この記事にある史上初の純国産ビデオゲームが1973年11月に岩手大学の大学祭で発表された『電子パチンコ』及び『電子ボーリング』としたのは早合点だろう。当時、電気系の大学を志す若者は真空管やテレビジョン受像機に関する深い興味があり、民間は勿論企業でも60年代後期からこうした研究はあった。🤔
日本のネット上では“クラシックビデオゲームステーション オデッセィ”の寺町電人(@DentoTeramachi)氏が早くから国産ビデオゲームの源泉は1970年3月開催の大阪万博・古河パビリオンに展示された『電車の運転テスト』と啓蒙していた。又、同時に碁のゲームも出展されている。
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古河パビリオンの“古河”とは、明治期から鉱山経営で財を成した古河財閥の流れを汲む企業グループ体であり、富士通もその一部である。テーマは「古代の夢と現代の夢」で現代のコンセプトに「コンピュートピア」を掲げ、その中の幾つかに“電車の運転”や“碁”といった国産ビデオゲームの源流があった。 Image
記事の冒頭で、1973年7月一般的に“日本初のビデオゲーム”とされるタイトー『エレポン』やセガ『ポントロン』とあるのは間違いではないが、この段階では殆ど出回っておらず、史実的な記事の誘導として懸念がある。何故なら日本でポンが大々的にお披露目されたのは1973年9月開催のAMショーだったからだ。 Image
日本でポンが大々的にお披露目されたのは1973年9月30日~10月1日開催の第12回アミューズメントマシンショーからであり、当時はまだ日本国内に殆ど設置例がなかったことは当時の業界誌を見れば一目瞭然である。又、このショーで初めてエアホッケーがお披露目されたことも特筆すべき事柄と言えるだろう。 ImageImage
それでは日本初の商業ビデオゲームの嚆矢とは何だろうか? それがポンが世に登場したAMショーで同時出展された、日本ビクターと関西精機製作所が共同開発した『プレイトロン』だ。本作も“クラシックビデオゲームステーション オデッセィ”の関西精機の特集に記載(5P)がある。
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『プレイトロン』は世が白黒ゲームの始まりであった時代にいきなりカラー画面で登場し業界関係者の度肝を抜いた。しかし、残念ながら発売中止になってしまう。もし同社や本作について詳しく知りたいのなら、コインジャーナル1996年1月号、アミューズメント・ジャーナル2018年8月号を読むと良いだろう。 ImageImage
当記事はミスリードのタイトルに大きな問題があるが、岩手大学で佐藤清忠氏と平畠茂氏がゲーム開発に取り組んだインタビュー自体は貴重で素晴らしい。そして、この大学の技術者がー という点は示唆に飛んでいる。何故ならこれが序文に繋がる、私も電気関係の大学人脈には大いに着眼しているからだ。
『スペースインベーダー』を創った西角友宏氏は東京電機大学工学科の出だが(西角氏は1967年4月に音響機器を開発していたタクトに就職、1968年に太東貿易の開発部門 パシフィック工業に入社)、何と同級生には中村製作所(後のナムコ)の創設間もない開発課で指揮を取った和田正巳氏が居たというのだ。
西角友宏氏と和田正巳氏、1963年4月に東京電機大学に入学し、社会人になったのは1967年4月で同じ。タイトーとナムコ、後に同社で中核を成す二人が学生時代から交流があったことにわくわくが止まらない。彼らの周りにビデオゲームの萌芽はまだ無かったが、電気への強い関心があったのは共に同じだった。
中村製作所、特にナムコでは和田正巳氏が学年一つ下の後輩であった白鳥威氏を目に掛けていて、後に矢口工場の所長にもなる白鳥氏は和田氏に引っ張られて同社に就職し、電気に強い開発部隊と社内で大学派閥を形成していくことになる。その中の後輩には後にアタリ基板の修理を一手に担う堀実氏もいた。
かようにしてエレメカゲームの開発、ビデオゲームの黎明は大学で電気を学んだ若者が大きな役割を果たしたのである。読めば佐藤清忠氏も技術者として研究開発に明け暮れ、平畠茂氏は日立製作所のエンジニアになったのだとか。工学と、後の世界企業の多くの根幹には、常に“遊びの精神”が在ったのだろう。

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More from @Area51_zek

23 Jan
私は論や説というのは当人の考えだから何を言ってもいい(報道は別)と思っていますが、もしかしたらわざとかもしれないけれど、1970年3月開催の大阪万博・古河パビリオンに出展されたのは“電車の運転”と“碁”のゲームです。この視座を用いれば後者“碁”の存在についても、もっと語られるべきでしょう。
“シミュレーターかどうかがポイント”なんて見方は危険極まりないです。何故ならエレメカの時代からシミュレーターという言葉を宣伝に使ったゲームは無数にあり、シミュレーターと名の付くマシンもあったけれど、それは広義でも何でもなく“ゲームそのもの”でしょう。コインオペレートマシンですしね。
私はそういう見解ではないけれど、hally氏の視座で『電子パチンコ』と『電子ボーリング』がシミュレーターではないのは何故なのか?『碁』ゲームはシミュレーターですか?とかね。いくらでも言えてしまうし好き嫌いに近い。だからシミュレーター寄りかどうかで判断なんてのは全くナンセンスだと思う。
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18 Apr 20
“後の公式アナウンス”とは『キャプテンランサー』という名で開発されていた『ヘルファイアー』からです。勿論もう少し早い段階で自社ブランドによる流通を目指していたのが、中々上手くいかなかった様です。東亜プランはこれ迄多くの場所・部門に分かれていましたが、統合の話が持ち上がっていました。
達人・キャプテンランサーを開発中の陣容は本社が八王子にあり、営業と開発は飯田橋にあり、これを業務の効率を図る目的で荻窪の新本社ビルに統合しようとしたのです。実際に本社は1989年10月1日完成、運用されることになるのですが、その半年前にタイトーから販売されたのがヘルファイアーでした。
東亜プランにとって自社ブランドによる流通は悲願であり、その準備は周到に行われ、その最後が新本社の完成でした。ヘルファイアーの販売を機に情報公開が始まったので、業界紙ゲームマシン1989年6月1日号No357号では、ヘルファイアーの4月下旬発売の紹介と、これ迄の東亜プラン作品を詳報しています。
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