四冊目の「思考の枠を超える」は、不幸なスタートを切った。発刊されたのは新型コロナの恐怖が最高潮に達し、書店も長期休業の真っただ中。多くの書店で平積みになることになっていたのに、書店が開いた時にはその期間が終了したというありさま。何とも運が悪い。
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そのためか、4冊のうちまだ重版していないのはこの本だけ。ただ、この本は、私が他の3冊の本を書くことができた「基礎」をまとめたものでもある。もしこの基礎がなかったなら、他の3冊は書けなかったし、もちろんツイッターもこんなにつぶやけなかったろう。
私は若い頃、大変不器用なタチで、何をやってもダメだった。勉強もダメ、スポーツもダメ、人付き合いも苦手、何をやらせても不器用。何をやってもいいところがなかった。親戚の中で一番不器用という評判を得ていた。私自身、それを自覚せざるを得なかった。
その不器用さから脱却するのに、苦心惨憺した。不器用さから抜け出したくて、実にいろんな試行錯誤を繰り返した。もがき苦しんだ。そのもがきがどうにか実を結び、学ぶことも運動も、初めて取り組むことも、案外スッとできるようになった。そうなったのは30歳過ぎてから。実に遅い。
しかし、なぜ不器用だったのか、そして自分がどうやって不器用さから脱却できたのか、今一つ言語化できていなかった。どうやらこういうことらしい、と言語化できたのは、4冊目の本を書くほんの1,2年前。40代後半になってからだった。
不器用さの原因。それは思考の枠組み(思枠)ではないか、と気がついた。私たちは重そうな荷物を見た時、無意識のうちに身構え、思ったより軽いと、すっぽ抜ける。逆に軽そうだと思って重かったりすると、腰を痛めたりする。私たちは瞬時に思枠を抱き、それに従って行動してしまう。
そして、不器用な人は、ある強固な思枠を抱いている。すべてを意識的にコントロールしなければ、という呪い。それは勉強することにしろ、運動することにしろ、新しいことに取り組むときにしろ、何につけても「意識」が強すぎる。
キャッチボールをするのでも、意識してボールをとろうとする。私は子どものころ、ボールの行き先にグローブを構える、ということを「意識」した。その結果、顔面に向かって飛んでくるボールの場合、グローブは顔の前にかざすことになり、ボールが見えない。あんまり見えないのでグローブをずらすと。
顔面を直撃。バカみたいだけれど、そのくらい私は不器用だった。中学生になって剣道を始め、少々の打撃や痛みは怖くない、となってから、顔面に向かって飛んでくるボールは直前までボールを見つめ、ギリギリのところでグローブを上げればよい、という方法を「発見」してボールをとれるようになった
何をするのでも「意識」的だと、実に不器用になる。もっと身体にゆだねればいい、預ければいい、と気がつき、実験し始めたのは大学生になってから。「荘子」と「新インナーゲーム」を読んだのがきっかけ。
「荘子」には、包丁の語源になった伝説的料理人、庖丁のエピソードが。庖丁は王様の目の前で牛をさばいて見せた。巨大な牛が瞬く間に、踊るかのようにスパスパと解体される様子を見て、王様は感激。「お前の包丁はよく切れるのだな」と感心すると、庖丁は次のように答えた。
「普通の料理人は切ろうとします。だから刃先が骨や筋に当たって刃こぼれし、何度も研がなければならなくなります。私は牛を心の目で観察し、筋と筋の隙間が見えたら、そこにそっと刃先を差し入れるだけです。すると、ハラリと肉が離れます。切らないから、何年も研いでいません」
私はこのエピソードを読んで、「俺は切ろうとしていたな」と気がついた。もし私が牛を解体しようとしたら、マニュアルを横に置いて、その通りに従って切ろうと下だろう。目の前の牛をろくに観察せず、マニュアルの方を信じて。うまく切れなければマニュアルが悪いと逆恨みして。
「切ろうとするのをやめよう。まずは観察してみよう。身体の動きも、心の動きも、無意識に委ねてみよう」と考えるようになった。そう思えたもう一つのきっかけが、「新インナーゲーム」だった。
「新インナーゲーム」の著者、ガルウェイ氏は、テニスのコーチとして生徒を指導する際、バックハンドがうまくなった生徒がいたので、ほめた。するとその次の瞬間からホームラン続出。「さっきまでこう振っていたよ」とフォームを指導すると、さらに動きがぎこちなく。生徒、頭真っ白。
教えれば教えるほど不器用になり、動きはぎこちなくなるのを何度も経験したガルウェイ氏は、声をかける方法を変えてみた。「ボールの縫い目を、スローモーションでも見る気持ちで見つめて」。すると、フォームのことも何も言わないのに、ホームランだったバックハンドが再びきれいに打てるように。
ガルウェイ氏は次のように分析している意識(セルフ1)と無意識(セルフ2)があって、ほめられたり教えられたりすると、意識が身体の操縦権を握ってしまう。ところが意識は大変不器用。同時に二つ以上のことができない。そのため、身体の動きがひどくぎこちなくなる。
そして意識は、罵るのが上手。「ばかやろう!違う、こう、こう動けって言ったろう!うすのろ!」と、自分で自分を罵る。それに動揺して、身体はますますぎこちなくなり、まったくうまく動けなくなる。
ガルウェイ氏の「ボールの縫い目に注目して」は、意識をボールの縫い目を見ることに集中させることで、身体の操縦権を無意識に取り戻させる方法だった。無意識は複数のことを同時並列で処理するのが得意。手首、ひじ、肩、腰、ひざ、足首。これらを同時に調整して実に見事に柔軟に動かす。
そう、意識が身体や思考の操縦権を握ってしまうと、人は不器用になる。無意識に身体や思考の操縦権をゆだねると、無意識は見事に柔軟に器用に運用し、調整し、失敗があってもそこから学んで調整し、うまくできるようにする。不器用な人は意識が強すぎるから。
変なたとえをするようだけれど、上田秋成「雨月物語」に次のようなエピソードが。さあ打ち首にされようという悪党がものすごい形相で「この場にいるやつ、全員呪い殺してやる」と喚いた。そのあまりの剣幕に、その場にいる人々が恐れおののくほど。
そこで代官が「もし呪い殺せるというのなら、打ち首になった後、目の前のあの石にかじりついてみろ」とそそのかした。そして打ち首に。コロコロと転がった首はなんと、本当に石にかじりついた。現場は大パニック!本当にかじりついた!この場にいるみんな、呪い殺される!と。
ところが代官、平気な顔をしている。あなたがよけいなことを言ったせいで本当に呪い殺されることになってしまったかもしれないのに、なんでそんな平然としているんですか?となじられると、代官は次のように答えた。
「なに、石にかじりつくのに必死で、呪い殺すことなんて忘れているよ」
これは、一つのことに集中すると、他のことがおろそかになるという意識の特徴をよくとらえたエピソードのように思う。意識は同時並行で物事を処理するのが大変苦手。不器用。
なのに不器用な人は、意識に身体や思考の操縦権を与えてしまう。その結果、複数のことを同時並行で処理する無意識から操縦権を奪ってしまい、何か一つをやりおおせても他のことがおろそかになる。この結果、実に不器用でぎこちない動きになってしまう。
何事も意識的に処理しよう、という人は不器用になってしまう。これは、勉強はできるけれど運動が苦手、という人に比較的多いように思う。身体の操縦権を意識に握らせてしまうから、運動が実に不器用になる。他方、勉強はコツコツやれば頭に入るから、意識にゆだねても問題ない。
私は勉強も運動も苦手だった。中学生になった私は、一向に英語が覚えられない母親に心配されて、「うさぎは?」「えんぴつは?」と問題を出されては、英単語が全然思い浮かばなくてウンウン言っていた。すると横で週刊ジャンプを読んでいた弟が正解を全部答えてしまった。私は腹を立て、ケンカに。
「単語を覚えられないあんたが悪い」という母親の叱責に、返す言葉もなかった。
私は当時、「うさぎ、ラビット、うさぎ、ラビット」と言葉を繰り返し言い、覚えろ、覚えろ、と自分に強く命令することが記憶する方法だ、と思っていた。しかしそうしても全然覚えられなかった。
ところが、「覚えられなくて当然だよね」と考えるようになり、記憶力は自分ではどうしようもないもの、いわば「他人」のようなものだと考え、「記憶力さん」にお願いする形、委ねる形にしてみると、すんなり覚えられるようになった。
ラビット、ラビット、という響きに合わせてウサギがピョンピョン跳ぶ姿をイメージしたり、「らび?」とか言ってこちらを振り向くかわいいウサギを想像したりして、「記憶力さん」が印象に残りやすいようにいろいろ工夫すると、すんなり覚えられることに気がついた。
自分の身体や思考、心といったものは、「自分のもの」だと思っていたけれど、自分の思い通りには決してならないものらしい、だったら他人だと考え、「記憶力さん」が気持ちよく動いてもらえるように、身体も気持ちよく動けるように、思考も心も。「他人」扱いして委ね、預けるようにしたら。
スムーズに動くようになった。身体も思考も心も、「記憶力さん」も。自分のものだと考え、自分の支配下にあるものだとみなし、命令すれば自分の思い通りに動かせる、と考えている間はぎこちなく、動きが大変悪い。まるで指示待ち人間。しかし。
身体も思考も心も記憶力も、すべて自分の思い通りには動かない「他人」だと考え、他人に気持ちよく動いてもらえるように、おぜん立てだけはしっかりやり、あとは「祈る」。それしかできないのだ、と考えるようになってから、どれもがスムーズに動くようになった。
つまり、不器用な人は自分の「無意識」を信じていない。任せていない。委ねていない。意識のコントロール下に置こうとし、支配しようとすることで、無意識の柔軟な動きを邪魔し、ぎこちなくしているのではないか、ということに気がついた。
そして、無意識への不信感は、「思枠」が原因している、ということに気がついた。「ねばならない」「であるべき」という強迫観念、「呪い」があって、その呪いが特定の思考の枠組み(思枠)を固定化し、その思枠の中でしか動いてはならぬ、と自分で自分を縛り付けているのでは、と。
人に親切にしなければならぬ、という言葉を不器用な人(意識が支配的な人)は、世間で言われているところの「親切な人」の振る舞いをイメージし、そのイメージを再現しようとする。相手がその振る舞いを親切に思うかどうかを観察せずに。
人は正直であらねばならぬ、と教訓を受けると、不器用な人、意識が支配的な人は、何はともあれ正直になろうとすることで、相手がそれによって傷ついたとしても、「正直に勝る善行はない」と必死に自己弁護して、不都合な現実から目を背けるようになったりする。
不器用な人は、「ねばならぬ」「であるべき」という思枠を自らにはめてしまい、その思枠に従おうとすることで、身体も思考も心の動きも意識のコントロール下に置こうとしてしまう。
こうしたことを言語化するのに、実に20年もかかってしまった。まだ若かった自分に聞かせてやりたい。もっと無意識を信じたらよいよ、ゆだねたらよいよ、「思枠」をもっと揺さぶり、ずらしてごらんよ、と勧めたい。そうすれば、もっと楽に脱却できただろう。
四冊目の本は、何事にも不器用で仕方なかった若かったころの自分に読ませたい、聞かせたい言葉を紡ぐつもりで書いた。もう少し苦労せずに「呪い」を解除し、思枠を自在にずらし、無意識を信頼し、委ねることができるように。
そうしたことができるようになって初めて、子どもの指導とかもうまく回るようになった。意識はひたすら観察に徹し、あとは無意識に委ねたら、無意識が、その時の自分で最良の仮説を自動的に紡ぎ出してくれる。その仮説に従って試してみる。その試行錯誤を繰り返せば、最短で克服できることに気づいた。
自分自身さえも他人のごとく、言うことを聞いてくれない存在なら、他人ならなおさら。ならば、言うことを聞いてくれない他人が比較的動いてくれるようになるには、どうしたらよいのか。それが先行した3冊の本に結実した。
だから、私にとって、四冊目の「思考の枠を超える」こそが出発点。基礎。これによって不器用さから脱却して初めて、部下の指導や子育てでいろいろな発見が可能になり、自分には不可能だと思っていた創造的なこともできるようになった。「思考の枠」を把握したからこそ、できるようになったこと。
最初から器用な人、運動が得意で、友達付き合いもうまい人は、私の4冊目の本を読んでも「とっくに知っているよ」と感じるばかりで、たぶん、何も響かないと思う。そうした人にとっては時間の無駄だから、読まなくてよいと思う。ただ、私と同じように不器用で苦しんでいる人なら。
お役に立つのでは、と思う。
あるいは、器用な人でも、思い込みの激しいところがある人にはお役に立つかも。普段は器用でも、これはこうだ!こういうものだ!ときめつけることで起きるゴタゴタで苦しんでいる人には、「思枠のずらし方」が役に立つかもしれない。
「思考の枠を超える」というタイトルは出版社がつけたのだけれど、実は私は、気に入らなかった。このタイトルだと、何かすごいことをする人のための本、というイメージになり、本当に読んでほしい人が手に取りにくいのでは、と懸念したから。
すごいことをするどころか、普通の人がラクラクできることができなくて困っている人にこそ、読んでほしいと思っている。生きづらさを抱えていてほとほと困っている人に。自分で自分に呪いをかけてしまって、身動きが利かなくなっている人に。
私のつけたかったタイトルは「思考の枠のずらし方」。実際、本の内容を見ていただくと、思考の枠を「超える」なんてことはちっとも書いていなくて、ずらす方法ばかり。「超える」なんて書くとすごいことが書いてあるように感じるけれど、私はもっと地道なタイトルの方が適している、と感じる。
だから、四冊目の本は「思考の枠のずらし方」という、実に野暮ったいタイトルの本だと思っていただいた方が良い。このタイトルに興味が引かれる方は、読んでみていただきたい。私なりに、様々な方法で「呪い」の解除法を書き留めてみたつもり。
実は、器用で思考が柔軟で運動も得意な人でも、「思枠」に囚われている。ただその思枠が、同じ時代人みんなが信じているおかげで問題としてとらえられないだけ。しかし、器用な人までも信じてしまう「思枠」は、世界を持って行ってしまう恐ろしさがある。
ドイツには、賢明で思考の柔軟な人がたくさんいたはずなのに、ナチスによる支配にあっさり魅了された。森毅「イイカゲンがおもしろい」などによると、軍国少年は決まって当時の優等生だったという。誰からもほめられる優等生が、時代を支配する「思枠」に染め上げられる。
時代の優等生、寵児さえも支配される「思枠」にどうやって気づけばよいのか。それもまた「思枠」である、と気がつくにはどうしたらよいのか。その「思枠」をずらすにはどうしたらよいのか。それについても、まとめてみたつもり。
器用に生きられる人ほどかえって気づきにくい「思枠」がある。むしろ、不器用な人が自分の不器用さを自覚し、それを克服する方法をマスターとしたとき、器用な人が気づけなかった「思枠」に気づけるようになるのだと思う。不器用だったからこそのアドバンテージもあるように思う。
いま、世界は大きく変容しようとしている。次の時代はどこに進もうとしているのか?それを適切な方向に動かすにはどうしたらよいのか?それについても、私なりに仮説をまとめてみたつもり。まだ生半可ではあるのだけれども。
四冊目の本は、私がいちばん言語化に苦労した部分。つまりそれだけ、自分の奥底の、基礎の部分だからだと思う。それだけに分かりにくい部分があるようにも思う。言語化がまだつたない部分がある。でも、もし自分の不器用さに苦しんでいるなら、一度手に取って読んでみていただきたい。
まとめました。

不器用者の呪いを解くために|shinshinohara #note note.com/shinshinohara/…

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