なるほど、「紅の豚」に出てくる男たちは、皆バカで単純だが、それは人生を刻んだ上での、辛さや哀しみを抱えた上での「一皮むけたバカ」で、決して「愚か者」ではない。ここんとこのさじ加減が重要なんだろうね。
だからジーナは、そんな男たちのバカさを「許してやっている」的な都合のいい女ではなく、ただ彼女は「彼らがそういう複雑な人生を生きた上での単純な人間である」ことを「知っている」のだろうと。
ジーナは「知っている」人だから、ポルコが「自分のせいで”いいヤツ”らを死なせた」「大切な女の子を不幸にした」「自分は人並みの幸福を求め甘受する価値のない人間だ」「いや、俺はもう豚だ」となってしまったことも「知って」しまったのだろうと。
だからジーナはひたすら「庭で待つ」ことを選んだのだろうと、受け身なのではなく、「ポルコが人を愛せるようになるには、人間に戻らなければならない」「ポルコが人間に戻るには、ポルコ自身が自分を許してやらねばならない」「誰かが”許す”ではダメなのだ」と「知って」いるから。
そういった様々な交錯があった上での、「一見すれば単純バカ男たちのバカ騒ぎと、それをたしなめる美女」の構図であったと、まさに「少し複雑」な事情があったのだろうと。
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