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『物部の山奥にある小さな集落』40年ほど前の航空写真では、数軒の家屋と耕作地が見える。そして現在の航空写真。集落まで車道が延びているが、既に住む人はいないという。山奥にある小さな集落には何が残されているのか。集落の今を記録するために、『堂平集落』へと向かった。 ImageImageImageImage
堂平集落を知ったのは、10年以上前のこと。ウオッちず(現・地理院地図)を見ていた時、険しい山上にある集落に気づいたのだ。その存在は、明らかに他の集落とは異なっていた。時は過ぎ、2017年、高知新聞のこの記事を見て、堂平に行くことを決めた。『限界集落から“消滅”へ 香美市物部町の中津尾』 Image
堂平集落は、高知県物部村(現・香美市)の中津尾地区にある二つの集落のうちの一つである。もう一つは下中津尾と言う。物部村の集落は物部川流域に位置するが、この中津尾地区だけは安芸川流域に位置する。山深い物部村でも特に山奥の地区で、堂平にいたっては、標高約750mの山上にあるのだ。 ImageImageImage
堂平集落へは複数のルートが存在する。安芸市から向かうルート、香我美町(現・香南市)から向かうルート、そして物部村から向かうルート。いずれも深い谷間を通り、更には未舗装区間が存在する。山深い場所だけあって、どこを通っても険しい道程である。今回は安芸市からのルートで向かった。 Image
まずは、旧・畑山村の中心部であった畑山地区へと向かう。安芸市街地から安芸川沿いに車を走らせると、程なく山間部に入り込む。四国山地の特徴とも言える"標高の割に険しい谷間"はここも同様である。四国らしい隘路が延々と続く。この険しい谷間の先に、村の中心部が存在してたのだろうか。 ImageImageImageImage
『畑山村』
安芸市街地から約20kmの畑山地区。狭い谷間を抜けると、明るい耕作地が広がった。旧・畑山村では、S.25年に2071人いた人口が現在177人。畑山地区は36人になってしまったが、当時は林業を生業として多くの方々が住み、賑わいを見せていた。それを裏付けるかのように立派な蔵が残っている。 ImageImageImageImage
『水口神社』
畑山地区の産土神を祀る水口神社。広い境内には、多くの人がお参りに来ていたのだろう。しかし、今は神社だけでなく、周囲にも人影は少ない。このように、畑山地区は限界とも言える状況だが、土佐ジローをはじめとして、様々なアイデアで地域再生に取り組む地区でもあるのだ。 ImageImageImageImage
地区内にお婆さんがおられたので、堂平集落について伺った。聞くところによると、お婆さんは堂平に住んでおられた方の従兄弟だというのだ。『堂平には5、6軒あった』、『(元住人の方が)週末になると堂平に来ている』、『祭りは2、3年前までやっていた』堂平に通う方がおられるのか… ImageImageImageImage
畑山地区からは、県道(畑山栃ノ木線)が林道へと変わる。相変わらず狭く険しい谷間だが、廃屋、廃吊橋など、暮らしの跡が見られる。先程のお婆さんも、この沿道にあった柿ノ久保集落(S.45年離村)出身だった。緑が生い茂る急斜面に集落が存在していたとは、今となっては想像することが難しい。 ImageImageImageImage
『下中津尾集落』
畑山地区から約5kmの下中津尾。谷間ゆえに平地は無く、家屋は斜面に張り付く。それらの家屋から物音が聞こえてくることはない。下中津尾を含む中津尾地区の人口は、営林署事業所があったS.35年に123人を数えたが、H.28年に堂平に住む最後の住人が亡くなったことで実質無人なのだ。 ImageImageImageImage
『中津尾分校』
明改小学校・大栃中学校の分校跡。小さな石碑が、この地に学校があったことを証す。S.34年開校、S.44年閉校と、分校があった期間は僅か10年であった。ここができる前は通学に難儀していたという。既に校舎は無く、元教員住宅は集会所となっているが、最近になって使われた形跡は無い。 ImageImageImageImage
地理院地図では、川の向かいに神社があるが、橋は無い。どうやって渡るのか不思議に思っていたが、実際には小さな橋が架かっていた。神社へと続く急な石段を登っていくと、 比較的新しい鳥居が立ち、巨木の下には整えられた社と祠があった。集落から人は消えたが、神社は今も大切にされているようだ。 ImageImageImageImage
『薬師堂』
同じ中津尾地区でも、下中津尾集落から堂平にかけては300m近くの標高差がある。下中津尾から離れると、道路脇には地理院地図に記載のない薬師堂があった。薬師堂の側には巨木が聳え、最近と思われる焚き火の跡もある。そして、穴の空いた石が大量に置かれている。これは一体何なのか… ImageImageImageImage
『堂平集落』
下中津尾から約2kmの堂平。標高550~750mにかけて、家屋と耕作地が点在している。とは言え、その殆どは失われている。家屋が散らばっていて集落という感じはしないが、以前は8軒あったそうだ。木々に覆われた斜面にはどこまでも石垣が続き、当時の方々の苦労が偲ばれた。 ImageImageImageImage
『どなたかいらっしゃるのだろうか』集落上部に来ると、人の温もりがする家屋があった。同時に、茶白のワンコが勢いよく近づいてきた。何故ワンコがいるのか。先に行こうとするが、ワンコにブロックされて進むことができない。ここまで来て戻るしかないのか。そう悩み始めた頃、家屋の方に人影が見えた ImageImageImageImage
声をかけると、こちらに気づいてくださった。すると、ワンコも大人しくなった。ご挨拶して、堂平集落、そして社寺を見に来た旨を伝える。人影の主は、高知新聞に載っていた堂平出身のKさんであった。中津尾地区(堂平)に住んでいた最後の住人は、Kさんのお父さんだったのだ。 ImageImageImageImage
Kさんから、堂平に関する様々なことをお聞きした。『堂平に聖武天皇の勅願寺があったこと』、『先祖は平家で桓武天皇をルーツとすること』、『今も堂平に通い、シキビの栽培をされていること』どれもこれも、現地でなければ知ることのできないお話であった。(お聞きした内容は後のツイートに纏める) ImageImageImageImage
『観音様と氏神様』
集落の奥まったところには、観音様と氏神様が祀られていた。それにしても広い境内だ。ここには眞牧山平等院長谷寺(槙寺)があったと伝えられている。1300年前、聖武天皇の勅願をもって行基により建立され、いつしか羽尾(香南市夜須町)に移ったのだとも言われている。 ImageImageImageImage
確かに、天保8年の地図には、槙山村(物部)に槙寺が描かれている。加えて、堂平という地名は"お堂のある平らな土地"が由来だろう。そう考えると、ここに槙寺があったことは全く不思議ではない。ふと、気配を感じる。振り向くと、再び茶白のワンコが現れた。どうやらワンコに監視されていたようだ。 ImageImageImageImage
再び堂平集落を歩いてみた。どの家も主がいなくなってから月日が経っている。しかし、雰囲気は明るい。南向きで日当たりがよく、何より、今もKさんが通われているのだ。平家の子孫が辿り着いたと言われる堂平。その長い歩みは止まっていない。Kさんにお礼を言って堂平を離れた。 ImageImageImageImage
だが、これで終わりではない。1ヶ月後、再び堂平に向かった。前回訪問時、Kさんに堂平観音様の祭事があることをお聞きしたのだ。ただ、堂平へ向かう前に、羽尾の長谷寺(ちょうこくじ)に行ってみる。先のツイートにある羽尾に移った槙寺というのは、現在の香南市夜須町羽尾にある長谷寺にあたる。 ImageImageImageImage
『長谷寺』
標高500m。太平洋を見下ろせるくらいの山中に長谷寺はある。緑が生い茂る中に佇む様は、隠れ寺のようにも見えるが、室町期からと言われる仁王像をはじめとした、魅力溢れる古刹なのだ。長谷寺の由来には諸説あるが、由緒ある歴史を誇り、堂平の槙寺と関係があることは間違いないだろう。 ImageImageImageImage
再びやってきた堂平集落。前日まで悪天候が続いていたが、この日は快晴だった。長谷寺の和尚さんによると、堂平で祭事をやる時は、雨が止むのだという。Kさんのお父さんは生前、『ここはいつもそんなもんよ』と仰っていたそうだ。『霊が宿っているというか、霊域なんでしょうね』 ImageImageImageImage
堂平では年2回、観音様、薬師様の縁日に祭事が行われている。この日は、Kさん、長谷寺の和尚さん、長谷寺、堂平関係者の方々が参加された。祭事の準備を整え、氏神様、観音様にお祈りする。蝉しぐれの中、全員で読供、焼香し、宴席を囲んだ。この時ばかりは、堂平に往時の賑やかさが戻っていた。 ImageImageImageImage
祭事が終わり、観音様、氏神様の扉が閉められる。次の祭事まで、堂平には静かな時間が流れることになる。 ImageImageImage
暫し談笑した後、Kさんと関係者の方々は、山を降りていった。堂平集落には誰もいなくなった。先程まで広がっていた青空は、いつの間にか黒い雲に覆われている。天気が崩れる前に山を降りなければならない。足早に堂平を後にする。暮らしはなくとも、堂平の伝統は続いていた。 ImageImageImage
『こういう(堂平のように続ける)ところはなかなか無い』長谷寺の和尚さんはそう仰る。国内の過疎地域において、H.27年以降に消滅した集落は140。そのうち18の集落で伝統的祭事・伝統芸能等が放置されているという。どれだけ長く続く伝統であっても、受け継ぐことがなくなった時、その伝統は消える。 ImageImageImageImage
堂平集落に住む人はいなくなった。しかし、今でもKさんは堂平に通い、関係者の方々とともに祭事を続ける。住む人はいなくとも、この地で暮らしてきた人々の想いは、伝統へと姿を変えて受け継がれているのだ。『山奥にある小さな集落』に残されたもの。それは、消えることのない伝統の灯火であった。 ImageImageImageImage
以上で堂平集落についてのツイートは終わりです。今回お聞きしたお話について、リンク先に纏めます。最後に、いろいろお世話をいただいたKさん、お話を伺わせていただいた長谷寺、堂平関係者の方々、畑山のお婆さんにはこの場をお借りしてお礼申し上げます。
drive.google.com/file/d/1EHTlRV…
先ツイート リンク先のpdfファイルは60MBあります。見れない方用にJPG版もリンク先に準備しました。
今回、現地には3回訪問し、多くの方々から貴重なお話を聞かせていただきました。それらを纏めています。どうぞ御覧ください。
drive.google.com/drive/folders/…

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23 Aug
スレッドにします。 
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