小説『小僧の神様』のモデルともなった幸寿司の杉山宗吉は、大正7,8年ごろ、それまで7個ずつ出していた寿司を、量を減らして2個ずつ出す方式に改めます。

”一個では少なく、三個では多いと考えたから”がその理由ですが、もう一つ理由がありました。

”勘定もしやすく、また手間もはぶけ”るから。 Image
2つ目の理由については説明が必要でしょう。

杉山宗吉の発言の意味は、1個ずつ出すよりも、2個ずつ出したほうが勘定が楽で手間も省けるというものです。

手間についてはわかると思いますが、勘定については寿司屋独特の習慣を知らないと意味が通じないと思います。
青山大寿司二代目、明治43年生まれの大前錦次郎は次のように述べます。

”昔から巷間に、すし屋はメシ粒で勘定しているのだと伝えられている。それはうそっぱちで、そんなことをしているすし屋は一軒もない。みな頭の中で暗算しているのである(『ザ・すし』)。” Image
東京の寿司屋はなぜか、注文時に伝票を書かない、という奇妙な習慣を持っています。

注文は担当する寿司職人が暗記し、会計の際には暗算して合計金額をはじき出します。

飲食店では普通、注文時に店員に伝票を書かせますが、なぜかこの通常の方式を頑なに拒否するのです。
幸寿司ではかつて、「まぐろ」と注文があると一人前7個のまぐろ寿司を出していました(戦前の寿司は大きいので一人前7個です)。

例えばまぐろ寿司1個が10銭とすると、70銭という数字を暗記します。
ところが、1個ずつ注文を受けるとなると、まぐろ10銭、こはだ5銭、玉子3銭……というふうに、暗記すべき項目が7つに増えるのです。
合計金額だけ記憶していればいいというわけでもありません。

何を頼んだのか、その明細をおぼえていなければ、勘定時にトラブルになります。

「金額多すぎない?」と聞かれたときに、「お客様のご注文はまぐろ2、こはだ1、玉子1……」とスラスラ答えることができなければいけないのです。
青山大寿司二代目大前錦次郎は、正しく暗記するにはコツがあるといいます。

1個ずつではなく、2個ずつ寿司を出せば、記憶量が半分で済むというのです。

”コツは二個ずつペアで出すこと。 だいたい一人十個平均と見て、ペアで出せば五回重ねていけばいい。” Image
”そして、たとえばマグロはペアでいくらと、一個の値段ではなく、一回出せばいくらと決めてある。いくらお脳の弱い板前でも、 五回ぐらいの重ね勘定は覚えていられると思う。”

2個ずつ寿司を出す2つ目の理由は、注文を暗記しやすくするためでした。
握りずしの歴史研究家吉野昇雄によると、屋台の寿司屋の客は、虫養いに3,4個つまむのが通例であったといいます(『鮓・鮨・すし―すしの事典』)。

ワンオペの屋台では伝票はかけませんが、注文量が少ないので暗記することは難しくなかったのです。 Image
「屋台原理主義」の浸透により、それまで一人前単位で寿司を出していた店舗形式の店も、屋台方式に倣って少ない個数の注文を受けるようになります。

内店形式となると、客も落ち着いて長っ尻となるせいか、屋台と違い平均7個は注文します。

そして寿司職人は暗算に慣れていません。
そこで記憶量を減らすために、2個単位で注文を受けるようになった、というのが幸寿司の杉山宗吉や青山大寿司の大前錦次郎の説明です。

……他の飲食店と同じように、配膳する店員が注文伝票書けばいいのに。
さて、寿司の歴史研究家日比野光敏によると、戦中戦後の食糧難が2個セットの習慣を生んだという説があるといいます。

また、吉野昇雄によると、幸寿司のような店は戦前は少数派。2個セットの店が増えたのは戦後だそうです。
明日は戦中戦後の寿司屋の状況と、2個セットの習慣の増殖について。

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14 Jun
「チコちゃん」去年1月31日放送「なぜお肉屋さんでコロッケを売っている?」

答え:洋食のコックさんがお肉屋さんに転職したから

チョウシ屋という店の創業者がポテトコロッケを発明し、昭和2年に日本初のコロッケを売る肉屋を開店したという話。

この話、全て嘘です。

チコちゃんに叱られる.com/8779.html Image
嘘その1

東京では大正時代から肉屋がコロッケを揚げ始めました。

大正12年の関東大震災後には、肉屋でコロッケを揚げる習慣が広がります。

昭和2年創業のチョウシ屋は、他の肉屋の習慣に追随したにすぎません。
嘘その2

ポテトコロッケはチョウシ屋の創業者が発明したものではありません。

もともとはフランス/イギリスの伝統料理。

現存する日本最古の西洋料理書にも登場する、日本では明治時代からおなじみの料理。
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13 Jun
”関東大震災までは、全部いっかんづけです。二かんづけなんていうのは戦争たけなわになってからですね。(中略)そうなると、どの店も二個とか三個とかまとめて出すようになってきたんです。”(『面談たべもの誌』 石毛直道) Image
吉野寿司三代目吉野昇雄によると、二かんづけ(二個セット)が流行りだしたのは昭和12,3年、日中戦争の頃からだといいます。

(もっとも吉野昇雄は、『鮓・鮨・すし―すしの事典』においては、二貫漬けが流行ったのは戦後からと主張しています)
日比野光敏は『すしの事典』において二個セットとなった理由を複数あげていますが、その一つに、戦争原因説があります。

”次に、戦中戦後の食糧難に起源を求める説。” Image
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4 May
明治時代初期に「西洋料理」として日本に流入したイギリス料理。

イギリスにおいて米を主食とする料理といえばカレー。

カレーはインド発祥なので、スパイスとアブラと塩っけでご飯を食べさせます。
しばらくすると日本人はイギリス料理に「旨味」があることに気づき、これをオカズとしてご飯を食べるようになります。

真っ先にご飯の友となったのが、洋食屋台のシンプルシチュー(これには旨味はありません)と、hashed beef。

hashed beefをご飯にかけた和風西洋料理が、ハヤシライスです。
私がおさえている最古のハヤシライス事例は、作家の久保田万太郎が食べたという事例。

明治30年代後半の浅草で、中学生の久保田万太郎は小遣いをはたいてハヤシライスを食べていました。
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3 May
シチューというのは英語。その名の通り、イギリス発祥の料理です(フランスではラグーというはず)。

イギリスにおける代表的シチューといえば、アイリッシュ・シチュー

1861年に出版され大ベストセラーとなったThe Book of Household Managementのirish stewレシピを見てみましょう。
羊肉とじゃがいもと玉ねぎを、塩と胡椒と水だけで煮る。

実にシンプルなシチューです。

最近のアイリッシュ・シチューは野菜やハーブをゴテゴテ入れたりビーフストックを入れて茶色くしていますが、本来のアイリッシュ・シチューは水と塩だけのシンプルなシチュー。
bbcのこのレシピなどは、現代風にアレンジしたアイリッシュ・シチューですね。

bbc.co.uk/food/recipes/i…

昔のアイリッシュ・シチューは塩だけで煮ますから、茶色ではなくやや濁った透明な色。
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2 May
”「ザ・シチュー(シチューとしか呼びようのない料理)」”

”本当においしいのでこれ以外のもの一切入れちゃだめ!”

あーこのシチュー食べたことありますわ、三十数年前の新世界で。
新世界名物あづまのシチューうどんのシチューがまさにイナダさんのシチューなんです(ただし牛肉)。

写真は玉置標本さんのレポートから。
bit.ly/2SgviaB Image
三十数年前の新世界は、観光客も女性客もいない「変なクリーチャーが蠢くスター・ウォーズの酒場」みたいなところでしたが、それだけに印象が強かったです。

そこで食べたのが、この水だけで作ったようなシチューうどんと串かつでした。
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5 Jul 18
さて、何度か引用している映画「風立ちぬ」の一場面、主人公たちが関東大震災直後の縄のれんで、どんぶり飯をかきこんでいる場面です。

江戸時代には普及していなかった大きなどんぶりは、この一場面のごとく、大正時代には確実に存在していました。
大正時代に米騒動をきっかけにして生まれた簡易食堂で提供されていたご飯は、1合5勺の「丼飯」でした。
bit.ly/2IUFdIv

これは吉野家のどんぶり山盛りに相当します。つまり、「風立ちぬ」のような、吉野家なみの大きさのどんぶりが、大正時代には存在していたのです。
われわれの見慣れたこの大きなどんぶりは、江戸時代には普及していなかった、というのが今までの話でした。

それでは、明治時代のいつごろ普及したのでしょうか?
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