和と正義との恃みであり、守りである――イギリスの宣伝がこの光栄を、イギリスに与えることを知ったのは、ただに今次の戦争や、過ぐる世界大戦に始まったことではない。この宣伝はもっと古くから行われ、しかも甚だ巧妙であり、歪曲捏造の限りを尽くし、嘘八百を並べて事実を隠蔽していたので、被圧迫民族はイギリスの『正義』に心服したのだというイギリスの口上を、敵方ですら信じ込んでしまった。世界の人々はボーア戦争の恐怖も、数世紀にわたって前例のないアイルランド圧迫の事実も、とっくの昔に忘れてしまった。世界はイギリスが前世紀にも多くの戦争や討伐戦や、その他類似の事件を起こした事実を見逃している。
同上書 本文p.1~2」

イギリスが『平和を好む』というのは事実とは程遠く、この国は十九世紀に何度も戦争を繰り返していたのである。Image
May 24 4 tweets 2 min read
古代に日本に渡来したユダヤ人は日本に同化した
今回紹介したいGHQ焚書は中山忠直(なかやま ただなお)という人物の著した『我が日本学』である。
この書物は内務省が発禁処分を下し、戦後はGHQが焚書処分したために、この人物については戦後はほとんど知られていない。『我が日本学』(GHQ焚書)には次のように記されている。

「ユダヤ民族は有史以前に早く日本に渡来し、全くの日本人として同化し去り、ユダヤ人特有の信仰も人生観も忘れ果てて、同じく『神ながらの徒』として皇室に忠誠をはげみ、愛国の熱情に燃えている。かくユダヤ民族を完全に同化し去った楽園は、地上のドコにあるか。日本歴史の一面は、ユダヤ同化の歴史である。過去に於いて然りし如く、日本の地理力は今後に於いてもユダヤを同化する必然力を具えている。
中山忠直著『我が日本学』嵐山荘 昭和14年刊 p.413」

中山は日本人にユダヤ人の血が混じっていることを否定せず、彼らが一神教のユダヤ教を棄て神道や仏教を受け容れて日本に同化したことを重視している。この中山忠直の考えは日本人のルーツがユダヤ人の一氏族であるとする「日ユ同祖論」とは全く異なるのだ。

また中山自身は皇室の祖先については次のように述べている。

「天孫民族の主流、皇室の御先祖は何であるか、まだ誰にもわからない。シュメール族説、ヒッタイト説、ヘブライ説ともに根拠があるが、この三民族は同志の兄弟民族であり、どちらでも結局同じことである。日本民族は混血民族であり、この三つの兄弟民族やスサ民族がみな日本という風土に於いて完全に結合している。先祖はどちらでもよろしい。

余が先輩の書から日本民族とユダヤ民族の類似を、ことさらに引用したのは、日本でユダヤの研究が盛んになったのを幸いに、さらにユダヤ問題を徹底的に研究してほしいからであり、またユダヤ人に日本人の本質を知らせたいためである。
同上書 p.447~448」
shibayan1954.com/degital-librar…Image 日本にはユダヤ人を変える力がある
さらに中山は、日本人とユダヤ人の違いについて次のように述べている

「余は十数年前から…ユダヤ問題を研究しているが、これを研究すればするほど、上古から日本との関係の深いのに驚かざるを得ぬ。ことに風俗や習慣に至っては、地球上にこれほど類似の民族があるかと驚嘆する。

二民族の根本的差異は人生観である。即ち日本民族には昔から人種的偏見が全くなく、あらゆるものを包含し、打って一丸となし、世界の共存共栄を目的とする神的観念の民族であるに反し、ユダヤ民族は世界を敵とし、これを膝下に征服し奴隷化せずんば止まざるの強健な意志と悪魔的性格を持っている。
さりながら、これはすべて地理力の感化である。日本は悪魔をも神化すべき感化力を持つ。盗癖の朝鮮人が次第に善良化する如く、ユダヤ民族は環境の過酷なるヨーロッパに在っては、悪魔性を発揮せずんば民族の自衛と存続を得なかったが、日本の如き蓬莱国に来たっては、自ら仏性を獲得する。故に日本民族とユダヤ民族との性格の相違は、単に地理的理由に基づき、二民族の差異を論証す根拠とはならぬ。
同上書 p.417~418」

ユダヤ人問題は戦後ではタブーとされ日本人の大半が何も知らされていないのだが、戦前戦中ではユダヤ人がロシア革命を仕掛け、第一次世界大戦を仕掛け、支那事変を仕掛けて第二次世界大戦に日本を巻き込もうとしていたことは多くの言論人が警鐘を鳴らしていたことである。

中山は、いくらヨーロッパ人がユダヤ人を憎んでいるからといってわが国はその尻馬に乗るべきではなく、ナチス的ユダヤ政策は問題の解決にならないと述べている。必要なことはユダヤ人たちに、彼らが世界に対して行っていることが誤りであることを理解させることであり、彼らを改心させるべく啓蒙することは我々日本人の役割ではないかと問うているのだ。

「我等日本国民はユダヤ民族を憎まない。彼らが日本の真情を理解せず、日本を滅亡せしめんと企図する心を憎む。故に日本人の熱望する所はユダヤ民族の虐殺ではなくて、ユダヤ民族の改心である。ユダヤ民族よ、世界の富の三分の二を壟断し、しかも生命と金の保全の国なき、金持ちの国際的浮浪者よ。お前らはその金をもって、何時まで狭い地球をぶらついているのか!日本へ帰順せよ。日本は汝らを混血し融和し去るであろう。

日本は平和的手段によって、ユダヤ民族を消化し、世界反乱の癌を処分せんとする大慈悲民族である。ナチスの如き徹底的排撃政策を実行せずとも、日本にはユダヤを消化し処分する歴史的伝統力がある。
同上書 p.451」

歴史上多くの紛争を世界的に仕掛けて来たユダヤ民族が今も良からぬことを画策しているようだが、敵対する勢力を殲滅しても問題は解決せず、無辜の民を大量に殺戮したとしていずれ世界中から長らく非難を浴びることになるだけだ。いままではマスコミを使って世論誘導は可能であったが、いまはSNSで真実が世界に伝わっていく。ユダヤの支配力は今後衰えていかざるを得ない。

古代日本でユダヤ人を同化させた歴史をもつのであるから、機が熟せば、わが国が彼らを説得し世界を平和に導く役割を期待される時が来るのかもしれない。しかしながら、今のユダヤ人からすれば、古代において日本に同化したという話はおそらく受け容れがたい話であるだろうし、今のわが国の政治家や官僚にそのような説得力がある人物がいるであろうか。
May 23 6 tweets 2 min read
インド産アヘンの最大の輸出先は中国であった
イギリスがインドを世界最大のアヘンの生産地とし、インドではアヘンを幼児の頃から吸引することが推奨されていたのだが、大半のアヘンは外国に輸出され、最大の輸出先はシナ(中国)であったという。
白柳秀湖著『定版明治大正国民史. 維新改革編』につぎのような記述がある。

「今日シナを残害しているアヘンというものは、その大部分がインドで出来るのだ。
最近の調査によるインドの耕地面積は、二億二千六百一万二千二百七エーカーと報告されているが、そのうちで耕作地らしい耕作地は四十万エーカーばかりで、そのうち二十万エーカーがアヘンを造るけし畑になっているのだ。
いま、この広大なるけし畑から算出されるアヘンの高が何ほどで、それがいずれの国々にどれ程ずつ輸出されているかということは、厳重なる秘密となっていて、くわしい数字を挙げてお話しすることは出来ぬ。ただインドにおけるイギリス政庁のアヘン収入が一ヶ年三千万円以上で、そのアヘンの五分の一が内地で消費され、五分の四が外国に輸出されているというざっとしたことだけはわかっている。しかもこの外国に輸出されるアヘンの最も主なるお得意先がシナであることは言うまでもないことだ。
(白柳秀湖 著『定版明治大正国民史. 維新改革編』千倉書房 昭和十五年刊 p.189)」

この書物の初版本が出たのが昭和十一年なので、この文章は1930年頃のインド産アヘンの状況を述べていると考えて良いだろう。飢餓に悩まされていたインドの「耕作地らしい耕作地」の半分が、アヘンの原料となるけし畑とされていたということも驚きだが、アヘン戦争(1840~1842年)から九十年近く経過した時期においても大量のアヘンが中国に売られており、中国はインド産アヘンの最大の輸出先であったのだ。
shibayan1954.com/history/china/…Image アヘン戦争が起こるまでの歴史
イギリスが中国にアヘンを売るようになったのは、1773年にイギリスの東インド会社がインド産アヘンの専売権を握って以降の事だが、当初は薬品として用いられていたアヘンが中国で喫飲されるようになったのは1800年の頃だという。

その頃から中国のアヘンの輸入量が大幅に拡大するのだが、そのために黒字であった同国の貿易収支が大幅に悪化していったという。

「元来シナはアヘン喫飲(きついん)の風習の瀰漫(びまん)するまでは、概して輸出国であった。しかるにひとたびアヘン喫飲の風習がはびこって来ると、その輸入量は年一年加速度で増加し、にわかに輸入国となってしまった。しかもその支払いが、すべてシナ銀で行われたので、銀の価はにわかに騰貴し、したがって銅の価はにわかに下落した。
銅価の下落が、直ちにシナ内地における諸物価、殊に米価に影響してこれを騰貴させる関係は、わが徳川時代における銭価と米価の関係によく似ていた。シナ政府は、今や国民経済の上からも、アヘンに対して断固たる処置に出なければならぬ立場に追い詰められて来た。

今溯(さかのぼ)って清の高宗の乾隆年間(1736~1795年)に於けるアヘンの輸入高を見るに、一ヶ年僅かに二百箱*に過ぎなかったものが、…仁宗の嘉慶(1796~1820年)の初めになると、それが一ヶ年二万七千箱*の多きに上っている。しかもこの夥しきアヘンの数量が、カルカッタにおける相場の二倍でどしどしシナに売り込まれていたのであるから、イギリス商人の儲けがどんなにぼろいものであったかは、推して知ることができる。

*箱:一箱百二十斤入り。一斤は600g。二百箱=14.4トン。二万七千箱=1944トン。
」(白柳秀湖 著『定版明治大正国民史. 維新改革編』千倉書房 昭和十五年刊 p.192)Image