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毎月こんなペースで匪賊を討伐していたら、あと一ヶ月もすれば満州から匪賊がいなくなるように錯覚してしまうところだが、満州における匪賊の害は実際にはその後も続き、翌月に日本軍は満州の兵力増強を決定している。
張作霖は教科書などでは「満州の実力者」などと書かれているが、「馬賊の頭領」であったことをなぜ戦後の日本人に隠すのであろうか。

頭道溝(とうどうこう)事件

漢人が満州の朝鮮人を圧迫した原因

満州漢人化は清朝末期の混乱に乗じて進行していったのだが、清朝が滅亡した後に成立した国民党も共産党も満州漢人化を推進する方針であった。

このような情報収集を行っていたのはシティバンクだけではない。同年の9月22日の大阪時事新報では、ある国がわが国の国防力に関する調査を指令していたことを報じている。
例えば、満州は清朝を作った満州族の故地であり、かつては漢人は殆んど住んでいなかったのだが、清朝末期の混乱期以降に多くの漢人が移り住むようになって居座り、その後日本が満州帝国を支援してインフラを整えると大量の漢人がなだれ込み、いつしか漢人が住民の大多数を占めるようになり、したたかに国を奪い取ったのである。
三重県の神社合祀事例

では、イサーク・ティチングはどのようなルートからこのような幕府の機密情報を得たのだろうか。ティチングの著書『日本風俗図誌』は彼の死後一八二〇年にパリで出版されているのだが、この本は邦訳されており「国立国会図書館デジタルコレクション」で読むことが出来る。この本の第一部第一章に田沼意知暗殺事件の事が詳しく書かれているが、このような幕府側の機密情報の入手ルートについて、この本の出版業者ヌヴー氏が序文で種明かしをしている。
しかしながら、天明三年(1783年)の浅間山噴火などを契機として大凶作となり、天明の大飢饉が起こって米価が高騰し、各地で百姓一揆や打ちこわしが激発する政情不安な時に、意次の実子である若年寄の田沼意知が天明四年(1784年)に江戸城内で暗殺され、それ以降田沼意次の力が衰えていく。
アメリカ西海岸では白人と日本人と黒人が混在して居住し、摩擦と協調の日々を繰り返しながらも同じアパートで暮らしていて、概して黒人と日本人との関係は良好であったようだ。
この提案を行った背景には、アメリカやカナダなどで日系移民が排斥されている問題があり、今後国際連盟で主導権を取るであろう英米などアングロ・サクソン人種の国が、人種的偏見でわが国の発展を阻害する動きを抑えたいとの考えがあったという。
張学良が何の為にこのような行動を取ったかについて、一月五日の神戸新聞には次のように記されている。

仕入れた商品が販売できなければ資金繰りが次第に厳しくなり、排日貨運動が長期になればなるほど仕入れ代金や経費の支払いが困難となっていく。また物資の輸送に当たる船舶の仕事が激減し、大幅な赤字とならざるを得ない。


このように日本品を排斥したのだが、その代わりに同等品を仕入れなければ経済が回らないことは言うまでもない。然しそれがなかなかうまくいかなかったようだ。

昭和六年十一月三日の東京朝日新聞は、ランプソン公使が張学良や蒋介石と提携して動いていたことを報じ、満州事変後に支那がわが国と直接交渉せずいきなり国際連盟に訴えたり、その後の国際連盟の不可解な動きは、この人物が策動していた可能性を示唆している。
柳条湖事件からまだ日も浅い昭和六年十月一日の大阪朝日新聞の記事には、今までになく日貨排斥が徹底されるようになり、日本商人が大きな打撃を受けていることを報じている。


しかしながら、当時に於いてはこのようなやり方では日本商品を排斥出来ず、意図したことの逆の結果を招くことがあったようだ。
抗日運動が爆発するきっかけとなった「北支問題」については、戦後のわが国の 歴史叙述ではほとんど無視されているのではないかと思う。

共産勢力による「反帝国主義運動」の鋒先をかわした英国