Discover and read the best of Twitter Threads about #にいがたさくらの小話

Most recents (24)

北海道伊達市

仙台藩亘理領の侍が集団移住して開拓した町だ
殿様自らが集団を率いて結束したため、旧藩士による北海道開拓の中でも指折りの成功を収めた

農家として成功しても彼らは武士
武士だった時代を知らない若い世代にも武士の誇りを見せてあげたい

そして始めたのが、今も続く武者行列だ Image
戊辰戦争敗北後、彼らの領土は取り上げられ、他藩になっていた

「他藩の百姓になどなりとうない」

政府による屯田兵に先んじて、北の地を守る責任を負うことで武士の誇りも守られる
また、蝦夷地警備で北海道を知るものも多く、事前に下見・調査も行い、現地の和人・アイヌとも話をつけ、開拓を開始
殿様は家臣を守るために家宝を売払い、移住の資金を捻出。家老は新政府からの支援も取り付けてきた

それでも相手は試される大地
序盤は苦労が耐えなかったが、精神的支柱として殿様がいたことは大きかった

家老のリーダーシップもあり、率先して西洋式の農法も取り入れ、生活は次第に安定していく
Read 6 tweets
霊場·恐山

元々はローカルな信仰の場であり、他の有名霊場と比べれば歴史は深くなく、発展するのは江戸時代から
それ故、霊場としての固定観念が薄く、様々な文化や民間信仰を柔軟に受け入れ発展した

例えば、有名なイタコは恐山の寺(曹洞宗)の教えと一切関係ないが、追い出したりせずに共存していた Image
「死ねばお山さ行ぐ」

下北半島では元々山岳信仰が強く、後に地蔵信仰と結合し独特の死生観が生まれた

火山である恐山山地では無数の硫黄噴出孔がある
海運が発達した江戸時代、船乗り等の参拝客達はそれを地獄と感じたのだろう
後に様々な職業に合わせた地獄が名付けられ、ツアーガイドまでいた Image
明治になると、戦略物資として硫黄が採掘されるようになる
鉱山町が生まれ、遊郭まであったそうだ

冷涼ながら温泉も沸く恐山は観光開発も目論まれ、ホテルまで建っていた

イタコが来るのは1950年代頃からで、イタコ自体は北東北に広く分布する文化で、特段恐山だけのものというわけではない
Read 6 tweets
幕末、薩摩藩は諸藩に先んじて近代化の重要性を感じた。

近代兵器を自作せねば。

様々な技術を海外から輸入し、近代的な機械工場も作った。
戦争に備え弾薬は大量に必要だが、薩摩には火薬の起爆剤を作るために必要な工業用アルコールが少なかった。

そこで量産されるようになったのが、芋焼酎だ。 Image
焼酎の技術自体は室町時代に、薩摩芋は江戸初期に伝来していた。
だが当時の焼酎は、ほとんどが米や麦、雑穀などを材料とした。

薩摩芋は澱粉が少なく、一旦蒸す必要があり、雑菌の繁殖などもあり、作りづらいものだった。

しかし薩摩では圧倒的にコスパがよかった。
藩主は芋焼酎の量産を指示。
藩主は今のうちに特産品にしておこうと考えたのかもしれない。
量産をして余った焼酎は地域内消費に廻された。

こうして芋焼酎が域内に広がる。

明治になっても彼らは芋焼酎を飲みまくる。
だが、独特の風味や匂いがヨソの人間には全くウケず、南九州内で飲まれるだけであった。
Read 5 tweets
新潟県長岡市山古志村

雪深いこの地には、全長922m日本最長の手掘りトンネルがある。

中山隧道ができるまでは、冬、雪に閉ざされていた。
集落の人々は病人が出ても医者に診せることもできない。

「峠さえなければ」

だが、資金はない。
そこで彼らは自らの手でツルハシを持ち掘り進めることにした Image
彼らには、横穴を掘る技術があった。
山岳地帯で棚田の水を引くために、横井戸を掘っていたからだ。

昭和8年11月に着工。
ほぼ全員が農家のため、農繁期を避けて分担して作業を行う。

だが最初の1年は不慣れなためか、36mしか掘れなかった。
このペースでは25年かかる……。

人々は絶望した。 Image
それでも彼らは諦めなかった。
掘削のやり方、掘削した土の運搬方法など、現場レベルでの改善を行う。

資金難にも見舞われた。
自治体は支援してくれなかったが、代わりに東京に出ていった村出身者たちが資金援助。

だが、300m掘り進んだ箇所で工事は中断。

戦争で若い人が居なくなったからだ
Read 5 tweets
『がいし』
電線とそれを支える物の間を絶縁しながら繋ぐ器具だ。

日本では明治3年に電信用のがいしを国産化。陶磁器の歴史を持つ日本には比較的容易だった。

しかし、特別高圧のがいしはそうはいかない。
電気工学の知識が必要だからだ。

「国産化したい」

電機メーカは陶器メーカに持ちかけた Image
持ちかけられた陶器メーカは困った。
「いやウチ、ディナーセット作る会社なんだけど?」
だが、がいしについての話を聞くうちにやる気になった。
「営利ではなく、国家のために」
こうして共同開発が始まった。

ちなみにこの2社は、世界最大級高級陶磁器メーカ・ノリタケと重電メーカの東芝である。
アメリカから持ち帰ってきた特別高圧用のがいしを基に解析し、形、釉薬の研究を行い、国産の高圧用がいしを完成させる。
だが売り込みには苦戦した。不良品率が高かったのだ。
職人の腕のみに頼っていては、安定した製品が作れない。

製法を見直し、品質の向上に努め、海外製がいしを追い抜いた。
Read 5 tweets
大航海時代初期に活躍したポルトガル

だがマラッカでは、1641年にオランダに敗れると、彼らの時代は終わり、現地人との混血児たちが残された。
彼らはカトリックの信仰を守り、文化や言語を誇りながらも、被支配層となる

英国領時代には「貧しいポルトガル人」と呼ばれ、寂れた漁村で生きていた Image
大航海時代のポルトガルは欧州の小国なので人口が少なく、現地婚政策を採用していた。
地域の準支配者となることを期待されていた。

彼らは名字も宗教も生活様式もポルトガル式だった。

オランダの植民地になった後、支配者にはなれなかったが、中には支配者たるオランダ人に嫁に行った者もいた。
ユーラシアン
欧州人と現地アジア人の混血の人々を指す言葉だ

英領時代のマラッカでは、同じユーラシアンでもイギリス系・オランダ系とポルトガル系とでは階層が別れていた。
前者は英語を母語とした準支配者、後者はポルトガル系の言語を母語とした無学な漁民

あまりの貧しさに支配者すら哀れんだ
Read 6 tweets
北陸の冬には欠かせない消雪パイプは偶然から生まれた

昭和30年代の冬の新潟県長岡市
道路工事中に不具合で地下水が湧き出てしまうことに始まる。
天気は雪だが、地下水が出た箇所だけ雪がない。

地元住民は気づいた。地下水は雪を解かせるということに。

そして消雪パイプの技術開発が始まった。 Image
最初は鉄パイプに穴を開けて地下水を通しただけの単純なものだったが、威力は強力だった。
会社の私道で使われて実証され、公道にも採用される。

昭和38年の豪雪でその効果を見せつけると、北陸地域や山陰を中心に普及していく。
ちなみに北陸より北の東北だと地下水が凍ってしまうので使えない。 Image
散水の方式も時代によって進化していく。

最初はツノ型だったが、施工コストがかかってしまうため、ボックス型に変化。
また、ボックス型のノズルは錆による目詰まりが多発したため、ステンレスに。
更に散水方向も調整できるキャップ型へ。

だが、地下水を使いすぎたため、地盤沈下が起こってしまう ImageImageImage
Read 6 tweets
俵。
古来から、米だけでなく、麦、塩、海産物、肥料等あらゆるものを梱包してきたものだ。

だが明治初期、俵の作り方は雑で、中のものが溢れたり、俵自体が破損するものも多かった。
更に大きさが一定ではないため、場所場所で検査が必要となり不便だった。

この米俵の改良に生涯をかけた人間がいた Image
江戸時代までの米は、藩により厳しく管理されていた。
大事な年貢だからだ。
各藩毎に標準を定め、ある程度の米俵の規格化がなされていた。

しかし、年貢が金納に変わると管理がなくなり、売買する者たちに委ねられ、次第に安価な梱包方法に変わっていく。

函館で廻船業を営む遠藤吉平はこれを憂いた Image
彼は俵で大損害を出していた。
蒸気船で函館から品川へ品物を送った俵が破損したからだ。

江戸時代までの習慣では、重さを基準としたやり取りだったが、明治の蒸気船では個数単位に変わる。
荷を気にしながら運ぶのは効率が悪いからだ。

案の定俵は破損。汽船会社は法令に基づき責任なしとされた。
Read 7 tweets
戊辰戦争の頃、石川県加賀市にあった大聖寺藩には新政府から弾薬供出が命ぜられた。

だが弾薬を買うカネはない。
そこで手を染めたのがニセ金製造。

銀を溶かし不純物を混ぜ、メッキを施す。
出来栄えは完璧だったが、担当者は思った。

「新しすぎて怪しまれる。温泉に浸けて使用した感を出そう」 ImageImage
小さいとはいえ大聖寺藩は加賀百万石の支藩。
芸術を重んじる藩の中には、金属細工が上手い下級藩士が居た。
彼は金銀の何たるかを熟知しており、商人や協力者を仰げるネットワークも持っていた。

ちなみに浸けた温泉は、現在の山代温泉である。

これにより大阪や新潟等の本場の商人さえも騙せた。
この時期、どの藩も多かれ少なかれ似たような偽造工作はしていた。
だが、大聖寺藩の贋金は群を抜いていた。
「大聖寺の小梅」と渾名がつくほど人気の銀貨だった。

作った贋金を基で元手に琵琶湖に蒸気船を導入するなど、独自の近代化を推し進めていた大聖寺藩だが、他藩からのやっかみを受ける。
Read 4 tweets
江戸前期、領内を調査していた津軽のサムライは困惑した。

「土の中から謎の焼き物が出てきたんだが?」

何だコレは?訳がわからん。
とりあえずそう日記に記した。

現在の世界遺産·亀ヶ岡遺跡である。

この情報が都会に伝わると愛好家たちがこぞってこの土器を集め、海外にまで渡った土器もある。 Image
江戸時代は平和な時代だったので、珍品コレクターが沢山いた。
『南総里見八犬伝』を書いた売れっ子作家の曲亭馬琴もその一人だった。

彼らは絵や書だけには飽き足らず、様々な物を収集し、仲間同士で古い物を愛で合う会『耽奇会』という会合を開いていた。

縄文の美や神秘に惹かれたのだろう。
津軽藩士たちも、珍品コレクターの情熱を察知していた。

「コイツが何なのかはよくわからんけど、江戸に持っていけば売れる」

彼らは参勤交代の際に手土産として土器を持っていった。
地元人達も、適当に掘り起こしてサムライに売り渡した。

乱掘された土器は完成品だけでも数千にのぼるという。
Read 5 tweets
島根県石見地方。
ここには民俗芸能の石見神楽がある。

元々は一般的な神事として舞われていたのだが、時代や地区によって様々に変化し、全体として芸術性が高いものへと進化している。

なぜ石見で進化したのか?
これには石見の地域性が関わってくる。

要するに、田舎が連なっているからだ。 Image
江戸後期から明治にかけて、石見の城下町には神社は多くあるが、専属の神楽団体がないところが多かった。
農村の神楽団体へオファーすることになるが、農村の数は多い。

オファーする城下町の神社からしてみれば、いいパフォーマンスをしてくれる神楽団体を呼びたい。

こうして神楽団体は競い合う。
一方で、担い手は変化した。
明治初期に神職が神楽を舞うのを禁止されたからだ。

担い手は村の民衆となり、楽しみが少ない田舎では皆が熱中した。
地域によって担い手の性格も異なり、漁村に近い地域だと荒々しくテンポが早くなるなど、神楽に地域特性が入る。

神楽団体同士もお互いを意識しだす
Read 6 tweets
壊血病といえば、ビタミンC欠乏により発症する病気で、大航海時代の西洋の船乗り達がよく罹患した。

だが西洋だけではなく、江戸期日本でも蝦夷地警備をする武士達が罹患し、尊い犠牲を出す。
時代が下ると、対策としてコーヒーが飲まれた。

コーヒーにはビタミンCは含まれていないが、なぜか効いた Image
彼らは米、味噌、沢庵、漬物など新鮮な野菜以外は本土と変わらない食事を取っていたが、ビタミンは足りなかった。

ビタミン不足を補う大根が支給されることもあったが、全員には行き渡る量ではなかった。

そもそも寒い蝦夷地。
極寒の中、知識のない彼らは謎の奇病にやられ、壊滅する隊もあった
しかし日本にはオランダから入ってくる書物だ。

「コーヒーが効く!」

1803年に日本の蘭学者がそう紹介した。
だがそれは、150年前の誇大宣伝。
既に西洋では柑橘が効くことが知られていた。

しかし、オランダは商機を感じた。
当時、オランダはインドネシアでコーヒーを作っていたからだ。
Read 8 tweets
大正時代、淡路島の小作農民達は過酷だった。

他の地域では小作料として米を払えば済むのに、淡路島だけは二毛作の麦まで現物納品していたからだ。

「稼げる物を植えんとアカン」
そこで試されたのが、玉ねぎ。

これが淡路島の気候や農家にマッチし、現在まで100年以上続く玉ねぎの名産地となった。 Image
明治時代に栽培が始まった玉ねぎは、まだ一般の食卓には馴染んでおらず、都会で消費されていた。
当時の玉ねぎ先進地域は大阪泉南。視察に出向いた淡路人はイケると確信した。

阪神地域に近い淡路島も海路を使えば輸出条件は同じであり、当時の価格は麦の3~4倍。

村の有力者達も納得せざるを得ない。
こうして始まった淡路島の玉ねぎは、販路を確立させ徐々に増えていき、戦中・終戦直後の食糧難の時期を除き安定して増えていく。
また農業技術も進歩し、稲+玉ねぎの二毛作から、稲+野菜+玉ねぎの三毛作に進化。

島の外に出なければ職がない当時、この進化により農業を続けることができた。
Read 7 tweets
青森県下北地方~北海道道南には独特の餅菓子「べこもち」がある。
もち米と粳米を混ぜて作り、模様を施した後金太郎飴のように切って蒸す料理だ。

これは江戸時代に北前船で入ってきた文化が現地で変化したもの。

なので、道南と下北では変化の仕方が異なり、下北のものはカラフルに変化していった。 ImageImage
青森県下北地方では戦後、時代の流れの中で少しずつ各家庭での継承が減っていた。

ところが1970年代、べこもちは役所の農林部に注目された。当時、青森県では米が余っていたからだ。

米の消費拡大と町おこしのため、伝統的柄だけでなく、工夫を凝らし様々なバリエーションのべこもちが作られるように Image
一方北海道道南では葉っぱ型のべこもち。

北海道ではちまきや笹餅などを作る習慣がほぼない。
そのため、その代わりに葉っぱの形をしたのではないかと言う説が濃厚だ。

北海道は広い。
元々のべこもちだけでなく、各地の文化などが混ざり合っているため、葉っぱ形以外にも様々なバリエーションがある Image
Read 5 tweets
江戸時代、米相場の発展に伴い情報の速達性が尊ばれた。

相場情報を印した紙を昼夜交代で飛脚を使っても江戸大坂間で3日かかるのが商人の悩みの種だった。

「速さが足りない!!」

そこで使われたのが旗振り通信。

これにより江戸大坂間で最速8時間。瀬戸内沿岸なら1時間もかからず情報伝達可能に Image
等間隔に人を配置し、当時の最新技術である望遠鏡を持たせ、通信プロトコルに従って通信する。

江戸大坂間は箱根の山越えがあるため、そこだけ米飛脚に頼ることになる。
瀬戸内沿岸ならほぼノータイムで交信できた。

ちなみに神戸市に旗振山という山があるが、名前は旗振り通信に由来する。 Image
情報にタダ乗りする輩が現れると、暗号通信の手段も発展した。

また、早すぎる伝達の規制や米飛脚の保護のために幕府から禁止されたこともあるが、禁止されていない地域を使ってやり取りが行われたという。

旗振り通信による情報を求める人は年々増え、後には定額通信制に移行したらしい。
Read 5 tweets
古くから玉ねぎの産地である淡路島。

淡路の農地はぬかるみが多く、昭和30年代の軽トラではスリップするため畑に入って行けず、玉ねぎを運び出すのに苦労した。
だがトラクターは当時まだ高価だった。

そこで地元の鉄工所はスクラップ部品と鉄骨を使って問題を解決した。

それが「農民車」だ。 Image
淡路島は神戸や大阪などの都会に近いため、スクラップ部品が手に入りやすかった。
無骨な作りだが、農家の要望にダイレクトに応えれたため、実用性は極めて高かった。

農家の要望に合わせてオーダーメイドで作るため、すべて一点物だ。もちろん設計図などない。

ちなみにナンバーも取得できる。
同じ発想は大手メーカもしていた。今は世界的重機メーカとなっているコマツだ。
コマツは昭和35年、農作業と街乗り両方ができる車をコンセプトに世界的デザイナーを据えて生産した。
だが街乗りには普及せず、トラクターのほうが便利だったためなのか、わずか2年4300台を生産しただけで終わった。 Image
Read 8 tweets
黎明期の日本野球で現在の東大の前身の一つ、旧制一高の果たした役割は大きい。
それまで「打球おにごっこ」や「弄球」等と言われていた野球に野球と初めて翻訳したのも正岡子規ではなく一高野球部だ。

中でも横浜に住む外人倶楽部からの勝利は大きい。

不平等条約下での日本の大勝利と喧伝された。 Image
明治という新時代を生きる彼らは、新しいスポーツである野球に興じた。
同時に国内随一のエリートである彼らは、遊びのはずなのに、いつの間にか学校の誇りを賭けて戦うようになる。
明治20年代の一高は国内では無敵。

そこで、横浜のアマチュア野球倶楽部に試合を申込む。

が、雨で流れ続けた。
当日横浜は晴れたので、外人倶楽部は一高野球部に電報を打つ。
「ナンジニクルカ」

これを彼らは「汝、逃ぐるか」と読んでしまいブチ切れるというハプニングがあったものの、大勢の観客を引き連れて横浜へ。

試合結果は、新聞報道により全国へ。
野球に否定的だった学長からも、お褒めの言葉を頂いた
Read 4 tweets
日本海海戦で破れたロシア艦·イルティッシュ号は現在の島根県江津市沖に沈没した。

住民が乗組員を助けた逸話は語り継がれるが、この船にはもう一つの物語がある。

それは金。
航海日誌によると、バルト海からの航行中に大量の金を積み込んだというのだ。

この金塊探しに命を懸けた男がいる。 Image
男の名は北村滋敏。
明治時代、長崎県諫早の百姓に生まれるが、事業を興し、昭和の初め頃にはサルベージ業界にも手を出した男だ。

対馬沖に沈んだバルチック艦隊の探索の実績もある。

昭和8年、56歳の彼は当時の資料を読み、当時の乗組員とも面会。

イルティッシュ号には金塊がある。
彼は確信した
男は引揚げの権利を買い、昭和12年から5度も試みたが、いずれも失敗。昭和18年には台風による機材喪失も重なったが、彼は諦めない。
終戦後、昭和22年から引揚げを再開。
その後の朝鮮戦争景気にのって出資者も増えていく。

昭和33年にはその一部が引揚げられる。
だが金塊は見つからなかった。
Read 4 tweets
日露戦争中の1905年5月28日
日本海海戦に敗北したロシア艦イルティッシュ号は島根県の漁村近くに流された。

その村は当時新聞が3日遅れで届くような村。
ロシアは戦争中の敵という認識しかなかった。

だが彼らを放っておく訳にはいかない

住民達は荒波の日本海に入り、献身的にロシア人達を救援する Image
最初は本気で攻めてきたと思っていた住民達は、鍬や鎌で武装。殺気立っていた。
村の数少ない知識人である小学校の先生が、白旗を見つけ、投降していることがわかる。

投降した者は丁寧に扱うのが国際的な条約。

攻めてきたのではないとわかると、村の人達は脱出用ボードを誘導し、乗組員を救助。
言葉が分からないが、相手は困った人間。
ロシア兵たちは、日本式の風呂にビビる。
釜茹でにして殺されるのではないか?
そんな誤解を住民達は身振り手振りで応える。

また、寒さで凍えている少年兵に対して、人肌で温める母親もいたそうだ。日露戦争で戦士した我が子とダブったのかもしれない。
Read 6 tweets
東京都指定の無形民俗文化財·南洋踊り
小笠原諸島の伝統的な踊りで、太平洋諸島から持ち込まれ、現在で100年近い歴史を持つ

ちなみに「レフト」「ライト」の掛け声は太平洋諸島の踊りでも類似の掛け声がある。
欧米海軍の軍事練習に影響を受けてこうなったそうだ。
戦前、南洋と呼ばれていた太平洋諸島の入口に小笠原諸島はある。
戦前はパラオやサイパンに出稼ぎをする島の人も多くおり、そこから南洋踊りは伝来した。

はじめは余興として披露されていたが、いつの間にか島の人々に定着し、島の祭りや神社の例大祭などでも踊られる踊りとなった。
戦後、欧米系以外の島民の帰還ができなかったため一時途絶えるが、現在は保存会などで積極的な普及活動をしている。

歌詞も独特で、唯一の日本語歌詞である「夜明前に」もカタコト日本語になっている。
南洋諸島の人が作詞したからだという。

ちなみに「ウラメ」「キダイ」はどこの言語か不明らしい Image
Read 5 tweets
幕末は蒸気船と共に始まった。

聡明な藩主達は新時代到来を予見し、蒸気船製造の研究を進めた。
薩摩·水戸·佐賀等の名だたる大藩の中に、中規模藩の伊予宇和島藩もいた。

「藩内に蒸気船が作れそうな者はおらぬのか?」
その問に家老は一人の男を推挙した。

貧乏長屋に住む提灯張替職人のおじさんを Image
男の前半生は『器用貧乏』だった。

何をしてもうまく行かず、女房にも逃げられる始末。
ただ男は器用であった。かんざし細工やのぼりの製作など生きるためにあらゆることをやった。

家老に男を推挙した地元の豪商はこの器用さを見抜いていた。
どんな技術か知らんが、こいつならもしかするかも。
彼が試しに作った模型に藩はその実力を認め、武士に取り立てる。時に42歳であった。

その後は藩の費用で長崎への留学、蘭学者との交流など知識を深めていき、宇和島へ帰郷し建造に取り掛かる。

当時の技術では満足な蒸気機関ができずバカにされたが彼は諦めず、外国人の力を借りずに蒸気船を作った。
Read 4 tweets
石川県羽咋市神子原地区。

里山の中にひっそりと棚田が広がる場所で、そこで取れるコメは旨いのだが、認知度が低かった。

「誰か有名人に食べてもらってブランド化しよう!」
様々な場所に依頼をかけるが、難しかった。
だが一箇所だけOKの返事が来る。

こうして神子原米は、ローマ法王に献上された Image
最初にアポを取ったのは日本の宮内庁だった。だが、皇室御用達というハードルは高く、ポッと行っただけで獲得できるものではなかった。

次に依頼したのは米国大統領だったがこちらも玉砕。

そしてローマ法王庁だ。
神子原という名前だから、神の子という安直な発想だった。
だが、ローマ法王庁は快諾
ローマ法王庁には貢物を受取る文化があった。
日本からも古くは織田信長が献上している記録が残っている。これまでの日本からの貢物の中に米はなかった。

このことが当時、国内外の様々なメディアが取り上げた。
あまりにもキャッチーだったからだ。

そして神子原米は飛ぶように売れたのだという。
Read 4 tweets
薩長土肥。
幕末に活躍した4つの藩のことだ。

西郷どんの薩摩藩、テロも辞さない長州藩、日本の夜明けぜよの土佐藩と比べて肥の知名度は低い。

肥前佐賀藩。SAGAのことだ。

佐賀藩は幕末最強の軍事技術で活躍したのだが、なぜ佐賀藩がその役を担えたかには理由がある。

藩主がミリオタだったからだ Image
幕末より50年以上前、佐賀藩はやらかしをしていた。
フェートン号事件だ。

長崎に近い佐賀は長崎警固の役目がある。
そこに、突如英国船が現れたのだ。

警固要員もケチって僅かしか配置していなかったため、為す術もなく英国船の要求に応えた彼らは異国の脅威を知る。

力こそパワーの時代が来る。
日本中が危機感を持つ前から危機感を持っていた彼らは、長崎に近い立地を活かし、西洋の軍事技術にのめり込んだ。
同時に藩士の知力の底上げ、教育改革も行う。

西洋の軍事技術が気に入った藩主は、黒船来航前に長崎に来航していたオランダの軍艦に乗船。

搭載されていた大量の大砲をその目で見た。
Read 5 tweets
辛子明太子のルーツは朝鮮半島。
明太(スケトウダラ)の魚卵漬けがルーツで、戦前には朝鮮在住日本人にも親しまれていた。

戦後日本人が、明太魚卵漬けを韓国から取り寄せるが、韓国人が韓国人のために作った明太魚卵では辛すぎた。

それを、日本人向けに改良したのが福岡名物、『辛子明太子』だ。 Image
朝鮮半島では17世紀頃から今のキムチの原型が作られていた。
保存食とする目的で浸けられていたため、現在よく見る白菜や大根だけではなく、様々な物が浸けられていた。
スケトウダラの魚卵もその一つだった。

ちなみに戦前の朝鮮人たちは日本人に対しては、辛味がマイルドなものを出していたそうだ。
当時の味を再現しても、当時唐辛子の辛味に慣れていたのは朝鮮からの引揚者くらいで、明太子の売り上げは悪かった。
それでも明太子の生みの親、ふくやの主人は諦めなかった。

明太子作りをバカにされながらも、着実に味を改良していく。
日本人好みにしながらも、明太子の辛味を両立させた。
Read 5 tweets

Related hashtags

Did Thread Reader help you today?

Support us! We are indie developers!


This site is made by just two indie developers on a laptop doing marketing, support and development! Read more about the story.

Become a Premium Member ($3.00/month or $30.00/year) and get exclusive features!

Become Premium

Too expensive? Make a small donation by buying us coffee ($5) or help with server cost ($10)

Donate via Paypal Become our Patreon

Thank you for your support!