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6 Sep, 35 tweets, 2 min read
防衛反応しか持たない親から愛をもらうのはとても難しいことです。そうした親を持った子は「宇宙の孤児」になります。
でも、悲しむこともありません。宇宙には生きとし生けるものが満ち満ちていますから、そこから生命力と夢を育んでいくことができます。

花丘ちぐさ
ここで言われていることは、必ずしも親と和解する必要はないということです。
自らを「宇宙の孤児」と認める。それは親を捨てるということです。
その人には、親に歪められてしまった自分を幸せにすることで、負の連鎖を断ち切るという、その大きな仕事が待っているのです。
けっきょくのところ、人は、自分で自分を救うしかありません。自分の中のままならないものを子供に投影して、さんざん子供を痛めつけてきた親自身、自分で自分を救うしかないのです。
子供が親を捨てることは、むしろ親が自分で自分を救うチャンスを与えてあげるということにも繋がっていきます。
子に捨てられて、それでもなんの気づきもなく、自分を捨てた子を恨んで死んでいく親もいるでしょう。それは、仕方のないことです。
子供がなすべきこと、できることは、自分を歪めた「過去」を救うことではなく、自分自身の「現在」を救うこと、そのことで子供という「未来」を救うことだけなのです。
花丘ちぐさ『その生きづらさ、発達性トラウマ?』(春秋社)

虐待というほどではなくとも「不適切教育」を受けると、人の身体にはトラウマが刻み込まれていきます。
自分に自信が持てない、人とうまく関係が持てない、酷く疲れやすい、…こうした生き難さの背景には神経システムの不全が考えられます。
環境の中にリスクを見つけると、人の自律神神経系は「攻撃するか逃げるか」「凍りつくか」、そのいずれかのモードにセットされます。多くの動物では、このいずれかの反応になりますが、人間の場合は、「問題に対処する」というもう一つ高次の神経パターンがあります。
この高次の神経パターンが十分に発育するためには、子供が環境のなかのリスクに対し、ある程度心理的な距離を置いて、自分は安全である、という感覚を与えられている必要があります。自分は安全である、という感覚が与えられないと、環境、人生の問題に適切な対処がままならなくなります。
彼や彼女は、人生の中で起きてくる問題に対し、過度に恐れ、攻撃的になるか、或いは感覚や思考を麻痺させ、凍りついたようになってしまうか、いずれにせよ、問題に適切に対処することが困難になってしまいます。
子供の「安全感」を奪う、毀損する親の態度、言動は「不適切養育」と名づけられます。この「不適切養育」を受けることで、問題に適切に対処する神経系を十分に発達させられなかった状態は、「発達性トラウマ」と呼ばれます。
成長の過程において、十分な食べ物を与えてもらったり、お風呂に入れてもらったり、おしめを変えてもらったり、目と目を合わせて話しかけてもらったり、心地よいスキンシップが適切に与えられ、子供が「自分はこの世界に歓迎されている」と感じられるかどうか。
親も子供も互いに働きかけあうことで、こうした「歓迎されている」「安心である」という感覚を養い、子供の神経系を安定させていくことを「協働調整」と言います。この「協働調整」に問題がある関わりが持続すると、それは「不適切養育」として、子供に発達性トラウマをもたらします。
不適切養育は具体的には、子供の固有の価値を認めず他所の子と比較したり、根源的な生きる意味を否定するような思いやりのない言動をとったり、勉強やスポーツなどを無理強いして、その成果が出たときだけ褒めるといった条件付きの承認を与えていく、等などの態度があります。
「そんなことでは社会ではやってけないぞ」「気が弱すぎる」「強情だ」「兄さんの方がずっと優秀だ」……日常的に「早くしなさい」と急き立てたり、子供が構ってほしいと寄って行っても「あとでね」と相手にしない。こうしたことが積み重なって、子供の「安全の感覚」を奪っていきます。
子どもの好みや服装などに介入しすぎる、過干渉で子離れできない、否定的な言動が多い、抑うつ的で子供のニーズに応えない、過度の心配性、無理に頑張らせる、子供に大人の愚痴を聞かせる、勉強を強要する、脅す、こうしたことは、多くの場合、親自身が問題を抱えていることから出てくる態度です。
子供の夢を否定する、子供に嫉妬する、子供の性的な成長を喜ばない、不適切に性的な情報に触れさせる、子供に性的な関心を持ち言動に表す、……虐待とは言えないまでも、その一歩手前の態度、言動、行為が「不適切養育」として、子供の神経系に発達性のトラウマを刻んでいきます。
親も完ぺきではありません。つい、子供に不適切に当たってしまうこともあるでしょう。明らかな虐待とは異なり、不適切養育のレベルだと7割適切な接し方をしていれば、子供に深刻なトラウマを与えることは少ないということが言われています。
さらに、もし母親がメンタルを崩していても、父親がしっかりしていれば深いトラウマにはならないかもしれません。適切な対応をしてくれる人が、周りにひとりもいなくなると、子供に深刻な影響を与えるリスクが、それだけ高まるのです。
発達性トラウマは、いわゆる「手続き記憶」として身体に刻み込まれます。例えば「自転車に乗る」というのも手続き記憶です。一度自転車に乗れるようになると、何年かブランクがあっても、乗れなくなることはありません。発達性トラウマもまた同じような性格をもちます。
例えば不適切養育を受けた子供が大人になって仕事を持ち、自分の稼いだお金で生活していけるところまで来たとします。本来自立していて自由なはずです。それなのに、母親と似たタイプと出会うと緊張したり、父親に似た人が怒っている姿を見ると、怖くなったりするのです。
先に指摘したように、発達性トラウマを抱える人は、ちょっとしたきっかけで、攻撃的になったり、あるいは凍りついたりしてしまいます。深いところで、いつも攻撃的になったり、凍りついたりしているのにも関わらず、なんとか社会に適応するすべを見つけて、ようやく息をしている状態です。
「生き難い」とは、つまり、そういうことなのです。深いところでいらだち、凍りついているのに、表面上社会に合わせて、ボロが出ないように自分を抑えている。だから、「普通のこと」をやっているだけで大変なのです。普通の人のふりをしているだけでへとへとになってしまうのです。
こんな状態では、人生を楽しんだり、夢を持つことはできません。発達性トラウマを抱えた人は、大きく3つの問題を抱えることになります。一つには、自分は根源的に価値のない人間だと思ってしまう恥の感覚。二つ目に人との関係がうまくいかない。三つ目に心身の健康が損なわれるということです。
発達性のトラウマを抱えた人は、人間関係を潤滑にする「あそび」の感覚をうまくつかむこと苦手です。
仲良く遊んでいた子供が、いつのまにか喧嘩になってしまうことがありますが、これは問題を解決する神経系が十分に発達していないため、攻撃性を上手にコントロールすることができなくなるからです。
セクシュアリティにも問題が生じます。そもそも人と一緒にいるだけで、神経系が攻撃ー逃走モード、凍りつきモードになってしまうのです。
理性で「この人は自分を愛している」「セックスを楽しもう」と思っても、神経系はいつも緊張して、身体はリラックスできない状態になっています。
心の問題としては、自律神経の攻撃ー逃走モードが優勢になりやすい人は、焦燥感がある、イライラする、自分の怒りのコントロールができない、人を激しく責めてしまうなどの傾向性をもちます。
凍りつきモードが優勢な人の場合は、自分に自信がなく、自己価値観も低く、「消えたい」などと思い、嫌な人から誘いを受けても断ることが難しく、つねに自分が悪いと自責の念に悩み苦しみます。
発達性トラウマがある人は、成長してから、親密なパートナーから性的加害行為を受ける確率が、発達性トラウマを持たない人に比べて11倍高いという報告もあります。彼や彼女は、ハラスメントの被害者にも加害者にもなる恐れがたいへん強い人たちだと言えます。
さて、見てきたように、トラウマは自律神経に刻み付けられた傾向性のことでした。自律神経は内臓を司る神経系です。だから、このトラウマを治癒していくためには、身体に働きかけることが有効になります。「ソマティック」なアプローチで、神経系に変化を起こしていく必要があります。
何かつらいことがあっても、周りから力を借りたり、自分を信じる力を活かしたりして、逆境から立ち直って、心身共に健康な人生を歩んでいける力ーこれをレジリエンスと呼びますが、レジリエンスを高めるためには、人と関わって安全であるという感覚を味っていく、長期的な実践が必要なのです。
神経には可塑性があります。一度凝り固まったパターンもくり返しの実践によって徐々に変えていくことができます。ただ、焦りは禁物です。「さあ今日から自分のトラウマを解放するぞ」とセラピーに励んでも、短期的に目に見える効果がなく、いっそう落ち込んでしまうこともよく見られることです。
変化はほんの少しずつ、「一口サイズ」で進めていく必要があります。だから、ひとつひとつの実践は、日常的に継続できる何気ないものがいい。ウォーキング、頻繁に自然のなかに訪れること、動物と遊ぶ、笑う機会を意識的に増やす、……
そして、最も重要なのは、「あそび」の感覚を意識的に高めていくことです。
あそびを自律神経の機能という観点から見ると、あそびとは、攻撃性や凍りつきの状態と社会交流の状態を、恐れを感じることなく行ったり来たりできるようになるための神経エクササイズである、と言えます。
あそびとは、攻撃性を自在に抑制し、その刺激を楽しみながら、社会的な交流を楽しむ行為なのです。
発達性トラウマを抱える人は、子供の頃にこうしたあそびをしてもらってないことがしばしばで、小さな刺激も怖いと感じたりして、あそびを十分に楽しむことができません。
発達性トラウマを含め、トラウマを持つ人は、普段、身体感覚を感じないようにシャットダウンする傾向があります。かつて身体で恐ろしいことを経験したので、なるべく身体に注意を向けないようにする癖がついている。なるべく「今・ここ」を感じないようにして、自分を保っています。
例えば、マインドフルネスなど、急に「今・ここ」を感じようと身体に意識を向けると、フラッシュバックに襲われたり、激しい反応を引き起こしたり、ひどい抑うつに落ち込む可能性もあります。

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