青森県下北地方~北海道道南には独特の餅菓子「べこもち」がある。
もち米と粳米を混ぜて作り、模様を施した後金太郎飴のように切って蒸す料理だ。

これは江戸時代に北前船で入ってきた文化が現地で変化したもの。

なので、道南と下北では変化の仕方が異なり、下北のものはカラフルに変化していった。 ImageImage
青森県下北地方では戦後、時代の流れの中で少しずつ各家庭での継承が減っていた。

ところが1970年代、べこもちは役所の農林部に注目された。当時、青森県では米が余っていたからだ。

米の消費拡大と町おこしのため、伝統的柄だけでなく、工夫を凝らし様々なバリエーションのべこもちが作られるように Image
一方北海道道南では葉っぱ型のべこもち。

北海道ではちまきや笹餅などを作る習慣がほぼない。
そのため、その代わりに葉っぱの形をしたのではないかと言う説が濃厚だ。

北海道は広い。
元々のべこもちだけでなく、各地の文化などが混ざり合っているため、葉っぱ形以外にも様々なバリエーションがある Image
北前船で運ばれた文化なので、源流は日本海にある。
例えば佐渡には「やせうま」という類似の米菓子がある。

文化の伝言ゲームは、その地域の環境や人間の思いによって変化しながら伝わって行くものなのだ

#にいがたさくらの小話 その387 Image
参考文献
青森県下北地方におけるべこもちの継承形態と地域的特色
u-gakugei.repo.nii.ac.jp/?action=reposi…
江差・上ノ国・松前の「ベコモチ」
do-bunkyodai.repo.nii.ac.jp/index.php?acti…
涅槃会の供え菓子 佐渡のやせごま
jstage.jst.go.jp/article/ajscs/…
餅菓子文化の伝承: 北海道における 『べこもち』
do-bunkyodai.repo.nii.ac.jp/?action=pages_…

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May 25
壊血病といえば、ビタミンC欠乏により発症する病気で、大航海時代の西洋の船乗り達がよく罹患した。

だが西洋だけではなく、江戸期日本でも蝦夷地警備をする武士達が罹患し、尊い犠牲を出す。
時代が下ると、対策としてコーヒーが飲まれた。

コーヒーにはビタミンCは含まれていないが、なぜか効いた Image
彼らは米、味噌、沢庵、漬物など新鮮な野菜以外は本土と変わらない食事を取っていたが、ビタミンは足りなかった。

ビタミン不足を補う大根が支給されることもあったが、全員には行き渡る量ではなかった。

そもそも寒い蝦夷地。
極寒の中、知識のない彼らは謎の奇病にやられ、壊滅する隊もあった
しかし日本にはオランダから入ってくる書物だ。

「コーヒーが効く!」

1803年に日本の蘭学者がそう紹介した。
だがそれは、150年前の誇大宣伝。
既に西洋では柑橘が効くことが知られていた。

しかし、オランダは商機を感じた。
当時、オランダはインドネシアでコーヒーを作っていたからだ。
Read 8 tweets
May 24
大正時代、淡路島の小作農民達は過酷だった。

他の地域では小作料として米を払えば済むのに、淡路島だけは二毛作の麦まで現物納品していたからだ。

「稼げる物を植えんとアカン」
そこで試されたのが、玉ねぎ。

これが淡路島の気候や農家にマッチし、現在まで100年以上続く玉ねぎの名産地となった。 Image
明治時代に栽培が始まった玉ねぎは、まだ一般の食卓には馴染んでおらず、都会で消費されていた。
当時の玉ねぎ先進地域は大阪泉南。視察に出向いた淡路人はイケると確信した。

阪神地域に近い淡路島も海路を使えば輸出条件は同じであり、当時の価格は麦の3~4倍。

村の有力者達も納得せざるを得ない。
こうして始まった淡路島の玉ねぎは、販路を確立させ徐々に増えていき、戦中・終戦直後の食糧難の時期を除き安定して増えていく。
また農業技術も進歩し、稲+玉ねぎの二毛作から、稲+野菜+玉ねぎの三毛作に進化。

島の外に出なければ職がない当時、この進化により農業を続けることができた。
Read 7 tweets
May 23
江戸時代、米相場の発展に伴い情報の速達性が尊ばれた。

相場情報を印した紙を昼夜交代で飛脚を使っても江戸大坂間で3日かかるのが商人の悩みの種だった。

「速さが足りない!!」

そこで使われたのが旗振り通信。

これにより江戸大坂間で最速8時間。瀬戸内沿岸なら1時間もかからず情報伝達可能に Image
等間隔に人を配置し、当時の最新技術である望遠鏡を持たせ、通信プロトコルに従って通信する。

江戸大坂間は箱根の山越えがあるため、そこだけ米飛脚に頼ることになる。
瀬戸内沿岸ならほぼノータイムで交信できた。

ちなみに神戸市に旗振山という山があるが、名前は旗振り通信に由来する。 Image
情報にタダ乗りする輩が現れると、暗号通信の手段も発展した。

また、早すぎる伝達の規制や米飛脚の保護のために幕府から禁止されたこともあるが、禁止されていない地域を使ってやり取りが行われたという。

旗振り通信による情報を求める人は年々増え、後には定額通信制に移行したらしい。
Read 5 tweets
May 22
古くから玉ねぎの産地である淡路島。

淡路の農地はぬかるみが多く、昭和30年代の軽トラではスリップするため畑に入って行けず、玉ねぎを運び出すのに苦労した。
だがトラクターは当時まだ高価だった。

そこで地元の鉄工所はスクラップ部品と鉄骨を使って問題を解決した。

それが「農民車」だ。 Image
淡路島は神戸や大阪などの都会に近いため、スクラップ部品が手に入りやすかった。
無骨な作りだが、農家の要望にダイレクトに応えれたため、実用性は極めて高かった。

農家の要望に合わせてオーダーメイドで作るため、すべて一点物だ。もちろん設計図などない。

ちなみにナンバーも取得できる。
同じ発想は大手メーカもしていた。今は世界的重機メーカとなっているコマツだ。
コマツは昭和35年、農作業と街乗り両方ができる車をコンセプトに世界的デザイナーを据えて生産した。
だが街乗りには普及せず、トラクターのほうが便利だったためなのか、わずか2年4300台を生産しただけで終わった。 Image
Read 8 tweets
May 22
黎明期の日本野球で現在の東大の前身の一つ、旧制一高の果たした役割は大きい。
それまで「打球おにごっこ」や「弄球」等と言われていた野球に野球と初めて翻訳したのも正岡子規ではなく一高野球部だ。

中でも横浜に住む外人倶楽部からの勝利は大きい。

不平等条約下での日本の大勝利と喧伝された。 Image
明治という新時代を生きる彼らは、新しいスポーツである野球に興じた。
同時に国内随一のエリートである彼らは、遊びのはずなのに、いつの間にか学校の誇りを賭けて戦うようになる。
明治20年代の一高は国内では無敵。

そこで、横浜のアマチュア野球倶楽部に試合を申込む。

が、雨で流れ続けた。
当日横浜は晴れたので、外人倶楽部は一高野球部に電報を打つ。
「ナンジニクルカ」

これを彼らは「汝、逃ぐるか」と読んでしまいブチ切れるというハプニングがあったものの、大勢の観客を引き連れて横浜へ。

試合結果は、新聞報道により全国へ。
野球に否定的だった学長からも、お褒めの言葉を頂いた
Read 4 tweets
May 21
日本海海戦で破れたロシア艦·イルティッシュ号は現在の島根県江津市沖に沈没した。

住民が乗組員を助けた逸話は語り継がれるが、この船にはもう一つの物語がある。

それは金。
航海日誌によると、バルト海からの航行中に大量の金を積み込んだというのだ。

この金塊探しに命を懸けた男がいる。 Image
男の名は北村滋敏。
明治時代、長崎県諫早の百姓に生まれるが、事業を興し、昭和の初め頃にはサルベージ業界にも手を出した男だ。

対馬沖に沈んだバルチック艦隊の探索の実績もある。

昭和8年、56歳の彼は当時の資料を読み、当時の乗組員とも面会。

イルティッシュ号には金塊がある。
彼は確信した
男は引揚げの権利を買い、昭和12年から5度も試みたが、いずれも失敗。昭和18年には台風による機材喪失も重なったが、彼は諦めない。
終戦後、昭和22年から引揚げを再開。
その後の朝鮮戦争景気にのって出資者も増えていく。

昭和33年にはその一部が引揚げられる。
だが金塊は見つからなかった。
Read 4 tweets

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