しばやん Profile picture
京都のお寺に生まれ育ち、大学卒業後は普通の会社に就職し、2019年1月に勤務先を定年退職。ブログ「歴史逍遥『しばやんの日々』」で日本の歴史や文化、GHQ焚書の紹介等について記事を書いています。 https://t.co/COUaXFOJoz 著書『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』
Apr 16 7 tweets 2 min read
パリ講和会議における日本の人種差別撤廃提案

日露戦争で黄色人種の日本人が白人のロシアに勝利したことがアメリカの黒人たちを目覚めさせ、白人が有色人種を支配する世界を日本人が崩していくことを期待するようになったが、アメリカは「黄禍論」を広めて、排日運動を全米に拡大させた。

1908年に日米紳士協約により、日本はごく少数を除き米国への移民を禁止し、アメリカ側は排日法案を造らないことを約束して排日運動はしばらく鎮静化したのだが、その後1914年7月に第一次世界大戦が勃発し、世界の約50ヶ国が巻き込まれ、1918年11月にドイツが連合国に降伏してようやく終結した。

翌年1月から開かれたパリ講和会議において世界の主要国の首脳が集まり、戦後処理および国際連盟を含め新たな国際体制構築について話し合われている。そしてわが国は、2月13日の国際連盟委員会において、国際連盟規約第21条の宗教の自由についての規定のあとに、次のような条文を追加することを提案している。

「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り締約国は成るべく速(すみやか)に連盟員たる国家に於る一切の外国人に対し、均等公正の待遇を与え、人種或いは国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」
shibayan1954.com/history/taisho…Image この提案を行った背景には、アメリカやカナダなどで日系移民が排斥されている問題があり、今後国際連盟で主導権を取るであろう英米などアングロ・サクソン人種の国が、人種的偏見でわが国の発展を阻害する動きを抑えたいとの考えがあったという。

わが国の提案は会議で紛糾し、結局、連盟規約第21条自体が削除されることとなって、全権の牧野伸顕は人種差別撤廃提案自体は後日の会議で提案すると述べて次の機会を待つこととなったのだが、わが国のこの提案は海外でも報道され様々な反響を呼んだ。

アメリカのウィルソン大統領は一時帰国して米議会に諮るも、この提案は内政干渉にあたるとの強い批判に直面し、上院ではこの提案が採択された際にはアメリカは国際連盟に参加しないとの決議がなされたという。

そして4月11日に国際連盟委員会の最終会議が開かれ、牧野伸顕は連盟規約前文に「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」との文言を盛り込むという修正案を提出している。

議長であったウィルソン米大統領は、提案そのものを取り下げるようわが国に勧告したが、牧野は採決を要求した。
議長を除く十六名が投票を行い、フランス、イタリア、中国など計十一名が賛成し、イギリス・アメリカ・ポーランド・ブラジル・ルーマニアの計五名の委員が反対した。
過半数の賛同を得たものの、議長のウィルソンは「全会一致でないため提案は不成立である」と宣言し、牧野は多数決で決すべきではないかと詰め寄ったのだが、ウィルソンは「このような重大な議題については、全会一致で決すべきである。」と答えて譲らなかったという。

牧野は最後に「日本はその主張の正常なるを信ずるが故に、機会あるが毎に本問題を提議せざるを得ない。今晩の自分の陳述および賛否の数は議事録に記載してもらいたい」と述べて、ウィルソンもそれを了解したという流れだ。Image
Apr 15 7 tweets 3 min read
張学良はなぜ山海関事件を起こしたか
1932年11月21日から開催された満州問題に関する国際連盟理事会において日本全権松岡洋右との論戦に勝てず、英仏が日本を支持する側に廻ったことを不満とした支那が、国際連盟に参加していないアメリカやロシアに接近して日本を牽制しようと動き出し、アメリカから飛行機五百機を購入し、担保として支那の東海岸一帯を米国海軍根拠地に提供したのだが、12月22日の大阪時事新報は、張学良が国際連盟にみきりをつけて、自ら戦闘準備に入ったことを報じている。

そして翌1933年の正月早々に、万里の長城の東端の山海関(さんかいかん)にある日本憲兵分遣所等に何者かが手榴弾を投じ、さらに小銃射撃を行った事件(山海関事件)が起きた。
さらに翌二日には日本軍守備隊が南門で中国軍から突如射撃されたために児玉中尉が戦死し、数人の負傷者が出ている。
支那駐屯軍司令官の中村中尉は、同日に張学良に対し警告文を手交し、陸軍は三日にこの事件を国内に発表。また満州国政府外交部も同様に三日に張学良に警告電文を発している。
ところが張学良の翌日の回答は、「この事件は日本軍の計画せる所でこれに対する全責任は日本軍の負うべきもの」というものであり、南京政府も一月四日に日本公使に対して、この事件は日本軍の計画によるものとし、事件を起こした兵の処刑などを要求した。
shibayan1954.com/history/taisho…Image 張学良が何の為にこのような行動を取ったかについて、一月五日の神戸新聞には次のように記されている。

「【北平三日発連合】張学良が今回の如き積極的行動を起すに至った動機につき確聞するに、既に連盟方面において支那側の期待は全く水泡に帰し、一方日満軍の熱河方面における偽勇軍掃蕩は単に時日の問題と見られるに至ったので、先ず日満軍の機先を制し日本軍をして山海関(さんかいかん)方面に行動せしめ、北寧線を危殆に瀕せしめることによって列国殊にイギリスの神経を刺戟し、イギリスを再び支那の味方に抱込み、かくて行詰れる連盟の空気を打開せんとする苦肉策に出でたるものである。何柱国(かちゅうこく)が故意に北寧線の一部を破壊せしめたのもこの理由による。
右の如き張学良の魂胆より見て、日本軍の和平に対する希望も徒労に帰すべく、成行は全く楽観を許さぬ状態となった。」
da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/01003338…

かつて北京から瀋陽(奉天)を結ぶ路線は京奉線と呼ばれていたが、1932年に満州国が成立するに伴い、奉天から山海関までを奉山線、山海関から北京までを北寧線と呼ぶようになった。南満州鉄道が昭和13年に刊行した『北支那経済綜観』によると、北寧線の沿線の天津を中心に電力会社、水道会社、獣皮・棉花の圧搾工場や石油関連企業などイギリス企業が多数進出しており、張学良は北寧線を動かなくさせることにより、国際連盟で日本を支持する側についたイギリスに圧力をかけようとしたものと考えられる。Image
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Apr 13 7 tweets 3 min read
在支の日本企業が受けた日貨排斥による影響
1931年のアメリカの対支輸出額が、それまで首位であった我が国を抜いて1位になったが、このことは支那で行われた日貨排斥運動がなければなし得なかった。

この運動の為に多くの日本企業が大損害を受けたことが、1932年4月30日から連載された中外商業新報の記事に、排日貨の影響について詳しく解説されている。shibayan1954.com/history/taisho…Image
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仕入れた商品が販売できなければ資金繰りが次第に厳しくなり、排日貨運動が長期になればなるほど仕入れ代金や経費の支払いが困難となっていく。また物資の輸送に当たる船舶の仕事が激減し、大幅な赤字とならざるを得ない。

当時上海には在留邦人が二万五千人、漢口に二千人いたというが、特に上海では排日暴動による死傷者が出たのち一月二十八日に第一次上海事変が起こり、その後約一ヶ月にわたり戦闘が続いた。

在留邦人の苦労は甚大であったのだが、彼らはいくら危険であろうとも一旦わが国に引き揚げてしまっては、支那で何年もかけて苦労して築き上げてきた商圏を失ってしまうことになることを怖れた。そこで彼らの多くは、わが国の外交努力などにより事態が改善するまでなんとか我慢して踏みとどまろうとしたのである。
Apr 12 8 tweets 3 min read
国際経済戦の中で行われた支那排日
1932年1月に第一次上海事変が起たことで再び排日運動が活発化。
戦後の歴史叙述では支那排日が英米の動きと並行して論じられることは皆無に近いが、戦前の新聞や書籍には英米の支那市場戦略の中で支那排日が論じられていることが少なくない。

1932年2月6日~7日付の東京日日新聞は、「砲火の蔭にうごく国際経済戦」という見出しで連載記事を載せている。記事では、かつて対支貿易額で圧倒的首位であったイギリスは第一次世界大戦中にわが国にその地位を奪われてしまっていた。満州事変以降に再び支那の執拗な日貨排斥運動が始まったのだが、その背景や、わが国の対支貿易にどのような影響があったかについて記事にはこう書かれている。
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このように日本品を排斥したのだが、その代わりに同等品を仕入れなければ経済が回らないことは言うまでもない。然しそれがなかなかうまくいかなかったようだ。

欧米品に乗り換えようとしても、欧米の商品は輸送費が高くつくので日本品よりも割高にならざるを得ない。支那商人は高い欧米の商品は日本品のようには売れないので仕入を絞らざるを得なくなり、輸入量が大幅に減少した。そのために支那政府の海関収入が激減し、中央政府も財政難となったという。

排日貨運動で政府も商人も大衆も苦しんでいたことは戦前の本や新聞を読まなければわからない。Image
Apr 11 8 tweets 3 min read
1931年に柳条湖事件が起きてわが国が満州事変に巻き込まれると、支那の排日貨運動が再び激しくなる一方、支那はソ連や英米に接近して日本を孤立化させ消耗させようと動いた。
その背後には英米が動いていて、彼らは排日貨運動が進行する中で、わが国が支那で拡大して来た商圏を奪取しようとしていたのである。
そしてその結果、イギリスの対支輸出高が激増した。
昭和六年(1931年)十一月以降の伸び率の異常性が見て取れる。ちなみに柳条湖事件が起きたのが九月十八日であり、それ以降排日貨運動が激烈に行われたのだが、その頃支那駐在の英国公使マイルズ・ランプソンが、日本品の代わりに英国品を入れ、関税免除を支那に要求するなど活発に動いていた。shibayan1954.com/history/taisho…Image
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昭和六年十一月三日の東京朝日新聞は、ランプソン公使が張学良や蒋介石と提携して動いていたことを報じ、満州事変後に支那がわが国と直接交渉せずいきなり国際連盟に訴えたり、その後の国際連盟の不可解な動きは、この人物が策動していた可能性を示唆している。

ランプソン公使が支那に勤務していたのは一九二六年から一九三三年までだが、彼は支那の対日方針や、国際連盟における支那の対応に大きく関わっていた可能性があると考えるのだが、この人物については戦前の著作では暗躍していたことが書かれていても、戦後の著作では重要人物として登場することは殆んどなく、満州事変と言えば関東軍の自作自演と書かれるだけだ。おそらくそう書かざるを得ない大きな力が影響しているのではないだろうか。Image
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Apr 10 9 tweets 4 min read
満州事変以降は支那の排日運動が大きく変化することになる。

長野朗は支那の民族運動を三期に分けており、
第一期は五四運動が起きた一九一九年から一九三一年に満州事変が起きるまで、
第二期は満州事変以降から一九三五年の年末まで、
第三期は一九三五年末から一九三七年の支那事変の勃発迄としている。

『民族問題概説』で長野は第二期について以下のように述べている。

第二期における支那の対日方針は「一面抵抗、一面交渉」だと書いているが、要するに武力では日本に対抗できないので、戦備を整えるまでの間は、ボイコット(日貨排斥)を行い、日本から抗議を受ければ交渉に応じては時間を稼ぎ、一方でソ連や英米に接近して、最終的に日本を孤立させ消耗させていく戦略であったという。
shibayan1954.com/history/taisho…Image 柳条湖事件からまだ日も浅い昭和六年十月一日の大阪朝日新聞の記事には、今までになく日貨排斥が徹底されるようになり、日本商人が大きな打撃を受けていることを報じている。

十月四日の中外商業新報にはさらに詳しく、上海では排日貨運動が激烈で、支那商人は日本船に商品を積み込まず、日本船が到着しても貨物の荷揚げが拒絶されるなど海運会社の打撃は大きかったようだ。

また上海の銀行は日本人の預金払い戻しに応じないなどの問題が生じていたという。これでは日本企業に勤める従業員への賃金支払いなどに支障が出ることになる可能性を示唆しているほか、日本産の砂糖が契約通りの受渡しが不能になっていることや、支那商人がジャバ産の砂糖に乗り換える動きがあることを伝えている。Image
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Apr 9 11 tweets 4 min read
支那の排日運動はどのように変化していったかを当時の新聞で確認してみた。
1.大正8年(1919)年の排日運動

画像は大正八年(1919年)七月十六日の報知新聞の記事だが、この年の五月から本格化したばかりの排日運動は学生が中心で、以前にも書いたように英米の宣教師が盛んに学生を煽動し、学生の活動資金も支援していた。

学生等は日貨(日本商品)を取扱う商店に封印を施し、もし売買すれば店主に罰金を科したり、村の村長を脅迫して日本商品を取扱わないようにさせたりしていたという。もちろん彼らには商人を取締ったり処罰する権限はなく、彼等のやったことは明らかな違法行為である。
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しかしながら、当時に於いてはこのようなやり方では日本商品を排斥出来ず、意図したことの逆の結果を招くことがあったようだ。
大正八年(1919年)九月十二日の大阪毎日新聞の記事には次のように書かれている。 Image
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Apr 8 9 tweets 3 min read
日貨排斥から抗日戦へ
支那の排日運動が始まって以降日貨排斥が行われることになり、そのやり方が次第に過激になっていったことを述べたが、昭和十年(1935年)以降になると排日運動は次第に局面が変わっていくことになる。

長野朗の『民族戦』(GHQ焚書)に、その当時の状況が解説されている。文中に出て来る宋哲元(そうてつげん)は馮玉祥(ふうぎょくしょう)の子分で蒋介石と対立していた軍人である。

その当時、支那のマスコミや映画などが日本に対する敵愾心を煽り続け、学生も農民も労働者も商人も、支那全体が抗日一色に染まっていったのである。
shibayan1954.com/history/taisho…Image 抗日運動が爆発するきっかけとなった「北支問題」については、戦後のわが国の 歴史叙述ではほとんど無視されているのではないかと思う。

わが国が国際連盟を脱退したのは昭和八年二月の事だが、その後日満軍による熱河討伐で支那兵は簡単に敗れ、張学良が失脚したあと蒋介石は満州を一旦放棄して江西省の共産党軍と戦うことに専念していた。

しかしながら蒋介石は満州をあきらめていたわけではなく、米露の接近を図って日満両国を苦境に陥れる工作をしていた。

昭和十年になると満州国熱河省の非武装地帯で、匪賊団が掠奪行為を繰り返すようになり、支那官憲にいくら取締りを要請しても匪賊を捕縛しようともしなかった。

蒋介石は表向きには日支共存共栄を説くのだが、このような匪賊を泳がせているのもまた国民政府であることは疑いようがなかったのである。

昭和十年五月三十日の大阪朝日新聞によると、最近続出する満州内部に対する支那の陰謀や対日テロ行為は明白なる停戦協定違反であり、かかる行為が今後起こるようであればわが国は自衛行動をとることを支那側に通告したと書かれている。

そういう場合にこの国は、わが国に圧力をかけるために大国の干渉を求めることが昔から良くあることなのだが、支那からの支援要請を受けた英国は即座に断ったことが六月十六日の大阪毎日新聞に報じられている。

しかしながらこの国は簡単には引き下がることなくその後も英米に泣きつき、英国は日支双方で友好的に解決を図れと回答し、日本の自重を要請するに留めている。ところが、米国は支那の要請に乗ったのである。Image
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Apr 7 7 tweets 3 min read
次第に過激化していった支那の排日運動
支那の排日運動が始まったのは大正八年(1919年)で英米が仕掛けたのだが、初期の運動はそれほど過激なものではなく支那人もわが国に対して遠慮気味のところがあったようだ。しかしながら排日教育が全国各地に広がっていくにしたがって次第に運動が過激化していったという。

長野氏は『支那三十年』(GHQ焚書)で、中国の排日活動の初期を三段階に分けて、次第に過激化していったことを書いている。

第一期では、排日と親英米の空気を造るために、中国の隅々に宣教師を送り込み、教会や学校や病院を創る一方で、中国人に「排日思想」を植え付け、日貨(日本製品)のボイコットを始めた。

第二期では、日貨のボイコット期間が長くなり、日本品に代って欧米品が中国に入ってきた。

第三期では、国民政府がボイコットを自ら主宰するようになり、ボイコットの期間も長くなり、支那でも模倣品を製造販売するようになり、わが国の経済に与える影響は少なくなかった。
shibayan1954.com/history/taisho…Image 共産勢力による「反帝国主義運動」の鋒先をかわした英国
その後英米は支那の排日活動から手を引くようになるのだが、支那の排日運動はどのように変化していったのだろうか。

長野朗の前掲書によると大正十二年(1923年)頃から、排日運動を背後で動かしていた勢力が英米系のキリスト教会から共産勢力に移っていくとともに、運動のターゲットが「排日」から「反帝国主義」に変わっていったようだ。

共産主義者にとっては資本主義は敵であり、英米資本も例外ではなくなった。学生や排外団は日本人経営の商店だけでなく英国人の商店をも襲撃して店舗を破壊したり商品などを掠奪するなどしたという。Image
Apr 6 8 tweets 3 min read
支那の排日運動は英米が仕掛けて広がった
支那の排日運動が本格化したのは大正八年(1919年)からなのだが、中国研究者の長野朗が昭和十七年(1942年)に著した『支那三十年』に、支那で排日運動が起こった事情が記されている。

長野は当時北京の中国人の家に一人で下宿していて、「排日運動」が「抗日運動」に発展する経緯を身近に見てきた人物である。彼が著した本のうち十八点がGHQによって焚書処分されているのだが、著者別の焚書点数の多さでは野依秀市、仲小路彰についで三番目になる。彼の『支那三十年』(GHQ焚書)には、次のように記されている。shibayan1954.com/history/taisho…Image 第一次世界大戦後のヴェルサイユ講和条約で山東省におけるドイツの利権をわが国が承継することが決まったのだが、北京大学の学生らが条約調印に反対する運動を起こしたことがきっかけとなって、排日運動が支那全土に波及していった。ところがこの運動には、東亜の市場を狙っていた英米が仕掛けたというのである。

長野は五四運動が始まった頃について、次のように書いている。Image
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Apr 5 8 tweets 4 min read
南京大虐殺があったとされる南京陥落から半年後の1938年6月に、蒋介石は、日本軍の進撃を阻止するために、黄河の堤防の爆破を命令している。

Wikipediaによると、「氾濫は河南省・安徽省・江蘇省にまたがる五万四千平方㎞の領域に及んだ。水没範囲は十一都市と四千村に及び、三省の農地が農作物ごと破壊され、直接的な溺死者は少なくとも数万、被害者は六百万人と言われるが被害の程度については諸説ある。」と解説されている。
ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84…

五万四千平方kmが氾濫したといっても広すぎてなかなかピンとこないのだが、近畿地方の面積が三万三千百十七平方km、四国地方が一万八千八百五平方kmだから、近畿と四国を合わせたよりも広い面積に被害が出たことになる。上の画像は「徐州会戦経過要図」だが、青い部分が氾濫地域である。
この事件で黄河の流れが南側に変わり黄海に注ぐことになったが、事件から十年後に堤防が再建されることにより、以降は一九三八年以前の流域に戻されているという。

この事件は「黄河決壊事件」と呼ばれているが、この事件は戦後の日本人にはほとんど知らされていない。
shibayan1954.com/history/taisho…Image 黄河決壊事件のことは当時のわが国の新聞などにもちろん報道されたのだが、ネットで見つけた新聞の画像では、記事の本文が殆んど読めない。

この事件の四ヶ月後に出版された仲小路彰著『世界戦争論』(GHQ焚書)に黄河決壊事件の詳細が記されている。

この様に国民党軍は自分で黄河の堤防を破壊して黄河の水を溢れさせ、百万人もの水死者を出しておきながら、「日本軍の仕業だ」とのデマを流した。そればかりではなく、決死の救助作業に従事し多くの避難民を助け修復作業に従事していた日本軍や被害者の良民に対して、国民党軍は機銃掃射を浴びせてきたというのである。Image
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Apr 2 6 tweets 3 min read
GHQが焚書した米国側の真珠湾攻撃の記録『真珠湾』には、アメリカ最大の海軍基地であり、多くの戦艦、巡洋艦、駆逐艦等あらゆる型の軍艦がが碇泊していた真珠湾を日本軍が攻撃した場面が多数描かれている。一部を紹介させていただく。
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この水兵は手さぐりで檣の下端までたどりつき、油で燃えている海に飛び込み、 出来るだけ水中に潜って一生懸命に泳ぎ、すぐ近くのフォード島までどうにか辿りついたが、髮の毛は全部焼け焦げてしまっていたと記されている。

あらゆる戦艦、あらゆる巡洋艦の甲板から、舷窓から何千という将兵が海中に飛び込み海岸に泳ぎ着こうとしたが、中には溺れたり、艦内に閉じ込められて命を失った者もいた。

同上書には、軍艦の名前が記されていない記録が少なくないのだが、被害が公開されていたオクラホマ、ユタ、アリゾナ以外の艦名は軍の機密に属するので書けない事情があるという。しかしながら沈没したアリゾナに対する爆撃については「もっとも凄まじい爆撃」と記されている。

日本軍は重くて硬い弾頭を持った爆弾を装備させた爆撃機に三千メートル以上の上空から急降下させて戦艦に接近して爆弾を投下する攻撃方法で、軍艦の分厚い装甲板を突き破っていったのである。Image
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Apr 1 8 tweets 3 min read
GHQが焚書処分した、米国側の真珠湾空襲の記録

昭和十六年(1941年)十二月八日に日本軍がハワイの真珠湾に碇泊していた多数の戦艦を撃沈し、ホノルルの飛行場を爆撃したのだが、この攻撃に関してアメリカ側は「奇襲だ。騙し討ちだ。」と主張し、「日本は卑怯な国である」と世界に宣伝し、今もそのアメリカの主張が歴史的事実であるかの如く伝わっている。

GHQ焚書リストの中にアメリカ人のブレーク・クラークという人物が著した『真珠湾』という本がある。この本が翻訳出版されたのは昭和十八年四月で、訳者は、海軍大佐の広瀬彦太と書かれている。なぜ戦争の最中にこの本が海軍によって訳出されたかについては、訳者の広瀬彦太が冒頭に書いた「本書を読む人の為に」を読むとよくわかる。
「原著者は、日本の真珠湾攻撃に関し、米国指導者が、ことさらに隠蔽せんとし、あるいは触れざらんとし、あるいは欺瞞せんとした諸事実を、無意識的にか、または不用意にか、ことごとく本書において白日の下にさらけ出している」
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アメリカは日本軍による真珠湾攻撃で大きな損害が出たことについて、当初はひた隠しに隠そうとし、日本軍も正確には掴めていなかったのだが、この本には米軍が具体的にどのようなダメージを受けたかが具体的に描かれている。また日本軍がいかなる戦い方をしたについても詳しく記されている。

アメリカで本書が出版されたのは、真珠湾攻撃が不意打ちであり、莫大な損害が出たことを伝えることで、アメリカ国民の戦意を高揚させる意図があったことは言うまでもないが、この本の各章の冒頭には訳者の解説が付されており、アメリカの宣伝謀略の正体が明らかにされている。

またこの本の巻末には「ロバーツ委員会報告書」の訳文と訳者による解説が載せられている。この報告書はルーズヴェルト大統領が真珠湾での敗戦原因調査を命じたもので、アメリカの当時の政治情勢、軍事情勢を分析し、真珠湾で米軍が惨敗した原因がアメリカ側にあったことがまとめられている。

この『真珠湾』という書籍がGHQによって焚書処分された理由は、おそらく「ロバーツ委員会報告書」の内容が収録されていることや、訳者の解説によりアメリカの宣伝謀略の内容が曝されている点にあるのだろう。
Mar 31 7 tweets 4 min read
日韓併合前の朝鮮の人々
基本的にこの国の為政者は多くの人々が生活するのに必要なインフラを整えるという考えが乏しかったようである。もちろん道路も舗装されておらず、上下水道設備もない。荒川五郎によると、この国では雨が降ると人々は働かなかったという。
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驚くようなことが他にもいろいろ書かれているのだが、同様な記述はイザベラ・バードの『朝鮮紀行』にも出ているので、荒川が書いていることに間違いはないだろう。このような生活は特に貧しい地域に特有であったわけでもなく、首都の京城(けいじょう:ソウル)でも同様であったようだ。洗濯や炊事は小川で行っていたようだが、なぜ井戸を掘らなかったのかと考えてしまう。掘っても雨が降れば砂に埋もれてしまうからなのだろうか。

人々がこんな生活をしているなかで、日本が朝鮮の近代化に取り組むようになると、どのような反応をしたかが興味深い。Image
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Mar 30 8 tweets 3 min read
英国も米国も日本が韓国を保護国とすることを支持したのだが、欧米列強がこの国に関心を示さなかったのは、貧しすぎて関与してもメリットがないと考えていたことはイザベラ・バードの『朝鮮紀行』を読めば見当がつく。

この時期に朝鮮半島を訪れた日本人の記録も残されている。当時衆議院議員であった荒川五郎が朝鮮半島を訪れてレポートした、『最近朝鮮事情』という本が明治39年(1906年)五月に出版されている。この本やイザベラ・バードの本などで当時の朝鮮半島がいかなる状況であったかを知れば、わが国がこの国の近代化の為にどれだけ苦労し、莫大な投資を行ってきたことが誰でも理解できると思う。

荒川五郎が朝鮮半島を視察したのは明治38年(1905年)の夏から秋にかけてで、釜山に上陸して彼は、わが国が建設して開通して間もない京釜鉄道(釜山—ソウル)に乗車し、車窓の景色が日本とは全く異なっていることに驚いている。
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人々が煮炊きや暖房のために木を伐っていけば、計画的に植林をしない限り、いずれどの山も禿山とならざるを得ないのだが、確かに当時の朝鮮の写真で確認できる山は禿山ばかりである。

樹木を失った山は保水力がなく、大雨が降れば、山肌を侵食して勢いよく川に流れ込むため、川は氾濫し、濁流が田畑を荒らすことになる。その後わが国が植林をし、治水工事を行って農地開拓を行ったことは言うまでもない。Image
Mar 29 10 tweets 4 min read
日露戦争時多くの韓国人が親日に傾いた

李氏朝鮮は両班という特権階級が平民を搾取し、官吏たちも腐敗していたのだが、それまで両班に搾取されていた平民や知識人たちの多くは、わが国が日露戦争で勝利をつづけたことから次第に日本に好意を寄せるようになったということを、日露戦争初期に朝鮮北部を訪れたカナダ人の新聞記者が書いている。
shibayan1954.com/history/meiji/…Image 日露戦争が始まった1904年の秋に李容九(りようきゅう)は、アジアが団結して欧米帝国主義の侵略を阻止すべきであり、さらに日本と韓国が軍事同盟を結ぶことがロシアに対抗し韓国の富国強兵を図る方法であると主張し、一進会を設立してその会長となっている。

その頃の韓国政府のスタンスはわが国に非協力的であったために、わが国が満州に兵を送り込むために計画した鉄道建設が遅れていたのだが、一進会が京城から新義州までの鉄道建設に立ち上がり、北進隊を組織して日本軍に協力したという。Image
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Mar 28 8 tweets 4 min read
日露戦争緒戦で日本軍が勝利したのを見て親日に一変した韓国

ロシアと我が国の交渉は決裂して一九〇四年に日露戦争が始まった。中村粲(あきら)著『大東亜戦争への道』にはこう解説されている。
shibayan1954.com/history/meiji/…Image 韓国政府は、日韓議定書を結ぶ一ヶ月前の一月二十一日に、日露交戦の折には戦時局外中立をすると宣言したばかりであったのだが、二月九日の仁川沖海戦で日本の艦隊が露艦ヴァリャーグとコレーエツおよび露船スンガリーを攻撃してこれを爆沈させると、韓国は親日に一変して、二月二十三日に日韓議定書を締結したのである。

そして半年後の八月二十二日に第一次日韓協約を締結して韓国は日本政府の推薦する財政と外交の顧問を受け容れることに同意した。

わが国が財政顧問として朝鮮半島に派遣したのは、大蔵省主税局長を長年務めた目賀田種太郎だが、彼は紊乱した朝鮮の財政整理に力を尽くし、最初に通貨の改革を行ったという。

前掲書にカナダの新聞記者F.A.マッケンジーはこの改革を高く評価したことが紹介されている。Image
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Mar 27 6 tweets 3 min read
中国の属国であった李氏朝鮮
日清戦争の目的は、わが国が朝鮮を独立国として清国に認めさせるための戦いであった。そのことは日清両国の宣戦詔勅を読めばわかる。

また、日清戦争わが国が勝利し、後に両国間で結ばれた下関条約の第一条には
「第一条 清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す 因て右独立自主を損害すべき朝鮮国より清国ニ対スル貢献典礼等は将来全く之を廃止すべし」とある。

そもそも李氏朝鮮という国は、一三九二年に李成桂が高麗王位を簒奪して高麗王と称したことからはじまるのだが、すぐに明(みん)に使節を送ってその臣下となり、朝鮮の国号と王位を下賜されている。要するに李氏朝鮮は、国家成立した当初から中国の属国であったというのが歴史の真実なのである。
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李氏朝鮮の朝貢使節に対する中国の待遇
では中国は李氏朝鮮とどのように接していたのだろうか。黄文雄氏の著書には次のように解説されている。 Image
Mar 26 9 tweets 4 min read
GHQ焚書で読むアメリカのハワイ併合と日本の抗議

国際親善訪問から帰国したカラカウア国王は、このままではアメリカに併合されてしまうという強い危機感があった。しかしながら、王権の強化を図りハワイの伝統・文化を復活させようとしたことがアメリカを強く刺激することとなり、アメリカの圧力により憲法を押し付けられ、カラカウア王の国政に対する権限のほとんどを奪われてしまう。

『ハワイを繞る日米関係史』(GHQ焚書)には、次のように解説されている。
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1875年に締結された互恵条約は、アメリカとハワイ両国間の生産品に対しては輸入に際して相互に関税を非課税とするが、その代わりにハワイは「領土は決して租借割譲するべからず。条約によって付与されたる特権は決してこれを他国民に譲与すべからざる」という条項を吞まされており、アメリカ以外の国に領土を割譲することが禁止されていた。

ところが、さらに1887年11月に重要な修正がなされ、アメリカ政府は真珠湾に出入し、アメリカ船舶の積荷や修理等に必要な施設を建設する権利をハワイに認めさせたのである。

 さらに同年の憲法改正で、白人はハワイに帰化しなくとも国法遵守を宣言すれば参政権が与えられる一方、有色人種は参政権が認められなかった。
かくしてハワイの政治・経済はアメリカに完全に支配されるようになっていった。Image
Mar 24 7 tweets 3 min read
アメリカのメリーランド大学図書館に、第二次世界大戦後1945年から1949年までに日本で出版された印刷物のコレクションである『プランゲ文庫』がある。このコレクションは連合国軍占領下の日本で民間検閲支隊によって検閲目的で集められた出版物なのだが、マイクロフィルム化・デジタル化が進められ、事前予約により誰でも閲覧が出来るという。

明星大学の勝岡寛次氏はこのプランゲ文庫を5年間にわたり調査され、平成十七年(1995年)に『抹殺された大東亜戦争~~米軍占領下の検閲が歪めたもの』という本に纏めておられる。この本の扉には、当時の検閲官が手書きで修正したり文章の抹消を命じている原稿の画像が紹介されており、本文においても検閲によって削除された文章が網掛けで表示されているので、これを読むとGHQが戦後の日本人にどのような歴史を封印し、どのような歴史を押し付けようとしたかが見えてくる。
shibayan1954.com/history/showa/…Image 例えば次のような原稿がGHQ ( 連合国軍総司令部 ) により全文削除されている。(原文を新字・新かなに改めた)

「顧みるに大東亜戦争中、旧敵国側には国際法違反の行動が随分あったようである。無辜の一般市民に対して行える無差別爆撃、都市村邑の病院、学校、その他の文化的保護建物の無斟酌の破壊、病院船に対する砲爆撃など、数えれば例を挙げるの煩に堪えぬほど多々あった。(中略)

これらの残虐行為を含むいわゆる戦律犯に問われるべき被告に対する擬律処断は、もっぱら戦勝国が戦敗国の彼等に対して行うのみで、戦勝国のそれは不問に附せられるという現行の面白からざる偏倚的制例の下にありては、公式の裁判記録の上には専ら日本の戦律犯人のみがその名を留められることになるが、国際法学者は別に双方の戦律犯を公平に取り扱い、これを国際法史の上に伝え残すの学問的天職を有すべく、即ちわが国は惨敗を喫して完全無比の無武装国とはなったけれども、国際法の学徒にはなお尽くすべき任務が十二分に存するのである。(信夫淳平「我国に於ける国際法の前途」『国際法外交雑誌』第四十五巻三・四号、昭和二十一年三月)」『抹殺された大東亜戦争~~米軍占領下の検閲が歪めたもの』p.19」

この削除理由は「連合国批判」とのことだが、この事例から、GHQは戦勝国である連合国が犯した犯罪はすべて不問に付し、日本だけを批判の対象とする姿勢であったことの見当がつく。

その後、『プランゲ文庫』は国立国会図書館での一部公開がなされるようになり、今ではかなりの資料が国立国会図書館に行くか遠隔複写サービスを利用することにより閲覧することが可能となっている。dl.ndl.go.jp/collections/A0…
Mar 23 7 tweets 3 min read
日露戦争以降のアメリカで排日運動が広まっていったのだが、アメリカの黒人たちは日露戦争に日本が勝利したことにどのように反応したか。

レジナルド・カーニー著『20世紀の日本人 アメリカ黒人の日本観1900-1945』という本に、日露戦争をアメリカの黒人知識人たちが歓迎したことが書かれている。
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同上書の中で、『インディアナポリス・フリーマン』紙の社説に次のような文章が掲載されたことが紹介されている。

「東洋のリングで、茶色い男たちのパンチが白人を打ちのめしつづけている。事実、ロシアは繰り返し何度も、日本人にこっぴどくやられて、セコンドは今にもタオルを投げ入れようとしている。有色人種がこの試合をものにするのは、もう時間の問題だ。長く続いた白人優位の神話が、ついに今突き崩されようとしている」同上書 p.65~66

「茶色い男たち」はもちろん日本人の事である。わが国がロシアとの戦いに勝利したことについて、当時の米国黒人の知識人たちの反応のなかには次のようなものがあった。白人たちが、このような黒人たちの反応が拡がることを怖れたことは当然のことである。Image
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