2019/10/20 読書会の話題
ドーキー通りは今でも「ダート・スピーク」という喋り方を揶揄した言葉があるようないいとこの子どもたち。10歳くらいか。
現在の学校との違い。机にインクポットの穴など。参考の動画。
The Victorians, The school room
スティーヴンの独白では、
歴史は記憶の娘たちの「記憶の織りなしたとおりではない」
ブレイク『天国と地獄の結婚』の断片
Thud of Blake's wing of execessは
-No bird soars too high, if he soars with his own wings
-The road of execess leads to the palace of wisdom
つまり、自らの想像力の翼だけで知恵の宮殿に向かうと、ムネモシュネの娘たちの記憶どおりの歴史には到達出来ず、「歴史はさんざん聞かされた変哲もない作り話」に thud(ドシン)と落ちる、という論理展開の意識の流れではないかいな。
Vico road を鼎訳は「ヴィーコ」、柳瀬訳は「ヴァイコウ」。生意気にも「ヴィーコだよなあ」などとメモしている私。読書会のオマケでもらった吉川信先生の論文『'Nestor'/歴史/悪夢』にもあるようにこの段階ではここでは循環史観はあまりないかも。先入観はいけない。
生徒がおかしくもないのにわざとらしく笑うのはなぜか。
私は小林さんと同じくスティーヴンが生徒をコントロールできない説。南谷さんは第1挿話の赤毛のリリーの噂話「(キングスタウン)桟橋でいちゃいちゃ」を生徒が知っているから説。
しかし disappointed bridge とは?
三枚目のは、ヘインズをイギリス、自分をアイルランドに見立てたスティーヴンの空想の中の、they-their が「イギリスのみ」なのか「イギリスとアイルランド」なのかという疑問。「歴史はさんざん聞かされた変哲もない作り話」がアイルランド(スティーヴン)にも及ぶのか。
四枚目。「歴史はさんざん聞かされた変哲もない作り話」の直後に、スティーヴンの妄想。ピュロスとカエサルが殺されなかった歴史を思い描けないのは、時が二人に烙印を押し、可能性のない無限の可能性の部屋に閉じ込められているから。
烙印、焼印、焼鏝などの使用率が多い。
で、ちょっと飛んで、可能→可能態→現実態とアリストテレスに繋がって、そのまま、家族を捨てた罪のパリ、思惟のみの世界だったジュヌヴィエーヴ図書館の静寂と明光を思いながら、ひとつの運動でなければならない(つまりこんなとこでいつまでも留まっていられない)と妄想。
トールボットの「暗誦」に、スティーヴンは共犯的にもう教育も指導もしないという態度を示す。
「暗誦」される『リシダス』は①と②の部分。
①泣くのをやめよ(…)たとえ水底に沈みたるも
(スティーヴン、5行ほどパリの思い出なう)
②波上を歩み給いし主の脚力によりて
①は、U-Y 1 p.41 「溺れ死にした男(…)むくれ土左衛門」に対応し、
②は、U-Y 1 p.21 「海面の鏡が軽やかな靴を履いて駆ける足に踏んづけられて白くなる」に対応する。
第1挿話と第2挿話で『水底には死体。海上には神の足跡』が繰り返されているように読める。