しばやん Profile picture
京都のお寺に生まれ育ち、大学卒業後は普通の会社に就職し、2019年1月に勤務先を定年退職。ブログ「歴史逍遥『しばやんの日々』」で日本の歴史や文化、GHQ焚書の紹介等について記事を書いています。 https://t.co/COUaXFOJoz 著書『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』
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昭和10年頃に支那共産党が匪賊を取り込んで北支(現在の河北省、山西省、山東省、河南省)に移動させたことで北支の共産化が進み、一方ソ連も満州の匪賊を取り込んでいて、満洲に居住する日本人が共匪に襲われて犠牲になったことが新聞で報じられていることを前回のポストで書いたが、その後満州はどのようになったのか。満州に関する新聞記事を中心に見ていくことにする。

画像は昭和11年3月6日の満州日日新聞だが「3月4日現在関東局調査による匪賊状況は、活動匪首33名、その匪数1174名、同集団数25名」とあり、随分匪賊が少なくなっているように読める。

しかしながら匪賊というものは、捕まえられそうになれば逃げて姿をくらまし、さらに平民の姿に変身してしまえばまず捕まることはないし、安全が確認できればまた匪賊の姿に戻ることもできる。
そもそも匪賊の統計があるわけでもなし、匪賊のボスの名前くらいはわかっていても、部下がどれだけいたかはかなりアバウトな数字しかわかっていないようだ。この記事に第四軍管区管下国軍の二月の討匪の実績が書かれている。

「戦闘回数55回、討匪数6591人、斃せる匪数270、捕虜120、人質奪還83、歯獲品小銃57、弾丸1399、拳銃14、馬匹41
我軍の損害 戦死下士兵6、戦傷将校7、同下士13
昭和11年3月6日 満州日日新聞」
shibayan1954.com/degital-librar…Image 毎月こんなペースで匪賊を討伐していたら、あと一ヶ月もすれば満州から匪賊がいなくなるように錯覚してしまうところだが、満州における匪賊の害は実際にはその後も続き、翌月に日本軍は満州の兵力増強を決定している。

昭和11年4月29日の神戸又新日報の記事には次のように記されている。

「新京29日発電通— 在満戦力及び兵力の充実問題は板垣参謀長、阪西大佐の東上によって陸軍中央部との間に意見の交換が行われ、政府当局との折衝により予算問題と関連しいよいよ具体化するものと期待されている、即ち

今日の極東の情勢を以てしては在満戦力及び兵力の増加により国防力の充実が絶対的のものとされ、関東軍当局の中央部に披瀝せんとする要望の根拠は左の如くである

一、満洲国の治安情況についてみるに国内匪賊の数はたゆまざる討伐により逐年激減しているが、残存匪は殆んど共匪と称すべきもので、反満抗日の思想に燃え治安の擾乱を目的としている。現在これらの討伐に日本将兵は毎日四名ずつの尊い犠牲者を出している。これが撲滅には人的物的にもあらゆる整備を必要とする。

二、満蘇国境並に満蒙国境内に頻発する越境紛争事件の根本禍因は、蘇連(ソ連)の尨大なる軍備の脅威によるもので極東赤衛軍二十万に対応するため我が兵力を充実するに共に、道路器材その他戦力の整備をなし国防力の均衡策を実行しなければならぬ

三、支那の共産軍は第三インターの使嗾により現に綏遠チチハルに迫り内蒙を脅威し北支を侵犯せんとしている、これら辺境の擾乱は常に満洲国自体の生存権を脅かすもので日満共同防衛の重責を担う関東軍としては黙視し得ざる話である

要するに満洲国内の治安を百年の安きに置き対ソ関係の均衡をはかり辺境内蒙北支の脅威を排撃せんがため、在満戦闘力及び兵力の増加により実力的措置を講ずる以外極東平和の鍵はないという信念に基けるものである
昭和11年4月29日 神戸又新日報」

残存している匪賊は「共匪」、すなわち中国共産党の指導のもとに反政府的に活動していた匪賊であり、彼らのゲリラ行為により日本将兵から平均で毎日4名程度の犠牲者が出ていたというのである。Image
May 7 6 tweets 3 min read
前回のポストで昭和8年(1933年)3月19日から連載された満州日報の武装苦力の話の一部を紹介させていただいたが、支那で匪賊の討伐軍を起こし匪賊の根拠地に向かわせたところ、討伐軍が「匪賊平定」を声明したので確認すると、匪賊の頭目はその日から官軍の将官になっており、部下の頭目たちはそれぞれ将校に任ぜられ、手下の匪賊どもはすべて官軍に編入されていたという話には多くの読者が驚かれたと思う。
彼らは実際には戦わず、勝ったことを演技で伝えて報奨金を受取ろうとするのだ。

ではこんな支那兵たちの戦争の仕方については同記事に次のように記されている。

「彼等は戦争の前に、チャンと勝利計画というものを造って置く。支那の戦争は選挙のようなもので最大多数の兵数を集めたものが勝と決っている。戦争が始まると、先ず型通り相手の軍備の欠点を数え上げ、こっちがこの位優勢だということを示して「今後なお依然として其位置に留るならば、如何なる事変に遭遇するやも知れず」というような通電を発する。これが予備戦である、俺の方が優勢だから降参して了え、という通電であるから滑稽である。この通報戦が、相手に利き目がないと、第二線を張ってやっと二、三千の兵を繰出して見る。その頃はもうちゃんと「敵の戦死何千、捕虜一万五千、負傷何万」という大げさな公表が飛んで、外国電報にまでなる。これが勝利の予定計画である。

これを真向から信じたらとんだ話で、僕が天津に居て、北支駐屯軍の某中尉に聞いた話であるが、上海事変当時、銃砲戦最も激烈なり、と発表した十九路軍の公表が実は農夫二人の死亡、水牛一頭の斃死、雛鶏数羽の掠奪があっただけのそれであったという事である。支那軍は、大妄想の逆宣伝がうまい。僕は北平で、上海事変を主にした排日宣伝の映画を見たが、その映画の中では日本の将校がぞくぞくと後手に縛されて捕虜になっていた。だから、土匪軍に出た軍隊なども、生命からがらになって逃げ出す迄は、陸軍総長に、勝って勝って勝ちまくっているような電報を矢次ぎ早に打つそうである。

軍閥の諸将連がインチキである。だから支那の武装苦力(クーリー)は苦力や家畜のように敵味方の間に売買される。大体彼等武装苦力は自分が誰と戦争をしているかさえ知らないものが多いのである。只傭われたから鉄砲を打っているだけの事で、今日は紅色の襟章、次は緑、次ぎは黒と、次ぎ次ぎに変って行く。しかもその襟章も、ふらふら敵の陣地にまぎれ込まないマークであって、それが附属軍閥の精神を表徴する足しにはならないのである。
「満州日報」1933年3月19日」

「苦力」とは出稼ぎの下層労働者とよく解説されているが、奴隷に近い扱いを受けていて、戦争になると敵味方の間で売買されていたという。要するに彼らは国や国民を守るために戦うという意識はなく、混乱に乗じて掠奪することに熱心であった。
shibayan1954.com/degital-librar…Image 張作霖は教科書などでは「満州の実力者」などと書かれているが、「馬賊の頭領」であったことをなぜ戦後の日本人に隠すのであろうか。

「張作霖、馬占山が馬賊の頭梁だったという事は、これは世間周知の事実である、その故か学良の手下には馬賊、匪賊の変わった軍隊でなかったものがないようである。

満洲事変当時、満蒙には十余万の土賊があったといわれている、その満蒙十余万の土賊の系統は、五人の馬賊大頭目に属しているといわれている

錦州広寧にある巫閻山に、その五大頭目の誓文が掲げられ、その縄張りが決められているという事であるが、それに依ると五大頭目第一位が老北風、第二位が天下芳、三位が天楽、四位が満蒙公、五位が常勝という事になっている 。彼等は先祖代々からの馬賊である、各手兵が一万、少くとも五千円以上の財産を持っているだろうといわれる。
「満州日報」1933年3月21日」

張作霖の長男・張学良についても彼の出自を明確に書いている本はほとんどないのではなかろうか。馬賊頭目第一位の老北風、及び第二位の天下芳は、張学良の配下で動き、また満洲の各地を襲った紅槍会匪、大刀会匪なども、学良の指導が背後にあったと言われている。

画像は昭和7年(1932年)9月6日の東京朝日 新聞だが、彼らの最大の関心事は金を儲ける事であり、そのための手段は問わなかった。

「奉天特派員五日発】東北失地回復の名の下に義勇軍や兵匪の操縦に大金をバラまいて居る学良は軍費不足に名を借りて窮余の一策として北平博物館の宝物を米国骨とう商に二束三文でたたき売ってしまったが、それで味を占めた彼は到頭東洋の宝庫といわれ世界の骨とう愛玩家の垂ぜん万丈の清朝の遺宝北平宮殿内の文華殿と武英殿にある天下の珍宝全部を盗み出し、既に二十個の大箱に荷造りして上海に発送準備中である。買主は有名な米国の骨とう商で時価一億元以上のものをたった二千万元で手にいれ既に代金は外国銀行を通じて学良に支払い済みとある。
「東京朝日新聞」昭和7年9月6日」

張作霖や張学良は富豪の財産を掠奪したり国宝などの文化財を売却して相当な財を成したことは言うまでもないだろう。
遼寧省瀋陽(旧奉天)市に、張作霖・張学良の私邸が残されていて、「張氏帥府」として一般公開されているようだ。張作霖は中国共産党の初期の幹部である李大釗を処刑した経歴があり、張学良も終戦後五十年以上軟禁されている。にもかかわらず彼の邸宅が残されて観光地として公開されているということは、張学良やその兄弟が中国共産党に多大な貢献をしたというような裏の 歴史がおそらく存在するのであろう。Image
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May 6 7 tweets 4 min read
支那や満州における匪賊(土匪ともいう)によって多くの日本人が殺害されたことが最初に新聞に報じられたのは、大正九年(1920年)の琿春(こんしゅん)事件であろう。この事件は間島(かんとう)事件と呼ばれることもある。

この事件の半年ほど前に、アムール川河口にあるニコラエフスク(尼港(にこう)、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件(尼港事件)があり多くの日本人居留民が虐殺されたばかりだが、琿春事件でも多くの日本人及び朝鮮人の犠牲者が出ている。

画像は大正9年10月12日付けの大阪毎日新聞だが、琿春事件における賊の来襲は二回にわたり、メンバーの中には馬賊(ばぞく:馬に乗って悪事を働く匪賊)のほか、支那脱走兵、ソ連の赤軍パルチザン(非正規軍)将校、朝鮮人がいたという。尼港事件の時も日本人は酷い殺され方をしたのだが、琿春事件は尼港事件よりも酷かったとも言われている。

この事件については某国では日本軍の自作自演という説が唱えられていてその説を支持する日本人学者も結構いるようだが、支那は日本の要求に対して倍額の損害賠償をしたことが大正十一年八月七日の大阪時事新報で報道されていることから、普通に考えて馬賊や支那脱走兵らの仕業であろう。
da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/01003418…
da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/01003207…
shibayan1954.com/degital-librar…Image
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頭道溝(とうどうこう)事件
画像は大正11年6月29日付けの大阪毎日新聞だが、琿春に近い頭道溝の領事分館に約三百名からなる馬賊が来襲した記事である。記事にはこう書かれている。

「頭道溝の所在、即ち朝鮮側からいって茂山間島と称する豆満江の北、支那側からいって吉林省の和竜県一体は、この地方から東へ琿春地方にかけて満洲でも著名な馬賊の巣窟で官憲も時々討伐は行っているが、殆ど根本的掃滅は期し得られないものとして諦めているほど。
此の地方で山林事業を営む支那、日本の商人も事業の無事進行を冀うところから已むを得ず馬賊に対して一種の保険金を納めている始末である。彼等から被る損害は例の琿春領事館焼打を始めとして昨今にいたるまで大小の被害絶えたことがない。
大正11年6月29日付 「大阪毎日新聞」」

この事件は頭道溝事件といい、朝鮮人独立運動家が馬賊の協力を得て間島頭道溝の日本領事館分館を破壊し放火して、仲間の独立運動家を脱走させた事件なので掠奪が目的ではなかったのだが、この事件で二人の日本人が死亡し、三人が重傷を負っている。
日本人の居留民の被害が出たので新聞の記事となったが、満州では馬賊による掠奪事件などが頻繁に起こっていたのである。こんな盗賊団のような存在をなぜ捕まえないのかと、日本人なら誰しも疑問に思うのだが、その当時の支那には取り締まる力がなかったのである。Image
May 5 6 tweets 2 min read
満州における漢人の朝鮮人圧迫
もともと漢人が殆んど住んでいなかった満州と東蒙古に大量の漢人を移住させて満州人を追い払い、漢人の支配地としたことについて書いたが、満州には清朝末期以降に鴨緑江、豆満江を渡って南満洲に移り住んだ朝鮮人もかなりいた。
漢人は、満州人、東蒙古を取り込んだのち、次は満州に住む朝鮮人を圧迫することとなる。

当時は朝鮮との国境に近い間島(かんとう)州に満州にいる朝鮮人の約八割が居住していて、なかでも琿春(こんしゅん)県は特に人口が多く朝鮮人も多かった地域である。

長野の『民族戦』には、漢人が満州の朝鮮人を圧迫していたことが具体的に書かれている。文中の「支那官憲」は奉天軍閥(主に張作霖)の役人で、満州の朝鮮人は支那官憲から圧力をかけただけでなく、地主などからも搾り取られたうえ、匪賊にも襲われたという。

「満蒙人を屠った漢人は、次で朝鮮人に対する圧迫を加えて来た。満州には朝鮮人が百万乃至二百万いた。清朝の時満州は一時荒廃し、朝鮮境には一帯の中間地帯が設けられたが、清末に至り鮮漢双方の民族が潜かに侵入し、支那ではここに県を設けた。かくて両民族の接触が始まった。

朝鮮人の最も多く居住するのは間島および琿春地方で、その他各地に散在し、大部分は地方にあって主として農業に従事し、都市にあるものは少い。その大部が東部朝鮮境に近い方面にあることは勿論である。

朝鮮人の移住者は朝鮮内に於ける生活難から来たもの、日本の統治に不満を抱いて逃げ出したものである。彼等は支那人所有の未墾地を開墾して小作をなし、開墾期間の食糧又は耕牛のないものは秋の收穫を引当てに支那人地主から借金するが、六ヶ月で数倍という高利である。 それに間島の外は土地所有権が得られず、 加うるに支那官憲の誅求、土匪の被害、不逞鮮人農民の強徴等でかなり窮狀にあった。 朝鮮人農民のうち七割は畑作に従事し、他の三割は水田耕作に従事し、水田は朝鮮人の独壇場見たようなものであった。

鮮漢民族の接触はここに支那人の朝鮮人圧迫となり、 昭和二、三年頃殊に甚だしかったが、 その余燼は満州事変まで続いた。朝鮮人圧迫の原因は数年あるいは十数年来潜在する朝鮮人排斥の気勢が、戦禍を避ける支那移民の激増、我が満蒙積極政策に対する誤解、 支那の利権回收熱の勃興等により激成され、支那官憲により計画的に行われるに至った。
長野朗『民族戦』柴山教育出版社 昭和16年刊 p.220~222」
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漢人が満州の朝鮮人を圧迫した原因
ではなぜ漢人は満州にいる朝鮮人を圧迫したのであろうか。日韓併合は明治四十三年(1910年)のことであるが、満州支配を狙って大量に移民を送り込んでいた漢人たちは、満州に住む朝鮮人は日本の手先であり駆逐すべき存在であると考えたと長野は述べている。

長野は同上書に、漢人が朝鮮人を圧迫した原因について、 政治的原因と経済的原因があったとまとめている。

「当時に於ける朝鮮人圧迫の原因と見られるものは、 第一には政治的原因である。 彼等は日本を恐れる結果は日本国民としての朝鮮人の侵入に対して警戒を始めるに至った。更に張作霖が日本の満蒙積極政策の牽制策として利用し、 支那全国に盛んになった利権回收熱が加わって來た。支那は日本が満州に有する二つの大なる勢力である満鉄と在満二百万の朝鮮人の駆逐を考へた。彼等は在満朝鮮人を日本の手先と見たのである。
また支那の官憲では、管内に朝鮮人が居住すれば、種々の外交問題を惹起し、甚だ迷惑であるため、その煩瑣を嫌ってこれを追ひ出そうとする。
また張作霖は吉会線*の敷設により朝鮮人の移住の増大をおそれ、それ以前に防止の方法を講ぜんとし、また軍費に窮した結果、帰化料として巨額の手数料を搾取せんとした。
*吉会線:吉林と会寧を結ぶ線路

次に経済的原因としては、 第一には漢人の澎湃たる満州移住、 殊に満州東部への進出は、ここに朝鮮人の進出と衝突し、支那官憲は支那人に職を与えるため朝鮮人を圧迫した。
第二には朝鮮人は水田経営上特殊の技能を有し、各地に水田を拓いたが、水田の收入は畑地に比し二、三倍も多いので、支那人もやがて其有利なるを知り、その技術と経営の方法を習得するや、これを回收せんと企てた。
同上書 p.222-223」

満州では日本人も匪賊に襲われるようなことがあったのだが、日韓併合以降同胞となった朝鮮人が漢人に随分ひどい扱いを受けていることが問題となり、満州にいた日本人と朝鮮人を守るために支那の暴政を断ち切ろうとするわが国の動きが、満州を奪い取ろうとしていた漢人の利害と衝突した。その流れの中で昭和六年に満州事変が起き、満州人が起ちあがって満州国の設立されたという認識が戦前の多くの日本人に共有されていたと思うのだが、戦後はこのような視点から満州を論じることがタブーにされてしまっている。
May 4 4 tweets 2 min read
かつては住民の大半が満州人であった満州に大量の漢人が移住して、漢人が支配するように地域になった。このような手法で漢人が領土を拡大させる戦いを長野朗は「民族戦」と呼んでいる。

満州では清朝末期から漢人の移住が進み、1931年に満州事変が起きた後に漢人の移住が更に進み、満州事変当時3千2百万であった人口は、昭和15年頃には4千3百万になっていたという。この移住は計画的になされたというよりも、内乱が続いて国内で生活できなくなった人民が、より安全な地を求めて海外に逃げ出したことによるものである。満州事変も漢人による「満州漢人化運動」の中で理解すべきなのである。

長野朗は、満州の漢人化について次のように解説している。
「満州に於ける漢民族の充実は、ここに満州を完全に漢人化し、満州を漢人の手に独占せんとする運動が行われるに至り、 遂に満州に於ける民族戦を展開し、満州事変を惹起するに至った。満州漢人化運動の動機は種々あるが、その主要なるものは次の如くである。

第一は古来行われた漢民族膨脹運動の連続である。漢民族が今日の大をなすに至ったのは既に述べた通りに、漢民族の外部発展と、弱小民族の浸蝕同化作用の絶えざる努力の結果である。少数民族は単に武力と政治を以て漢人に対して来たが、支那民族はその民族の多数と経済力と、漢人特有の文化により、 然る後にその領土を占有して自己の一部とする。この運動を満州人に対しても施し満州人を溶解し去ると共に、ここを漢人化して完全に彼等の手に占有せんとしつつある。 これは漢人の伝統的政策であつて、漢人は自民族により世界の統一を志す民族侵略者といえる。彼等は弱小民族の独立存在を認めない。

第二は支那支配階級の搾取本能から生れ出たものである。支那の軍閥官僚の徒は、人民を搾取して利を得る外は何事も考えていない。当時の東三省*軍閥もまた同じで、金融権を壟断して不換紙幣を濫発し、満州の特産品の買占めにより利を貪り、交通、鉱山、工業、森林等いやしくも利のあるところ彼等の占有に帰せざるものなく、甚だしきは質屋から女郎屋までも開いた。支那人は支配階級が搾取的であるだけでなく、人民も矢張り同じで、商人はつまらぬ品物を蒙古人に高く売付け、その代償として蒙古人の毛皮を安く買落して暴利を貪り、地主は朝鮮人を苛刻なる條件の下に小作せしめて暴利を得るだけでなく、漸く開墾が出来れば追い出して新な荒地を開かせ、且つ非常な高利で金を貸す。即ち支那人の満州に来るや他民族を搾取する。
*東三省:遼寧省・吉林省・黒竜江省の三省のことで満州を指す

この動機を促進せしめたものは、満州の開発により、財力の豊富と位置の優秀なるにより、ここに拠って政権を争わんとしたこと、さらに支那人は他国に散々金を費わせ骨を折らせ、出来上った所でこれを頂戴しようとする慣用手段を取る。租界回收の如きこれである。満州に対しても同じことで、日本の努力経営により今日の如く立派に出来上ると、御苦労樣ともいわず頂戴に出掛けたのである。人民の方では既に述べたように、支那本部殊に山東方面の動乱と凶作の結果である。
長野朗『民族戦』柴山教育出版社 昭和16年刊 p.207~210」

わが国は日露戦争以降莫大な投資をして、満州の鉄道、道路、通信、上下水道などの公共インフラから大学などの教育機関、博物館、図書館などを建設し、企業の誘致も行ったのだが、支那人はこれら日本人が築き上げた満州の権益を、排日運動を仕掛けることで奪い取ろうとしたのである。わが国が満州につぎ込んだ資金は17億円と言われており、昭和初期の予算規模が15~19億円であることを考慮するとかなり大きな金額であったのだが、結局わが国は敗戦によりすべてを失ってしまったのである。

しかしながら漢民族膨張運動は満州を取り込んだことでで終わったわけではなく、彼らはその後モンゴルやチベットやウイグルを取り込みさらに台湾を呑み込もうとしている。当然台湾の次にはわが国も狙っていると考えられるのだが、わが国の政治家も官僚も財界もマスコミも学会も、圧力がかかっているのか何も知らないのか、中国が領土を拡大してきた歴史について触れることがない。
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満州漢人化は清朝末期の混乱に乗じて進行していったのだが、清朝が滅亡した後に成立した国民党も共産党も満州漢人化を推進する方針であった。
長野朗は次のように解説している。

「1922年5月の共産党第二次全国大会の宣言中に次の如く現われている。
一 支那本部(東三省*を含む)を統一して真正の民主共和国とす。
二 蒙古、西蔵チベット、回疆カイキョウ三部の自治を実行して民主自治邦とす。
三 自由連邦制を採用し、支那本部、蒙古、西藏、回疆を統一して中華連邦共和国を建設す。
 この主張は満州の漢人化と共に、蒙古、新疆を自治邦とし、露骨にロシアの政策を現している。
*東三省:遼寧省・吉林省・黒竜江省の三省のことで満州を指す

国民党の満州対策は明かに満州の漢人化で、彼等の民族主義は支那伝来の漢民族主義であり、 倒満興漢はその一つの現われである。
孫文の三民主義の中にもこの点はよく現われている。
即ち「古来民族生存の道理から推して、支那を救い支那民族を永遠に生存せしめんとせば、民族主義を唱えねばらぬ。 支那の人口は四億だが漢人種以外のものは僅か一千万に過ぎないから、先づ同一血統、言語、文字、宗教、習慣を有する一個の民族と見做すことが出来る」といって少数民族の地位を認めず、又「支那は今日までその大なる人口を以て蒙古人、満人の侵略に対し決して滅亡しなかっただけでなく、漢人は却って彼等を同化して漢人に変ぜしめた。今日多くの満州人は漢人の姓を名乗っている。 従ってたとえ日本人や白人が来て支那を征服しても支那人はこれ等日本人及白人を吸收してしもうから心配はない」といい、また支那歴代の民族侵略については 「支那は以前文明の民であり強盛な国家であつて、自ら中華と称し、他を蕃夷と名づけ、天下の主を以て任じた。かくて支那は民族主義から世界主義に進み、 従って歴代皆帝国主義を採用して他民族を征服した。即ち幾千年来平天下の主義を実行し来ってアジア各小国を完全に征服し終った」と述べている。

実際に於て国民党は民族意識が最も熾烈で、国民党政府になってから、 他民族に対する漢人化運動は急速に進められ、満人、蒙古人、回族の地を侵蝕してはこれを漢人の勢力範囲に入れ、そこに県を設け省を設けたことは既に述べた通りである。満州でも従来の各省は次第にその範囲を広げ黒龍江省はホロンバイルを併せ、吉林は西に伸び、奉天は洗南一帯を漢化して沈昌道を設けた。かうした満州の漢人化は、ここに各民族との争闘を展開し、 弱小民族を侵蝕して遂に日支の衝突となった。

漢民族満州発展の鋒先にかかって、 第一に抹消し去られたのは満州族と東部蒙古族とである。
同上書 p.211~213」

戦後の歴史叙述ではわが国は侵略者扱いにされているのだが、わが国は漢族、満洲族、蒙古族、ウイグル族、チベット族の「五族共和」をスローガンにして満州帝国を支援し、満州人も満州文化も満州文化も残そうとした。ところが満州を飲み込んだ漢人は、少数の満州人を追い払い、今では満州語も満州文化も残されていない。Image
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Apr 27 5 tweets 2 min read
外国勢力の工作活動によって内部から国家の安全保障を脅かされることがないように、スパイ行為に対してはどの国も厳罰に処すことを法律で定めている。

戦前においては「軍機保護法」「国防保安法」などが存在し、実際に外国のスパイが処刑された事例も存在するのだが、それでもわが国の重要な国家機密情報が奪われていた。

『神戸大学新聞記事文庫』で「スパイ」で検索すると、昭和7年(1932年)からわが国で外国のスパイ活動に関する記事の切り抜きが急に増加している。

9月11日付の国民新聞の記事
「さきに大阪、神戸等の主要都市建築物に対し、米国ニューヨーク、ナショナル・シチー・バンクが、日本の各地支店に命じ一斉に写真撮影をなし、スパイ的行為を敢てした怪事実に関し陸軍軍部に於ては事態を相当重視し、憲兵隊の手を以て細密にその事情と経過を調査せしめ、去る七日既報の如く内容の一切を憲兵司令部より陸軍省へ報告あり。全日本の上下をして米国側の此の怪行動に少からぬ疑惑の念を抱かしむるに至ったが、米国側の怪行動はただに右日本重要都市建築物の撮影のみに止まらず、本年春以来海軍関係の方面に於てもまたひとしく疑惑に充たされた怪行動続出し、その中顕著なる事実を挙げても北地千島に於ける米婦人の潜入問題をはじめ、アリューシャン群島方面に於ける米国航空母艦の巡航問題等のほか更に蒋介石の故郷である支那杭州に数十の重爆撃機輸送問題等があり、日本人をして危懼の念は兎も角、見方によっては日支条約や太平洋防備制限条約等の精神に牴触する疑いがあり、更らに米国の日本に対する重大意思の暗示とも見らるる行為が熾烈となって来ている。…
神戸大学新聞記事文庫 軍事(国防)28-37」

この記事に記されているのはスパイ行為は、シティバンクの副社長が来日前に日本の各地支店の庶務課宛にわが国の重要都市の官公私の重要建造物の写真を撮影することを指示したものだが、大阪、神戸でどのような写真が撮影されたかは、同年9月9日付の国民新聞に報じられている。同紙は、東京、横浜、大連、奉天、ハルピン支店にも同様の指令がなされたと書いている。
shibayan1954.com/degital-librar…Image
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このような情報収集を行っていたのはシティバンクだけではない。同年の9月22日の大阪時事新報では、ある国がわが国の国防力に関する調査を指令していたことを報じている。

「…某国はなお我国防方面の調査及び水陸両方面の運輸能率の調査等に全力をあげ、商事会社の支店出張所を利用し、スパイを活躍せしめて鉄道現業員中に喰い入り、全国鉄道のダイヤを集め運輸能力の実際調査を行い、或は汽船の各種能力を調査し重要港湾の主要図要塞地帯内の測量等を作成する等、本月に入って以来殊に暗躍が甚だしく、
当局では特殊使命を帯びて入国する間諜取締のため専任の取締憲兵五十名を特派するに至った程であるが、大阪憲兵隊では各地部隊と連絡を取り、引続き特高部の大動員を行ってこれ等外国商館の調査及び非国民的スパイの探査を行っていた際、突如として去月下旬某国プ○○ナン市○○○汽船会社が代理店たる長崎□○○物産支店に対し別項の如き調査書類を送附、至急回報方を依頼して来たので同支店を調査せんとしたが、内容が日本船舶に対する各種供給能力及び港湾設備各主要港に対する状況等百数十項目に亘る微細な問合せのため回答を差控えていた処、数日前に至って神戸市某国○○○汽船代理店ハー・○○○○○から至急回報方督促して来たのを憲兵隊が探知。
要塞地帯を含むものとして拒絶せしめる一方熊本憲兵隊の手で厳重調査を行っているが、最近に於ける各国の暗躍ぶりは物凄く、最近某々国大使館から大阪駐在の某日本人に対しても、別項の如き火薬調査の依頼をし六項目に亘る回答を求めて来たが之亦憲兵隊で探知、拒絶せしめた外、二十一日某国現職官吏が休暇利用の名義で十七日来朝門司から瀬戸内海に出で二十一日まで五日間に亘って地図と磁石を所持して瀬戸内海の海岸線要塞地帯を徒歩で微細に視察する等奇怪なる行動を続け
また、カナダモントリオル市○○会社では横浜商工会議所に対して経済調査を名として我国の燃料調査を依頼し、また神戸山手の某国○○商会では鉄道主要のダイヤル調査を行い輸送能力調査を行っていたが何れも憲兵隊で探知それぞれ警戒中である。…
神戸大学新聞記事文庫 軍事(国防)28-52」

記事には、某国汽船会社に調査が求められた内容が紹介されているが、 日本全国の主要港について百数十項にわたって詳細な回答を求める異常なものである。
しかし、外国企業の経営判断に必要なデータとして収集され本社に送付されるという体裁をとる限りにおいては、関与した職員を逮捕することはできなかったようだ。
大阪憲兵隊はこのような行為は「合法的な間諜だ」と閉口していたのだが、違法ではないのでどうすることもできなかったことが記されている。Image
Apr 26 7 tweets 3 min read
移民問題が重要な局面に達しつつあるわが国の現状になんとなく不安を覚えている方に、長野朗の『民族戦』(GHQ焚書)をぜひ読んでいただきたい。

他国を侵略する方法は、軍隊が出動し武力戦で勝利して占領するケースが多いのだが、支那の場合は武力戦の勝ち負けと関係なく他国の領土に移住地を拡大していく。

「支那民族の発展も数千年来継続して行われ、黄河流域に国を建てた漢民族が、遂に今日の如き広大なる領土と、四億の大人口を擁するまでに発展を遂げたのである。
支那民族の東方満州への発展は、日本民族の大陸発展と衝突してここに満洲事変を起したが、続いて起った支那民族の全国的な抗日運動は、 遂に今回の支那事変を勃発せしむるに至った。支那事変は支那側から見れば全く民族戦である。
事変以来の支那新聞を通して見るに、すべて今回の事変を以て民族戦となし、戦争で奮闘したものは民族の英雄として祭り上げられ、民族の独立自由を叫び、民族資本の発展を策する等、すべて、民族一色に塗り潰され、国家という字を殆んど使っていないし、一国一民族の意から、国族という文字は使われている。

これはこの事変に始まったことでなく支那の外部発展はすべて民族的に行われ、領土の一部を占領されても、住民は平気で居住するだけでなく、 占領されながらも発展して行く。
日露戦前数百万人に過ぎなった満州は日露両国の勢力下に三千万に増大し、満州事変後日本の勢力が北支に伸び、今事変(支那事変)で主要な領土を占領されながら、三つの満州人口は四千万に増加した事実を如何に見るか。重慶政府(蒋介石政権)が戦いに敗れながら、民族保存の上から、民力充実に非常な苦心を払っているのは彼等伝統的精神に基づくものである。
長野朗『民族戦』柴山教育出版社 昭和16年刊 p.8-10」
shibayan1954.com/degital-librar…Image 例えば、満州は清朝を作った満州族の故地であり、かつては漢人は殆んど住んでいなかったのだが、清朝末期の混乱期以降に多くの漢人が移り住むようになって居座り、その後日本が満州帝国を支援してインフラを整えると大量の漢人がなだれ込み、いつしか漢人が住民の大多数を占めるようになり、したたかに国を奪い取ったのである。

長野は支那の侵略の方法をアメリカ、ロシアと比較している。

「支那民族の発達は、米、露二国とは著しく異った方式を有している。米国の発達の方式はドルである。これを保護するために軍艦と飛行機とがある。ロシアの民族発展は銃と剣とが先に立って、植民と商業とが後から来る。それがソ連になってからは組織と宣伝とが加わった。支那の民族発展は鍬(すき)だ、人が土を這て行く、政治はその後から来る。米国の発展は表皮を剥はぐのだ。ロシアの発展は肉を啖くらう。支那のそれは骨の髓に食い込む最も深刻なものである。

支那人の古来の発展は民族的である。国家等には頓着なく、支那民族が発展して行くのだ。血縁相牽き、同郷相求め、村をなし郷をなし町をなす。その統治者の如何は問う所でない。従って支那民族の発展は極めて平和的であるが極めて深刻である。支那人はアメリカ人の如く資本侵略でもなく、ロシア人の如く征服掠奪でもない。土着的である。その土地に土着して農を営み、商工を営み村をなし、 縣をなし、 省をなす。 彼等には武力の背景も必要でない。丸く卷いたフトンを担ぎ徒手空拳にして、如何なる気候の下にも、熱帯にも、寒帯にも乾地にも湿地にも出掛けるし、如何なる業務も厭わず孜々ししとしてやるし、如何なる政治の下にも平気である。

支那人は戦いに勝っても負けても発展する。支那が戦いに勝った場合にはその土地の壮年男子を本国各地に分散して同化し、その後に女と老小だけ残った所に支那人が移住してこれを同化する。戦いに負けた時には、あたかも清朝に征服された時のように、入って来た他民族は多数で同化し、征服国にどんどん移住して行って、満州に於ける如くこれを漢人の居住地化する。即ち負けて勝つのである。

そこで支那人の領土観は日本人と大いに異なるものがある。日本人は寸土といえどもなかなかこれを捨てないのは、 猫の額のような川中島を長い間争ったのを見ても分る。
ところが支那人になるとそうでなく、 自分の領土の一部を一時占領されるくらいは何とも思っていない。 外国の金で立派にして返して貰おうくらいに横着に考へている。ただそれが支那人の居住地で、支那人の土着が撹乱されなければよいのである。

また支那民族の発展に当たり、支那人はその土地で盛んにその土地の女と雑婚するから、支那民族の増加は著しくなる。タイ国でも純粋の支那人は大したことはないが、混血児を加えるとタイの人口の約半数に近いのである。
同上書 p.77-79」

長野は「発展」という言葉を用いているが、これは「侵略」に近い意味がある。他国の領土を奪うやり方が、アメリカは資本力と軍事力を用い、ロシアは武器と組織力と宣伝を用いるが支那の場合は大量移住により結果的に他国の領土を奪っていくのだ。Image
Apr 22 6 tweets 2 min read
南方熊楠の「神社合祀に関する意見」
明治末期に神社合祀という政策が行われて由緒ある神社のかなり多くが、その社叢とともに破壊されたのだが、官吏たちはどういう方法で破壊を推進していったのだろうか。
shibayan1954.com/history/meiji/…

南方熊楠は和歌山の神社破壊の現状を松村任三や柳田国男をはじめ著名人に伝えて、神社合祀反対運動への協力を求めたことが知られているが、東京帝国大学農学部教授の白井光太郎に宛てた書簡が「神社合祀に関する意見」というタイトルで「青空文庫」に転載されている。これを読むと、当時の官吏がいかにして神社を破壊したかが具体的に記されている。

「しかるに今、国民元気道義の根源たる神社を合廃するに、かかる軽率無謀の輩をして、合祀を好まざる諸民を、あるいは脅迫し、あるいは詐誘して請願書に調印せしめ、政府へはこれ人民が悦んで合祀を請願する款状(かんじょう)なりと欺き届け、人民へは汝らこの調印したればこそ刑罰を免るるなれと偽言する。
かく上下を一挙に欺騙(ぎへん)する官公吏を、あるいは褒賞し、あるいは旌表(せいひょう)するこそ心得ね。さて一町村に一社と指定さるる神社とては、なるべく郡役所、町村役場に接近せる社、もしくは伐るべき樹木少なき神社を選定せるものにて、由緒も地勢も民情も信仰も一切問わず、玉石混淆、人心恐々たり。」
aozora.gr.jp/cards/000093/f…

官吏どもは、合祀を好まない人々を脅迫したり騙したりして合祀請願書に調印させ、政府に対しては人民が喜んで合祀を請願している嘆願書であると欺いて提出した。また一町村に一社だけが残される神社は、役所・役場に近いか、伐るべき樹木の少ない神社、すなわち連中にとって金にならない神社を選定しているので、由緒も規模も人々の意向も考慮されなかったという。Image 三重県の神社合祀事例
次に南方は三重県の神社合祀の事例を述べているが、立派な拝殿や本殿があった神社が取り壊され、みすぼらしい小祠のみがあるような神社に合祀されたようなことが少なくなかったようだ。

「拙見をもってすれば、従来神恩を戴き神社の蔭で衣食し来たりし無数の神職のうち、合祀の不法を諤議(がくぎ)せるは、全国にただ一人あるのみ。伊勢四日市の諏訪神社の社司生川(なるかわ)鉄忠氏これなり。この人、四十一年二月以降の『神社協会雑誌』にしばしば寄書して、「神社整理の弊害」を論ぜる、その言諄として道理あり。今その要を撮し、当時三重県における合祀の弊害を列挙せん。

いわく、従来一社として多少荘厳なりしもの、合祀後は見すぼらしき脇立小祠となり、得るところは十社を一社に減じたるのみ。いわく、従来大字ごとになし来たれる祭典、合祀後は張り合いなし、するもせぬも同じとて全く祭典を廃せる所多し。いわく、合祀されし社の氏子、遠路を憚り、ことごとく合祀先の社へ参り得ざるをもって、祭日には数名の総代人を遣わすに、多勢に無勢で俘虜降人同然の位置に立つをもって、何のありがたきことなく早々逃げ帰る。言わば合祀先の一大字のみの祭典を、他の合祀されたる諸大字が費用を負担する訳になり、不平絶えず。いわく、合併社趾の鬱蒼たりし古木は、伐り払われ、売られ、代金は疾(と)くに神事以外の方面に流通し去られて、切株のみ残りて何の功なし。古木などむやみに伐り散らすは人気を荒くし、児童に、従来あり来たりし旧物一切破壊して悔ゆることなかるべき危険思想を注入す。いわく、最も不埒なるは、神殿、拝殿等、訓令の制限に合わぬ点を杉丸太で継ぎ足し、亜鉛葺き等一時弥縫(びほう)をなし、いずれ改造する見込みなり、当分御看過を乞う等で、そのまま放置する。」

何百年も地域で護り続けてきた神社の社殿や社叢が破壊されたばかりではない。今までよりも小規模な祠などに無理やり合祀されたり安普請の社殿でいつまでも放置されては、遠い距離を移動して参拝に行くことが馬鹿々々しくなり、地域の人々の不平不満が出てくるのは当然のことである。
Apr 20 6 tweets 2 min read
明治末期に政府が推進した神社合祀と鎮守の森の大量破壊

明治初期の廃仏毀釈で多くの寺院が廃絶され多くの文化財を失ったのだが、明治の末期には多くの神社が神社合祀政策により破壊されている。

Wikipediaによると
「神社合祀政策は1906年(明治39年)の第1次西園寺内閣において、内務大臣・原敬によって出された勅令によって進められ、当初は地域の実情に合わせかなりの幅を持たせたものであった。だが、第2次桂内閣の内務大臣平田東助がこの訓令を強固に推し進めることを厳命したため、全国で1914年までに約20万社あった神社の7万社が取り壊された。特に合祀政策が甚だしかったのは三重県で、県下全神社のおよそ9割が廃されることとなった。和歌山県や愛媛県もそれについで合祀政策が進められた。しかし、この政策を進めるのは知事の裁量に任されたため、その実行の程度は地域差が出るものとなり、京都府では1割程度ですんだ。」
ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E…
明治初期の廃仏毀釈では全国の半分近くの寺が廃絶されたが、明治末期には神社合祀政策で、全国の神社の3分の1以上が無くなったというのも極めて異常な話である。ところが明治政府によってこのような破壊行為が行われたことは通史にはどこにも記されていないのである。
shibayan1954.com/history/meiji/… 神社合祀政策の根拠となった勅令

明治三十九年以降にどのような勅令が出されたのだろうかと思い、国立国会図書館「日本法令索引」で検索すると、八月十日勅令第二百二十号「神社寺院仏堂合併跡地ノ譲与ニ関スル件」がヒットした。その内容を確認するとかなり短いものであるのに驚いた。

「神社寺院仏堂ノ合併ニ由リ不用ニ帰シタル境内官有地ハ官有財産管理上必要ノモノヲ除クノ外内務大臣ニ於テ之ヲ其ノ合併シタル神社寺院仏堂ニ譲与スルコトヲ得」

この勅令には「神社合祀」を推進せよとは一言も記されていないのは意外であったが、この条文は読みようによっては、政府が寺社の合併を推進すれば、「不用ニ帰シタル境内官有地」が増加することとなり、「内務大臣」がその処分権を有するとも読める。

明治四十一年七月に成立した第二次桂内閣の時に、この勅令を根拠として、氏子崇敬者の意向を無視して神社合祀が強引に進められたことは事実なのである。
Apr 19 8 tweets 4 min read
田沼意次の長男・意知の暗殺を仕掛けたのは誰か

天明四年(1784)三月二十四日、田沼意次の長男である田沼意知(おきとも)が江戸城内において、新番組の佐野政言(さの まさこと)に斬りつけられ、その八日後に死亡している。

田沼意知は天明三年(1783)に若年寄に抜擢されており、異例なスピードで出世して父・意次の政治を支えていたのだが、三十四歳という若さで命を奪われてしまった。

オランダ商館長イサーク・ティチングは田沼意次の政治を支えた長男・意知の能力を高く評価していた人物であるが、田沼意知の暗殺に関してさらに驚くべきことを書いている。

大石慎三郎氏の『田沼意次の時代』にイサーク・ティチングの記録が一部紹介されている。大石氏の文章をしばらく引用したい。文中の「佐野善左衛門」は「佐野政言」のことである。
shibayan1954.com/history/edo/%e…Image
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では、イサーク・ティチングはどのようなルートからこのような幕府の機密情報を得たのだろうか。ティチングの著書『日本風俗図誌』は彼の死後一八二〇年にパリで出版されているのだが、この本は邦訳されており「国立国会図書館デジタルコレクション」で読むことが出来る。この本の第一部第一章に田沼意知暗殺事件の事が詳しく書かれているが、このような幕府側の機密情報の入手ルートについて、この本の出版業者ヌヴー氏が序文で種明かしをしている。

『かつてティチング氏がチンスラ(インド西ベンガル地方の都市名)の総督であったとき、チンスラにいたことのある故シャルパンティエ・ド・コシーニュ氏は一七九九年にパリで出版されたその著書『ベンガル航海記』の中でティチング氏についてつぎのようにいっている。

「ティチング氏は、ある日本の大名、すなわち現在の日本の将軍の義父であり、あらゆる知識を熱心に追及している人で、ティチング氏と始終文通を続けており、ティチング氏の目的に必要なあらゆる知識と情報とをティチング氏に与えてくれるさる大名の好意によって、日本に関するコレクションを、今もなお増加させている。…」』ティチング『日本風俗図誌 (新異国叢書 ; 7)』 雄松堂書店 1970年刊 p10

当時の江戸幕府の将軍は徳川家斉(第十一代)で、家斉の正室は広大院だが、その父親は薩摩藩第八代藩主の島津重豪(しげひで)である。

島津重豪は将軍の岳父として権勢を振るい、学問・ヨーロッパ文化に強い関心を持ち、オランダ商館長のティチングとも親交があったという。ティチングは『日本風俗図誌』の中で、松平定信ら幕府高官が田沼意次暗殺事件に関わっている可能性を示唆しているのだが、このような極秘情報の入手元は島津重豪以外には考えにくいのである。
松平定信は江戸幕府の老中として十一代将軍家斉を支えた人物であり、家斉の岳父である島津重豪には幕府の裏情報が耳に入っていてもおかしくない立場であるし、ティチングの著書『日本風俗図誌』は彼の死後一八二〇年にパリで出版されているので、真実を歪めて書く動機は存在しないのだ。Image
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Apr 18 6 tweets 2 min read
日本近世史の権威であった故・大石慎三郎氏の『田沼意次の時代』によると、かつては「日本史の三大悪人」として弓削道鏡・足利尊氏・田沼意次の名前が挙げられていたのだそうだが、戦後になって皇国史観が否定されて弓削道鏡・足利尊氏の評価が変わり、田沼意次だけがその後も長らく悪人として描かれ続けたという。

昔の教科書などで田沼意次は、賄賂政治を行った腐敗した政治家として描かれていたのだが、大石氏らの研究により再評価が行われ、最近の教科書の田沼時代に関する記述が昔とはかなり異なっていて、幕府の財政基盤が改善したことがしっかり記述されている。調べると明和七年(1770年)には幕府の備蓄金が百七十一万七千五百二十九両となっており、五代将軍綱吉以来の最高値となった。

Wikipediaによると、外国人による日本研究の先駆者で瑞宝章を受勲したジョン・ホイットニー・ホール氏は『Tanuma Okitsugu』において「意次は近代日本の先駆者』と高く評価しているという。
shibayan1954.com/history/edo/%E…Image しかしながら、天明三年(1783年)の浅間山噴火などを契機として大凶作となり、天明の大飢饉が起こって米価が高騰し、各地で百姓一揆や打ちこわしが激発する政情不安な時に、意次の実子である若年寄の田沼意知が天明四年(1784年)に江戸城内で暗殺され、それ以降田沼意次の力が衰えていく。

田沼意次の失脚についてWikipediaにはこう記されている。

「天明六年(1786)八月二十五日、将軍家治が死去した。死の直前から「家治の勘気を被った」としてその周辺から遠ざけられていた意次は、将軍の死が秘せられていた間(高貴な人の死は一定期間秘せられるのが通例)に失脚するが、この動きには反田沼派や一橋家(徳川治済)の策謀があったともされる。

意次は八月二十七日に老中を辞任させられ、雁間詰に降格。…閏十月五日に意次は家治時代の加増分の二万石を没収され、さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡し、意次本人の謹慎も命じられた。

十二月二十七日には意次の謹慎措置は解除され、天明七年…五月の天明の打ちこわしを機に幕閣から旧田沼派の重臣が一掃され、意次は蟄居を命じられ、二度目の減封を受ける。相良城は打ち壊され、城内に備蓄されていた八万両のうちの一万三千両と塩・味噌を備蓄用との名目で没収された。長男の意知はすでに暗殺され、他の三人の子供は全て養子に出されていたため、孫の龍助が陸奥下村一万石に減転封のうえで、辛うじて大名としての家督を継ぐことを許された。
 同じく軽輩から側用人として権力をのぼりつめた柳沢吉保や間部詮房が、辞任のみで処罰はなく、家禄も維持し続けたことに比べると、最も苛烈な末路となった。

 その一年後にあたる天明八年七月二四日、意次は江戸で死去した。享年七十。」
ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0…

田沼意次の末路は随分苛烈なものとなったのだが、田沼が失脚した後、天明七年(1787)に徳川家斉が第十一代将軍に就任し、松平定信が老中首座となっている。

その後定信が主導する反田沼派が井伊直幸、水野忠友、松平康福らの田沼派の老中や大老を一掃し、田沼派路線を否定して風紀粛清、重農主義に回帰する等の寛政の改革に乗り出したのだが、むしろ財政は悪化して田沼時代の資産を食いつぶす形になったという。
Apr 17 7 tweets 3 min read
関東大震災で日本支援に動いたのち米国黒人が白人に抵抗できなくなった経緯

アメリカに移民した日本人と黒人の関係は良好であったことはあまり知られていないのだが、レジナルド・カーニー著『20世紀の日本人』によると、米国黒人たちが自分たちと日本人を同一視する見方が一般的になったのは一九二〇年代だという。その当時黒人向けメディアの『フィラデルフィア・トリビューン』紙が西海岸で行った調査によると、次のように記されている。
「黒人たちは、日本人を心から尊敬している。同じ『抑圧された民族』であるにもかかわらず、「自分たちのために、一生懸命努力する」日本人の態度は、見習うべきものである、と。」『20世紀の日本人』p.2
shibayan1954.com/history/taisho…Image アメリカ西海岸では白人と日本人と黒人が混在して居住し、摩擦と協調の日々を繰り返しながらも同じアパートで暮らしていて、概して黒人と日本人との関係は良好であったようだ。

白人は、黒人が移り住む前の一九一〇年にはすでに西海岸に住んでいた。日本人については、ちらほら移り住みはじめたのが一九一四年ごろ、本格的に入り出したのは一九二一年以降だった。

黒人もまた日本人を暖かい存在だと感じていて、米西海岸では日本人移民と米国黒人との関係は良好であった。Image
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Apr 16 7 tweets 2 min read
パリ講和会議における日本の人種差別撤廃提案

日露戦争で黄色人種の日本人が白人のロシアに勝利したことがアメリカの黒人たちを目覚めさせ、白人が有色人種を支配する世界を日本人が崩していくことを期待するようになったが、アメリカは「黄禍論」を広めて、排日運動を全米に拡大させた。

1908年に日米紳士協約により、日本はごく少数を除き米国への移民を禁止し、アメリカ側は排日法案を造らないことを約束して排日運動はしばらく鎮静化したのだが、その後1914年7月に第一次世界大戦が勃発し、世界の約50ヶ国が巻き込まれ、1918年11月にドイツが連合国に降伏してようやく終結した。

翌年1月から開かれたパリ講和会議において世界の主要国の首脳が集まり、戦後処理および国際連盟を含め新たな国際体制構築について話し合われている。そしてわが国は、2月13日の国際連盟委員会において、国際連盟規約第21条の宗教の自由についての規定のあとに、次のような条文を追加することを提案している。

「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り締約国は成るべく速(すみやか)に連盟員たる国家に於る一切の外国人に対し、均等公正の待遇を与え、人種或いは国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」
shibayan1954.com/history/taisho…Image この提案を行った背景には、アメリカやカナダなどで日系移民が排斥されている問題があり、今後国際連盟で主導権を取るであろう英米などアングロ・サクソン人種の国が、人種的偏見でわが国の発展を阻害する動きを抑えたいとの考えがあったという。

わが国の提案は会議で紛糾し、結局、連盟規約第21条自体が削除されることとなって、全権の牧野伸顕は人種差別撤廃提案自体は後日の会議で提案すると述べて次の機会を待つこととなったのだが、わが国のこの提案は海外でも報道され様々な反響を呼んだ。

アメリカのウィルソン大統領は一時帰国して米議会に諮るも、この提案は内政干渉にあたるとの強い批判に直面し、上院ではこの提案が採択された際にはアメリカは国際連盟に参加しないとの決議がなされたという。

そして4月11日に国際連盟委員会の最終会議が開かれ、牧野伸顕は連盟規約前文に「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」との文言を盛り込むという修正案を提出している。

議長であったウィルソン米大統領は、提案そのものを取り下げるようわが国に勧告したが、牧野は採決を要求した。
議長を除く十六名が投票を行い、フランス、イタリア、中国など計十一名が賛成し、イギリス・アメリカ・ポーランド・ブラジル・ルーマニアの計五名の委員が反対した。
過半数の賛同を得たものの、議長のウィルソンは「全会一致でないため提案は不成立である」と宣言し、牧野は多数決で決すべきではないかと詰め寄ったのだが、ウィルソンは「このような重大な議題については、全会一致で決すべきである。」と答えて譲らなかったという。

牧野は最後に「日本はその主張の正常なるを信ずるが故に、機会あるが毎に本問題を提議せざるを得ない。今晩の自分の陳述および賛否の数は議事録に記載してもらいたい」と述べて、ウィルソンもそれを了解したという流れだ。Image
Apr 15 7 tweets 3 min read
張学良はなぜ山海関事件を起こしたか
1932年11月21日から開催された満州問題に関する国際連盟理事会において日本全権松岡洋右との論戦に勝てず、英仏が日本を支持する側に廻ったことを不満とした支那が、国際連盟に参加していないアメリカやロシアに接近して日本を牽制しようと動き出し、アメリカから飛行機五百機を購入し、担保として支那の東海岸一帯を米国海軍根拠地に提供したのだが、12月22日の大阪時事新報は、張学良が国際連盟にみきりをつけて、自ら戦闘準備に入ったことを報じている。

そして翌1933年の正月早々に、万里の長城の東端の山海関(さんかいかん)にある日本憲兵分遣所等に何者かが手榴弾を投じ、さらに小銃射撃を行った事件(山海関事件)が起きた。
さらに翌二日には日本軍守備隊が南門で中国軍から突如射撃されたために児玉中尉が戦死し、数人の負傷者が出ている。
支那駐屯軍司令官の中村中尉は、同日に張学良に対し警告文を手交し、陸軍は三日にこの事件を国内に発表。また満州国政府外交部も同様に三日に張学良に警告電文を発している。
ところが張学良の翌日の回答は、「この事件は日本軍の計画せる所でこれに対する全責任は日本軍の負うべきもの」というものであり、南京政府も一月四日に日本公使に対して、この事件は日本軍の計画によるものとし、事件を起こした兵の処刑などを要求した。
shibayan1954.com/history/taisho…Image 張学良が何の為にこのような行動を取ったかについて、一月五日の神戸新聞には次のように記されている。

「【北平三日発連合】張学良が今回の如き積極的行動を起すに至った動機につき確聞するに、既に連盟方面において支那側の期待は全く水泡に帰し、一方日満軍の熱河方面における偽勇軍掃蕩は単に時日の問題と見られるに至ったので、先ず日満軍の機先を制し日本軍をして山海関(さんかいかん)方面に行動せしめ、北寧線を危殆に瀕せしめることによって列国殊にイギリスの神経を刺戟し、イギリスを再び支那の味方に抱込み、かくて行詰れる連盟の空気を打開せんとする苦肉策に出でたるものである。何柱国(かちゅうこく)が故意に北寧線の一部を破壊せしめたのもこの理由による。
右の如き張学良の魂胆より見て、日本軍の和平に対する希望も徒労に帰すべく、成行は全く楽観を許さぬ状態となった。」
da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/01003338…

かつて北京から瀋陽(奉天)を結ぶ路線は京奉線と呼ばれていたが、1932年に満州国が成立するに伴い、奉天から山海関までを奉山線、山海関から北京までを北寧線と呼ぶようになった。南満州鉄道が昭和13年に刊行した『北支那経済綜観』によると、北寧線の沿線の天津を中心に電力会社、水道会社、獣皮・棉花の圧搾工場や石油関連企業などイギリス企業が多数進出しており、張学良は北寧線を動かなくさせることにより、国際連盟で日本を支持する側についたイギリスに圧力をかけようとしたものと考えられる。Image
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Apr 13 7 tweets 3 min read
在支の日本企業が受けた日貨排斥による影響
1931年のアメリカの対支輸出額が、それまで首位であった我が国を抜いて1位になったが、このことは支那で行われた日貨排斥運動がなければなし得なかった。

この運動の為に多くの日本企業が大損害を受けたことが、1932年4月30日から連載された中外商業新報の記事に、排日貨の影響について詳しく解説されている。shibayan1954.com/history/taisho…Image
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仕入れた商品が販売できなければ資金繰りが次第に厳しくなり、排日貨運動が長期になればなるほど仕入れ代金や経費の支払いが困難となっていく。また物資の輸送に当たる船舶の仕事が激減し、大幅な赤字とならざるを得ない。

当時上海には在留邦人が二万五千人、漢口に二千人いたというが、特に上海では排日暴動による死傷者が出たのち一月二十八日に第一次上海事変が起こり、その後約一ヶ月にわたり戦闘が続いた。

在留邦人の苦労は甚大であったのだが、彼らはいくら危険であろうとも一旦わが国に引き揚げてしまっては、支那で何年もかけて苦労して築き上げてきた商圏を失ってしまうことになることを怖れた。そこで彼らの多くは、わが国の外交努力などにより事態が改善するまでなんとか我慢して踏みとどまろうとしたのである。
Apr 12 8 tweets 3 min read
国際経済戦の中で行われた支那排日
1932年1月に第一次上海事変が起たことで再び排日運動が活発化。
戦後の歴史叙述では支那排日が英米の動きと並行して論じられることは皆無に近いが、戦前の新聞や書籍には英米の支那市場戦略の中で支那排日が論じられていることが少なくない。

1932年2月6日~7日付の東京日日新聞は、「砲火の蔭にうごく国際経済戦」という見出しで連載記事を載せている。記事では、かつて対支貿易額で圧倒的首位であったイギリスは第一次世界大戦中にわが国にその地位を奪われてしまっていた。満州事変以降に再び支那の執拗な日貨排斥運動が始まったのだが、その背景や、わが国の対支貿易にどのような影響があったかについて記事にはこう書かれている。
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このように日本品を排斥したのだが、その代わりに同等品を仕入れなければ経済が回らないことは言うまでもない。然しそれがなかなかうまくいかなかったようだ。

欧米品に乗り換えようとしても、欧米の商品は輸送費が高くつくので日本品よりも割高にならざるを得ない。支那商人は高い欧米の商品は日本品のようには売れないので仕入を絞らざるを得なくなり、輸入量が大幅に減少した。そのために支那政府の海関収入が激減し、中央政府も財政難となったという。

排日貨運動で政府も商人も大衆も苦しんでいたことは戦前の本や新聞を読まなければわからない。Image
Apr 11 8 tweets 3 min read
1931年に柳条湖事件が起きてわが国が満州事変に巻き込まれると、支那の排日貨運動が再び激しくなる一方、支那はソ連や英米に接近して日本を孤立化させ消耗させようと動いた。
その背後には英米が動いていて、彼らは排日貨運動が進行する中で、わが国が支那で拡大して来た商圏を奪取しようとしていたのである。
そしてその結果、イギリスの対支輸出高が激増した。
昭和六年(1931年)十一月以降の伸び率の異常性が見て取れる。ちなみに柳条湖事件が起きたのが九月十八日であり、それ以降排日貨運動が激烈に行われたのだが、その頃支那駐在の英国公使マイルズ・ランプソンが、日本品の代わりに英国品を入れ、関税免除を支那に要求するなど活発に動いていた。shibayan1954.com/history/taisho…Image
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昭和六年十一月三日の東京朝日新聞は、ランプソン公使が張学良や蒋介石と提携して動いていたことを報じ、満州事変後に支那がわが国と直接交渉せずいきなり国際連盟に訴えたり、その後の国際連盟の不可解な動きは、この人物が策動していた可能性を示唆している。

ランプソン公使が支那に勤務していたのは一九二六年から一九三三年までだが、彼は支那の対日方針や、国際連盟における支那の対応に大きく関わっていた可能性があると考えるのだが、この人物については戦前の著作では暗躍していたことが書かれていても、戦後の著作では重要人物として登場することは殆んどなく、満州事変と言えば関東軍の自作自演と書かれるだけだ。おそらくそう書かざるを得ない大きな力が影響しているのではないだろうか。Image
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Apr 10 9 tweets 4 min read
満州事変以降は支那の排日運動が大きく変化することになる。

長野朗は支那の民族運動を三期に分けており、
第一期は五四運動が起きた一九一九年から一九三一年に満州事変が起きるまで、
第二期は満州事変以降から一九三五年の年末まで、
第三期は一九三五年末から一九三七年の支那事変の勃発迄としている。

『民族問題概説』で長野は第二期について以下のように述べている。

第二期における支那の対日方針は「一面抵抗、一面交渉」だと書いているが、要するに武力では日本に対抗できないので、戦備を整えるまでの間は、ボイコット(日貨排斥)を行い、日本から抗議を受ければ交渉に応じては時間を稼ぎ、一方でソ連や英米に接近して、最終的に日本を孤立させ消耗させていく戦略であったという。
shibayan1954.com/history/taisho…Image 柳条湖事件からまだ日も浅い昭和六年十月一日の大阪朝日新聞の記事には、今までになく日貨排斥が徹底されるようになり、日本商人が大きな打撃を受けていることを報じている。

十月四日の中外商業新報にはさらに詳しく、上海では排日貨運動が激烈で、支那商人は日本船に商品を積み込まず、日本船が到着しても貨物の荷揚げが拒絶されるなど海運会社の打撃は大きかったようだ。

また上海の銀行は日本人の預金払い戻しに応じないなどの問題が生じていたという。これでは日本企業に勤める従業員への賃金支払いなどに支障が出ることになる可能性を示唆しているほか、日本産の砂糖が契約通りの受渡しが不能になっていることや、支那商人がジャバ産の砂糖に乗り換える動きがあることを伝えている。Image
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Apr 9 11 tweets 4 min read
支那の排日運動はどのように変化していったかを当時の新聞で確認してみた。
1.大正8年(1919)年の排日運動

画像は大正八年(1919年)七月十六日の報知新聞の記事だが、この年の五月から本格化したばかりの排日運動は学生が中心で、以前にも書いたように英米の宣教師が盛んに学生を煽動し、学生の活動資金も支援していた。

学生等は日貨(日本商品)を取扱う商店に封印を施し、もし売買すれば店主に罰金を科したり、村の村長を脅迫して日本商品を取扱わないようにさせたりしていたという。もちろん彼らには商人を取締ったり処罰する権限はなく、彼等のやったことは明らかな違法行為である。
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しかしながら、当時に於いてはこのようなやり方では日本商品を排斥出来ず、意図したことの逆の結果を招くことがあったようだ。
大正八年(1919年)九月十二日の大阪毎日新聞の記事には次のように書かれている。 Image
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Apr 8 9 tweets 3 min read
日貨排斥から抗日戦へ
支那の排日運動が始まって以降日貨排斥が行われることになり、そのやり方が次第に過激になっていったことを述べたが、昭和十年(1935年)以降になると排日運動は次第に局面が変わっていくことになる。

長野朗の『民族戦』(GHQ焚書)に、その当時の状況が解説されている。文中に出て来る宋哲元(そうてつげん)は馮玉祥(ふうぎょくしょう)の子分で蒋介石と対立していた軍人である。

その当時、支那のマスコミや映画などが日本に対する敵愾心を煽り続け、学生も農民も労働者も商人も、支那全体が抗日一色に染まっていったのである。
shibayan1954.com/history/taisho…Image 抗日運動が爆発するきっかけとなった「北支問題」については、戦後のわが国の 歴史叙述ではほとんど無視されているのではないかと思う。

わが国が国際連盟を脱退したのは昭和八年二月の事だが、その後日満軍による熱河討伐で支那兵は簡単に敗れ、張学良が失脚したあと蒋介石は満州を一旦放棄して江西省の共産党軍と戦うことに専念していた。

しかしながら蒋介石は満州をあきらめていたわけではなく、米露の接近を図って日満両国を苦境に陥れる工作をしていた。

昭和十年になると満州国熱河省の非武装地帯で、匪賊団が掠奪行為を繰り返すようになり、支那官憲にいくら取締りを要請しても匪賊を捕縛しようともしなかった。

蒋介石は表向きには日支共存共栄を説くのだが、このような匪賊を泳がせているのもまた国民政府であることは疑いようがなかったのである。

昭和十年五月三十日の大阪朝日新聞によると、最近続出する満州内部に対する支那の陰謀や対日テロ行為は明白なる停戦協定違反であり、かかる行為が今後起こるようであればわが国は自衛行動をとることを支那側に通告したと書かれている。

そういう場合にこの国は、わが国に圧力をかけるために大国の干渉を求めることが昔から良くあることなのだが、支那からの支援要請を受けた英国は即座に断ったことが六月十六日の大阪毎日新聞に報じられている。

しかしながらこの国は簡単には引き下がることなくその後も英米に泣きつき、英国は日支双方で友好的に解決を図れと回答し、日本の自重を要請するに留めている。ところが、米国は支那の要請に乗ったのである。Image
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Apr 7 7 tweets 3 min read
次第に過激化していった支那の排日運動
支那の排日運動が始まったのは大正八年(1919年)で英米が仕掛けたのだが、初期の運動はそれほど過激なものではなく支那人もわが国に対して遠慮気味のところがあったようだ。しかしながら排日教育が全国各地に広がっていくにしたがって次第に運動が過激化していったという。

長野氏は『支那三十年』(GHQ焚書)で、中国の排日活動の初期を三段階に分けて、次第に過激化していったことを書いている。

第一期では、排日と親英米の空気を造るために、中国の隅々に宣教師を送り込み、教会や学校や病院を創る一方で、中国人に「排日思想」を植え付け、日貨(日本製品)のボイコットを始めた。

第二期では、日貨のボイコット期間が長くなり、日本品に代って欧米品が中国に入ってきた。

第三期では、国民政府がボイコットを自ら主宰するようになり、ボイコットの期間も長くなり、支那でも模倣品を製造販売するようになり、わが国の経済に与える影響は少なくなかった。
shibayan1954.com/history/taisho…Image 共産勢力による「反帝国主義運動」の鋒先をかわした英国
その後英米は支那の排日活動から手を引くようになるのだが、支那の排日運動はどのように変化していったのだろうか。

長野朗の前掲書によると大正十二年(1923年)頃から、排日運動を背後で動かしていた勢力が英米系のキリスト教会から共産勢力に移っていくとともに、運動のターゲットが「排日」から「反帝国主義」に変わっていったようだ。

共産主義者にとっては資本主義は敵であり、英米資本も例外ではなくなった。学生や排外団は日本人経営の商店だけでなく英国人の商店をも襲撃して店舗を破壊したり商品などを掠奪するなどしたという。Image