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1875年に締結された互恵条約は、アメリカとハワイ両国間の生産品に対しては輸入に際して相互に関税を非課税とするが、その代わりにハワイは「領土は決して租借割譲するべからず。条約によって付与されたる特権は決してこれを他国民に譲与すべからざる」という条項を吞まされており、アメリカ以外の国に領土を割譲することが禁止されていた。
例えば次のような原稿がGHQ ( 連合国軍総司令部 ) により全文削除されている。(原文を新字・新かなに改めた)

同上書の中で、『インディアナポリス・フリーマン』紙の社説に次のような文章が掲載されたことが紹介されている。

彼の夢は、自らの経営する鉄道と船で世界一周が出来るというものであったのだが、彼がこの時期に日本を訪れたのは、彼の描いた世界一周通路の中の一つである東清鉄道(旅順—長春間)がロシアから日本の手に移るにあたり、この鉄道(南満州鉄道)を日米共同で経営することを日本政府に提案するためであった。
戦後の歴史書ではほとんど無視されているこの条項は、重要でないから省略されているとは思えない。この条項があることで、わが国がインドや中国のようにならなかったとも言えるものなのである。
その後も匪賊による日本人殺害事件が続き、1922年6月に、琿春に近い頭道溝の領事分館に約三百名からなる馬賊が来襲している。

「以夷制夷」とは敵国を押さえるのに自国は戦わずに別の国に戦わせて利益を得ることを言うが、この戦い方は支那ではなくイギリスが本家本元であり、日露戦争はイギリスがロシアの南下を防ぐために日本を利用したという指摘は正しいと思う。では第一次世界大戦ではイギリスはどう動いたのか。

ユダヤ人には当時において国がなかった。彼らは亡国の民として世界に分散して、様々な国に住み着いて、主要国で経済的支配力を握っているが、国がないので武力を持たず軍隊も存在しなかった。そんな彼らが世界を支配するというのはいかなる方法によって可能であるのか。その力の源泉はユダヤの「黄金の力」にあったという。
伊藤博文の名前が出て来るのだが、武士の身分を得たのは博文の父親である。Wikipediaによると伊藤博文は百姓・林十蔵の長男として生まれ、「家が貧しかったため、十二歳ころから父が長州藩の蔵元付中間・水井武兵衛の養子となり、武兵衛が安政元年(1854年)に周防佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって伊藤直右衛門と改名したため、十蔵・博文父子も足軽となった」とある。
このようにかなり古くから日本人が台湾に勢力を張っていたのは、商人たちがこの地を貿易上の拠点としていたことによるのだが、メンバーの中には中国人商人もいたという。彼らは明国が「倭寇」と呼んでいた勢力の一つであったと考えられる。

【表1】は同上書の表記が縦書きで読みにくいのでExcelで数表化したものだが、これを見ると、なぜ第二次世界大戦が起きたのかが見えて来る。

一五六七年といえば、まだまだ『明史』では「後期倭寇」による掠奪が行われていたことが記録されている時期なのだが、明は諸国との交易が拡大していた中で海禁政策に舵を切って、貿易活動を厳しく取り締まるようになった。


台湾に拠点を置いていた日本人の船団は、1580年、1581年、1582年にフィリピンを侵略するスペイン人と戦いを挑んでいたことが、GHQにより焚書処分された奈良静馬の著作に記されている。

文禄元年(1592年)に秀吉は、長崎の商人四名(末次平蔵、荒木宗右衛門ほか)に五艘、、京都の商人三名(茶屋四郎次郎ほか)に三艘、堺の伊勢屋某に一艘の朱印状を交付したが、その後大名十名(島津忠恒、松浦鎮信、有馬晴信、細川忠興、加藤清正ほか)、武士 (今井宗薫ほか)、日本在住の外国人(ウィリアム・アダムス、ヤン・ヨーステンほか)にも朱印状が発行されていったという。
後期倭寇の件数が増加したのは1550年代からなのだが、『明史』日本伝ではどのように書かれているか調べてみた。
高須芳次郎は足利義満の外交を「媚態外交」と記しているが、最近復刊された文部省編纂の『国史概説 上』(昭和十八年刊)においても概ね同様である。 
「前期倭寇」が頻発していた時期の大部分は、わが国の「南北朝時代」にあたっているのだが、この前後のわが国と周辺諸国の歴史を簡単にまとめておこう。中国大陸、朝鮮半島の歴史と比較しやすいように、暦はすべて西暦を用いることととする。