北陸の冬には欠かせない消雪パイプは偶然から生まれた

昭和30年代の冬の新潟県長岡市
道路工事中に不具合で地下水が湧き出てしまうことに始まる。
天気は雪だが、地下水が出た箇所だけ雪がない。

地元住民は気づいた。地下水は雪を解かせるということに。

そして消雪パイプの技術開発が始まった。 Image
最初は鉄パイプに穴を開けて地下水を通しただけの単純なものだったが、威力は強力だった。
会社の私道で使われて実証され、公道にも採用される。

昭和38年の豪雪でその効果を見せつけると、北陸地域や山陰を中心に普及していく。
ちなみに北陸より北の東北だと地下水が凍ってしまうので使えない。 Image
散水の方式も時代によって進化していく。

最初はツノ型だったが、施工コストがかかってしまうため、ボックス型に変化。
また、ボックス型のノズルは錆による目詰まりが多発したため、ステンレスに。
更に散水方向も調整できるキャップ型へ。

だが、地下水を使いすぎたため、地盤沈下が起こってしまう ImageImageImage
消雪パイプはあまりにも広く普及してしまった
そのため、毎年冬に大量に地下水を汲み上げ、地盤が収縮。

地下水がないと消雪パイプの意味がない。
対策は節水しかなかった。

交通量によって散水量を変えたり、積もらない雪に対して散水しないようなシステムを構築したりして節水を行っている。
消雪パイプが公道に敷設されてから60年以上経った現在では、地下水だけでなく更新や維持管理などの問題もある。
課題は多いが、北陸・新潟の民は消雪パイプなしの生活など考えられない。

これからも消雪パイプは地域と共に生きるために、地味な進化をし続けるだろう

#にいがたさくらの小話 その393
新潟県庁HP(1頁目画像)
pref.niigata.lg.jp/sec/nagaoka_se…
日本工業経済新聞社(2項目画像)
nikoukei.co.jp/news/detail/44…
以下参考文献
道路除雪としての消雪パイプ
jstage.jst.go.jp/article/seppyo…
消雪パイプの50年にわたる技術の変遷に関する研究
jstage.jst.go.jp/article/jsse/2…

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Jun 7
大航海時代初期に活躍したポルトガル

だがマラッカでは、1641年にオランダに敗れると、彼らの時代は終わり、現地人との混血児たちが残された。
彼らはカトリックの信仰を守り、文化や言語を誇りながらも、被支配層となる

英国領時代には「貧しいポルトガル人」と呼ばれ、寂れた漁村で生きていた Image
大航海時代のポルトガルは欧州の小国なので人口が少なく、現地婚政策を採用していた。
地域の準支配者となることを期待されていた。

彼らは名字も宗教も生活様式もポルトガル式だった。

オランダの植民地になった後、支配者にはなれなかったが、中には支配者たるオランダ人に嫁に行った者もいた。
ユーラシアン
欧州人と現地アジア人の混血の人々を指す言葉だ

英領時代のマラッカでは、同じユーラシアンでもイギリス系・オランダ系とポルトガル系とでは階層が別れていた。
前者は英語を母語とした準支配者、後者はポルトガル系の言語を母語とした無学な漁民

あまりの貧しさに支配者すら哀れんだ
Read 6 tweets
Jun 3
俵。
古来から、米だけでなく、麦、塩、海産物、肥料等あらゆるものを梱包してきたものだ。

だが明治初期、俵の作り方は雑で、中のものが溢れたり、俵自体が破損するものも多かった。
更に大きさが一定ではないため、場所場所で検査が必要となり不便だった。

この米俵の改良に生涯をかけた人間がいた Image
江戸時代までの米は、藩により厳しく管理されていた。
大事な年貢だからだ。
各藩毎に標準を定め、ある程度の米俵の規格化がなされていた。

しかし、年貢が金納に変わると管理がなくなり、売買する者たちに委ねられ、次第に安価な梱包方法に変わっていく。

函館で廻船業を営む遠藤吉平はこれを憂いた Image
彼は俵で大損害を出していた。
蒸気船で函館から品川へ品物を送った俵が破損したからだ。

江戸時代までの習慣では、重さを基準としたやり取りだったが、明治の蒸気船では個数単位に変わる。
荷を気にしながら運ぶのは効率が悪いからだ。

案の定俵は破損。汽船会社は法令に基づき責任なしとされた。
Read 7 tweets
Jun 2
戊辰戦争の頃、石川県加賀市にあった大聖寺藩には新政府から弾薬供出が命ぜられた。

だが弾薬を買うカネはない。
そこで手を染めたのがニセ金製造。

銀を溶かし不純物を混ぜ、メッキを施す。
出来栄えは完璧だったが、担当者は思った。

「新しすぎて怪しまれる。温泉に浸けて使用した感を出そう」 ImageImage
小さいとはいえ大聖寺藩は加賀百万石の支藩。
芸術を重んじる藩の中には、金属細工が上手い下級藩士が居た。
彼は金銀の何たるかを熟知しており、商人や協力者を仰げるネットワークも持っていた。

ちなみに浸けた温泉は、現在の山代温泉である。

これにより大阪や新潟等の本場の商人さえも騙せた。
この時期、どの藩も多かれ少なかれ似たような偽造工作はしていた。
だが、大聖寺藩の贋金は群を抜いていた。
「大聖寺の小梅」と渾名がつくほど人気の銀貨だった。

作った贋金を基で元手に琵琶湖に蒸気船を導入するなど、独自の近代化を推し進めていた大聖寺藩だが、他藩からのやっかみを受ける。
Read 4 tweets
Jun 1
江戸前期、領内を調査していた津軽のサムライは困惑した。

「土の中から謎の焼き物が出てきたんだが?」

何だコレは?訳がわからん。
とりあえずそう日記に記した。

現在の世界遺産·亀ヶ岡遺跡である。

この情報が都会に伝わると愛好家たちがこぞってこの土器を集め、海外にまで渡った土器もある。 Image
江戸時代は平和な時代だったので、珍品コレクターが沢山いた。
『南総里見八犬伝』を書いた売れっ子作家の曲亭馬琴もその一人だった。

彼らは絵や書だけには飽き足らず、様々な物を収集し、仲間同士で古い物を愛で合う会『耽奇会』という会合を開いていた。

縄文の美や神秘に惹かれたのだろう。
津軽藩士たちも、珍品コレクターの情熱を察知していた。

「コイツが何なのかはよくわからんけど、江戸に持っていけば売れる」

彼らは参勤交代の際に手土産として土器を持っていった。
地元人達も、適当に掘り起こしてサムライに売り渡した。

乱掘された土器は完成品だけでも数千にのぼるという。
Read 5 tweets
May 31
島根県石見地方。
ここには民俗芸能の石見神楽がある。

元々は一般的な神事として舞われていたのだが、時代や地区によって様々に変化し、全体として芸術性が高いものへと進化している。

なぜ石見で進化したのか?
これには石見の地域性が関わってくる。

要するに、田舎が連なっているからだ。 Image
江戸後期から明治にかけて、石見の城下町には神社は多くあるが、専属の神楽団体がないところが多かった。
農村の神楽団体へオファーすることになるが、農村の数は多い。

オファーする城下町の神社からしてみれば、いいパフォーマンスをしてくれる神楽団体を呼びたい。

こうして神楽団体は競い合う。
一方で、担い手は変化した。
明治初期に神職が神楽を舞うのを禁止されたからだ。

担い手は村の民衆となり、楽しみが少ない田舎では皆が熱中した。
地域によって担い手の性格も異なり、漁村に近い地域だと荒々しくテンポが早くなるなど、神楽に地域特性が入る。

神楽団体同士もお互いを意識しだす
Read 6 tweets
May 25
壊血病といえば、ビタミンC欠乏により発症する病気で、大航海時代の西洋の船乗り達がよく罹患した。

だが西洋だけではなく、江戸期日本でも蝦夷地警備をする武士達が罹患し、尊い犠牲を出す。
時代が下ると、対策としてコーヒーが飲まれた。

コーヒーにはビタミンCは含まれていないが、なぜか効いた Image
彼らは米、味噌、沢庵、漬物など新鮮な野菜以外は本土と変わらない食事を取っていたが、ビタミンは足りなかった。

ビタミン不足を補う大根が支給されることもあったが、全員には行き渡る量ではなかった。

そもそも寒い蝦夷地。
極寒の中、知識のない彼らは謎の奇病にやられ、壊滅する隊もあった
しかし日本にはオランダから入ってくる書物だ。

「コーヒーが効く!」

1803年に日本の蘭学者がそう紹介した。
だがそれは、150年前の誇大宣伝。
既に西洋では柑橘が効くことが知られていた。

しかし、オランダは商機を感じた。
当時、オランダはインドネシアでコーヒーを作っていたからだ。
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