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1920年に多くの日本人及び朝鮮人が間島州(現中国吉林省)で虐殺されている。この事件を琿春(こんしゅん)事件と呼んでいるが、犯人は匪賊(徒党を組んで掠奪・殺人を繰り返す盗賊集団)及び支那脱走兵等であった。

この事件の半年前には、アムール川河口にあるニコラエフスク(尼港)で、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件(尼港事件)があり多くの日本人居留民が虐殺されたが、日本人が匪賊に襲撃される事件新聞に大きく報道されたのは琿春事件が最初である。

賊の来襲は二回にわたり、メンバーの中には馬賊(ばぞく:馬に乗って悪事を働く匪賊)のほか、支那脱走兵、ソ連の赤軍パルチザン(非正規軍)将校、朝鮮人がいたという。尼港事件の時も日本人は酷い殺され方をしたのだが、琿春事件は尼港事件よりも酷かったとも言われている。
shibayan1954.com/degital-librar…
da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/01003418…Image
その後も匪賊による日本人殺害事件が続き、1922年6月に、琿春に近い頭道溝の領事分館に約三百名からなる馬賊が来襲している。

この事件は頭道溝事件といい、朝鮮人独立運動家が馬賊(馬を用いて襲撃する満州の匪賊)の協力を得て間島頭道溝の日本領事館分館を破壊し放火して、仲間の独立運動家を脱走させた事件なので掠奪が目的ではなかったのだが、この事件で二人の日本人が死亡し、三人が重傷を負った。

当時の満州では馬賊による掠奪事件などが頻繁に起こっていたのだが、その当時の支那には盗賊団のような連中を取り締まる力がなかった。Image
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次に大きく報じられたのはおそらく大正12年5月の津浦線における土匪掠奪事件で、この時は約千人の土匪(匪賊)が線路を破壊して列車を転覆させ、乗っていた15名の外国人を身代金目的で捕え、イギリス人とアメリカ人がそれぞれ1名殺害されたのだが、幸い日本人被害者はゼロであった。

この事件は臨城事件と呼ばれているものでWikipediaにも記述があるが、英米が激怒して国際的に大問題となり、強気の交渉によって外国人は翌月に全員無事に解放されている。ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8…Image
当時は新聞で匪賊の解説をしている記事が出ている。例えば、大正12年5月19日の中外商業新報にはこう記されている。 Image
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官兵が匪賊と本格的に戦うこともせず、逆に匪賊に武器を売るようでは国の治安が良くなるはずがない。匪賊の出没する地域では、支那人はその後も長い間匪賊に襲撃され、被害は年々酷くなっていった。

盗みであろうが、身代金目的であろうが大量の支那人を殺戮する必要はないはずだ。では何のために支那人を大量殺戮したのかを考えていくと、恐怖を煽ることが目的であった可能性が浮かび上がる。そうなると前回の記事で書いた「漢民族を満州に移住させるため」に支那各地で暴虐な行為が行われたとする仮説が納得できるものになるのだ。章炳麟は満州に漢民族を千五百万人移住させようと計画したというが、漢民族は満州に移住地を定めてインフラを整えるようなことは何もしなかった。にもかかわらず実際には三千万人の漢民族が移住した。確たる証拠があるわけではないが、共産党の指令に基づいて動いていた共匪や兵匪がいたのではないだろうか。

大阪時事新報の1931年5月14日の記事では「共産土匪」と記されているが、共産党の支持のもとに動いていた匪賊で「共匪」とか「赤匪」などとも呼ばれた。このような行為が支那各地で行われていたようである。Image
画像は昭和7年4月28日の大阪朝日新聞の記事だが、同年3月1日に満州国が建国されて、そのインフラ整備や農地開拓などのために多くの日本人が移住し生活をしていた。しかしながら満州には「兵匪」が跋扈しており、居留民を守るためには軍の力を頼るしかなかった。 Image
満州国の軍隊による匪賊討伐をあてにすることはできなかった。昭和7年(1932年)5月3日の大阪朝日新聞によると、兵匪を討伐する約束で派遣された満州国軍が兵匪側に寝返ったことを報じている。

満州国の治安改善は日本軍が頼みの綱であったのだが、わが国が軍隊を派遣したことで「日本に侵略の意図あり」との支那の得意とするプロパガンダで欧米列強に訴えた。戦後のわが国の支那に関する歴史叙述は当時の支那のプロパガンダに近いものになってはいないか。Image
兵士になるまでに日本では勉強をして試験に合格し、厳しい訓練を受ける必要があったのだが、支那における兵士採用はわが国とは全く異なっているのだ。

昭和8年3月19日から連載された満州日報の記事に支那兵がいかにして集められ、彼らが匪賊を討伐に命じられた時に実際かれらがいかなる行動をとるかが記されていて、これがなかなか面白い。

支那の匪賊のことを知らずして支那の歴史は語れないと思うのだが、とくに満州に関しては、匪賊による被害が何度も出ていたことを知らずして、日本軍が満州に配備されていた理由を正しく理解できるとは思えない。
shibayan1954.com/degital-librar…Image
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Mar 12
斎藤榮三郎『英国の殖民政策』(GHQ焚書)を読み進むと、わが国だけでなく世界においても、イギリスの外交方針の影響を受けて大きく動いてきたことが見えて来る。 shibayan1954.com/degital-librar…Image
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「以夷制夷」とは敵国を押さえるのに自国は戦わずに別の国に戦わせて利益を得ることを言うが、この戦い方は支那ではなくイギリスが本家本元であり、日露戦争はイギリスがロシアの南下を防ぐために日本を利用したという指摘は正しいと思う。では第一次世界大戦ではイギリスはどう動いたのか。 Image
第一次世界大戦のあと在支のイギリス首脳は、落日の傾向にある在支イギリス勢力回復のために、イギリス系ユダヤ人富豪の対支進出を熱心に勧誘したという。

当時インドでは国民会議党の指導権がガンジー一派の消極的反英から積極的反英のネール派等に移り、多くの在インドユダヤ富豪はインドに見切りをつけ始めており、支那に本格的に投資をすることを決めたのが、のちに「東洋のロスチャイルド」と呼ばれたサッスーン一族である。

サッスーン商会はアヘン戦争後の南京条約で支那市場が開放された後に上海に進出し、インド産のアヘンを清国で売ることで巨万の利益を上げてきたが、インドの次の投資先として支那に狙いを定めて本格的な投資を開始したのである。

1929年の10億ドルの現在価値をGrokに聞くと、189.5億ドル程度で、日本円にすると約3兆円に相当し、1937年の12億ドルの現在価値は270.1億ドル程度で、日本円にして約4.2兆円との回答であった。サッスーン財閥が支那で投資していたのは上海だけではなく香港にも巨額の投資をしていた。Image
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Mar 11
戦後はユダヤ問題はほとんどタブー扱いにされてきたために、この問題についてテレビや新聞で知る機会は皆無に近いのだが、戦前の新聞にはユダヤ問題についてしばしば解説されていた。「フリー・メーソン」という名前が当時の新聞にしばしば登場するのだが、これは「シオンの議定書」を奉じてユダヤ人による世界征服を目指す有力な秘密結社である。

昭和八年三月十七日以降九回にわたり「世界の謎フリー・メーソンとは何!」という記事が神戸又新日報で連載されている。この記事は今日の日本人が知るべき内容がかなり含まれていると思うので、内容を紹介させていただく。
shibayan1954.com/degital-librar…Image
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ユダヤ人には当時において国がなかった。彼らは亡国の民として世界に分散して、様々な国に住み着いて、主要国で経済的支配力を握っているが、国がないので武力を持たず軍隊も存在しなかった。そんな彼らが世界を支配するというのはいかなる方法によって可能であるのか。その力の源泉はユダヤの「黄金の力」にあったという。

国際連盟も、ユダヤが世界を支配する目的の為に造られたもので、わが国を不利な立場に追いやった国際連盟の主要メンバーも、リットン調査団の主要メンバーもフリー・メーソンのメンバーであったのである。そういう重要な問題に触れずして近現代史を学んでも真実から遠ざかるばかりである。
da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/01002399…Image
ユダヤ人の聖典である「シオンの賢者のプロトコール(シオンの議定書)」はアメリカの宣教師によって偶然発見されて英訳されたという。 Image
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Mar 9
1633年には、日本人の海外渡航は、朱印状の外に老中奉書という別の許可状をうけた奉書船に限る事となり、1635年には、日本人の海外渡航と国外にいる日本人の帰国が全面的に禁じられてしまっていた。

そして、1639年にはポルトガル船の来航が禁じられ、その結果、朝鮮と琉球以外で日本に来る外国船はオランダ船と中国船だけになり、その来航地は長崎一港に限られることとなる。

わが国の朱印船が台湾に向かうことが無くなったことで、競合がなくなったオランダが台湾における貿易の全権を握ろうとしたことは自然の成り行きであった。また台湾の北部は当時スペインが占拠していたのだが、1642年にオランダは鶏籠(ケーラン:現在の基隆市)に艦隊を派遣しスペイン人勢力を台湾から駆逐した。

かくして台湾はオランダの植民地となり、その後、オランダによる台湾統治が十年ばかり続いたのだが、日本人を母に持つ中国人・鄭成功(ていせいこう)がオランダ勢力を排除することに成功している。shibayan1954.com/history/edo/sa…
鄭成功の父・鄭芝龍(ていしりゅう)は、台湾や東南アジアと朱印船貿易を行っていた李旦*の配下にいたとされている人物で、貿易船の積荷の監督として中国から渡って来た。鄭芝龍は平戸藩士の田川七左衛門の娘・マツと結婚し、1624年に息子の福松が生まれている。この福松がのちの鄭成功である。

鄭芝龍はのちに単身明国に渡り、1625年に李旦が死亡すると鄭芝龍が船団のリーダーを受け継いでいる。当時明国は海禁政策を取っており、鄭芝龍らの活動は非合法の密貿易であったのだが、彼らの船団は千隻もの船を保有し、政府軍や商売敵との抗争の為に武装化していて、福建省周辺では強い勢力を有していた。

明国は1628年に鄭氏龍を懐柔して都督に取り立て、そののち鄭芝龍は七歳になる福松を福建に呼びよせて、以後福松は父親の手で育てられている

当時の明国は反乱が相次ぎ、1644年には李自成軍の包囲の前に崇禎帝(すうていてい:明朝第十七代皇帝)は自殺し、同年満州族の清国が李自成を破って北京を占領してしまった。

一方、中国南部にいた明朝の皇族と遺臣たちは、「反清復明」を掲げて各地で清朝への反抗を繰り返した。鄭成功の父の鄭芝龍らは唐王朱聿鍵(しゅいっけん:隆武帝)を擁立して抵抗を続けたという。
1645年、福松が二十二歳の時に、父に従って隆武帝(唐王)に拝謁しているが、その時に福松は隆武帝に気に入られ、隆武帝から明の朝廷と同姓の「朱」という苗字を賜った上に、名を「成功」と改め、さらに御営中郡都督という役目を授かっている。

ところが彼は、国姓の「朱姓」を使うことは畏れ多いとして、以後自らの名を鄭成功と名乗るようになった。一方、人々は彼のことを、隆武帝から「国姓を賜った」と言う意味で「国姓爺(こくせんや)」と呼ぶようになった。

また鄭成功は、隆武帝に拝謁した翌月に、父と相談して母を日本から呼び寄せ、十五年ぶりの再会を果たしたという。

しかしながら、その頃の明国は衰退期にあり、満州族の清国の勢力が南に伸びてくると、父親の鄭芝龍の考え方と、日本人の血の流れた鄭成功と母親の考え方の違いが浮き彫りになる。

菊池寛の『海外に雄飛した人々』には次のように記されている。Image
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Mar 8
菊池寛の『大衆維新史読本』が電子書籍の響林社文庫から出ていて、Kindleで読むことが出来る。この本には江戸幕末から明治維新期に関する興味深い話がいろいろ書かれているのだが、今回はそのなかから、ペリーが来航した頃の旗本の生活が困窮していたことが書かれている部分を紹介させていただく。
「旗本」とは江戸幕府に直接仕えるえる家来のうち、石高が一万石(約千五百トン)未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者をいう。一石というのは、大人一人が一年で食べる米の量であり、一石は約百八十リットル、約百五十キログラムに相当する。
菊池寛はこの本の中で、この頃の旗本の貧困生活の実態についてかなり具体的に記している。shibayan1954.com/history/edo/ka…Image
伊藤博文の名前が出て来るのだが、武士の身分を得たのは博文の父親である。Wikipediaによると伊藤博文は百姓・林十蔵の長男として生まれ、「家が貧しかったため、十二歳ころから父が長州藩の蔵元付中間・水井武兵衛の養子となり、武兵衛が安政元年(1854年)に周防佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって伊藤直右衛門と改名したため、十蔵・博文父子も足軽となった」とある。

 菊池寛によると徳川家の家臣である旗本身分を得るための相場は百石あたり五十両、急ぐ場合は七十両~百両だったというが、公然と武士身分が購入されていたわけではなく、養子縁組の「持参金」として支払われることが多かったと思われる。但し有能な人物の場合は、推挙により武士となったケースが散見される。Image
この時代に武士身分を得た人物には著名な人物が結構いる。
新選組組長の近藤勇はWikipediaによると、「武蔵国多摩郡上石原村(現:東京都調布市野水)に百姓である父・宮川久次郎と母・みよの三男として生まれる。」とあり、嘉永二年(1849年)十月に、剣豪・近藤周助の養子となり、「周助の実家である嶋崎家へ養子入りし、嶋崎勝太と名乗る。その後、嶋崎勇と名乗ったのちに、正式に近藤家と養子縁組し、近藤勇を名乗った。」と複雑な過程を経て武士となり、のちに幕臣となっている。

新選組副長として近藤勇の右腕として組織を支えた土方歳三は、武蔵国多摩郡石田村の豪農・土方義諄の十人兄弟の末っ子として生まれたが、幼くして父母を結核で失い、家督を継いだ次兄夫婦に養育された。その後、天然理心流の剣術道場で近藤勇と出会い、安政六年(1859年)三月に天然理心流に正式入門。文久三年(1863年)以降は新選組で近藤勇と共に京都の治安維持に尽力し、慶応三年(1867年)には幕臣に取り立てられている。Image
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Mar 7
台湾に関する古い記録を探していると、柴田賢一 著『日本民族海外発展史』の記述が目に止まった。日本人たちは戦国時代から、台湾に勢力を伸ばしていたのである。
dl.ndl.go.jp/pid/1917582/1/…
shibayan1954.com/history/edo/sa… Image
このようにかなり古くから日本人が台湾に勢力を張っていたのは、商人たちがこの地を貿易上の拠点としていたことによるのだが、メンバーの中には中国人商人もいたという。彼らは明国が「倭寇」と呼んでいた勢力の一つであったと考えられる。

海禁政策を採っていた明国からすれば、彼らは非合法である密貿易に従事していたのであり好ましからざる存在であったのだが、彼らは生活必需品を交易することで東南アジアの各地に根付いていたのである。

台湾については、徳川家康が支那貿易の中継地点を得ようとして、慶長十四年(1609年)に九州の有馬晴信に命じて探検させているのだが、徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第13 家康時代 下巻』に紹介されているイエズス会の年報によると、彼らは現地人から敵視されたために全く交渉にならなかったことが記されている。dl.ndl.go.jp/pid/1223818/1/…Image
また、GHQ焚書とされた竹内尉 著『海とその先駆者』によると、家康は元和元年(1615年)と翌年に、長崎外町の代官村山東菴(むらやまとうあん)に命じて台湾征伐を図ろうとしたが、二度目の航海では琉球沖で暴風に襲われてしまい一隻だけが台湾に到達したという。しかしこの船も「土民のために襲われ乗組員は自殺した」と書かれている。

にもかかわらず、民間レベルではかなり以前から日本と台湾との間に頻繁な取引が行われていて、商業根拠地に居住して現地の人々と共存していたことはもっと注目してよいと思う。
dl.ndl.go.jp/pid/1041421/1/…
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Mar 6
マニラとならんで日本人が多数居住していたのはシャム (暹羅:現在のタイ国)のアユタヤである。アユタヤはシャムの首都で、日本人はチャオプラヤー川(旧名はメナム川)沿いに区画を与えられていて、そこに多数の日本人が居住して日本人町を形成していたという。なぜこの国に多数の日本人が住むことになったのであろうか。

タイ国との交易が始まったのは16世紀半ばとされ、当初わが国は鉄砲や火薬の原料となる鉄や硝石を輸入していたという。江戸時代に入り朱印船貿易が始まってからはわが国との交易が盛んになり、取扱い商品も変化していったようだ。

交易が盛んになると仕入れ活動等に従事する日本人がこの地に留まるようになったのだが、商人だけではなくさまざまな人々がこの国に移り住み、アユタヤに日本人町が出来たと考えられている。
shibayan1954.com/history/sengok…
画像はケンペル著『日本史』に掲載されている1690年のアユタヤの古地図だが、右下に「Japonese」と記されているあたりが日本人町である。

GHQ焚書である柴田賢一著『南洋物語』には日本人町についてこう解説されている。(わかりやすいように元号に西暦を補記している)
dl.ndl.go.jp/pid/1276416/1/…Image
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「暹羅風土軍記」は智原五郎八という人物がシャムから帰国後、長崎で人に語ったことを書き留めた書物だが、関ヶ原や大阪の陣などで敗れた武将や、弾圧を逃れようとしたキリシタンが新天地を求めて住み着いていたというのはおそらく真実であろう。しかし「住居する者八千余人あり」というのは他の史料と比較するとかなり大きな数字であり、日本人町に住む日本人は千人から三千人程度の説が多い。

「暹羅風土軍記」には書かれていないが、シャムには新天地を求めた日本人ばかりではなく、奴隷としてこの国に売られた日本人も少なからずいたはずである。

イエズス会のルイス・フロイスの『日本史』に、天正十五年(1587年)に豊臣秀吉がイエズス会日本準管区長のガスパル・コエリョに対し使いを出して伝えた言葉が記録されている。Image
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