島根県石見地方。
ここには民俗芸能の石見神楽がある。

元々は一般的な神事として舞われていたのだが、時代や地区によって様々に変化し、全体として芸術性が高いものへと進化している。

なぜ石見で進化したのか?
これには石見の地域性が関わってくる。

要するに、田舎が連なっているからだ。 Image
江戸後期から明治にかけて、石見の城下町には神社は多くあるが、専属の神楽団体がないところが多かった。
農村の神楽団体へオファーすることになるが、農村の数は多い。

オファーする城下町の神社からしてみれば、いいパフォーマンスをしてくれる神楽団体を呼びたい。

こうして神楽団体は競い合う。
一方で、担い手は変化した。
明治初期に神職が神楽を舞うのを禁止されたからだ。

担い手は村の民衆となり、楽しみが少ない田舎では皆が熱中した。
地域によって担い手の性格も異なり、漁村に近い地域だと荒々しくテンポが早くなるなど、神楽に地域特性が入る。

神楽団体同士もお互いを意識しだす
衣装やお面、演出などで独自性を発展。
他の神楽団体で行われた良い物を取り入れたり、逆に他と差別化を図るために伝統を強化するなどして洗練されていく。

戦後GHQの神道指令で危機に立たされたが、田舎なので目が行き届きにくく、場所によってはそもそも知らないというところもあったそうだ。
1970年の大阪万博では、8体の大蛇を披露するなど、見て楽しい神楽を披露し、県外にも知れ渡った。

現在、石見のあちこちで観光興行として舞われているが、彼らはプロではなく地元の人。

地域に誇りを持ち、お互いに切磋琢磨し、石見神楽は今なお進化を遂げている。

#にいがたさくらの小話 その391 Image
冒頭と最後の画像は日本遺産ポータルサイトから
japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/sto…
以降、参考文献
kagawa-u.repo.nii.ac.jp/?action=reposi…
地域伝統芸能の継承と変容が市場創造に及ぼす影響に関する考察: 島根県の 3 地域における神楽をケースとして
cir.nii.ac.jp/crid/139001397…
島根県西部地域における石見神楽の存立構造

• • •

Missing some Tweet in this thread? You can try to force a refresh
 

Keep Current with にいがたさくら@小話する人

にいがたさくら@小話する人 Profile picture

Stay in touch and get notified when new unrolls are available from this author!

Read all threads

This Thread may be Removed Anytime!

PDF

Twitter may remove this content at anytime! Save it as PDF for later use!

Try unrolling a thread yourself!

how to unroll video
  1. Follow @ThreadReaderApp to mention us!

  2. From a Twitter thread mention us with a keyword "unroll"
@threadreaderapp unroll

Practice here first or read more on our help page!

More from @monkey_across

Jun 3
俵。
古来から、米だけでなく、麦、塩、海産物、肥料等あらゆるものを梱包してきたものだ。

だが明治初期、俵の作り方は雑で、中のものが溢れたり、俵自体が破損するものも多かった。
更に大きさが一定ではないため、場所場所で検査が必要となり不便だった。

この米俵の改良に生涯をかけた人間がいた Image
江戸時代までの米は、藩により厳しく管理されていた。
大事な年貢だからだ。
各藩毎に標準を定め、ある程度の米俵の規格化がなされていた。

しかし、年貢が金納に変わると管理がなくなり、売買する者たちに委ねられ、次第に安価な梱包方法に変わっていく。

函館で廻船業を営む遠藤吉平はこれを憂いた Image
彼は俵で大損害を出していた。
蒸気船で函館から品川へ品物を送った俵が破損したからだ。

江戸時代までの習慣では、重さを基準としたやり取りだったが、明治の蒸気船では個数単位に変わる。
荷を気にしながら運ぶのは効率が悪いからだ。

案の定俵は破損。汽船会社は法令に基づき責任なしとされた。
Read 6 tweets
Jun 2
戊辰戦争の頃、石川県加賀市にあった大聖寺藩には新政府から弾薬供出が命ぜられた。

だが弾薬を買うカネはない。
そこで手を染めたのがニセ金製造。

銀を溶かし不純物を混ぜ、メッキを施す。
出来栄えは完璧だったが、担当者は思った。

「新しすぎて怪しまれる。温泉に浸けて使用した感を出そう」 ImageImage
小さいとはいえ大聖寺藩は加賀百万石の支藩。
芸術を重んじる藩の中には、金属細工が上手い下級藩士が居た。
彼は金銀の何たるかを熟知しており、商人や協力者を仰げるネットワークも持っていた。

ちなみに浸けた温泉は、現在の山代温泉である。

これにより大阪や新潟等の本場の商人さえも騙せた。
この時期、どの藩も多かれ少なかれ似たような偽造工作はしていた。
だが、大聖寺藩の贋金は群を抜いていた。
「大聖寺の小梅」と渾名がつくほど人気の銀貨だった。

作った贋金を基で元手に琵琶湖に蒸気船を導入するなど、独自の近代化を推し進めていた大聖寺藩だが、他藩からのやっかみを受ける。
Read 4 tweets
Jun 1
江戸前期、領内を調査していた津軽のサムライは困惑した。

「土の中から謎の焼き物が出てきたんだが?」

何だコレは?訳がわからん。
とりあえずそう日記に記した。

現在の世界遺産·亀ヶ岡遺跡である。

この情報が都会に伝わると愛好家たちがこぞってこの土器を集め、海外にまで渡った土器もある。 Image
江戸時代は平和な時代だったので、珍品コレクターが沢山いた。
『南総里見八犬伝』を書いた売れっ子作家の曲亭馬琴もその一人だった。

彼らは絵や書だけには飽き足らず、様々な物を収集し、仲間同士で古い物を愛で合う会『耽奇会』という会合を開いていた。

縄文の美や神秘に惹かれたのだろう。
津軽藩士たちも、珍品コレクターの情熱を察知していた。

「コイツが何なのかはよくわからんけど、江戸に持っていけば売れる」

彼らは参勤交代の際に手土産として土器を持っていった。
地元人達も、適当に掘り起こしてサムライに売り渡した。

乱掘された土器は完成品だけでも数千にのぼるという。
Read 5 tweets
May 25
壊血病といえば、ビタミンC欠乏により発症する病気で、大航海時代の西洋の船乗り達がよく罹患した。

だが西洋だけではなく、江戸期日本でも蝦夷地警備をする武士達が罹患し、尊い犠牲を出す。
時代が下ると、対策としてコーヒーが飲まれた。

コーヒーにはビタミンCは含まれていないが、なぜか効いた Image
彼らは米、味噌、沢庵、漬物など新鮮な野菜以外は本土と変わらない食事を取っていたが、ビタミンは足りなかった。

ビタミン不足を補う大根が支給されることもあったが、全員には行き渡る量ではなかった。

そもそも寒い蝦夷地。
極寒の中、知識のない彼らは謎の奇病にやられ、壊滅する隊もあった
しかし日本にはオランダから入ってくる書物だ。

「コーヒーが効く!」

1803年に日本の蘭学者がそう紹介した。
だがそれは、150年前の誇大宣伝。
既に西洋では柑橘が効くことが知られていた。

しかし、オランダは商機を感じた。
当時、オランダはインドネシアでコーヒーを作っていたからだ。
Read 8 tweets
May 24
大正時代、淡路島の小作農民達は過酷だった。

他の地域では小作料として米を払えば済むのに、淡路島だけは二毛作の麦まで現物納品していたからだ。

「稼げる物を植えんとアカン」
そこで試されたのが、玉ねぎ。

これが淡路島の気候や農家にマッチし、現在まで100年以上続く玉ねぎの名産地となった。 Image
明治時代に栽培が始まった玉ねぎは、まだ一般の食卓には馴染んでおらず、都会で消費されていた。
当時の玉ねぎ先進地域は大阪泉南。視察に出向いた淡路人はイケると確信した。

阪神地域に近い淡路島も海路を使えば輸出条件は同じであり、当時の価格は麦の3~4倍。

村の有力者達も納得せざるを得ない。
こうして始まった淡路島の玉ねぎは、販路を確立させ徐々に増えていき、戦中・終戦直後の食糧難の時期を除き安定して増えていく。
また農業技術も進歩し、稲+玉ねぎの二毛作から、稲+野菜+玉ねぎの三毛作に進化。

島の外に出なければ職がない当時、この進化により農業を続けることができた。
Read 7 tweets
May 24
青森県下北地方~北海道道南には独特の餅菓子「べこもち」がある。
もち米と粳米を混ぜて作り、模様を施した後金太郎飴のように切って蒸す料理だ。

これは江戸時代に北前船で入ってきた文化が現地で変化したもの。

なので、道南と下北では変化の仕方が異なり、下北のものはカラフルに変化していった。 ImageImage
青森県下北地方では戦後、時代の流れの中で少しずつ各家庭での継承が減っていた。

ところが1970年代、べこもちは役所の農林部に注目された。当時、青森県では米が余っていたからだ。

米の消費拡大と町おこしのため、伝統的柄だけでなく、工夫を凝らし様々なバリエーションのべこもちが作られるように Image
一方北海道道南では葉っぱ型のべこもち。

北海道ではちまきや笹餅などを作る習慣がほぼない。
そのため、その代わりに葉っぱの形をしたのではないかと言う説が濃厚だ。

北海道は広い。
元々のべこもちだけでなく、各地の文化などが混ざり合っているため、葉っぱ形以外にも様々なバリエーションがある Image
Read 5 tweets

Did Thread Reader help you today?

Support us! We are indie developers!


This site is made by just two indie developers on a laptop doing marketing, support and development! Read more about the story.

Become a Premium Member ($3/month or $30/year) and get exclusive features!

Become Premium

Don't want to be a Premium member but still want to support us?

Make a small donation by buying us coffee ($5) or help with server cost ($10)

Donate via Paypal

Or Donate anonymously using crypto!

Ethereum

0xfe58350B80634f60Fa6Dc149a72b4DFbc17D341E copy

Bitcoin

3ATGMxNzCUFzxpMCHL5sWSt4DVtS8UqXpi copy

Thank you for your support!

Follow Us on Twitter!

:(